ご覧になった方も多いと思うが、昨日、“日本の青空”上映会に行った。まことに清々しい映画だった。サブタイトルに「日本国憲法誕生の真相」とあるように、「新憲法」誕生の呼び水となる「憲法草案要綱」を執筆した憲法学者・鈴木安蔵一家を軸に、占領下における「憲法制定」の濃密なドラマが描かれている。
参照:「日本の青空」http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/
映画に出てくる“白州次郎”については7月28日「“また対米支援のための改憲かい”~白州次郎が生きていたら」で書いた。
参照:「」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070728
その記事では書かなかったが、白州次郎は「サンフランシスコ平和条約」ならびに「日米安全保障条約」の締結にも立ち会っていて、後に自説を披露している。一つは、「朕戦いを宣す」と言って戦争を始めた昭和天皇は戦争責任から逃れられず「退位」が望ましいこと、もう一つは、「日本は(憲法で)国家としての戦争を放棄したのだから、、日米協定で米軍基地を日本に置いて戦争に備えることも、憲法上難しい」ことを米側に伝えていたこと、いずれも実現はしなかったが、他の日本側代表にはない瞠目すべき見解であった。
この映画で印象に残ったのは、“大原社会問題研究所”所長の加藤剛演じる“高野岩三郎”である。映画の中心的場面は高野岩三郎の呼びかけで結成された『憲法研究会』だが、鈴木安蔵をはじめメンバーの意見は“象徴”とはいえ「天皇制の存続」であった。ひとり高野はこれを不満として別に「日本共和国憲法私案要綱(のち「改正憲法私案要綱」)」を提出し、「根本原則 天皇制ヲ廃止シ之ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制ヲ採用」と“天皇制廃止”を明確に打ち出していた。
参照:「日本共和国憲法私案要綱」http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045/045_001r.html
こんにち、『日本国憲法』改正の是非が論じられているのは、主に第九条をめぐってのことのようである。映画“日本の青空”製作に当たって、各地の「九条の会」が大きな力になっていることからもこのことは窺える。だが、平和憲法であり、民主憲法である『日本国憲法』をもう一度見つめなおしてみよう。
なぜ、『日本国憲法』第一章が「天皇」とされているのか。真に民主憲法を望む立場から、「天皇」条項を認めていいのか。色川大吉著『ある昭和史』(中央公論社)の次の言葉は忘れられない。
<たとえ「象徴」という名のもとであっても、天皇が少しでも国政に特権を持つのは民主主義の原則に反する。それゆえに政治的な天皇制は完全に廃止されなくてはならない。
「完全に」とは、復活の余地を全くなくすという意味である。なぜなら天皇制はつねにわが民族の上流階級、支配階級に味方し、利用されてきた存在だからである。>
白州次郎は、昭和天皇の戦争責任にふれ「退位」が望ましいと考えていたが、高野岩三郎は「新憲法」制定に当たって、民主主義の観点から「天皇制廃止」を絶対条件とした。卓見といえるだろう。白州次郎の唯一の著書である『プリンシプルのない日本』(メディア総合研究所)の「プリンシプル」とは「原則」と訳されているようだが、この「原則」からみても『日本国憲法』の「天皇制」は論じられねばならない課題といえよう。この課題を避けては本当の“日本の青空”は見られないのではなかろうか。
参照:「日本の青空」http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/
映画に出てくる“白州次郎”については7月28日「“また対米支援のための改憲かい”~白州次郎が生きていたら」で書いた。
参照:「」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070728
その記事では書かなかったが、白州次郎は「サンフランシスコ平和条約」ならびに「日米安全保障条約」の締結にも立ち会っていて、後に自説を披露している。一つは、「朕戦いを宣す」と言って戦争を始めた昭和天皇は戦争責任から逃れられず「退位」が望ましいこと、もう一つは、「日本は(憲法で)国家としての戦争を放棄したのだから、、日米協定で米軍基地を日本に置いて戦争に備えることも、憲法上難しい」ことを米側に伝えていたこと、いずれも実現はしなかったが、他の日本側代表にはない瞠目すべき見解であった。
この映画で印象に残ったのは、“大原社会問題研究所”所長の加藤剛演じる“高野岩三郎”である。映画の中心的場面は高野岩三郎の呼びかけで結成された『憲法研究会』だが、鈴木安蔵をはじめメンバーの意見は“象徴”とはいえ「天皇制の存続」であった。ひとり高野はこれを不満として別に「日本共和国憲法私案要綱(のち「改正憲法私案要綱」)」を提出し、「根本原則 天皇制ヲ廃止シ之ニ代エテ大統領ヲ元首トスル共和制ヲ採用」と“天皇制廃止”を明確に打ち出していた。
参照:「日本共和国憲法私案要綱」http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045/045_001r.html
こんにち、『日本国憲法』改正の是非が論じられているのは、主に第九条をめぐってのことのようである。映画“日本の青空”製作に当たって、各地の「九条の会」が大きな力になっていることからもこのことは窺える。だが、平和憲法であり、民主憲法である『日本国憲法』をもう一度見つめなおしてみよう。
なぜ、『日本国憲法』第一章が「天皇」とされているのか。真に民主憲法を望む立場から、「天皇」条項を認めていいのか。色川大吉著『ある昭和史』(中央公論社)の次の言葉は忘れられない。
<たとえ「象徴」という名のもとであっても、天皇が少しでも国政に特権を持つのは民主主義の原則に反する。それゆえに政治的な天皇制は完全に廃止されなくてはならない。
「完全に」とは、復活の余地を全くなくすという意味である。なぜなら天皇制はつねにわが民族の上流階級、支配階級に味方し、利用されてきた存在だからである。>
白州次郎は、昭和天皇の戦争責任にふれ「退位」が望ましいと考えていたが、高野岩三郎は「新憲法」制定に当たって、民主主義の観点から「天皇制廃止」を絶対条件とした。卓見といえるだろう。白州次郎の唯一の著書である『プリンシプルのない日本』(メディア総合研究所)の「プリンシプル」とは「原則」と訳されているようだが、この「原則」からみても『日本国憲法』の「天皇制」は論じられねばならない課題といえよう。この課題を避けては本当の“日本の青空”は見られないのではなかろうか。