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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

駆逐艦「雷」

2020-12-24 06:18:12 | 日記

駆逐艦「雷」(いかづち)は、1926年(大正15年)から1933年(昭和8年)までに24隻が就役した、日本海軍建艦史上最多シリーズの駆逐艦「吹雪型」の23番艦です。

駆逐艦 雷

工藤俊作(くどう しゅんさく)海軍中佐は少佐時代の1940年(昭和15年)11月から1942年8月まで雷の艦長を務め、太平洋戦争開戦翌年の1942年スラバヤ沖海戦で、撃沈されたイギリス海軍軍艦の漂流者422名を救助しました。

工藤俊作海軍中佐

このことは工藤本人からは家族にも語られたことがなく、雷に救助され戦後外交官として活躍したサミュエル・フォール卿(元英国海軍中尉)が、1987年にアメリカ海軍の機関誌の新年号に「武士道」と題する工藤艦長を讃えた7ページの投稿をした他、1996年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記し米英で称賛を呼びました。

フォール卿は工藤艦長のことを片時も忘れたことがなく、いつの日か直接会って礼を述べたいと工藤の消息を探っていましたが、2006年にこのことを取材した惠隆之介氏が「敵兵を救助せよ」を出版して、我が国でも知られるようになりました。

工藤艦長は身長185cm、体重95kgの堂々たる体格で性格はおおらかで温和、海兵51期、鈴木貫太郎校長の影響を受け、雷着任時に艦内での鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔てなく接して雷の乗組員は工藤を慈父のように慕ったと云います。

工藤艦長

1942年2月15日シンガポールが陥落し、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」はジャワ島スラバヤ港に逃れ、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦5隻、駆逐艦9隻からなる連合部隊を結成します。

この連合部隊に日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡2隻、駆逐艦14隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだスラバヤ沖海戦が2月27日から始まります。

3月1日午後2時過ぎに日本艦隊と英国重巡洋艦「エクゼター」駆逐艦「エンカウンター」が交戦し、両艦とも撃沈されて両艦艦長を含む乗員420余名が海上を21時間漂流しました。

「友軍が間もなく救助に来る」と互いに励ましあっていた希望も絶たれ、彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染されて、灼熱の太陽、サメの恐怖で衰弱し生存の限界に達していました。

翌2日午前10時頃雷は同海域でこの漂流者を発見、工藤艦長は見張りの報告「左30度、距離8,000、浮遊物多数」の第一報でこの漂流者を双眼鏡で視認、救助を命じました。雷は「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令官高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と打電します。

撃沈された駆逐艦エンカウンターの士官だったフォール卿は当時を回想して「間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したと話します。ところが雷のマストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ、救助艇が降ろされて乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているのかと思い、何度も自分の手をつねった」と云います。雷はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助し、120名乗員の駆逐艦に敵将兵422名を収容しました。

当時21歳で一等水兵だった佐々木確治氏が回想します。筏が艦側に近づいてきたので「上がれ」と怒鳴り、縄梯子を降ろしましたが誰も上がろうとしません。敵側から「ロープ送れ」の手信号があったのでロープを降ろすと筏上のビヤ樽のような高級将校にそれを巻き付け、上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げたら、この人はエクゼター副長で怪我をしておりました。それからエクゼター艦長、エンカウンター艦長が上がってきました。 

その後敵兵はわれ先に雷に殺到してきて一時パニック状態になりましたが、青年士官らしき者が後方から号令をかけると整然となりました。この人は独力で上がれない負傷者の体にわれわれが差し出したロープを手繰り寄せて巻き、引けの合図を送って多くの者を救助しておりました。さすがイギリス海軍士官だと思ったそうです。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守り、艦に上がってきた順序は最初がエクゼター、エンカウンター両艦長、続いて負傷兵、その次が士官、そして下士官兵、最後が青年士官でした。当初雷は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたのですが、彼らは頑として応じなかったのです。

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って雷の舷側に泳ぎ着き雷の乗組員が支える竹竿に触れると、安堵したのか殆どは力尽きて次々と海面下に沈んでいきます。これを見かねて2番砲塔の斉藤光一等水兵が海中に飛び込み、続いて2人がまた飛び込んで、立ち泳ぎをしながら重傷者の体にロープを巻き付けました。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は「重傷者は内火艇で艦尾左舷に誘導し、デリックを使って網で後甲板に釣り上げろ」と命じます。この期に及んでは敵も味方もなく、海軍軍人という国籍を超えた仲間意識が芽生えたのかもしれません。甲板上には負傷した英兵が横たわり、雷の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。

甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られましたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みし、その消費量は3tにもなりました。便意を催す者も続出し、工藤は右舷舷側に長さ4mの張り出し便所を設置させます。

フォール卿は当時の様子を語ります。「私は日本人は未開で野蛮という先入観を持っていました。雷を発見した時機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思ったのが、救助艇が降ろされ救助活動に入ったのです」。

「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水兵たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」。

「艦に近づき我々は縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。我々は油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず木綿のウエスとアルコールをもってきて、我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それはまったく思いもよらないことだったのです」。

「友情あふれる歓迎でした。私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと運動靴を支給され、甲板中央の広い処に案内されて丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私はこれは夢でないかと自分の手を何度もつねったのです」。

「間もなく、救出された士官たちは前甲板に集合を命じられました。キャプテン・シュンサク・クドウが艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました」。

キャプテンは流暢な英語でわれわれにスピーチをされたのです。「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」。

フォール卿はさらに目を潤ませて語ります「雷はその後も終日海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。この日雷は422名を救助したのです」。

工藤艦長は敵兵救助のために艦の停止と発進を繰り返し、重油で汚染された敵兵を洗浄するために真水を作って燃料を激しく消耗し、部下から上申されても「かまわん」と云い切っています。

海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲いました。1時間も経過すると身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができました。工藤艦長は甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませましたが、全甲板の主砲は使えなくなりました。

雷の上甲板面積は約1222㎡、この60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占め、実質的に使えるスペースは488㎡前後です。そこに400名以上の敵将兵とこれをケアーする雷の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭く、工藤艦長は20~30人の敵士官に雷の士官室を使用させました。

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日の夕刻、雷の近くで旗艦「足柄」にエクゼター、エンカウンターの両艦長を移乗させるよう命じました。移乗に当たって舷門付近で見送る工藤と両艦長はしっかりと手を握り、高橋中将は足柄艦橋から双眼鏡で接近中の雷を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに唖然としました。

この時工藤と同期の艦隊参謀の山内栄一中佐が高橋中将に「工藤は兵学校時代からのニックネームが大仏であります。非常に情の深い男であります」と伝えたと云います。

救助された英兵たちはバンジェルマシンに停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡され、移乗する際士官たちは雷のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにしました。兵は雷に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していました。

重傷者は担架で移乗しましたが、工藤は負傷したエグゼターの副長を労り艦内では当番兵をつけて身の回りの世話をさせていました。副長も涙をこぼしながら工藤の手を握り感謝の意を表明したと云います。

フォール卿はこの工藤艦長の恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきましたが、1987年(昭和62年)に工藤が他界していた事を知ると、自身の齢もすでに84歳を数えることもあり人生の締めくくりとして意を決して来日しました。

2003年(平成15年)10月19日元海軍中尉フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚監部は、海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」に卿を招きました。

フォール卿は「いかづち」の士官室で戦時中を振り返り「自分や戦友の命を救ってくれた雷艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語りました。

来日はしてみたものの目的であった艦長の墓参と遺族に感謝の意を表明する積年の願いは叶えられず、フォール卿は「敵兵を救助せよ」の著者恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国します。フォール卿から依頼を受けた恵氏が2004年12月に墓所の所在を見つけ出しました。

その後「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、駐日イギリス大使館附海軍武官護衛艦いかづち」乗員らの付き添いのもと、2008年12月7日に66年の時を経て埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。

この時行われた記者会見でフォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っています。

来日墓参したフォール卿(元英国海軍中尉)

戦後工藤は海上自衛隊やクラスが在籍する大企業からの招きも全部断わり、クラス会にも出席しませんでした。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まり、楽しみは毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることで、1979年(昭和54年)78歳の生涯を静かに閉じました。工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っています。

1941年(昭和16年)12月10日開戦の2日後、日本海軍航空部隊は英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の不沈戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈しました。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めましたが、日本の航空隊は救助活動が始まると一切妨害せず、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも上空から視認していましたが攻撃をしませんでした。こうした日本海軍の武士道は英国海軍の将兵を感動させています。

2月27日午後5時から始まったスラバヤ沖海戦で日本海軍が撃沈した敵艦隊の海上に浮遊する敵兵を救助したのは、雷の422名だけはありません。

スラバヤ沖海戦

2月28日「エクゼター」は「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛にしてインド洋のコロンボへと逃亡を図りましたが、2月28日午後12時35分「電」(いなづま)は指揮官旗を翻すエクゼターに砲撃を開始し、エクゼターはボイラー室に被弾して航行不能となり、午後1時10分「撃ち方止め」の号令のもと電から敵艦に降伏を勧告する信号が送られました。

艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、マストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、エンカウンターとポープはこの場を離れ、エクゼターの乗組員たちは次々と海中に飛び込み日本艦隊に向かって泳ぎ始めたのです。

エクゼターではプリンス・オブ・ウェールズ沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあって、士官が兵たちに「万一の時は日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」と話していたそうです。

電は傾いたエクゼターに魚雷を発射してとどめを刺し、電艦内に「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は一斉に挙手の礼をしました。

「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出され、電によって救助されたエクゼター乗組員は376名に上りました。この他にも重巡羽黒は20名、駆逐艦「雪風」は40名、「江風」が37名、「初風」が39名、「山風」は67名を救助しています。

3月2日2回目の救助活動で那智は50名を救助し「妙高」、「足柄」他の艦も漂流者を収容しています。3月3日午前6時半に乗員を涼ませるため浮上していた連合国潜水艦に足柄が高角砲射撃を行い、海に飛び込んだ潜水艦乗員たちも駆逐艦「潮」が救助しました。

戦中、戦後の我が国の歴史はGHQによって閉ざされ、近年やっとその間の歴史を詳しく知ることができるようになりましたが、第二次世界大戦中に帝国海軍が撃沈した敵艦の将兵の多数を救助し、海外で武士道と讃えられていた行為があったことがやっと我が国に伝わったのです。一人でも多くの日本人がこのことを知って、日本民族の誇りを取り戻したいものです。

 

 

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