明日は、法然上人入寂から795年になる。
私の生家は、浄土真宗の門徒であった。幼い頃から門徒の一員として育ったわけだ。母に連れられ、たびたび近くの寺でお説教を聞いた記憶がある。親鸞上人の『教行信証』や『歎異抄』を手にしたのは、二十歳代半ばで、バイクに同乗していた友人を自損事故で亡くしたことがきっかけだった。いわば《生死(しょうじ)》を深く認識する契機になったのだが、当時、《悪人正機》の教えの他は大して深読みできたとも思えない。
十数年前、僧籍取得を目的に某仏教学院の通信教育を受講し始め、親鸞に関する著書を<濫読>した。私の親鸞像を決定付けた二人の人がいる。一人は河田光夫(1938~93)、もう一人は坂爪逸子(1942~)である。
前者には親鸞研究書ともいえる『河田光夫著作集』全三巻、『親鸞からの手紙を読み解く』などがあり、後者には『遊びの境界~法然と親鸞』『転形期・法然と頼朝』『存覚』がある。
河田光夫は、大阪の日雇い労働者の町に近い「大阪府立今宮工業高校定時制」に終生勤務し、かたわら「親鸞の手紙を読み解く」研究に没頭、とくに「親鸞と被差別民衆」は教義学面だけでなく門徒大衆にも大きな影響を与えた。廣瀬あきら(木の上に日・元大谷大学学長)は河田の研究に接し、「三十四年に及ぶ親鸞に関する自らの学びを問い糾さざるを得なくなった」と言い、死後刊行となった全集の刊行委員を務めた。
河田は、定時制高校での解放教育の実践を通して、被差別・被抑圧者との交流があり、親鸞文献とこの交流から親鸞像を確立したと言われているが、仏教学院が講じる親鸞とのあまりの違いに私は、正直言って戸惑った。
その時期に坂爪逸子著『存覚』に出会った。坂爪は岐阜薬科大を出た後、独学で浄土教を学んだ主婦である。のちに仏教大学大学院で学ぶことになったらしいが、独自の視点で浄土教学に迫っている。
親鸞の意に反し本願寺を創設したのは親鸞三世を自称する<覚如>だが、その嫡子が<存覚>である。<存覚>は父覚如によって生涯に三度、不当な義絶にあっている。その主たる理由は、<存覚>が「親鸞の念仏を否定して法然の念仏に先祖返りしていたから」(同書)だという。「浄土真宗は浄土宗である。念仏は法然を指南とすべきである」というのが<存覚>であった。『大谷本願寺通記』は<存覚>を「学徳兼高・弁才無碍…その遜譲の跡…徳のいたりなり」と褒め称え、本願寺八世蓮如も「存覚上人は、その本地を尋ねれば釈尊の化身と号し、親鸞上人の再誕である」と称讃しているという。
生家が浄土真宗の門徒であることから、何の疑いもなくその宗派を学んでいた私は、目からウロコが落ちるように退学、法然上人の門を尋ねることにした。大病のため学への道は拓けなかったものの、いまは、<存覚>が「指南とすべし」と語った法然上人の教えに深くうなづくばかりである。
明日は法然上人の795回忌。数年前、上人開山の京都の今戒光明寺を尋ね<山越え阿弥陀>に手を合わせ≪一枚起請文≫を読誦したことを思い出す。その一節を記して上人を偲ぼう。
≪…念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じゅうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし≫
私の生家は、浄土真宗の門徒であった。幼い頃から門徒の一員として育ったわけだ。母に連れられ、たびたび近くの寺でお説教を聞いた記憶がある。親鸞上人の『教行信証』や『歎異抄』を手にしたのは、二十歳代半ばで、バイクに同乗していた友人を自損事故で亡くしたことがきっかけだった。いわば《生死(しょうじ)》を深く認識する契機になったのだが、当時、《悪人正機》の教えの他は大して深読みできたとも思えない。
十数年前、僧籍取得を目的に某仏教学院の通信教育を受講し始め、親鸞に関する著書を<濫読>した。私の親鸞像を決定付けた二人の人がいる。一人は河田光夫(1938~93)、もう一人は坂爪逸子(1942~)である。
前者には親鸞研究書ともいえる『河田光夫著作集』全三巻、『親鸞からの手紙を読み解く』などがあり、後者には『遊びの境界~法然と親鸞』『転形期・法然と頼朝』『存覚』がある。
河田光夫は、大阪の日雇い労働者の町に近い「大阪府立今宮工業高校定時制」に終生勤務し、かたわら「親鸞の手紙を読み解く」研究に没頭、とくに「親鸞と被差別民衆」は教義学面だけでなく門徒大衆にも大きな影響を与えた。廣瀬あきら(木の上に日・元大谷大学学長)は河田の研究に接し、「三十四年に及ぶ親鸞に関する自らの学びを問い糾さざるを得なくなった」と言い、死後刊行となった全集の刊行委員を務めた。
河田は、定時制高校での解放教育の実践を通して、被差別・被抑圧者との交流があり、親鸞文献とこの交流から親鸞像を確立したと言われているが、仏教学院が講じる親鸞とのあまりの違いに私は、正直言って戸惑った。
その時期に坂爪逸子著『存覚』に出会った。坂爪は岐阜薬科大を出た後、独学で浄土教を学んだ主婦である。のちに仏教大学大学院で学ぶことになったらしいが、独自の視点で浄土教学に迫っている。
親鸞の意に反し本願寺を創設したのは親鸞三世を自称する<覚如>だが、その嫡子が<存覚>である。<存覚>は父覚如によって生涯に三度、不当な義絶にあっている。その主たる理由は、<存覚>が「親鸞の念仏を否定して法然の念仏に先祖返りしていたから」(同書)だという。「浄土真宗は浄土宗である。念仏は法然を指南とすべきである」というのが<存覚>であった。『大谷本願寺通記』は<存覚>を「学徳兼高・弁才無碍…その遜譲の跡…徳のいたりなり」と褒め称え、本願寺八世蓮如も「存覚上人は、その本地を尋ねれば釈尊の化身と号し、親鸞上人の再誕である」と称讃しているという。
生家が浄土真宗の門徒であることから、何の疑いもなくその宗派を学んでいた私は、目からウロコが落ちるように退学、法然上人の門を尋ねることにした。大病のため学への道は拓けなかったものの、いまは、<存覚>が「指南とすべし」と語った法然上人の教えに深くうなづくばかりである。
明日は法然上人の795回忌。数年前、上人開山の京都の今戒光明寺を尋ね<山越え阿弥陀>に手を合わせ≪一枚起請文≫を読誦したことを思い出す。その一節を記して上人を偲ぼう。
≪…念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じゅうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし≫
「法然の〈念仏多善根〉説の背景
『起信論』の始覚の概念を背景にして』です。
『起信論』の著者の真諦の仏教教理によって、法然の念仏を研究しています。博士論文を出版するために、何故真諦なのかを皆さんに理解していただく必要があると感じました。そのために、博士号の哲学的な基盤を現在書き上げて出版社の方に読んでいただいてています。出版にこぎつけるためにはまだ紆余曲折があると思います。
存覚のような精神は、日本人になかなか理解されず、しかも地球環境の破壊されていく現代、最も必要だと認識しています。それを真諦の〈知足少欲〉説によって、中流階級の精神として解明しました。格差社会が言われ、一億総中流がどこかへ消えてしまった現代に対して、法然の時代から日本を支えていた中流階級の精神とは何かを考察してみました。
大病をなさったよし、健康な私が申しあげるのは不遜かと思いますが、法然上人の念仏はあらゆる意味で自然治癒力を維持し、養ってくれるようです。どうかお大事になさってください。
『中流の力・すべては〈立っち〉に始まった』
青弓社です。
ご住所がわかればお送りできるのですが。
坂爪逸子