【佐世保重工のストライキ】 ~「組合全面勝利」の真相
切り抜きに日付を入れ忘れ記載月日が分からないが、過日、『毎日新聞』“余禄”は「沖縄戦の住民集団自決」を例に「歴史」についてふれていた。
<…歴史の多くは勝ち残った強者によってつづられる。史料を残すのも、捨てるのも思うままだ。では何も書き残せず語り残すこともできずに無残な死を強いられた無名の人々のうめきや悲しみは永遠にこの世から消えてしまうのか…▲「軍の強制があったかどうか明らかでない」としていた文部科学省も、この怒り(注:県民大集会)の噴出の収拾にむけて記述復活も認めようという修正の構えを示した。明らかになったのは、いまだに沖縄の戦争体験と記憶の重みをあるべき場所に位置づけることができなかった歴史教育の欠陥だ▲19世紀ウィーンの図像集には石板とペンを手に怖い顔で歴史の神殿の入り口に立ちはだかる女神が描かれている。優れた歴史家は正史から排除され、忘れ去られた記憶を掘り起こし石板に刻む。次の世代に読んでほしいのはそんな歴史だ。>
まさしく「歴史の多くは勝ち残った強者によってつづられる」。『労働運動史』もその例外ではありえない。1979年暮から5波592時間、日数にして24日余におよぶ長期ストを記録した佐世保重工労働組合史はその典型であろう。
わが国労働運動の動きを記録する法政大学大原社会問題研究所発刊の『日本労働年鑑』は、労働運動史としても権威あるものの一つである。その第51集(1981年版)に「造船重機労連・佐世保重工の“近代化”闘争」として[闘争の発端][闘争の展開][闘争の終結]が記載されているが、これは当該組合が発行した『佐世保闘争史』に依拠したもので、“反執行部”の立場で現場に立ち会った者からみれば、かならずしも「史実」とは言えない内容になっている。
断っておくが、『日本労働年鑑』の編集は、大原社会問題研究所副所長の五十嵐仁法政大学教授の折々の発言から窺われるように、労働運動のいわば「正史」のみ収録されたものではなく、むしろ少数派組合の動向にも目配りされたものと理解している。(参照:「五十嵐仁の転成仁語」http://blog.so-net.ne.jp/igajin/archive/200710)
それにしても、『毎日新聞』“余禄”が指摘するように、「歴史上」の“真贋”を見極める作業は決しておろそかにされてはならないだろう。「佐世保重工の“近代化”闘争」の記録も「強者のもの」であることに留意を促す意味でここに書き留めておきたいと思う。
当時、社会問題化していた造船危機に伴う「佐世保重工合理化」問題は政府・財界をまきこみマスコミの注目を集めていた。今はすべてが廃刊になってしまったが、筆者は以下のような文を発表している。
1.「造船危機の正体はなにか」(『季刊・労働運動17』’78/4)
2.「4人に一人が首を切られた」(『朝日ジャーナル』’78.6月9日号)
3.「いま佐世保重工の職場では」(『月刊・労働問題』’78/10)
4.「坪内式“ガマンの経営”の実態」(『社会評論第20号』’79/3)
これらの文に通底していることは、自主的運動体としての機能を失い「労使運命共同体」化した労働組合批判である。労働組合が“労働者の権利擁護”という本義を忘れ、会社経営の一翼を担うのが組合の任務であるかのような錯覚に捕われ始めたのは、およそ東京オリンピック以降とみてよい。そのことについては3月27日「“御用組合”をご存知ですか」で概要を書いた。(「3月27日」:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/e/094c44da4898f69dd987415914a2893c)
「労使運命共同体」化した「佐世保重工労組」が、なぜ24日余のストライキを決行するにいたったか。種明かしをすれば、あまりにも露骨な労使癒着の結果、極悪な労働条件を強いられ、しかも人間性を壟断する経営姿勢に労働者の怒りは沸点に達しつつあった。つまり、こうした状況下で「労働者の権利擁護」のためではなく、保身に汲々とした組合執行部が「労働者の反乱」を恐れて事態打開のためやむなくストライキを選択したに過ぎないのだ。ストライキ終結後、労働者たちの要求は充たされたのか。会社経営者の姿勢は変わったのか。労使関係は正常化したのか。どれ一つ「NO!」である。見かけだけの「収穫」で“勝った、勝った”と騒がれていたが、実態は数億円にのぼる闘争資金を食いつぶし、このあと働く気力を失った多くの労働者たちが職場を見限って去っていった。このストは「人減らし」が狙いでもあったのだ。
筆者が佐世保重工を退職したのはストライキ終結直後の1980年2月である。この年の5月、国竹七郎委員長は民社党から衆議院選挙に立候補した。その5年後、『労働貴族』を書いた作家・高杉良は社長の坪内寿夫をモデルにした小説『太陽を、つかむ男』を出したが、そこには驚くべきことが暴露されている。
<国竹は衆議院選挙に際して、臆面もなく坪内にカンパを求める鉄面皮ぶりを発揮し、坪内の側近を驚かせたが、坪内は「男が頭を下げて、頼みにきよるものを追い返すわけにもいかんじゃろうが」と言って、何百万円かのポケットマネーを出してやった。
国竹は、中央政界入りを目指して、佐世保重工の労使紛争を利用し、自分の顔を売り込もうとした、という噂が立ち、一般労働者の支持を失ったことが落選の憂き目をみる結果をもたらしたのではないか、と見る向きが少なくないが、果たしてどうであろうか。また国竹は相当額の借金が会社に残っていたが、坪内のポケットマネーで割り増しの退職金を支給し清算させた。>
国竹七郎委員長が作家の高杉良を名誉毀損か何かで訴えたとは聞かないから、この記述に嘘はなかろう。「佐世保重工の“近代化”闘争」がどんなものであったか、この小説が“真実”の一端を語っている。
筆者の見解は、国会図書館や大原社会問題研究所に通いつめながら、のちに出版した拙著『労働組合は死んだ』(文芸社/1999年10月)に書いたが、さわりの部分のみ引用する。
<…詳細は省くとしても、坪内氏が関西汽船の社長就任を画策した時、関西汽船労働組合およびその上部団体がどのように対応したかと比較するとき、国竹委員長らの指導性の欠如は明らかである。親会社である日本鋼管をはじめ株主、銀行の経営責任を追及することなく、「同じ荷物を背負ってもいい」と宣言した組合はもはや労働者組織の範疇から逸脱し、坪内氏に愚弄、睥睨されるのは当たり前であった。しかも、すでに慣習化していたとはいえ組合役員改選では坪内支援をとりつけ、労使運命共同体を約束していた。
「真実を後世に正確に伝える唯一の書」(注:国竹委員長が『佐世保闘争史』の「発刊によせて」で記す)からこれらの真実は消されている。
世に改竄された史実は多いという。恐らく改竄者は、隠蔽すべき何ものも持たない人民ではなく、名利を求め、権謀をめぐらし、手にした権力を濫用した虚者たちであろう。>
こう書いたあと筆者は、およそ二世紀半前、明和の大一揆を指導したのち斬罪された山縣昌貞(大弐)の著書『柳子新論』の言葉を引いて、こう結んでいる。
<…あたかも害を天下に為す者は国君と雖も必ず之を罰し、克たざれば則ち兵を挙げて之を伐つ。…是の故に湯武の放伐は無道の世に在りて尚ほ能く有道の事を為せば、則ち此は以て君と為し、彼は以て賊と為す。仮令其の群下に在るも、善く之を用ひて其の害を除きて而して其の利を興すに在るときは、則ち放伐も亦且つ以て仁と為すべし。他無し民と志を同じくすればなり。
「民と志を同じくす」れば、群下の者(庶民)であっても、放伐(革命)に立ち上がっていいのだ、といい、獄吏をも感銘させたという彼の時世の歌は、
くもるとも何かうらみん月こよい
はれを待つべき身にしあらねば
であった。>
最後に、参考のために「正史」をリンクしておく。
「正史」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8F%B2
切り抜きに日付を入れ忘れ記載月日が分からないが、過日、『毎日新聞』“余禄”は「沖縄戦の住民集団自決」を例に「歴史」についてふれていた。
<…歴史の多くは勝ち残った強者によってつづられる。史料を残すのも、捨てるのも思うままだ。では何も書き残せず語り残すこともできずに無残な死を強いられた無名の人々のうめきや悲しみは永遠にこの世から消えてしまうのか…▲「軍の強制があったかどうか明らかでない」としていた文部科学省も、この怒り(注:県民大集会)の噴出の収拾にむけて記述復活も認めようという修正の構えを示した。明らかになったのは、いまだに沖縄の戦争体験と記憶の重みをあるべき場所に位置づけることができなかった歴史教育の欠陥だ▲19世紀ウィーンの図像集には石板とペンを手に怖い顔で歴史の神殿の入り口に立ちはだかる女神が描かれている。優れた歴史家は正史から排除され、忘れ去られた記憶を掘り起こし石板に刻む。次の世代に読んでほしいのはそんな歴史だ。>
まさしく「歴史の多くは勝ち残った強者によってつづられる」。『労働運動史』もその例外ではありえない。1979年暮から5波592時間、日数にして24日余におよぶ長期ストを記録した佐世保重工労働組合史はその典型であろう。
わが国労働運動の動きを記録する法政大学大原社会問題研究所発刊の『日本労働年鑑』は、労働運動史としても権威あるものの一つである。その第51集(1981年版)に「造船重機労連・佐世保重工の“近代化”闘争」として[闘争の発端][闘争の展開][闘争の終結]が記載されているが、これは当該組合が発行した『佐世保闘争史』に依拠したもので、“反執行部”の立場で現場に立ち会った者からみれば、かならずしも「史実」とは言えない内容になっている。
断っておくが、『日本労働年鑑』の編集は、大原社会問題研究所副所長の五十嵐仁法政大学教授の折々の発言から窺われるように、労働運動のいわば「正史」のみ収録されたものではなく、むしろ少数派組合の動向にも目配りされたものと理解している。(参照:「五十嵐仁の転成仁語」http://blog.so-net.ne.jp/igajin/archive/200710)
それにしても、『毎日新聞』“余禄”が指摘するように、「歴史上」の“真贋”を見極める作業は決しておろそかにされてはならないだろう。「佐世保重工の“近代化”闘争」の記録も「強者のもの」であることに留意を促す意味でここに書き留めておきたいと思う。
当時、社会問題化していた造船危機に伴う「佐世保重工合理化」問題は政府・財界をまきこみマスコミの注目を集めていた。今はすべてが廃刊になってしまったが、筆者は以下のような文を発表している。
1.「造船危機の正体はなにか」(『季刊・労働運動17』’78/4)
2.「4人に一人が首を切られた」(『朝日ジャーナル』’78.6月9日号)
3.「いま佐世保重工の職場では」(『月刊・労働問題』’78/10)
4.「坪内式“ガマンの経営”の実態」(『社会評論第20号』’79/3)
これらの文に通底していることは、自主的運動体としての機能を失い「労使運命共同体」化した労働組合批判である。労働組合が“労働者の権利擁護”という本義を忘れ、会社経営の一翼を担うのが組合の任務であるかのような錯覚に捕われ始めたのは、およそ東京オリンピック以降とみてよい。そのことについては3月27日「“御用組合”をご存知ですか」で概要を書いた。(「3月27日」:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/e/094c44da4898f69dd987415914a2893c)
「労使運命共同体」化した「佐世保重工労組」が、なぜ24日余のストライキを決行するにいたったか。種明かしをすれば、あまりにも露骨な労使癒着の結果、極悪な労働条件を強いられ、しかも人間性を壟断する経営姿勢に労働者の怒りは沸点に達しつつあった。つまり、こうした状況下で「労働者の権利擁護」のためではなく、保身に汲々とした組合執行部が「労働者の反乱」を恐れて事態打開のためやむなくストライキを選択したに過ぎないのだ。ストライキ終結後、労働者たちの要求は充たされたのか。会社経営者の姿勢は変わったのか。労使関係は正常化したのか。どれ一つ「NO!」である。見かけだけの「収穫」で“勝った、勝った”と騒がれていたが、実態は数億円にのぼる闘争資金を食いつぶし、このあと働く気力を失った多くの労働者たちが職場を見限って去っていった。このストは「人減らし」が狙いでもあったのだ。
筆者が佐世保重工を退職したのはストライキ終結直後の1980年2月である。この年の5月、国竹七郎委員長は民社党から衆議院選挙に立候補した。その5年後、『労働貴族』を書いた作家・高杉良は社長の坪内寿夫をモデルにした小説『太陽を、つかむ男』を出したが、そこには驚くべきことが暴露されている。
<国竹は衆議院選挙に際して、臆面もなく坪内にカンパを求める鉄面皮ぶりを発揮し、坪内の側近を驚かせたが、坪内は「男が頭を下げて、頼みにきよるものを追い返すわけにもいかんじゃろうが」と言って、何百万円かのポケットマネーを出してやった。
国竹は、中央政界入りを目指して、佐世保重工の労使紛争を利用し、自分の顔を売り込もうとした、という噂が立ち、一般労働者の支持を失ったことが落選の憂き目をみる結果をもたらしたのではないか、と見る向きが少なくないが、果たしてどうであろうか。また国竹は相当額の借金が会社に残っていたが、坪内のポケットマネーで割り増しの退職金を支給し清算させた。>
国竹七郎委員長が作家の高杉良を名誉毀損か何かで訴えたとは聞かないから、この記述に嘘はなかろう。「佐世保重工の“近代化”闘争」がどんなものであったか、この小説が“真実”の一端を語っている。
筆者の見解は、国会図書館や大原社会問題研究所に通いつめながら、のちに出版した拙著『労働組合は死んだ』(文芸社/1999年10月)に書いたが、さわりの部分のみ引用する。
<…詳細は省くとしても、坪内氏が関西汽船の社長就任を画策した時、関西汽船労働組合およびその上部団体がどのように対応したかと比較するとき、国竹委員長らの指導性の欠如は明らかである。親会社である日本鋼管をはじめ株主、銀行の経営責任を追及することなく、「同じ荷物を背負ってもいい」と宣言した組合はもはや労働者組織の範疇から逸脱し、坪内氏に愚弄、睥睨されるのは当たり前であった。しかも、すでに慣習化していたとはいえ組合役員改選では坪内支援をとりつけ、労使運命共同体を約束していた。
「真実を後世に正確に伝える唯一の書」(注:国竹委員長が『佐世保闘争史』の「発刊によせて」で記す)からこれらの真実は消されている。
世に改竄された史実は多いという。恐らく改竄者は、隠蔽すべき何ものも持たない人民ではなく、名利を求め、権謀をめぐらし、手にした権力を濫用した虚者たちであろう。>
こう書いたあと筆者は、およそ二世紀半前、明和の大一揆を指導したのち斬罪された山縣昌貞(大弐)の著書『柳子新論』の言葉を引いて、こう結んでいる。
<…あたかも害を天下に為す者は国君と雖も必ず之を罰し、克たざれば則ち兵を挙げて之を伐つ。…是の故に湯武の放伐は無道の世に在りて尚ほ能く有道の事を為せば、則ち此は以て君と為し、彼は以て賊と為す。仮令其の群下に在るも、善く之を用ひて其の害を除きて而して其の利を興すに在るときは、則ち放伐も亦且つ以て仁と為すべし。他無し民と志を同じくすればなり。
「民と志を同じくす」れば、群下の者(庶民)であっても、放伐(革命)に立ち上がっていいのだ、といい、獄吏をも感銘させたという彼の時世の歌は、
くもるとも何かうらみん月こよい
はれを待つべき身にしあらねば
であった。>
最後に、参考のために「正史」をリンクしておく。
「正史」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8F%B2