背後に、冠雪勇壮なる羅臼岳。
左手に、流氷覆い尽くす厳冬のオホーツク海。
自然滅茶苦茶にして暴利むさぼる卑俗極まる観光飯店(guanguang fandian:堕落観光ホテル)に続く氷結した坂道をゆるゆる登っていくと、右手の雪に覆われた急斜面から角のない小柄な蝦夷鹿ちゃんが滑り落ちてきた。
おそらく、今年生まれたばかりのゼロ歳児。人間ならまだ母の乳に縋りつくしか能のない小宝宝(xiaobao . . . 本文を読む
紹興の水路は、雨に煙っていた。
“秋風秋雨、人を愁殺す”
福建省に生まれ、7歳で封建制度象徴・纏足(chanzu)を受けた秋瑾(qiujin)は、16歳のとき両親の故郷である紹興に移り住む。
22歳のとき、親が勝手に決めし資産家馬鹿息子と結婚するが、女性解放思想をもつ良き朋友(pengyou:友達)との出会いを契機に夫と二人の幼な子を捨て、決然と日本に赴いた。
1904年、秋瑾30歳夏のこ . . . 本文を読む
大家、晩上好!(皆の衆、今夜はご機嫌如何?)
中国は、いま春節(正月)真っ盛り。
爆竹、花火が夜の街を彩り、祖父母を日本軍に虐殺された心優しき朋友たちは、平和と友好への願いを込め、街一面を覆う白煙と火花を冗談めかして“爆撃”と呼びつつ「乾杯!」「乾杯!」の盃を重ねます。beiai(悲哀)也!
新年好了!再見! Jitian(吉田)
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目が覚めた。午前4時半。眠った。およそ、4時間。たぶん・・・。
確実に覚えているのは、昨夜遅く眠剤なしでベッドに倒れ込んだということだけだ。
眠れた。久々に、眠剤に頼ることなく。
「イク、やったぞ!」
東北は岩手・水沢の義姉夫婦の家では、確か1時間半。共にぼろぼろに疲れ果てた結果とはいえ、薬なしで眠れる時間が少しずつ延びているという事実は私の心を軽くした。
やけに広い窓のカ . . . 本文を読む
1月12日付けのブログで奥多摩大岳山で風に乗せた話を書いたら、幾人かの人にその理由を尋ねられた。
答えは、簡単だ。
まず、空気の澄んだ日にはいつでもわが家の2階物干場からその独特の山貌を眺めることができる。左手に富士、右手に秩父連峰。夕陽でも落ちかかれば、息を呑むほどの絶景である。
次ぎに、わが家から車で1時間半で行けること。いつでも日帰り山行可能である。
私は奥多摩御岳渓谷での川 . . . 本文を読む
作家・松下竜一といえば、たいていの人はテレビドラマにもなった『豆腐屋の四季』を思い浮かべるらしい。
短歌を軸に構成された『豆腐屋の四季』は、高校卒業を待って結ばれた愛妻・洋子さんへの極上の相聞歌だが、その“べた惚れ”ぶりは昨年6月に逝去されるまで一貫して変わることがなかった。
だが、終生根を張り続けた大分・中津の海を破壊する豊前火力発電所建設差し止め裁判を機に、松下さんは『草の根通信・ . . . 本文を読む
“六月の空気はうまし恋妻よ小鳥の声で話をしよう”
この強烈な相聞歌の存在を教えてくれたのは、1999年6月13日付け朝日新聞「折々のうた」の筆者である詩人・大岡信氏だった。
大岡氏によれば、歌人の筆名は“高辻郷子”と女性っぽいが、実は北の大地・網走で代々農業を営む骨太の男性歌人らしい。
この相聞歌にひとめ惚れした私はさっそく「折々のうた」を切り抜き、仕事場のボードに貼りだした。
カミ . . . 本文を読む
いまの僕にとって、世の中には2種類の人間しか存在しない。
“カミさんを現在形で語ることのできる人”と“語れない人”。
言葉を換えれば、僕とカミさんの関係を“理解できる人”と“できない人”だ。
おかげで、身辺がずいぶんとスッキリした。
大学時代に知り合った2人の友人とも、すっぱりと縁を切った。
たとえば、僕が信頼する3人の山仲間とカヌー仲間は、こんな風に言ってくれる。
“いまの幾 . . . 本文を読む
わが家から上尾を抜けて川越・八王子方面へ向かうと、荒川を渡る大橋の上から独特のぽっこりとしたふくらみを持つ山の頂が見える。
年末の快晴のある日、信頼する二人の友が見守るなかカミさんをそっと風に乗せた奥多摩大岳山だ。
左手に、雪をいただいた雄大な富士。さらに、左手には丹沢連峰の連なり。
視線を富士から大岳山に戻し、右手に振れば女性的な稜線を見せる御前山が控えている。
その奥多摩の . . . 本文を読む
ありきたりな「喪中葉書」だけは、出したくなかった。
だから、カミさんが旅立って2週間も経たないうちに、文末に掲げる葉書を自分で作って友人・知人に向け発送したのだ。
パソコンが壊れ、レイアウトのできるワープロソフトは使えなかったけれど、エディタで棒打ちした文章をなんとかプリントアウトして、葉書の裏面にコピーした。
宛名は、もちろん手書きだ。
だから、文章が斜めになったり、中央に . . . 本文を読む
2003年6月のガン告知以降、常に病気と前向きに闘ってきたカミさんは、2004年9月半ば、自らの意思でホスピスへの入所を決めた。
仕事を放棄して在宅看護に取り組む私と老母の体力も、すでに限界に近づいていた。
告知直後からカミさんは「最期はホスピスで人間らしく生きたい」と宣言していた。
彼女と私たち家族にとって、ホスピスはある意味で“最期の理想郷”であった。
だが、事前にわれわれが . . . 本文を読む