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禁中公家諸法度

2022-06-23 06:23:34 | 日記

正式名「禁中并公家中諸法度」(きんちゅうならびにくげちゅうしょはっと)は元和元年(1615年)7月江戸幕府が朝廷や公家の規制を図った制度です。起草者は金地院崇伝で、天皇の本分、摂家・三公の席次や任免、改元、刑罰、門跡以下僧侶の官位などの17条から成り、江戸幕府の大御所徳川家康、将軍秀忠と関白二条昭実の3人の連署で発布されました。

幕府は慶長18年(1613年)に朝廷対策として「公家諸法度」と「勅許紫衣(しえ)法度」を既に出していますが、禁中は天皇、公家中は公家のうち公家衆、諸公家を指し、幕府が天皇・公家衆・親王・門跡ら朝廷のすべての行動を拘束する基本方針を確定したもので、幕末まで改訂されることはありませんでした。

禁中並公家諸法度

第1条は「天子諸芸能之事、第一御学問也」と天皇に関する規定で、天子として行うべき学問・芸術のなかで、第一は御学問、ついで和歌、これらの習学が専要であるとしています。第2条は三公(太政大臣・左大臣・右大臣)と親王及び諸親王の座次規定で、座次は摂家の三公・親王・清華の大臣・摂家の前官大臣・諸親王の順となります。

貞観8年(866年)藤原良房が臣下として初めて清和天皇の摂政となり、幼少の天皇に摂政、成人後の天皇に関白を置く慣例が確立し、摂政から関白になる事例は朱雀天皇在位中の藤原忠平に始まり、天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)が摂政・関白に就きました。藤原北家の道長・頼通父子の2人で内覧・摂関が72年間続くと、道長の嫡流子孫である御堂流が摂関を継承することが当然視されます。

そのため藤原氏を母にもたない後三条天皇が即位した際も頼通の弟である教通が関白となり、御堂流でない母を持つ鳥羽天皇の代も頼通の曾孫である忠実が摂政となりました。これで外戚関係に関わらず御堂流が摂関に就くことが慣例化し、外戚関係と切り離された摂関の権力が弱体化して上皇による院政に実権が移ります。

平安時代末期に藤原忠通の嫡男基実が急死し、その子の基通がまだ幼少のため弟の基房が摂関の地位を継ぎ、摂関家が近衛流と松殿流に分立しました。戦乱によって基房、基通はともに失脚し基房の弟の兼実が関白となり、九条流摂関家が成立します。九条流は天皇の外戚としての血縁関係と、源氏の嫡流の絶えた鎌倉幕府の4代、5代将軍が九条家からの養子であったので、摂関家の地位を確かなものにしました。

この後、近衛流摂関家から嫡流の近衛兼平により鷹司家が成立、九条流摂関家から実経による一条家と良実による二条家が成立し、建長4年(1252年)に鷹司兼平が摂政・太政大臣、藤氏長者宣下を賜ったことにより、近衛兼経、九条教実、二条良実、一条実経とともに「五摂家」と呼ばれる家格が整います。

これ以降五摂家当主が順に摂政または関白、藤氏長者ととなり、五摂家は他の公家とは別格の高い地位を占め、清華家以下の公家は政治の権力からは遠ざけられて、それぞれに極めるべき家道(陰陽道や書道、華道、香道、和歌、雅楽楽器、蹴鞠など)の「家元」となっていきます。近代の華道、茶道などの家元制度は、江戸時代中期以降武家に公家文化を取り入れる風潮が盛んになり、公家文化を受け入れる富裕な町人層が爆発的に増えたためです。

江戸幕府による禁中公家諸法度が成立すると、摂政・関白は幕府の推薦を要することになります。摂家は7歳前後で元服、正五位下または従五位上に叙任され、近衛権少将が初任で、近衛権中将、権中納言、権大納言兼近衛大将から大臣を経ることになっていて、この間三位までは越階による叙任がなされ、官職では権中納言・権大納言・大臣の欠員がない場合、清華家以下の公家から1名を更迭してその後に据えました。

禁中並公家諸法度の宮中席次は摂関・三公・宮家・その他公卿の順で、皇族である宮家より人臣である摂家が上座でした。摂家はその貴種性を維持するため、自家に相続人がなければ摂家もしくは皇族から養子を迎えて後を継がせ、清華家以下の家格の公家が摂家を相続することは許されませんでした。

天皇の正式な配偶者と呼ぶべき皇后・中宮は、皇族および将軍家を例外として摂家のみから出されました。摂家以外の女性が次期天皇を生んでも皇后・中宮の実子とされ、産んだ女性は母親とは認められない場合もありました。

第8条は改元の規定で、漢朝の年号の内より吉例を以て定めますが幕府の承認を要し、第10条は公家衆の官位昇進の規定です。第11条は関白・武家伝奏(てんそう)・職事(しきじ)等の申渡(もうしわたし)の遵守規定で、違背すれば流罪たるべきことが明記されています。第13条は門跡の座次規定、第14条は僧正(そうじょう)の任官規定、第15条は門跡及び院家(いんげ)の僧官・僧位規定、第17条は上人(しょうにん)号の任用規定です。

徳川家は豊臣家を滅ぼした機を逸せず、大坂夏の陣の翌々月元和元年(1615年)7月7日に将軍秀忠が諸大名を伏見城に集めて「武家諸法度」13か条を頒(あか)ち、17日に二条城で禁中公家諸法度に昭実・秀忠・家康の花押が据えられ、24日に「諸宗本山本寺法度」が発布され、30日には公家衆・諸門跡全員を禁中に集めて「禁中并公家中諸法度」が示されます。「武家諸法度」「禁中井公家中諸法度」「諸宗本山本寺法度」が三者一体のものとして発布されたのです

禁中公家諸法度について従来第1条が問題にされてきました。天皇の行動の規定が不当であるとの指摘や、天皇を和歌や綺語(きご)の学問にのみ誘導するものとして問題視されたのですが、この条文はほぼ全文が順徳天皇の著になる「禁秘抄」(1221年)の中の「諸芸能事」からの引用で、しかも御学問の具体的な内容が唐代の「貞観政要」や「群書治要」など、為政者たる君主として身につけておくべき学問の勧めで、非政治的な性格のものではありません。

したがってこのことを第1条に記したのは、君主としての務め、位置づけを明確に規定することによって、規定されていない部分、すなわち、大政は君主の務めではなく、天皇を君主として位置づけはするものの、大政は幕府の権限であることになります。

徳川幕府は関ヶ原の戦いの翌月慶長5年(1600年)10月に朝廷及び公家社会の秩序回復を図り、公家領の録上を行い、翌年には禁裏御料をはじめとして女院・宮家・公家・門跡に対する知行の確定をしています。また武家官位の員外官化と公家官位からの分離は、慶長11年(1606年)4月に導入されていた武家官位推挙の江戸幕府への一本化と併せて豊臣政権の官位制度を解体し、徳川氏一門を唯一の武家公卿とする原則が確立されました。

江戸幕府は禁中公家諸法度により京都所司代を通じて朝廷の行動全般を幕府の管理下に置き、摂政・関白が朝議を主宰しますが、朝議の決定は武家伝奏を通じて幕府の承諾を得て初めて施行できるものとし、摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定の過程から排除され、朝廷の運営が幕府の方針に忠実に行われることを求めました。

朝廷への統制

これは、当然、朝廷と幕府の対立を生むきっかけになります。後陽成天皇は第1皇子の良仁親王を廃し、弟宮の八条宮智仁親王を立てることを望んでいましたが、新たに権力の座を手に入れた徳川家康も皇位継承に介入し、次期天皇として第3皇子の政仁親王の擁立を求めました。後陽成天皇は最終的にこれを受け入れ、慶長16年(1611年)4月12日政仁親王が後水尾天皇になりますが、後陽成上皇との不仲は天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず上皇の崩御まで続きました。

後水尾天皇の即位後、大御所家康は孫娘和子の入内を申し入れます。慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出されますが、大坂の陣や、家康の死去、後陽成院の崩御などで入内は延期されました。元和4年(1618年)に女御御殿の造営が開始されますが、天皇と寵愛の女官四辻与津子との間に皇子・皇女がいることが徳川秀忠に知られ入内が問題となります。

元和5年(1619年)9月15日秀忠が上洛し、和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共に与津子の振舞いを不行跡として追及しました。宮中の風紀の乱れの責任を問い、万里小路充房を丹波国篠山に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後国に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にしました。これに抗議して天皇は譲位しようとしますが、幕府は与津子の追放・出家を強要しました。

元和6年(1620年)6月18日和子が女御として入内し、秀忠は処罰した6名の赦免・復職の大赦を天皇に求め、寛永2年(1625年)11月13日皇子である高仁親王が誕生、寛永3年(1626年)10月二条城への行幸があり、徳川秀忠と家光が上洛し拝謁しました。

寛永4年(1627年)の紫衣事件、無位無冠の家光の乳母の福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに、天皇は寛永6年(1629年)11月8日幕府へ告げずに次女の興子内親王(明正天皇)に譲位しました。

後水尾天皇は譲位後、後光明・後西・霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を敷き、院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)将軍家光の上洛をきっかけに認めることになりますが、その後も上皇(法皇)と幕府との確執は続きます。東福門院(和子)に対する配慮から朝廷に対する幕府の圧力が続きましたが、幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めた背景には、家光の朝廷との協調姿勢とともに東福門院の擁護があったと云われます。

法王の晩年に霊元天皇の若年の不行跡が問題になると、法皇が天皇や近臣達を抑制し幕府が支援する動きがみられ、法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対し、延宝7年(1679年)幕府から役料支給がされます。後水尾法皇は延宝8年(1680年)85歳で崩御しました。

江戸時代を通じて幕府の禁中公家諸法度に抗した天皇は、家康の推挙で天皇となった最初の後水尾天皇と、「戊午の密勅」で安政の大獄のきっかけをつくった最後の孝明天皇の2人ですが、江戸時代を通じて天皇は君主であっても、大政の権限をもたなかったのは紛れもない事実です。

平氏による武家政権の誕生以来7百年間、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と、武家政権は大政の実権を天皇家には渡しておらず「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」となるのは、大日本帝国憲法が施行された明治23年(1890年)11月29日以降のことです。

 

 

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