耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

右翼の巨頭“頭山満”と近代日本

2007-05-06 21:59:56 | Weblog
 手元に『頭山満翁写真伝』(復刻版)がある。発刊時の定価は20円、復刻版は38,000円とあるように、幅370㍉、高さ268㍉、厚さ35㍉で布張り表紙の片面刷り71頁、外箱は普通のボール紙だが青墨色(頭山満愛用の郡山染紋服地)の布で装丁した内箱に収まる豪華版である。1988(昭和63)年12月21日の毎日新聞はこの発刊を次のように伝えた。

 <昭和10年に刊行された写真集の復刻版。出版後まもなく発売中止になり、あまり世に出回る機会がなかった本という。…
 頭山は福岡県の生まれ。筑前玄洋社の大立者で、終始野にあって、明治から昭和にかけての政財界に隠然たる影響力をふるった。戦後の歴史学では「右翼の巨頭」という評価が、ほぼ定着している。
 昭和10年といえば、戦雲低くたれこめる時期。頭山は、ちょうど80歳。その半世紀に及ぶ活動期が、生々しい写真によってつづられる。単独写真もあるが、他人と一緒に写したものがおもしろい。そこには、玄洋社や大アジア主義にかかわる数多くの政治家、浪人、革命家が登場するからである。
 主な人物を拾うと、国内では犬養毅、清浦奎吾、松岡洋右、渋沢栄一、出口王仁三郎、杉山茂丸、宮崎滔天、高村光雲、海外組では孫文、黄興、蒋介石、ビハリ・ポーズ、タゴール等々。…>

 (参照:「頭山満」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80

 写真集では「無位無官の一布衣にして畏くも 今上陛下御成婚の御宴に召され、更にご即位の大礼に参列の光栄に浴…」した頭山満を、エピソードをまじえながら貴重な写真で紹介しているが、亡命してきた孫文や蒋介石を自宅の隣りに住まわせたばかりか、「支那に第一革命の勃発して後間もなく」南京の陸軍病院創設に尽力、医師・薬剤師・看護婦と多量の医薬品を持って「救療班」を組織し派遣したりしている。

 また1915年、わが国に亡命していたインド独立の志士ラス・ビハリ・ボースが国外退去を命じられた時、非常手段を用いて「神隠し」を演じて救い、その後も支援を惜しまなかった。本書には当時の隠れ家新宿中村屋での招待会の写真があるが、頭山夫妻、犬養首相、内田良平、ボースらの顔が見え、これは犬養首相が暗殺された「5・15事件」(1932)の4,5日前のものと記されている。インドの詩人革命家タゴールとも交流があり、1924年来日時に写した魁偉な容貌の二人の写真には「タゴール翁と頭山翁と並んだ写真を掲げることは対英感情を刺激して問題を起こす虞れがあるから」といって掲載を中止したと書かれている。

 さらに、『アフガニスタンの高山彦九郎』と称されたマヘンドラ・プラタップ氏も頭山満の支援を受けている。回教徒との交流は1909(明治42)年、トルコ回教の長老イブラヒム氏の来日以来で、大正の初めにはロシアを放逐され亡命した回教徒一団を犬養らとともに援護し、東京の回教学院建設にも手を貸している。1933年、24年ぶりに再訪したイブラヒム氏を大角力に招待した写真などもあり、回教文化の普及に尽力したとされている。

 頭山満は常々「おれの一生は大風の吹いたあとのようなもの。何も残らん」と言っていたというが、国内外を問わずこれだけの支援、援助を賄うには有り金すべてを使い果たし、自らはいつも財政的には逼迫していたという。その頭山満とはどういう思想の持ち主だったのだろうか。その鍵になる一つの談話がある。

 <支那が赤化する時は日本も累を被るのぢゃから日本の政府は余程シッカリせにゃならん。蒋介石が昨年来た時も、貴公でも誰でも若し日本に叛くやうな事があれば一刻も容赦はせんから、その心算でやれ、日本に叛いては支那は一日も立ち行くものでない事を決して忘れるなと云っておいた。蒋も、誓って赤化分子を討伐しますと云って居った。あれは正直な男ぢゃが、若し日本に弓を引くやうな事があれば寸毫も容赦はせん。亜細亜の大局が見えないで、どうして支那を改造することが出来るものか。張作霖なども、日本に邪魔立てばかりしてゐると、碌な結果にはならんぞ。彼はやっぱり全支を統一する器ではないやうじゃ。…>(1928.2.15「徳と力で行け」)

 ここから頭山満の「大亜細亜主義」が垣間見えるが、朝日新聞発行の月刊『一冊の本』に「ドーダの近代史」(共立女子大教授・鹿島茂)という面白い連載記事があり、2006年10月号より4回にわたって「西郷隆盛の子供たち」という文が載っており、そこに頭山満の人物像が鮮やかに描かれている。

 鹿島教授は「頭山満、杉山茂丸のラインこそが日本の右翼の“正系”であり、北一輝と大川周明の方が“異端”なのである」といい、頭山満が「とにかく偉い人」と言われたのはなぜかを追求する。そして「頭山満は、ヌーボー式偉人崇拝という名の宗教の教祖であり、右翼というよりも、むしろ日本人そのものの“心の琴線”に触れるような“なにか”を持っていたが故に、多くの人を拝跪させた」と述べ、その“なにか”とは明治の偉勲・西郷隆盛思想の継承者を自認したことを指すという。では西郷思想のなにを受け継いだか。それは「児孫の為に美田を買わず」と言う西郷遺訓の一節に尽きると結論し、頭山の言葉を引いている。

 <此の詩は、大久保利通が堂々たる西洋館の新邸を作ったときに、南洲翁がこれを諷せられたものであるとも聞いてゐる。いずれにしても「児孫の為に美田を買わず」とは、千古の名訓ぢゃ。誰れでも、功なり名を遂げた暁には、美しい衣を着け旨いものを食ひ、立派な邸宅に住ひたいといふのが人情ぢゃ。あの人は偉いと人にはいはるゝくらゐの人傑でも、兎角この辺の道には迷ひたがるものぢゃテ>(『頭山満言志録』)

 鹿島教授は最後にこう結んでいる。
 「…頭山満によって“要約”された西郷隆盛とは、粗衣粗食と私心のなさだけを唯一の頼みとするウルトラ禁欲主義者、東にイギリスの軍刀を持つ大久保あらばこれを取り上げに出掛け、西にうなぎを食べる大隈あらばこれを犬に食わせに行く、まことにお節介きわまる“禁欲の憲兵”にほかならない。
 この“禁欲の憲兵”たる西郷隆盛のイメージは、西郷隆盛その人とは何の関係もないかもしれない。しかし、西郷亡き後、その南洲思想の継承者を自認する頭山満らが受け継いだと信じたのは、まさにこのイメージ以外の何者でもなかったのである。
 げんに、頭山満は、玄洋社を組織したあと、自ら西郷に成り代わって“禁欲の憲兵”となり、東奔西走して、“家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀(たばか)”る維新の元勲たちを叱り飛ばしに、東奔西走することになる。
 …頭山満が、西郷亡きあとの大空位時代に果たすことになる役割とは、まさに、この“二代目・禁欲の憲兵”なのである。
 そして、これがやがて、頭山満さえ離れて、一人歩きを始め、“禁欲の大憲兵”と化して、日本を奈落の底に突き落とすことになるのである。」


 近代日本の政財界に隠然たる影響を与えた頭山満だが、ときに頭山以上の影響力を発揮したもう一人の“右翼の巨頭”がいた。杉山茂丸である。(次を参照)この二人の足跡を辿ると、現代の右翼が実に貧相に見えてくる。

 参照:「杉山茂丸」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8