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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

三種の神器

2015-01-07 06:22:51 | 日記

三種の神器と云うと戦後日本の復興期に、新時代の生活必需品として宣伝された白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことだと思われる方も多いでしょう。三種の神器の元の意味は、日本神話における天孫降臨(てんそんこうりん)の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられたと云う鏡、玉、剣のことです。

三種の神器は(みくさのかむだから)、(さんしゅのしんき)と読まれ、歴代天皇に伝わる三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を指します。

敗戦後、神国日本が否定され、天皇が現人神(あらひとがみ)でなくなって、天岩戸(あまのいわと)とか天孫降臨とか云った神話に触れる機会は失われてしまいました。八咫鏡、草薙剣は読めても、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を読める人は、まず、いないでしょう。

八咫鏡(やたのかがみ)は記紀神話(古事記と日本書紀)で、天照大神が天岩戸に隠れた際に、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が作ったという鏡です。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神を映し出して、興味を持った天照大神を外に連れ出すことができ、再び高天原(たかまがはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)に明るさが戻ったと云います。

八咫鏡は天照大神の御神体として伊勢神宮に祀られていて、その御神体を象って作ったという形代(かたしろ)が皇居にあります。皇居の鏡は賢所(かしこどころ)におかれているので、賢所(けんしょ)とも呼ばれ、また、賢所の通称である内侍所(ないしどころ)とも呼ばれます。八咫(やた)は大きさを現す数字ですが、現在の御神体の入れ物の大きさから考えて、具体的数値を示すものではないと考えられています。

皇居の鏡は、3回の内裏の火災で焼損しており、寛弘の火災の際には、ほとんど原形をとどめなくなってしまいましたが改鋳は行われず、その状態のまま保管されていました。その後、平家が都落ちした際、壇ノ浦に沈み、それを源氏が回収したと云われています。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は大きな玉で作った勾玉で、玉祖命(たまのおやのみこと)が作って、岩戸隠れの際、八咫鏡とともに榊の枝に掛けたと云われます。さかは長さの単位の(あた)のことで、8咫は約140cmですが、この長さは玉の周とも、尾を含めた長さであるとも、結わえてある緒の長さであるとも云われています。

吾妻鏡(あずまかがみ)では壇ノ浦で二位尼(にいのあま)が草薙剣と八尺瓊勾玉を持って入水、按察局(あせちのつぼね)が安徳天皇を抱いて入水し、続いて建礼門院(けんれいもんいん)らの平氏一門の女たちも次々と海に身を投げました。木の箱に入っていた八咫鏡と八尺瓊勾玉は浮かび上がって源氏の手に回収され、草薙剣は沈んだままになったと云われます。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、記紀神話では須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲の簸川上(ひのかわかみ)で退治した八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から出てきた剣で、後に須佐之男命から天照大神に献上されたものです。剣は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器として瓊瓊杵尊に渡され、再び葦原中国へと降りたちます。

八岐大蛇の頭上には、いつも雲がかかっていたことから、元の名を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と云います。天叢雲剣は天孫降臨の後、天照大神の御神体とされる八咫鏡とともに皇居内に祀られていましたが、崇神天皇の代に、皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)により、八咫鏡とともに皇居の外で祀られるようになりました。

この時、形代(かたしろ)の剣が作られ宮中に残されます。天叢雲剣は垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめ)に引き継がれ、祀られる場所が八咫鏡とともに伊勢神宮に定まります。景行天皇の代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に向かう際、伊勢神宮に祭られていたこの剣を倭姫命が授け、日本武尊は敵に周囲を火で囲まれたとき、周りの草を薙ぎ、草を焼いて脱出したことから草薙剣と呼ばれるようになりました。静岡県には現在、焼津,草薙の地名が残っています。

東征の後、日本武尊は尾張国で結婚した宮簀媛(みやずひめ)の元に剣を預けたまま、伊吹山の悪神を討伐しに行き、山の神によって病を得、大和国へ帰る途中で亡くなってしまいます。宮簀媛熱田神宮を建てて、草薙剣を祀りました。

現在、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ御神体として奉斎され、八咫鏡の形代は宮中三殿賢所に、草薙剣の形代は八尺瓊勾玉とともに皇居吹上御所の剣璽の間に安置されています。

記紀神話の三種の神器に比べると、昭和の三種の神器は大分格調が下がりますが、1956年昭和31年)の経済白書で日本経済の戦後の終了が宣言された時期に、マスコミが主導したキャッチコピーでした。1950年代後半、白黒テレビ洗濯機冷蔵庫家電3品目が、三種の神器と呼ばれ始めた時点での普及率は、まだ、それほど高いものではありませんでした。

最も早く普及したのは白黒テレビで、一番遅かったのは冷蔵庫です。テレビの放送は1953年(昭和28)から始まりましたが、庶民の懐具合からみて、テレビは非常に高価で、銭湯や大型飲食店など集客力の高い店舗から先に導入されました。

私は巨人・南海の日本シリーズを見るために、喫茶店に入ったのを覚えています。当時の画面は遠くからでは小さ過ぎ、鮮明ではありませんでしたが、それでも、ラジオの実況放送よりは、はるかに球場の雰囲気がよく分かったものです。

初代の洗濯機は、洗い上がると手回しのローラーで絞るものでしたが、2代目の洗濯機はトヨタのドラム型で、脱水が自動ででき、乾燥はできませんでしたが、今思い出してもなかなかの優れモノでした。結構、長持ちしました。

冷蔵庫は、当初、大型のものはなく、米国製の中古品を購入しました。大きいし、見た目も立派でよかったのですが、一旦故障すると直す手立てがなく、国産の大型が出てきた時期だったので買い換えました。

1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ(Color television)、クーラー(Cooler)、自動車(Car) の3つの耐久消費財が新三種の神器として喧伝されました。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれました。普及が早かったのは1964年(昭和39年)の東京オリンピックを期に売り出されたカラーテレビで、一番遅かったのはクーラーです。

 クーラーが一番早く普及したのはパチンコ屋です。一番遅かったのが病院でした。真夏の手術は暑くて大変です。手術中、汗が垂れるといけないので、手術着の帽子の上から、厚手のタオルを巻いているのですが、メガネをかけている術者は、しょっちゅう眼鏡を拭いてもらわなければなりませんでした。 

手術室にクーラーが入るようになって、真夏の手術は大変楽になりました。術者が楽になったということは、急がずにゆっくり手術ができて、患者さんも安全になったと云うことです。クーラーの普及はパチンコ屋が最初で病院が最後と云うのが、日本文化を象徴しているのでは困るのです。 

現在の電化製品で三種の神器を選ぶとすれば、IHクキングヒーター、LED照明器具、床暖房でしょうか。IHクキングヒーターは触っても熱くなく、キッチンの温度が上がらず、炎がないため火事の心配がありません。 

LED照明器具は消費電力が少なく長持ちするので、量産効果で価格を下げて日本中の照明をLEDに置き換える方が、原発の再稼働より合理的ではないかと思ってしまいます。床暖房はエアコンと違って風が動かず、室温が低めでも輻射熱で暖かいので寒冷地では特におすすめです。 

これからの時代の神器を挙げるとしたら、免震マンション、免震住宅になるのではないでしょうか。3.11の地震の際に私が経験した震度6弱の揺れは強烈でした。余震の強い間、一時、関西まで避難したこともありましたが、たまたま、免震マンションを見つけて引っ越しました。それ以來テレビの画面で震度4が表示されても、揺れたかなと思う程度で揺れは長くは続きません。 

超高層マンションは免震装置に費用がかかっても、上部の建物には耐震建築ほどの強度は要らないので、これからの超高層マンションは、トータルで工費の少ない免震構造になるのではないかと云う観測があります。震度6は経験していないので何とも云えませんが、大きな地震での建物や家財の被害を考えると、今後の新しい住居の選択肢には、免震の住居が入るのではないかと思います。 

超高層マンションには数百軒の住居が収容できますから、火災に弱い密集低層住宅を統合して超高層マンションに建て替え、空いた数百軒分の土地を周囲の緑地にしたら、超高層ビルと緑の杜の素晴らしい都市が誕生すると思うのです。 

ブログで書くほど簡単なことでないことはよく分かっていますが、ウサギ小屋と云われた日本の住宅が、せっかくここまで来たのですから、みんなで気持ちを合わせて、見違えるような都市作りをするのは、新春の夢としていかがでしょうか。

 


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