長崎新聞5月20日Webニュース(文化・芸能)は、「子守歌の大切さ訴え閉幕 壱岐、専門家らリレー講演」と題し「長崎県・壱岐で開かれていた“日本子守唄フォーラム”は20日、専門家らが“よみがえれ!子守唄”と題したリレー講演で子守歌の大切さを訴え、2日間の日程を終えた」と報じ、さらに「宗教学者の山折哲雄さんは、増加する少年犯罪に触れ“子守歌や童謡は哀調のメロディー。悲しみが分かる感覚が子どもの心から失われている”と述べた」と伝えている。
この報道を見て、2000年4月、急性解離性大動脈瘤を発症し千葉県O市の病院に入院していたある日、いつも欠かさず聴く日曜夜9時からのNHK第2「文化ゼミナー」で、山折哲雄氏の次のような講演を聴いたことを思い出した。(当時「備忘録」に記録したものを引く)
<10数年前(注・2000年当時の話として書く)、ある新聞の投書欄に若い母親の声が掲載された。「小さな子どもを寝かせようと思って子守唄を歌って聞かせると、なぜか子どもがむずがる。しまいには布団にもぐり込んでしまう」という内容だった。しばらくすると、その母親に同調する投書がいくつも掲載された。私(山折氏)は「不思議なことがあるものだなァ」と思いつつ忘れていた1年余り後に、ある新聞社がそのことについての追跡調査を行い、結果を発表した。子守唄を聴いてむずかる子どもが意外に多い事実とその原因と思われることを突き止めたのである。
それは、テレビ時代(とくに高度成長期以降)になってからの子供たちは毎日、テレビのコマーシャルソング(短調で誇張したリズム)を耳にして育ち、嘆きや哀れ、悲しみ、祈りの調子を含むゆったりした長調の子守唄のリズムを体質的に拒絶するようになったのではないか、と結論していた。私は「なるほど、そういうことだったのか」と納得し、そのうちこのことは忘れてしまっていた。
数年前、日韓文化交流会議が開かれ、私は日本側代表として参加した。会議のあとのレセプションで韓国代表の世界的に著名な僧侶が私に話しかけてきた。
「山折先生、仏教国の日本は本当に羨ましい」
私が
「実際は先生がお考えになっているほどのことではありませんよ」
と言うと、彼は
「いや、日本人の心には小さい時から仏教の精神が植えつけられているではありませんか」
と言って、『夕焼け小焼け』の歌を歌った。
夕焼け小焼けで日が暮れて <西方浄土指向>
山のお寺の鐘が鳴る <寺と民衆の一体化>
お手てつないでみな帰ろ <共同体社会>
カラスと一緒に帰りましょ <生物との共生>
「この歌は仏教そのものの精神を歌っていると思いませんか」
と彼は言い、歌のあとの<>を示して自説を述べたのである。
このことがあってから私は、10数年前の若い母親たちの投書を思い出し、子守歌や童謡が現在の子どもの教材にどれだけ採用されているかを調べてみたが、皆無だった。そして韓国の先生が指摘した意味を自分なりに分析して得た結論は、嘆きや祈りが現代の青少年に欠落していること、これが犯罪や非行多発に結びついているのではないかということである。>
最後に山折氏は、日本人の精神構造にふれ、日本人はことのほか「夕陽好き」で、万葉集をはじめ歌や物語、芭蕉の俳句などをあげ、これは日本人の根強い「西方浄土信仰」の表れではないかと述べ、「現代の子供たち(その親も含め)に悲しみや哀れ、歎きや祈りの感性を育み、宇宙の神秘に素直に感動できる人間性の醸成が重要であり、そのひとつとして子守唄や童謡が学校教材にもっと取り入れられるべきであろう」と指摘した。
壱岐の「フォーラム」で山折氏がどんな話しをしたのか詳細は知らないが、恐らく、7年前に聴いたラジオでの話と大差ないものと想像できる。だとすれば、安部内閣がやっきになっている「教育改革」でも、山折氏の憂いは拭い去られず、そればかりか憂いが深まっているとみてよいのではなかろうか。
この報道を見て、2000年4月、急性解離性大動脈瘤を発症し千葉県O市の病院に入院していたある日、いつも欠かさず聴く日曜夜9時からのNHK第2「文化ゼミナー」で、山折哲雄氏の次のような講演を聴いたことを思い出した。(当時「備忘録」に記録したものを引く)
<10数年前(注・2000年当時の話として書く)、ある新聞の投書欄に若い母親の声が掲載された。「小さな子どもを寝かせようと思って子守唄を歌って聞かせると、なぜか子どもがむずがる。しまいには布団にもぐり込んでしまう」という内容だった。しばらくすると、その母親に同調する投書がいくつも掲載された。私(山折氏)は「不思議なことがあるものだなァ」と思いつつ忘れていた1年余り後に、ある新聞社がそのことについての追跡調査を行い、結果を発表した。子守唄を聴いてむずかる子どもが意外に多い事実とその原因と思われることを突き止めたのである。
それは、テレビ時代(とくに高度成長期以降)になってからの子供たちは毎日、テレビのコマーシャルソング(短調で誇張したリズム)を耳にして育ち、嘆きや哀れ、悲しみ、祈りの調子を含むゆったりした長調の子守唄のリズムを体質的に拒絶するようになったのではないか、と結論していた。私は「なるほど、そういうことだったのか」と納得し、そのうちこのことは忘れてしまっていた。
数年前、日韓文化交流会議が開かれ、私は日本側代表として参加した。会議のあとのレセプションで韓国代表の世界的に著名な僧侶が私に話しかけてきた。
「山折先生、仏教国の日本は本当に羨ましい」
私が
「実際は先生がお考えになっているほどのことではありませんよ」
と言うと、彼は
「いや、日本人の心には小さい時から仏教の精神が植えつけられているではありませんか」
と言って、『夕焼け小焼け』の歌を歌った。
夕焼け小焼けで日が暮れて <西方浄土指向>
山のお寺の鐘が鳴る <寺と民衆の一体化>
お手てつないでみな帰ろ <共同体社会>
カラスと一緒に帰りましょ <生物との共生>
「この歌は仏教そのものの精神を歌っていると思いませんか」
と彼は言い、歌のあとの<>を示して自説を述べたのである。
このことがあってから私は、10数年前の若い母親たちの投書を思い出し、子守歌や童謡が現在の子どもの教材にどれだけ採用されているかを調べてみたが、皆無だった。そして韓国の先生が指摘した意味を自分なりに分析して得た結論は、嘆きや祈りが現代の青少年に欠落していること、これが犯罪や非行多発に結びついているのではないかということである。>
最後に山折氏は、日本人の精神構造にふれ、日本人はことのほか「夕陽好き」で、万葉集をはじめ歌や物語、芭蕉の俳句などをあげ、これは日本人の根強い「西方浄土信仰」の表れではないかと述べ、「現代の子供たち(その親も含め)に悲しみや哀れ、歎きや祈りの感性を育み、宇宙の神秘に素直に感動できる人間性の醸成が重要であり、そのひとつとして子守唄や童謡が学校教材にもっと取り入れられるべきであろう」と指摘した。
壱岐の「フォーラム」で山折氏がどんな話しをしたのか詳細は知らないが、恐らく、7年前に聴いたラジオでの話と大差ないものと想像できる。だとすれば、安部内閣がやっきになっている「教育改革」でも、山折氏の憂いは拭い去られず、そればかりか憂いが深まっているとみてよいのではなかろうか。