耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“手当て”と“気”

2007-01-08 15:58:26 | Weblog
 “手当て”という言葉がある。『大辞泉』で“手当て”を見ると②に「病気やけがの処置を施すこと。また、その処置」とある。本来、この言葉は頭が痛い時や歯が痛い時、あるいは体のどこかを打撲した時など、思わず痛い所に“手を当てる”ことに由来するらしい。

『手当て健康法』(三浦一郎著/ たま出版)によれば「釈迦やイエスも“手当て法”で病気を救った」とある。また同書には「東大名誉教授小川鼎三の『医学の歴史』のなかにイギリスでもローヤル・タッチ(王の手当て)が盛んに行なわれ〝チャールス二世(在位1660~85)の侍医の一人が、王様はロンドンの全外科医が治すよりもっと多くの患者を年々治している〟と記している」とある。著者は“手当て療法”の実践者(1987年当時、明治東洋医学院医学史講師)だけにその歴史・療法に詳しい。

“手当て”療法を利用した<治療サギ集団>の摘発ニュースをたまに聞くこともあるが、悪質な話は別として、“手当て”健康法は傾聴に値する伝統療法の一つであると思う。私は父の体質を受け生来、胃弱であった。“手当て”の効能を知って私は、就寝時、胃の重要ツボである<中かん(月偏に完)>(みぞおち<鳩尾>と臍の中間)に重ねた両手掌を乗せて寝た。これを続けているうちにいつの間にか不思議に胃弱は緩解した。

 この“手当て”でなぜ症状が治癒もしくは緩解するのか。こんにち、大方の見解は“気”の作用ではないかとされている。では“気”とは一体なにか。丸山敏秋は気についての中国古代思想を紹介しつつ「この現実世界の一切の存在物は気から成る。つまり気は、存在物を構成する究極極微のアトム的な要素」と定義している。(丸山敏秋著/『気~論語からニューサイエンスまで』=東京美術選書)彼の定義は『荘子』の言葉をイメージしているようにも思える。≪人の生るるや、気の集るなり。集れば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。…故に曰く、天下を通じて一気のみ。≫(『荘子』=知北遊篇)

 わが国で「いのち」というのは、古語では「イ」は<息>、「チ」は<勢力>のことでイとチ、つまり「息の勢」で、目に見えない気と勢の働きを生きる根源の力と古代人は考えたらしい。ちなみに、“気”を辞書でみればその成語がいかに多いかが分かる。今では“気”に関する著書は多く、これ以上能書きすることもなかろう。次回は“気”の体験についてふれてみたい。