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鎖国

2019-09-05 06:16:38 | 日記

江戸幕府による1639年寛永16年)のポルトガル船入港禁止から、1854年嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼びます。鎖国と云う語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての鎖国はなかったとする見方が主流になってきました。

13~14世紀には壱岐・対馬・松浦地方の土豪や商人、漁民に高麗人が加わった前期倭寇と呼ばれる海賊が、主として高麗の沿岸を荒らし回り、高麗とは取り締まりに手を焼き、明は海禁政策をとります。

 

1369年 九州に勢力を張っていた南朝の懐良親王のもとに、懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封倭寇の鎮圧を命じる、太祖からの国書が届きました。明との朝貢外交が南朝の資金源になったとも、北朝や薩摩の島津氏などが「良懐」の名義で偽使を送ったとも云われています。

足利幕府三代将軍義満は明との正式な通交を望みましたが、明国から北朝の臣下と看做されて交渉は実りませんでした。義満は1394年(応永元年12月)太政大臣を辞し出家して天皇の臣下ではない立場となり、1401年応永8年)「日本国准三后源道義」の名義で使節を明に派遣しました。

建文帝は義満を日本国王に冊封し、1404年(応永11年)から日本国王が明の皇帝に朝貢する形式の勘合貿易が始まり、義満は明の要請に応じて倭寇を鎮圧しています。勘合とは朝貢船が持つ割符の文字と、明が持つ台帳の「底簿」の文字を照合して朝貢船かどうかを判断したことによります。

当時の明朝は強固な中華思想により、明から冊封された周辺の国王が皇帝に朝貢して賜り物を持ち帰る朝貢形式の貿易しか認めず、賜り物には明の豊かさと皇帝の気前のよさが反映されたので、室町幕府には莫大な利益がありました。遣明船に同乗を許された商人も、明政府が商品を買い上げてくれる公貿易や明商人との私貿易で利益を上げました。

義満がから「日本国王」の冊封を受けたことについては、1392年(元中9年/明徳3年)義満の計らいで南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝が合体した後、義満が朝廷の叙任権祭祀権元号改元、治罰の綸旨の封印などの権限を次々に奪っていき、子の義嗣を天皇にして自らは治天の君として皇位簒奪を目論んでいたとされますが、単に朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったとも云われます。

日明関係は1547年(天文16年)の遣明船で断絶しましたが、歴代の足利将軍は日本国王の称号を手放さず、豊臣秀吉を経て徳川幕府に至っても朝鮮との国書の往来は徳川将軍が日本国王になっています。

勘合貿易が衰えると、15世紀後半から16世紀にかけて倭寇が再び活発化しましたが、後期倭寇は福建や広東の中国人が主体で、1543年に海商であり倭寇でもあった王直の船が種子島に漂着し、乗っていたポルトガル商人が伝えた鉄砲を種子島と呼びました。

平戸には当時の商人や後期倭寇の中国人が多く住んでいて、大名の松浦隆信はポルトガルと貿易を開始します。1550年(天文19年)隆信は鹿児島から平戸に来たイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルに布教を許し、鉄砲大砲を購入して宣教師を厚遇しましたが、隆信自身はキリスト教に馴染まず信者の拡大は地域に軋轢を生じました。1558年(永禄元年)隆信は平戸からの宣教師の退去を命じます。

1553年から1561年の間ポルトガル船が毎年来航して平戸は交易の中心地として栄えましたが、1562年にポルトガル人が殺傷される事件がおこり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に寄港するようになります。

大村純忠は1563年(永禄6年)に洗礼を受けたキリシタン大名で、領民にもキリスト教信仰を奨励したため大村領内の信者が6万人を越え、1570年元亀元年)純忠はイエズス会に長崎の地を寄進しました。

 

1559年明は首魁の王直を捕らえて中国人主体の後期倭寇をようやく鎮圧し、1567年海禁策をやめて中国人の貿易再開と海外渡航を認めます。我が国では戦国時代が終わり1588年豊臣秀吉が刀狩令と海賊停止令を出し、これにより瀬戸内海の海賊と九州沿岸を根拠地とする後期倭寇が衰えていきます。

秀吉は朱印船による貿易統制に乗りだし、徳川家康もそれを継承したので、長崎を拠点とした朱印船貿易が活発になります。17世紀の東南アジア海域では朱印船と明船、ポルトガル船が交易し、オランダ船や中国人海賊がそれを襲う状況になりました。

長崎の開港で平戸のポルトガル貿易は終焉しましたが、1584年天正12年)イスパニアの貿易船が平戸に入港、1609年(慶長14年)オランダ商館を設け、1613年(慶長18年)イギリス商館を置きました。

長崎がキリシタンの布教と南蛮貿易の拠点となり、西国大名が海外貿易を独占する恐れがあるとみた秀吉は、1587年長崎を直轄領としてバテレン追放令を出し、朱印船貿易を始めて貿易利益の独占を図りました。徳川幕府を開いた家康も朱印船貿易を盛んに行い、日本人の貿易商は東南アジア各地で活躍し多くの日本町が生まれました。

 

中国産の生糸(白糸)はマカオで生産されていましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の影響で中国との国交が断絶していて日本は中国と直接貿易ができず、ポルトガル商人がマカオで安く仕入れた生糸を長崎で高値で売っていたため、1604年幕府は京都・堺・長崎の有力商人に生糸を一括購入させる糸割符制度を始めました。

幕府はキリスト教信仰が封建的な幕藩体制を揺るがす恐れを強く感じとって、段階的に禁教令を出します。1612年に天領と直轄領の家臣に禁教令が出され、翌年には全国に及びました。ポルトガルとスペインはカトリックの布教を名目に植民地政策を展開する国だと、プロテスタントのオランダとイギリスが幕府に告げ口したことも理由です。

1616年幕府は貿易港を平戸と長崎に限定しました。1624年にスペイン船の来航を禁止します。イギリスは1623年に東南アジアでオランダと衝突して敗れ、日本貿易から撤退していました。

三代将軍徳川家光は1633年(寛永10年)奉書船以外の海外渡航と5年以上の海外居住者の帰国を禁止し、1635年には日本人の海外渡航と海外在住日本人の帰国の全面禁止、1639年はポルトガル船の来航を禁止して鎖国の体制が固まります。

この間1637年に島原の乱が起こりました。キリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地だった島原・天草地方にはキリシタンの牢人や農民が多く、新領主となった島原の松倉氏と天草の寺沢氏は飢饉にもかかわらず重税を課し、キリシタンを厳しく取り締まったため、反発した牢人や農民は天草四郎を頭領として一揆を起こしました。

原城に立て籠もった一揆勢は3万に上り幕府はその鎮圧に手こずって、12万の大軍を投入して翌年ようやく鎮圧しました。このとき平戸のオランダ商館は幕府軍に鉄砲や大砲を提供しています。

島原の乱に先立つ1634年に幕府は長崎に出島を築き、ポルトガル商館を平戸から移していました。1635年には中国船の入港も長崎に限定します。島原の乱後の1639年にはポルトガル人を追放し貿易の特権を西欧ではオランダ一国に与え、1641年にはオランダ商館を出島に移しました。

オランダ商人は日本人との自由な接触は禁止され、年一度の貿易船のもたらす商品は幕府の管理下に置かれましたが、オランダ商館長は毎年江戸に上って「オランダ風説書」を将軍に提出し、日本が世界情勢を知る唯一の窓口となってアメリカのペリー艦隊来航の情報ももたらしました。

オランダ船と、鄭成功支配下の台湾船や中国南部からの中国船が競合していましたが、1683年に鄭氏台湾が清朝政府に降服した後は中国船の来航が急増しました。長崎での中国船の入港が増えると日本からの大量の銀の流出が問題になります。

中国からのカトリック宣教師の潜入も懸念されたため、幕府は1688年に長崎に唐人屋敷を設けて出島のオランダ商人と同じく隔離しました。中国商人も日本人との接触は禁止されていましたがオランダ人に比べると比較的自由で、長崎に中国文化の影響が色濃く残ることになります。

 

江戸時代の日本は、オランダと中国を除いて外国との交渉を断ち国を閉ざしたと従来説かれてきましたが、鎖国に対する史観は現在微妙に変化してきていています。

江戸時代の日本は「対馬口」で朝鮮と、「薩摩口」で琉球と、「松前口」でアイヌと、「長崎口」でオランダ人や唐人と繋がっており、「四つの口」が開かれていたと云うのが定説になりました。長崎口の唐人は中国人が主体ですが東南アジア人も含まれ、この「四つの口」はそれぞれ間接的に中国に繋がっていました。

このような日本の対外姿勢を鎖国と見做したのはオランダで、1801年オランダ商館のドイツ人医師ケンペルの著作「日本誌」を翻訳したオランダ通詞志筑忠雄が、「鎖国論」と題しました。

18世紀は我が国の鎖国政策がもっとも安定した時期でしたが、その間に世界は大きく変動しポルトガルとスペインの両カトリック国の没落が決定的となり、この二国が布教とともに領土を獲得してきた植民地政策は影を潜めました。

それに対して一時東アジアから撤退していたイギリスと、ルイ14世のもとで新たにアジア侵出を始めたフランスの動きが活発になり、その両国の植民地抗争が新大陸にアメリカを誕生させ、ロシアも東アジアへの進出を開始しました。

こうして19世紀の日本近海にはイギリス、フランス、アメリカ、ロシアという新しい勢力が姿を現します。それは従来の鎖国政策では対応できない新しい世界の動きで、もはやキリスト教の布教対策と云う枠を超えたものでした。

鎖国の果たした役割について従来は、第一に幕府の封建制支配と相いれないキリシタンが政治的あるいは軍事的に反幕諸勢力と結びつかないように鎖国を行ったとされます。
第二にオランダが東洋貿易を制覇する目的で、先に優位の地位を築き上げていたポルトガル、スペインの両国が布教を通じて植民地化を図ると幕府に中傷し、対日貿易の利益の独占に成功したとします。結果的にオランダは東南アジア諸国での最大の競争相手であった、日本の朱印船貿易の廃止にも成功しています。

第三に幕府が西国大名の貿易機会を奪うため、国内の特定の大商人に朱印船貿易を任せたとする見解です。幕府は糸割符制度を立ち上げて主要貿易品で利益の大きい白糸を糸割符仲間の取引として保護し、幕政の強化を図ったとみます。
これらの諸説では共通して鎖国が世界的視野の狭窄と島国根性をもたらし、ヨーロッパの市民的・合理的精神を見習うのを妨げたと見ますが、他方で日本独自の文化と国内産業の発達を促したと解しています。

15世紀末から16世紀にかけての大航海時代の世界史の中で、日本の貿易商人も東南アジアで活躍し多くの日本人町も生まれましたが、江戸時代は幕末に至るまで外国から侵攻されることもなく、島原の乱を除いては国内でも戦争のない時代が続きました。

18世紀後半になると日本の近海で外国船が目撃されるようになります。幕府は1806年1月の「ロシア船撫恤令」で、ロシアの漂着船に食糧等を支給して速やかに帰帆させる方針としましたが、文化露寇を受けて1807年12月には「ロシア船打払令」を出しました。

1824年水戸藩領にイギリス人が上陸した「大津浜事件」がきっかけで水戸学の尊王攘夷論が唱えられ、1825年の「異国船打払令」の一因となりました。1839年~1842年の清とイギリスのアヘン戦争の結末が我が国に伝わると、外国からの侵略の危機感が武士の間に攘夷と開国と云う正反対の論議を広げます。

1854年日米和親条約が締結され我が国は開国の道を選びましたが、カントはヨーロッパ諸国が、新大陸、黒人の諸国、香料諸島、喜望峰を発見した際、軍隊を使って先住民を迫害し、ありとあらゆる悪をもたらしたと告発しています。我が国がヨーロッパ文明に背を向けることになったとしても、ヨーロッパ諸国からの侵略を免れたことについては、鎖国が重要な意味をもっていたと評価せざるを得ないでしょう。

 

 

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