耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

<易>の世界

2007-01-30 14:55:15 | Weblog
 最初にことわっておきたいが、私は<易>学の専門家ではない。いわば趣味の範囲で<伝統医療>について渉猟するうちに、<易>の知識がなければ先に進めないことを知らされ、いくつかの専門書に接したまでのことである。

 まず、『易のニューサイエンス』(蔡恒息<ツァイ ホンシー>著/東方書店刊)の「序言」冒頭をみてみよう。

 <『易』は、成立してから現在に至るまでに三千年を経ており、中国最古の書である。それは、中国古代の儒家の経典である六経〔易・書・詩・礼・楽・春秋〕の筆頭に置かれる。
 『史記』「太史公自序」に、次のように述べられている。
 「『易』は天地・陰陽・四時・五行を著(あらわ)す。故に変に長ず。『礼』は人倫を経紀す。故に行に長ず。『書』は先王の事を記す。故に政に長ず。『詩』は山川・渓谷・禽獣・草木・牝牡・雌雄を記す。故に風に長ず。『楽』は立つ所以を楽しむ。故に和に長ず。『春秋』は是非を弁ず。故に人を治むるに長ず」。
 この言によれば、『易』が中国の学術思想の根本であることが窺える。道家、儒家、仏家は、いずれも『易』の理論を集成し、宇宙自然の創生を探究する学問をなした。>

 『易』の小序としてこの解説はほぼ妥当なものに思える。だが、分子遺伝学を専門とする著者の以下の記述は読者を驚かさずにはおかないだろう。

 <現代の易学は、コンピュータのコード化に端を発する。二十世紀の四大発見は、(一)相対性理論、(二)素粒子、(三)コンピュータ、(四)遺伝暗号である。…アインシュタインは、かつて自己の学説に冠する名称として、さまざまな語を試み、苦心の挙句に、「Relativity〔相対性〕」という単語を選び出した。中国の『易』には、その「相対性理論」の基本的な意味がもともと存在している。…>

 著者は、これらニューサイエンスと『易』の関連を詳細に述べているが、私が理解できたのはわずかに、遺伝子DNAの暗号表と『易』の六十四卦図の不思議な一致についてである。実は両者の相似はすでに『易経の謎』(今泉久雄著/光文社刊)で世に知られ、話題になっていたからだ。(サイエンスに造詣の深い方はどうぞご一見を)

 一般に『易』は<占い>だと信じられている。それは間違いではない。『易』は、「発生当初は神意を聴くための原始的呪術であった」(『易経』/「中国の思想」第七巻=徳間書店)。それが次第に体裁を整え、戦国時代末期から漢初にかけて<十翼>(「周易」を翼〔たす〕ける十篇の書=孔子の作ともいう)が編まれ、『易』の<弁証法的宇宙認識>が確立する。時代とともに『易』は支配者の手を離れて大衆化し、古今を通じ人びとの生活に馴染みの深いもの、というより半ば必須のものになったのである。

 『易』は<変化>の書とも言われる。それはまた<宇宙循環>の法理を示す。以下の言辞からこれをみてみよう。

・盈(み)つるは欠くる兆し(〔乾〕卦)
・積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃(よおう)あり(〔坤〕文言伝)
・実るほど頭をたるる稲穂かな(〔謙〕卦)
・一陽来復(〔復〕卦)
・艱難汝を玉にす(〔明夷〕卦)
・損して得とれ(〔損〕卦)
・臥薪嘗胆(〔困〕卦)
・至誠天に通ず(〔中ふ〕卦)
・一陰一陽これを道と謂う(〔繋辞上伝〕)
・対立なければ運動なし(同上)
・尺わく(尺取虫)の屈するは、もって信(の)びんことを求むるなり(〔繋辞下伝〕)
・吉人の辞は寡(すくな)く、躁人の辞は多し(同上)
(中国の思想第七巻『易経』より)

 私は毎年、立春を前に<来る年>をひそかに占うことにしている。言うまでもなく<筮占>(ぜいせん=筮竹による占い)である。高田淳氏の「本来、聖人の憂患から生じたものが易であり、また自分の中に大疑を発し、いかになすべきかという決疑、すなわち疑いを決断するのが易なのである。しかも、利不利や吉凶をではなく、自分の道が貫けるかどうかという君子の得失に関わるものとして、易はある」(『易のはなし』/岩波新書)との言を由として、行じている。この一年を回顧する意味でここに昨年の筮占を略記しておく。

 <本卦>  〔節〕(水沢節) 「誘惑をしりぞけよ」
 大象=沼沢が水をたたえている。これが「節」の卦象である。君子はこの卦象を見て、生活の規律を定め、徳行の基準を討議する。
 <之卦>  〔坤〕(坤為地) 「母なる大地」
 大象=大地の働き、これが坤である。君子はこの卦象を見て、徳を厚くして、万民を包容していく。

 結びに、〔繋辞下伝〕の言葉。

<易の興るや、それ殷の末世、周の盛徳に当るか。文王とちゅう(糸篇に寸)との事に当るか。この故にその辞危うし。危む者は平かならしめ、易(あなど)る者は傾かしむ。その道甚だ大なり。百物廃せず、懼れてもって終始すれば、その要は咎なし。これをこれ易の道と謂うなり>