ラオスの女たちは、まるっきり愛想がない。
宿でも、飯屋でも、雑貨屋でも、客である私に対して「サバイディー」という挨拶を寄越すどころか、にこりともしないのである。
たとえば、宿で「バスタオルがほしい」と頼めば、人の顔を無表情にじっと眺めて、うんともすんとも言わず、その場を離れる。
いったいどういうことなのだろうか、話は通じたのだろうかと不安な気持ちで部屋に戻ると、数分後にはちゃんとバスタオルを届けにくる。
食堂でも同じで、何かを注文してもうんともすんとも言わずにその場を離れる。だが、数秒後には、ちゃんとビアラオがテーブルに置かれるし、数分後には注文した料理がテーブルに並ぶ。
これが、たまたま一箇所での体験なら、別に目くじらは立てない。
だが、これまで10日間にわたってフェイサイ、パクベン、ルアンプラバーン(日本のガイドブックではルアンパバーンと表記している)、バンビエン、ビエンチャンと旅をしてきて、宿や飯屋などでかなりの数の女たちに接してきた結果の感想なのだから、決して短にして急なる決めつけではないと思う。
タイの女たちは、この点、賢い。
対応に困った場合、とにかく微笑むのである。
さらに、ワイ(合掌礼)という秘密兵器がある。
これをやられると、相手の腹の中はともかく、こちらとしてもついつい掌を合わせ、微笑み返したくなるのである。
もっとも、ラオスの女たちも決して笑わないわけではない。
少し打ち解けると、すばらしい笑顔を見せる女たちもいる。
だが、総じて愛想にかけることは否めない。
タイとラオスの国境沿いを旅しながら、何かと両国の共通点を痛感する機会が多いのだが、女たちの大きな違いには今のところ首をひねるばかりである。
*
ビエンチャンに着いた日の翌朝(16日)、そんなことを考えながら国境のメコン川を渡ってタイのノンカーイに入った。
有名なガイドブックには「両国を結ぶ友好橋が歩いて渡れる」とあったが、尋ねてみると専用バス(4000キップ)でしか渡れないという。
イミグレーションでの行列をも厭わず、わざわざタイに戻ったのは、もちろんラーの窮状を救うためである。
私自身が今すぐパーイやチェンマイに戻ることはできないけれど、病院費を立て替えてくれた宿の支配人に送金し、ラーをオムコイの村に送り返してもらわなければならない。
もしも、先々パーイでラーとマッサージ店を共同経営でもすることになれば、支配人とは友好関係を保っておく必要がある。
村に帰れば、彼女の姉妹や甥たちが病気の彼女の面倒を見てくれるだろう。
ラー自身もそれを望み、私に助けを求めた。
?まあ、女を助けるために国境を越えるというシチュエーションは、男としてそれほど悪くはない?
苦笑まじりに、そんな馬鹿なことを呟きながらイミグレーションを通過してタクシーを拾うと、いきなり現実に引き戻された。
「バンコク銀行まではとても遠い」と言って、運転手は100バーツを請求したのだったが、走ってみるとあっという間に着いてしまい、思わず「この嘘つきめ!」とタイ語で怒鳴ってしまったのである。
チェンマイでの感覚なら60バーツというところだが、10日ほどタイを離れただけで金銭感覚が鈍ってしまった自分に、少しだけ腹が立った。
*
送金を済ませて、食堂で腹ごしらえをすることにした。
そこには、愛想が良すぎるほど良すぎて、しかも片言の日本語をしゃべるおばさんがいて、アジの塩焼きやグリーンカレー、ポークの野菜煮、なにやら得体の知れない惣菜を勧めまくる。
ラオスの女たちのぶすっとした表情にうんざりしていた私は、思わず微笑の罠にはまってしまい、食べきれぬほどの惣菜をつまみに、久々のビアシン(獅子印ビール)を楽しむことになった。
ビールを飲みながら、ラーに電話をかける。国内電話だから、気が楽だ。
「ヘイ、その後具合はどうだ?」
「前より、ずいぶん良くなった」
「昨日はビエンチャン入りが遅くなって電話できなかったけれど、さっきノンカーイに入って、バンコク銀行から送金したから」
「ありがとう!じゃあ、病院費が払えるんだね?」
「ああ、大丈夫だ。すぐに支配人に話して、手続きを済ませてもらうんだ」
「分かった、本当にありがとう」
「食事はとれてるか?」
「ううん、ミルクだけ。夕べは宿の女の子が野菜を料理してくれて、かなり食べることができたんだけど」
「とにかく、少しでもいいから食べるようにするんだ。で、村にはいつ帰る?」
「たぶん、あさって。支配人も、具合が良くなったらまた戻ってくるように言ってくれてる。たぶん、来月にはパーイに戻れるかな」
「そのときは、俺も一緒に行けるかもしれないな」
「本当に?いつチェンマイに戻ってくるの?」
ビアシンに酔ったせいか、思わず防御が甘くなってしまった。
だが、ラーに対して気持ちが柔らかくなっているのは確かなようだ。
少し、脇を引き締める。
「まだ、分からない。俺はまだ怒っているんだ。あのことは絶対に忘れないぞ。あのことを思い出すと、俺はお前さんを殺したくなるんだ」
だが、声からは怒りが消えている。
ラーもそのことを察したのか、いつものラーに戻ってしまった。
「わたしを殺したいの?殺して、殺して。わたしもあなたを殺したい、ベッドの中で・・・」
「バカヤロー、調子に乗るんじゃない!」
だが、しまいには二人で大笑いしてしまった。
いやはや。
まったく。
男と女というやつは・・・。
*
メコン川沿いに伸びた市場と遊歩道を歩き、久々にタイのお寺にお参りしてからビエンチャンに戻った。
パリの凱旋門を模した戦没者祈念門(パトウサイ)の頂上まで上り、ビエンチャンの町を一望する。
公園化された広場には大音量の音楽が流れ、これがなぜか往年のザ・ピーナッツを思わせる歌いぶりで、新しいサンダルのせいで豆のできた足をさすりながら、思わず聞き惚れてしまった。
チャイナポップスに続き、タイポップス、ラオスポップス、恐るべしである。
その後、長途メコン川まで歩き、川沿いの一番素朴な屋台を選んで、パパイヤサラダ、地鶏の丸焼き、もち米を食した。
フエイサイのときのように、携帯電波はメコン川を越えるかもしれないと思いラーに電話をかけてみたが、さすが首都、それほど甘くはなかった。
日が落ちると、蚊の大群に襲われた。
*
翌17日は、市内の見どころを訪ね歩いた。
国立博物館、ワット・シーサケット(原形をとどめる最古の寺)、タット・ルアン(黄金の仏塔)、タラート・サオ(最大の市場)、ワット・フー・パケオ(最古の寺)。
合間にツーリスト・インフォに立ち寄り、これから向かおうとしているラオス南部の情報を仕入れた。
さすがに午後2時あたりになると日差しは厳しいが、木陰に入れば気温32度でも涼やかな風が走る。
夕食は、米でできた透明な皮を水で浸し、その上にレタス、香菜、ソーメン、豚ソーセージ、生にんにく、キューりなどを乗せていただく地元食を食したが、残念ながら、その料理名は忘れてしまった。
*
さて、本日18日である。
昨夜食した生にんにくのせいか、早朝から下痢。
朝飯は、ベトナムのフォーに似たうどんのような麺類を食した。
川沿いを歩き、迷い込んだ寺で若い僧に本堂の門をあけてもらい、仏像に三拝した。チェンマイでは、どこの寺に行っても本堂は開放されていたが、ラオスではいずれも施錠されており、気軽に仏像に参ることができない。それが、今ひとつラオスを好きになれない理由のひとつにもなっている。
ついでに、数軒の旅行代理店をのぞき、明日向かう予定のタケクへのバスチケットや発車時刻などを確認した。
発着は町から離れたバスターミナルで、そこに行くには往復10ドル近くも払わなければいけない。
そこで予約はあきらめ、明日の早朝、ぶっつけ本番で臨むことに決めた。
明日の予定が決まったら、気持ちがすっきりして、帽子の脇からはみ出た髪の毛もさっぱりしたくなった。
そこで宿に戻り、散髪屋の場所を尋ねた。
椅子に座ると、男が何も聞かずバリカンでばりばり削り、はさみでチョッキン。
所要時間、わずか7分。料金、14,000キップ(約160円)。
シャワーを浴びて、今度は近所のマッサージ屋へ。
「ラオス式伝統マッサージ」を所望し、1時間4万キップ(約500円)。
タイ式マッサージとほぼ大差はなかったが、タイ式よりもややソフトな揉み具合で、久しぶりに身体がほぐれていくのを感じた。
すっかりリラックスしたところで、近所の餃子屋へ。
豚肉とニラの水餃子にビアラオ、肉とザーサイラーメン(32,000キップ)を食した。
店の中に、巨大な蝶が紛れ込んできた。
店員が外に導いても、もう飛べないようだ。
ひとりで餃子を食していた中年の白人女性が、近くに寄って見守っている。
「もう、ほとんど死に掛けているようだね」
そう声をかけると、
「私は生命がどういうものか知っているわ。でも、やはり生命の終わりは見たくない・・・」
悲しそうに呟いて、首を横に振った。
その穏やかで明瞭な英語の発音と知的な言い回しと仕草に、ニューヨークのジュディを思い出した。
願わくば、ラーともこうした知的な会話を交わしたいものである。
*
さて、首都ビエンチャン最後の夜は、何を食そうか。
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宿でも、飯屋でも、雑貨屋でも、客である私に対して「サバイディー」という挨拶を寄越すどころか、にこりともしないのである。
たとえば、宿で「バスタオルがほしい」と頼めば、人の顔を無表情にじっと眺めて、うんともすんとも言わず、その場を離れる。
いったいどういうことなのだろうか、話は通じたのだろうかと不安な気持ちで部屋に戻ると、数分後にはちゃんとバスタオルを届けにくる。
食堂でも同じで、何かを注文してもうんともすんとも言わずにその場を離れる。だが、数秒後には、ちゃんとビアラオがテーブルに置かれるし、数分後には注文した料理がテーブルに並ぶ。
これが、たまたま一箇所での体験なら、別に目くじらは立てない。
だが、これまで10日間にわたってフェイサイ、パクベン、ルアンプラバーン(日本のガイドブックではルアンパバーンと表記している)、バンビエン、ビエンチャンと旅をしてきて、宿や飯屋などでかなりの数の女たちに接してきた結果の感想なのだから、決して短にして急なる決めつけではないと思う。
タイの女たちは、この点、賢い。
対応に困った場合、とにかく微笑むのである。
さらに、ワイ(合掌礼)という秘密兵器がある。
これをやられると、相手の腹の中はともかく、こちらとしてもついつい掌を合わせ、微笑み返したくなるのである。
もっとも、ラオスの女たちも決して笑わないわけではない。
少し打ち解けると、すばらしい笑顔を見せる女たちもいる。
だが、総じて愛想にかけることは否めない。
タイとラオスの国境沿いを旅しながら、何かと両国の共通点を痛感する機会が多いのだが、女たちの大きな違いには今のところ首をひねるばかりである。
*
ビエンチャンに着いた日の翌朝(16日)、そんなことを考えながら国境のメコン川を渡ってタイのノンカーイに入った。
有名なガイドブックには「両国を結ぶ友好橋が歩いて渡れる」とあったが、尋ねてみると専用バス(4000キップ)でしか渡れないという。
イミグレーションでの行列をも厭わず、わざわざタイに戻ったのは、もちろんラーの窮状を救うためである。
私自身が今すぐパーイやチェンマイに戻ることはできないけれど、病院費を立て替えてくれた宿の支配人に送金し、ラーをオムコイの村に送り返してもらわなければならない。
もしも、先々パーイでラーとマッサージ店を共同経営でもすることになれば、支配人とは友好関係を保っておく必要がある。
村に帰れば、彼女の姉妹や甥たちが病気の彼女の面倒を見てくれるだろう。
ラー自身もそれを望み、私に助けを求めた。
?まあ、女を助けるために国境を越えるというシチュエーションは、男としてそれほど悪くはない?
苦笑まじりに、そんな馬鹿なことを呟きながらイミグレーションを通過してタクシーを拾うと、いきなり現実に引き戻された。
「バンコク銀行まではとても遠い」と言って、運転手は100バーツを請求したのだったが、走ってみるとあっという間に着いてしまい、思わず「この嘘つきめ!」とタイ語で怒鳴ってしまったのである。
チェンマイでの感覚なら60バーツというところだが、10日ほどタイを離れただけで金銭感覚が鈍ってしまった自分に、少しだけ腹が立った。
*
送金を済ませて、食堂で腹ごしらえをすることにした。
そこには、愛想が良すぎるほど良すぎて、しかも片言の日本語をしゃべるおばさんがいて、アジの塩焼きやグリーンカレー、ポークの野菜煮、なにやら得体の知れない惣菜を勧めまくる。
ラオスの女たちのぶすっとした表情にうんざりしていた私は、思わず微笑の罠にはまってしまい、食べきれぬほどの惣菜をつまみに、久々のビアシン(獅子印ビール)を楽しむことになった。
ビールを飲みながら、ラーに電話をかける。国内電話だから、気が楽だ。
「ヘイ、その後具合はどうだ?」
「前より、ずいぶん良くなった」
「昨日はビエンチャン入りが遅くなって電話できなかったけれど、さっきノンカーイに入って、バンコク銀行から送金したから」
「ありがとう!じゃあ、病院費が払えるんだね?」
「ああ、大丈夫だ。すぐに支配人に話して、手続きを済ませてもらうんだ」
「分かった、本当にありがとう」
「食事はとれてるか?」
「ううん、ミルクだけ。夕べは宿の女の子が野菜を料理してくれて、かなり食べることができたんだけど」
「とにかく、少しでもいいから食べるようにするんだ。で、村にはいつ帰る?」
「たぶん、あさって。支配人も、具合が良くなったらまた戻ってくるように言ってくれてる。たぶん、来月にはパーイに戻れるかな」
「そのときは、俺も一緒に行けるかもしれないな」
「本当に?いつチェンマイに戻ってくるの?」
ビアシンに酔ったせいか、思わず防御が甘くなってしまった。
だが、ラーに対して気持ちが柔らかくなっているのは確かなようだ。
少し、脇を引き締める。
「まだ、分からない。俺はまだ怒っているんだ。あのことは絶対に忘れないぞ。あのことを思い出すと、俺はお前さんを殺したくなるんだ」
だが、声からは怒りが消えている。
ラーもそのことを察したのか、いつものラーに戻ってしまった。
「わたしを殺したいの?殺して、殺して。わたしもあなたを殺したい、ベッドの中で・・・」
「バカヤロー、調子に乗るんじゃない!」
だが、しまいには二人で大笑いしてしまった。
いやはや。
まったく。
男と女というやつは・・・。
*
メコン川沿いに伸びた市場と遊歩道を歩き、久々にタイのお寺にお参りしてからビエンチャンに戻った。
パリの凱旋門を模した戦没者祈念門(パトウサイ)の頂上まで上り、ビエンチャンの町を一望する。
公園化された広場には大音量の音楽が流れ、これがなぜか往年のザ・ピーナッツを思わせる歌いぶりで、新しいサンダルのせいで豆のできた足をさすりながら、思わず聞き惚れてしまった。
チャイナポップスに続き、タイポップス、ラオスポップス、恐るべしである。
その後、長途メコン川まで歩き、川沿いの一番素朴な屋台を選んで、パパイヤサラダ、地鶏の丸焼き、もち米を食した。
フエイサイのときのように、携帯電波はメコン川を越えるかもしれないと思いラーに電話をかけてみたが、さすが首都、それほど甘くはなかった。
日が落ちると、蚊の大群に襲われた。
*
翌17日は、市内の見どころを訪ね歩いた。
国立博物館、ワット・シーサケット(原形をとどめる最古の寺)、タット・ルアン(黄金の仏塔)、タラート・サオ(最大の市場)、ワット・フー・パケオ(最古の寺)。
合間にツーリスト・インフォに立ち寄り、これから向かおうとしているラオス南部の情報を仕入れた。
さすがに午後2時あたりになると日差しは厳しいが、木陰に入れば気温32度でも涼やかな風が走る。
夕食は、米でできた透明な皮を水で浸し、その上にレタス、香菜、ソーメン、豚ソーセージ、生にんにく、キューりなどを乗せていただく地元食を食したが、残念ながら、その料理名は忘れてしまった。
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さて、本日18日である。
昨夜食した生にんにくのせいか、早朝から下痢。
朝飯は、ベトナムのフォーに似たうどんのような麺類を食した。
川沿いを歩き、迷い込んだ寺で若い僧に本堂の門をあけてもらい、仏像に三拝した。チェンマイでは、どこの寺に行っても本堂は開放されていたが、ラオスではいずれも施錠されており、気軽に仏像に参ることができない。それが、今ひとつラオスを好きになれない理由のひとつにもなっている。
ついでに、数軒の旅行代理店をのぞき、明日向かう予定のタケクへのバスチケットや発車時刻などを確認した。
発着は町から離れたバスターミナルで、そこに行くには往復10ドル近くも払わなければいけない。
そこで予約はあきらめ、明日の早朝、ぶっつけ本番で臨むことに決めた。
明日の予定が決まったら、気持ちがすっきりして、帽子の脇からはみ出た髪の毛もさっぱりしたくなった。
そこで宿に戻り、散髪屋の場所を尋ねた。
椅子に座ると、男が何も聞かずバリカンでばりばり削り、はさみでチョッキン。
所要時間、わずか7分。料金、14,000キップ(約160円)。
シャワーを浴びて、今度は近所のマッサージ屋へ。
「ラオス式伝統マッサージ」を所望し、1時間4万キップ(約500円)。
タイ式マッサージとほぼ大差はなかったが、タイ式よりもややソフトな揉み具合で、久しぶりに身体がほぐれていくのを感じた。
すっかりリラックスしたところで、近所の餃子屋へ。
豚肉とニラの水餃子にビアラオ、肉とザーサイラーメン(32,000キップ)を食した。
店の中に、巨大な蝶が紛れ込んできた。
店員が外に導いても、もう飛べないようだ。
ひとりで餃子を食していた中年の白人女性が、近くに寄って見守っている。
「もう、ほとんど死に掛けているようだね」
そう声をかけると、
「私は生命がどういうものか知っているわ。でも、やはり生命の終わりは見たくない・・・」
悲しそうに呟いて、首を横に振った。
その穏やかで明瞭な英語の発音と知的な言い回しと仕草に、ニューヨークのジュディを思い出した。
願わくば、ラーともこうした知的な会話を交わしたいものである。
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さて、首都ビエンチャン最後の夜は、何を食そうか。
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