法然上人の弟子の一人に“勢観房源智”(1183~1238)というお坊さんがいた。『法然上人行状絵図』(以下『四十八巻伝』という)に次のように紹介されている。
<勢観房源智は、備中守(びっちゅうのかみ)師盛朝臣(もろもりあそん)の子、小松の内府重盛公の孫なり。平家逆乱の後、よのはばかりありて、母儀これをかくしもてりけるを、建久6年、生年13歳のとき上人に進ず。>
平家滅亡時わずか3歳だった源智だが、『平家物語』にもその苛酷さが生々しく描かれている頼朝の徹底的な「平孫狩り」で、源智の母もわが子を隠すのに苦労したようである。ただ、源智の出生については諸説あって、師盛父説も有力ではあるが確定したものではないという。しかし縁あって、法然上人入滅までの18年もの長い間、側近く仕えていたことに間違いはない。
この源智の業績を際立たせたのが、1974(昭和49)年、「西国三十三霊場番外六十六番 玉桂寺」(滋賀県信楽町)で発見された傷みのひどい一体の阿弥陀仏像である。発見から5年後、京都国立博物館での解体調査の結果、中に小さく巻き込まれた文書がぎっしり入っていた。納入品は三十二あり、大部分は文書類で、僧俗の名が書き連ねられた「結縁交名帳(けちえんきょうみょうちょう)」(結縁を誓う連名書)であった。書かれた名前は4万6千人。中心部に一枚の願文があり、<先師ノ恩徳ニ報ゼント欲シ…、三尺ノ弥陀像ヲ造立>した旨がしたためられ、
<先師ハ只化物(ケモツ)ヲ以テ心ト為シ、利生(リショウ)ヲ以テ先ト為ス>(法然上人は、ただひたすら人々を教化することだけを、ご自分のお心とし、人々のために尽くすことを何よりも先になされた方であった)
と書き、さらに<三尺ノ弥陀像ヲ造立シ(中略)此ノ像ノ中ニ数万人ノ姓名ヲ納ムル>とあり、続けて次のように記されていた。
<像ノ中ニ納メ奉ル所ノ道俗貴賎・有縁無縁ノ類ハ併(ヒト)シク愚侶(グリョ)ノ方便力ニ随ヒテ、必ズ我師ノ引接(インジョウ)ヲ蒙ラン。此ノ結縁ノ衆ハ、一生三生ノ中ニ早ク三界ノ獄城ヲ出デ、速カニ九品(クホン)ノ仏家(ブッケ)ニ至ルベシ。己ニ利物ヲ以テ師徳ニ報ズ。実ニ此ノ作善ハ莫大也。>(この像の中に納められた出家者・在俗者・縁のある人・ない人、すべてみんな私のしたことによって、必ず法然上人のお導きを受けることであろう。こうして縁に結ばれた人たちは、生き死にの輪廻の世界をぬけ出して、すみやかに極楽に往くことが出来るであろう。このように人々に尽くすことによって、師のご恩に報いる。実にこの作善の実りは莫大である)
記名者を見ると、平家一門は言うに及ばず、自らを追った敵方の源氏一族、さらに上人を流罪に付した天皇、貴族の名がみえる。だが、記帳された名のほとんどが在俗者だったのはいうまでもなく、さみ うめ いせ をと ちよ などの名があり、その範囲は近畿、中国、東海、北陸、遠くは蝦夷、東北地方に及んでいるという。願文の末尾に「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」とあり、法然上人滅後わずか11ヶ月にして4万6千人もの莫大な結縁者を集めたことが窺える。『四十八巻伝』には「勢観房一期(いちご)の行状は、ただ隠遁をこのみ、自行を本(もと)とす。…」とあり、源智は人前に出ることを嫌い、物静かな人であったとあるが、短時日の間に4万6千もの交名を集めていることから、むしろ積極的な専修念仏者だったのではないかと見る人もいる。(源智については梶村昇著『勢観房源智』/東方出版を参照)
1212(建暦2)年正月23日、重篤な身を床に臥せっていた法然上人に、18年にわたって常随し、お世話してきた勢観房源智が枕頭について、
<念仏の安心、年来御教戒にあずかるといえども、なお御自筆に肝要の御所存、一筆遊ばされて、のちの御かたみにそなえ侍らん。>(『四十八巻伝』)
と懇請した。法然上人は愛弟子のために筆をとった。京都の黒谷今戒光明寺が所蔵する真筆を示す。
一枚起請文 源空述
もろこし我かてうにもろもろの智者達のさたし申さるる観念の念ニモ非ス、又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ス、たた往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て疑なく、往生するそと思とりテ申外ニハ別ノ子さい候ハす、但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルソト思フ内ニ篭リ候也、此外ニおくふかき事を存せハ、ニ尊ノあハれみニハツレ本願ニもれ候へし、念仏ヲ信セン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道の無ちノともからニ同しテ、ちしゃのふるまいヲせすして只一かうに念仏すへし、為証以両手印、
浄土宗ノ安心起行此一紙ニ至極せり、源空カ所存此外ニ全ク別義を存せス、滅後 ノ邪義ヲふせかんか為メニ所存を記し畢
建暦ニ年正月二十三日
源空(花押)
法然上人の「念仏義」はここに尽くされている。
臨終の師に、門弟が、
「このたびの往生は確かでしょうか」
と問うた。師は答えた。
「私はもと浄土にいたのです。今、その浄土に帰っていくのです」
町田宗鳳は言う。
<ひとつの信仰を持つということは、その宗教の「神話的現在」に生きることである。…人間が死ねば、極楽浄土に「十人は十人ながら生まれ、百人は百人ながら生まれる」という、彼自身が構築した一極構造の神話である。法然の強烈な想像力が、死と救いが同一物であるという単純明解な神話を作りあげ、その「神話的現在」を中心として、萎(な)えかかった人々の信仰が甦ることになった。>(『法然~世紀末の革命者』/法蔵館)
「一文不知の愚鈍の身」になって唱する“理屈抜き”の念仏。「仕事をしながら唱える念仏」ではなく「念仏を唱えながらする仕事」を求めた法然上人の思いが胸をつく。
<勢観房源智は、備中守(びっちゅうのかみ)師盛朝臣(もろもりあそん)の子、小松の内府重盛公の孫なり。平家逆乱の後、よのはばかりありて、母儀これをかくしもてりけるを、建久6年、生年13歳のとき上人に進ず。>
平家滅亡時わずか3歳だった源智だが、『平家物語』にもその苛酷さが生々しく描かれている頼朝の徹底的な「平孫狩り」で、源智の母もわが子を隠すのに苦労したようである。ただ、源智の出生については諸説あって、師盛父説も有力ではあるが確定したものではないという。しかし縁あって、法然上人入滅までの18年もの長い間、側近く仕えていたことに間違いはない。
この源智の業績を際立たせたのが、1974(昭和49)年、「西国三十三霊場番外六十六番 玉桂寺」(滋賀県信楽町)で発見された傷みのひどい一体の阿弥陀仏像である。発見から5年後、京都国立博物館での解体調査の結果、中に小さく巻き込まれた文書がぎっしり入っていた。納入品は三十二あり、大部分は文書類で、僧俗の名が書き連ねられた「結縁交名帳(けちえんきょうみょうちょう)」(結縁を誓う連名書)であった。書かれた名前は4万6千人。中心部に一枚の願文があり、<先師ノ恩徳ニ報ゼント欲シ…、三尺ノ弥陀像ヲ造立>した旨がしたためられ、
<先師ハ只化物(ケモツ)ヲ以テ心ト為シ、利生(リショウ)ヲ以テ先ト為ス>(法然上人は、ただひたすら人々を教化することだけを、ご自分のお心とし、人々のために尽くすことを何よりも先になされた方であった)
と書き、さらに<三尺ノ弥陀像ヲ造立シ(中略)此ノ像ノ中ニ数万人ノ姓名ヲ納ムル>とあり、続けて次のように記されていた。
<像ノ中ニ納メ奉ル所ノ道俗貴賎・有縁無縁ノ類ハ併(ヒト)シク愚侶(グリョ)ノ方便力ニ随ヒテ、必ズ我師ノ引接(インジョウ)ヲ蒙ラン。此ノ結縁ノ衆ハ、一生三生ノ中ニ早ク三界ノ獄城ヲ出デ、速カニ九品(クホン)ノ仏家(ブッケ)ニ至ルベシ。己ニ利物ヲ以テ師徳ニ報ズ。実ニ此ノ作善ハ莫大也。>(この像の中に納められた出家者・在俗者・縁のある人・ない人、すべてみんな私のしたことによって、必ず法然上人のお導きを受けることであろう。こうして縁に結ばれた人たちは、生き死にの輪廻の世界をぬけ出して、すみやかに極楽に往くことが出来るであろう。このように人々に尽くすことによって、師のご恩に報いる。実にこの作善の実りは莫大である)
記名者を見ると、平家一門は言うに及ばず、自らを追った敵方の源氏一族、さらに上人を流罪に付した天皇、貴族の名がみえる。だが、記帳された名のほとんどが在俗者だったのはいうまでもなく、さみ うめ いせ をと ちよ などの名があり、その範囲は近畿、中国、東海、北陸、遠くは蝦夷、東北地方に及んでいるという。願文の末尾に「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」とあり、法然上人滅後わずか11ヶ月にして4万6千人もの莫大な結縁者を集めたことが窺える。『四十八巻伝』には「勢観房一期(いちご)の行状は、ただ隠遁をこのみ、自行を本(もと)とす。…」とあり、源智は人前に出ることを嫌い、物静かな人であったとあるが、短時日の間に4万6千もの交名を集めていることから、むしろ積極的な専修念仏者だったのではないかと見る人もいる。(源智については梶村昇著『勢観房源智』/東方出版を参照)
1212(建暦2)年正月23日、重篤な身を床に臥せっていた法然上人に、18年にわたって常随し、お世話してきた勢観房源智が枕頭について、
<念仏の安心、年来御教戒にあずかるといえども、なお御自筆に肝要の御所存、一筆遊ばされて、のちの御かたみにそなえ侍らん。>(『四十八巻伝』)
と懇請した。法然上人は愛弟子のために筆をとった。京都の黒谷今戒光明寺が所蔵する真筆を示す。
一枚起請文 源空述
もろこし我かてうにもろもろの智者達のさたし申さるる観念の念ニモ非ス、又学文をして念の心を悟リテ申念仏ニモ非ス、たた往生極楽のためニハ、南無阿弥陀仏と申て疑なく、往生するそと思とりテ申外ニハ別ノ子さい候ハす、但三心四修と申事ノ候ハ、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スルソト思フ内ニ篭リ候也、此外ニおくふかき事を存せハ、ニ尊ノあハれみニハツレ本願ニもれ候へし、念仏ヲ信セン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道の無ちノともからニ同しテ、ちしゃのふるまいヲせすして只一かうに念仏すへし、為証以両手印、
浄土宗ノ安心起行此一紙ニ至極せり、源空カ所存此外ニ全ク別義を存せス、滅後 ノ邪義ヲふせかんか為メニ所存を記し畢
建暦ニ年正月二十三日
源空(花押)
法然上人の「念仏義」はここに尽くされている。
臨終の師に、門弟が、
「このたびの往生は確かでしょうか」
と問うた。師は答えた。
「私はもと浄土にいたのです。今、その浄土に帰っていくのです」
町田宗鳳は言う。
<ひとつの信仰を持つということは、その宗教の「神話的現在」に生きることである。…人間が死ねば、極楽浄土に「十人は十人ながら生まれ、百人は百人ながら生まれる」という、彼自身が構築した一極構造の神話である。法然の強烈な想像力が、死と救いが同一物であるという単純明解な神話を作りあげ、その「神話的現在」を中心として、萎(な)えかかった人々の信仰が甦ることになった。>(『法然~世紀末の革命者』/法蔵館)
「一文不知の愚鈍の身」になって唱する“理屈抜き”の念仏。「仕事をしながら唱える念仏」ではなく「念仏を唱えながらする仕事」を求めた法然上人の思いが胸をつく。