「クンター、崖から落っこちちゃったよお」
ラーの明るい元気な声と、告げている内容のギャップに頭がついていかない。
「待て、待て。いったい、どうしたんだ?」
「山に筍掘りに行ったら、大雨が降り出してね。慌てて戻ろうとしたら、足が滑って崖の下に転げ落ちたんだ。友だちを大声で呼んで、ロープを投げてもらって、なんとか崖をよじ登ったの」
「で、怪我はないのか?」
「うん、持っていた蛮刀で手のひらを切ったくらい。体のあちこちが痛いけど、マイミーバンハー(問題ないよ)」
*
村では、ほとんどの家で田植えが終わったらしい。
ラーも次姉の田植えを手伝っていたのだが、それが終わった頃から心臓の不調を訴え出した。
「夜中の2時頃になると、亡くなった亭主が夢に出てきて私を地獄に連れていこうとするの。必死で手を振り払うと目が覚めるんだけど、そのあと心臓がドキドキして眠れなくなるんだ・・・」
ラーは、不幸な結婚が終わったあと、ストレス性の心臓疾患で長期療養をした経験がある。
昨年末、私と結婚したあとにも同じような症状が現れたのでモーピー(霊媒師)に相談したところ、「家に元亭主のピー(悪霊)がついている」というご託宣だった。
そのときには、お祓いをしてもらうことで解決したのであるが、今回の私の長期不在が原因でまたまた性質の悪い“ピー”が舞い戻ってきたらしい。
どうやら、ラーには“ピー”がつきやすいらしく、私が帰国する前には亡くなった義兄の霊が夜な夜な現れては“あの世からラーの助けを求めて”手招きを繰り返した。
ラーはその夢を見るたびに物が食べられなくなり、50キロあった体重が45キロまでに落ちてしまった。
そこで、私たちは帰国のためチェンマイに出る前日に、激しいスコールの中川原に座り込んで“お清めのためのお祓い”を行ったのであるが、今度は私の帰国で落ち込んだラーの心の隙間を狙って元亭主のピーが再来したらしく、なんとも忙しい話ではある。
*
「病院で心音を聞いてもらったら、少し問題があるって。考えすぎると心臓が働かなくなるから、できるだけ考えないようにしろってドクターに言われた」
「そうだな。お前さんは俺が日本に帰るたびに、別の妻がいるんじゃないか、ガールフレンドがいるんじゃないかって、バカなことを考えるからなあ」
「違うよ、クンター。わたしは日本のお母さんとあなたのことがとても心配なの。お母さんのお世話をしたいけれど、わたしにはそれができないから、とても辛いんだ」
「分かってるよ。でも、急なことでビザが間に合わなかったから仕方がないさ。とにかく、おふくろはまだ眠り続けているんだ。ときどき目は開けるし、左手ではこちらの手をしっかり握りしめることもできる。ただ、アルツハイマーもあるから、いまどんな意識状態なのか、医者にも判断がつかないんだ」
そう言うと、電話口でラーが悲しそうな溜め息をつく。
「早く帰ってきて」とは言えない宙ぶらりんの情況が、ラーにとっても重いストレスになっていることは間違いない。
「ラー、お前さんの気持ちはよく分かるけど、考えすぎて心臓が働くなったらおふくろも悲しむぞ。適当に軽い運動をすれば気分も晴れるし、夜もよく眠れるさ」
「・・・うん、分かった。明日は、筍掘りにでも行ってみるよ」
「ああ、そうしなさい。でも、あんまり夢中かくんじゃないぞ」
*
ラーが崖から転がり落ちたのは、この会話の翌日のことである。
私の勧めが裏目に出たわけだが、まあ、ひどい怪我でなくてよかった。
それに、もともと男勝りのラーにとって、この“冒険譚”は格好の気分転換になったらしい。
体中の痛みを訴えながらも、その声が前よりも元気で明るいのである。
*
チェンマイで購入した往復チケットの期限は、来週の火曜日に迫ってきた。
ベッドが空き次第リハビリ専門病院に移り、人間として生きるための基本である“咀嚼と飲み込み”の訓練を行う。
その道筋だけはついたものの、もしもその訓練が不可と判断されれば、次の処置としては胃に穴をあけてチューブで栄養物を送り込む方法しか残されていない。
それが、果たして母の望む“生き方”であるのかどうか。
厳しい選択が、目の前に迫っている。
*
「クンター、わたしのことは心配しなくていいいから、お母さんのお世話をしっかりしてね。わたしは毎晩、仏さまにお祈りしているから」
崖から転落するような浮遊感の中、宙ぶらりんの心が揺れる。
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ラーの明るい元気な声と、告げている内容のギャップに頭がついていかない。
「待て、待て。いったい、どうしたんだ?」
「山に筍掘りに行ったら、大雨が降り出してね。慌てて戻ろうとしたら、足が滑って崖の下に転げ落ちたんだ。友だちを大声で呼んで、ロープを投げてもらって、なんとか崖をよじ登ったの」
「で、怪我はないのか?」
「うん、持っていた蛮刀で手のひらを切ったくらい。体のあちこちが痛いけど、マイミーバンハー(問題ないよ)」
*
村では、ほとんどの家で田植えが終わったらしい。
ラーも次姉の田植えを手伝っていたのだが、それが終わった頃から心臓の不調を訴え出した。
「夜中の2時頃になると、亡くなった亭主が夢に出てきて私を地獄に連れていこうとするの。必死で手を振り払うと目が覚めるんだけど、そのあと心臓がドキドキして眠れなくなるんだ・・・」
ラーは、不幸な結婚が終わったあと、ストレス性の心臓疾患で長期療養をした経験がある。
昨年末、私と結婚したあとにも同じような症状が現れたのでモーピー(霊媒師)に相談したところ、「家に元亭主のピー(悪霊)がついている」というご託宣だった。
そのときには、お祓いをしてもらうことで解決したのであるが、今回の私の長期不在が原因でまたまた性質の悪い“ピー”が舞い戻ってきたらしい。
どうやら、ラーには“ピー”がつきやすいらしく、私が帰国する前には亡くなった義兄の霊が夜な夜な現れては“あの世からラーの助けを求めて”手招きを繰り返した。
ラーはその夢を見るたびに物が食べられなくなり、50キロあった体重が45キロまでに落ちてしまった。
そこで、私たちは帰国のためチェンマイに出る前日に、激しいスコールの中川原に座り込んで“お清めのためのお祓い”を行ったのであるが、今度は私の帰国で落ち込んだラーの心の隙間を狙って元亭主のピーが再来したらしく、なんとも忙しい話ではある。
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「病院で心音を聞いてもらったら、少し問題があるって。考えすぎると心臓が働かなくなるから、できるだけ考えないようにしろってドクターに言われた」
「そうだな。お前さんは俺が日本に帰るたびに、別の妻がいるんじゃないか、ガールフレンドがいるんじゃないかって、バカなことを考えるからなあ」
「違うよ、クンター。わたしは日本のお母さんとあなたのことがとても心配なの。お母さんのお世話をしたいけれど、わたしにはそれができないから、とても辛いんだ」
「分かってるよ。でも、急なことでビザが間に合わなかったから仕方がないさ。とにかく、おふくろはまだ眠り続けているんだ。ときどき目は開けるし、左手ではこちらの手をしっかり握りしめることもできる。ただ、アルツハイマーもあるから、いまどんな意識状態なのか、医者にも判断がつかないんだ」
そう言うと、電話口でラーが悲しそうな溜め息をつく。
「早く帰ってきて」とは言えない宙ぶらりんの情況が、ラーにとっても重いストレスになっていることは間違いない。
「ラー、お前さんの気持ちはよく分かるけど、考えすぎて心臓が働くなったらおふくろも悲しむぞ。適当に軽い運動をすれば気分も晴れるし、夜もよく眠れるさ」
「・・・うん、分かった。明日は、筍掘りにでも行ってみるよ」
「ああ、そうしなさい。でも、あんまり夢中かくんじゃないぞ」
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ラーが崖から転がり落ちたのは、この会話の翌日のことである。
私の勧めが裏目に出たわけだが、まあ、ひどい怪我でなくてよかった。
それに、もともと男勝りのラーにとって、この“冒険譚”は格好の気分転換になったらしい。
体中の痛みを訴えながらも、その声が前よりも元気で明るいのである。
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チェンマイで購入した往復チケットの期限は、来週の火曜日に迫ってきた。
ベッドが空き次第リハビリ専門病院に移り、人間として生きるための基本である“咀嚼と飲み込み”の訓練を行う。
その道筋だけはついたものの、もしもその訓練が不可と判断されれば、次の処置としては胃に穴をあけてチューブで栄養物を送り込む方法しか残されていない。
それが、果たして母の望む“生き方”であるのかどうか。
厳しい選択が、目の前に迫っている。
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「クンター、わたしのことは心配しなくていいいから、お母さんのお世話をしっかりしてね。わたしは毎晩、仏さまにお祈りしているから」
崖から転落するような浮遊感の中、宙ぶらりんの心が揺れる。
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