gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

国産種子島銃 

2024-06-06 06:13:55 | 日記

我が国に火縄銃が伝来したのは1543年(天文12年)大隅国の種子島に南蛮船が漂着したことによります。インドを出て中国へ向かっていた南蛮船が、台風で種子島最南端の門倉岬に漂着したのです。

船に乗っていたポルトガル商人が火縄銃を持ち込んでいることが分かり、南蛮人が射撃の実演をして見せると、初めて火縄銃に出会った種子島の人々は雷のように轟く発射音に驚かされました。

火縄銃の威力を直に目にした種子島領主の「種子島時尭」(たねがしまときたか)は、父の「種子島恵時」と共に1挺1,000両で2挺の火縄銃を購入しました。これが日本に伝来した最初の火縄銃で、時尭は種子島在住の刀鍛冶「八板金兵衛」に鉄砲の複製を命じます。

種子島は良質な砂鉄の産地で多くの刀鍛冶がおり、金兵衛は島の刀鍛冶をまとめる「総鍛冶」を務めていた41歳の仕事盛りでした。金兵衛らは苦心の末2年後の1545年(天文14年)に日本初の国産鉄砲を完成させ、これが基になって種子島から日本各地へ国産の火縄銃が広まります。

金兵衛が買い取った火縄銃を調べたところ、銃身の末端に尾栓のネジが使われていました。尾栓とは銃筒の末端を密閉するネジで、ネジが蓋の役目を果たしていたのですが、当時の日本にはネジと云うものがありませんでした。

金兵衛は苦心の末、数か月後には寸分たがわないコピー銃をつくり上げましたが、ただ一つ、どうしてもコピーできないものがあり、それが銃底を塞ぐ尾栓の「雌ネジ」でした。「雄ネジ」は糸を螺旋状に捲いてヤスリで仕上げるとか、三角形状の針金を捲いて溶着させる等の方法が計れましたが、このナットの雌ネジ切りがどうしてもコピーできませんでした。

やむなく銃身の底を焼き締めて鍛接した三十丁をつくりましたが、この複製銃は銃底に溜まった火薬のカスを取り除くことができず、十発も撃てばカスが一杯に溜まります。また、銃腔の真直度が鍛接時に歪んでも、それが修正出来ず、導火孔が目詰まりするため不発や暴発を引き起こす欠陥銃でした。

ですが屋久島が薩摩から攻められた際に、種子島勢はこの欠陥銃を用いて十倍の薩摩勢を破り圧倒的な勝利を得ました。しかし鍛接部がはずれるために肩を砕く事故もあって、ネジの開発が強く求められます。

これを解決したのは「お金」です。雌ネジを製作する技術が高く売れるとみて、ポルトガル人が寧波より鉄砲鍛冶を連れて再び種子島に来ました。製造方法は鍛冶説と切削説の2つがあり、どちらが先だったのかは分かっていません。

種子島では金兵衛が娘の若狭をポルトガル人に嫁がせて、真赤に焼いた銃筒に雄ネジを入れて叩き出す秘法を手に入れたと伝えられていますが、この話は口伝えのみで、立証する資料や記録は残っていません。

この八板金兵衛が作ったとされる火縄銃は、種子島にある「種子島開発総合センター 鉄砲館」に展示されています。

国産火縄銃 種子島 

有形文化財(工芸品) 種子島開発総合センター鉄砲館

種子島時尭が買い取った2挺の火縄銃のうち、他の1挺は薩摩藩主「島津義久」に贈られ、義久はそのまま室町幕府12代将軍「足利義晴」に献上、義晴はその火縄銃を近江の国友(現長浜市)の刀匠に貸与し、複製を作るよう命じます。

国友の職人は半年ほどで2挺の火縄銃を作り上げて、種子島と同じく火縄銃の国産化を果たしました。国友は後に織田信長に占領された際に専門の鉄砲鍛冶町となり、日本最大の鉄砲生産地として発展しました。

種子島に伝わった火縄銃は瞬く間に日本各地に広まります。史料で確認される限り実戦で使われたのは、種子島に火縄銃が伝来して6年後の1549年(天文18年)薩摩の「島津貴久」が「加治木城」(鹿児島県姶良市)の「肝付兼演」を攻め落とした「黒川崎の戦い」でした。

東国の甲斐の武田軍に火縄銃が登場したのは1550年(天文19年)の「第二次川中島の戦い」で、300挺が用意されました。「武田信玄」が鉄砲を軍役として負担させたのは1558年(弘治4年)で、鉄砲が伝来してから十数年で全国に鉄砲が広まっていたことが分かります。

主力の武器として火縄銃が使われたのは「長篠の戦い」です。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは「織田信長」と「徳川家康」率いる連合軍が、3,000挺の火縄銃で一斉射撃を行ない、敵の武田軍の騎馬隊を敗走させました。日本は火縄銃の伝来からわずか30年で、火縄銃を開発したヨーロッパよりも数多くの火縄銃を保有する国になっていたのです。

戦国時代の火縄銃は、まだ、薬莢が存在しておらず、銃口から装薬と弾丸を入れ、銃身に備え付けてあるカルカと云う棒で銃身の奥に押し込んで弾丸を装填していました。

点火装置となる火縄は火縄通しの穴に挟んで固定しておきます。引き金を引くと、弾金(はじきがね)の力で火ばさみの先が火皿に打ち付けられるので、火皿に置かれた点火薬から銃身内の装薬に着火し弾丸が発射されるしくみでした。

日本に伝来した火縄銃には「施条」(しじょう)が施されていません。施条とは銃身内部に刻まれた螺旋状の溝のことで、銃身内で加速する弾丸に回転運動を加えて弾道を安定させる効果があります。施条と言う概念自体は15世紀前半のヨーロッパで考案されましたが、技術的な限界で普及していませんでした。

施条が施されていない火縄銃の命中精度は高くなく、天候によっても弾道や飛距離が左右されてしまいます。しかし戦国時代の鉄砲は騎馬の敵の進行を遅らせることなどに重点が置かれていたので、命中精度は重視されていませんでした。

当時の火縄銃の有効射程距離は100m以内で、厚さ3cmの板を打ち抜けたと云われています。さらに50m圏内であれば、甲冑を貫通するほどの威力がありました。熟練した射撃手なら8~9割の確率で命中させられたのです。

これほど急速に火縄銃の国産化が進んだのは、日本に古くから日本刀を作ってきた刀鍛冶をはじめ高度な技能を持つ職人が多くいたからです。日本刀の良質な鋼鉄を鍛えるノウハウは、伝来した火縄銃を基に日本独自の改良を加えて「種子島銃」と呼ばれる国産火縄銃を作り上げるのに不可欠でした。

火縄銃の構造

日本全国から刀鍛冶や金属加工の職人が種子島に渡り鉄砲の製造技術を習得して、各地で鉄砲が生産されるようになり、特に和泉国堺の「堺衆」、紀伊国の「根来衆」、近江国の「国友衆」らによる鉄砲の製造は合戦を大きく変えました。

堺衆の一人で鉄砲技術の習得に種子島まで渡った「橘屋又三郎」は、鉄砲の製造だけでなく販売も手掛けるようになり、堺は優れた鉄砲生産地として知られるようになります。

戦国時代の堺は交易によって物や情報が集まる港町で、日本を訪れた南蛮人と直接交流を持てる場所でした。早くから堺の南蛮貿易に注目していた信長は1568年(永禄11年)堺を直轄地にします。

信長は堺の「会合衆」による自治を認め、鉄砲の製造を優遇して大量生産させるに留まらず、火薬の原料である硝石や弾丸に使用する鉛なども輸入していました。

火薬を作るのに必要な材料は主に硝石と硫黄で、我が国は硫黄を大量に産出していましたが、当時、硝石を取ることはできていませんでした。また鉛は日本でも取れていましたが、弾丸には外国産を使用していたようです。

信長は堺衆に加え近江国の国友衆にも鉄砲を大量に発注していますが、鉄砲が大量に投入された「長篠の戦い」の跡地からは、タイや中国産の鉛玉が多数出土しています。信長は堺の商人達と結んで、鉄砲に必要な資材が自分の手もとに集中する経路を整えていたのです。

1575年(天正3年)の「長篠の戦い」は誰もが知る織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との戦いです。両軍の総数は諸説ありますが、織田・徳川軍30,000、武田軍15,000、投入された鉄砲の数は3,000挺とされてきました。近年の研究では1,000挺ほどだろうと云う指摘もありますが、保有されていた鉄砲が3分の1だったとしても、織田・徳川軍が鉄砲で圧勝したのに間違いはありません。

撃った弾丸が敵に当たらなくても、鉄砲の激しい発射音は人や馬に影響を与えました。音に慣れない馬が驚いて暴れれば、乗っていた武士や周囲の者に被害が及びます。長篠の戦いで有名な「三段撃ち」については、足軽が三段に別れてそれぞれ弾込めを終え、間を置かずに順番に射撃したものと考えられています。

長篠の戦 三段打ち

間断なく鉄砲を撃たれた武田軍騎馬隊は、信長軍の鉄砲陣を突破できずに大敗しました。鉄砲が主要武器として効果があることが実証されたのは、この長篠の戦いでした。

武田軍も長篠の戦いでは当然鉄砲を保有していました。戦いの勝敗を分けたのは火薬と弾丸の総量です。国友衆に大量発注した鉄砲で連続射撃を行っても困らないほど充分な火薬と弾丸を、南蛮商人から輸入して備えていた信長が勝利したのでした。

平安時代から鎌倉時代まで、足軽は戦場で騎馬武者の従者や土木作業に従事していました。戦国時代を迎えて集団戦が大規模化すると、日頃から長槍隊・弓隊として訓練を受けている足軽が活躍し、次いで鉄砲足軽の兵力が戦の勝敗を大きく分けるまでになります。

鉄砲の扱いに長けた傭兵部隊として「根来衆」や「雑賀衆」がいます。「根来衆」は真言宗「根来寺」(和歌山県岩出市)の僧兵集団で、数百人規模の鉄砲隊を結成していました。

鉄砲が伝来した折に根来寺の僧兵の長「津田算長」(つだかずなが/さんちょう)が種子島に渡り、翌1545年(天文14年)に算長は紀州で第一号の国産銃を完成させました。算長は鉄砲の量産化に成功し「根来鉄砲隊」を結成して砲術の精度向上にも注力し「津田流砲術」の始祖となります。

「雑賀衆」は有力な地侍が形成した自治共同体の惣国(そうこく)に端を発する集団で、鉄砲は同じ紀伊国の算長らを通して持ち込まれたと考えられています。鉄砲を運用するための火薬の製造や、使用に関する「火術」なども身に付け、高い軍事力を有するようになりました。

雑賀衆は部隊ごとに独自の雇用先を選択することもあり、信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」では、信長に味方する部隊と、石山本願寺側に味方する部隊に分かれて激突、雑賀衆同士が戦うことも度々ありました。

足軽になったばかりの兵でも鉄砲は撃てましたが、日常的に射撃の訓練を積んだ者達の方が扱いに長けているのは当然です。根来衆や雑賀衆に求められたのは数を撃てば当たる一斉射撃ではなく、一発必中で目標に当てる巧みな技量でした。鉄砲隊の力量が勝敗を決するようになると、大名達は通常の足軽鉄砲隊とは技量に大きな差のある優秀な鉄砲集団を雇い入れます。

もともと根来衆と雑賀衆は大名家に属さない存在でしたが、鉄砲を大量に製造し砲術に磨きをかけたことで、戦いを生業とする組織的な鉄砲集団に発展したのです。

戦国時代に伝来した鉄砲は、軍隊の大規模化と陣形の集団化で合戦の在り方に変革をもたらし、長篠の戦いから25年後の「関ヶ原の戦い」に投入された火縄銃は、東軍西軍合わせて25,000挺と考えられており、戦国武将の間に広く普及していたことが分かります。

足軽など徒歩の兵力同士の合戦が中心となると、甲冑も重くて身動きの取りにくい「大鎧」に代わって、鉄砲に対応して軽量化した「当世具足」が考案されます。素材も革製から薄く伸ばした鉄を取り入れるなど鉄砲対策が行われました。

火縄銃に必要な火薬は「世界三大発明」の一つに数えられている人類史上重要な発明です。火薬の誕生は古代中国説や13世紀のヨーロッパ説、インドやアラビアが起源など諸説ありますが、本格的に火薬を銃に用いるようになったのは14世紀で、イタリア「モンテ・ヴァリーノ城跡」で簡素な作りの筒状の銃が発掘されています。

タンネンベルク・ガン

このような筒状の銃は15世紀にポーランドの「タンネンベルク城」でも発見され「タンネンベルク・ガン」と呼ばれます。この銃には火縄式の起源となる「タッチホール式」という発射方法が用いられていました。

我が国で火縄銃が普及したのは輸入品が普及したのではありません。輸入されたのは僅か2丁だけです。戦国の世に実戦で大量に使用された火縄銃は、すべて、我が国の職人たちの努力の賜物の国産品で、戦国時代の戦いを終わらせる重要な武器になったのです。

戦国時代末期の我が国には500,000挺もの火縄銃があったと推測されていますが、これは当時の欧米諸国の総保有数よりも多かったと考えられ、日本は驚くべきことに世界一の銃大国になっていたのです。

南蛮人が売り込みに来ても、南蛮銃に大幅な改良を加えた我が国の種子島銃にはまったく敵わず、種子島銃を仕入れて帰って高値で売り捌いて大儲けした話も伝わっています。

スペインに征服されたインカ帝国のように、たった168名の兵士と1門の大砲によって滅亡した多少の艦隊さえ送り込めば簡単に征服できた国々と異なり、世界を2手に別れて植民地化したスペイン、ポルトガルにも、征服の前段階として布教に従事した宣教師たちにも、500,000万挺の種子島銃を保有した我が国の軍事力が把握され、我が国の植民地化を諦めさせることに繋がったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする