【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【宙ぶらりん】

2008年07月08日 | アジア回帰
「クンター、崖から落っこちちゃったよお」

 ラーの明るい元気な声と、告げている内容のギャップに頭がついていかない。

「待て、待て。いったい、どうしたんだ?」

「山に筍掘りに行ったら、大雨が降り出してね。慌てて戻ろうとしたら、足が滑って崖の下に転げ落ちたんだ。友だちを大声で呼んで、ロープを投げてもらって、なんとか崖をよじ登ったの」

「で、怪我はないのか?」

「うん、持っていた蛮刀で手のひらを切ったくらい。体のあちこちが痛いけど、マイミーバンハー(問題ないよ)」

        *

 村では、ほとんどの家で田植えが終わったらしい。

 ラーも次姉の田植えを手伝っていたのだが、それが終わった頃から心臓の不調を訴え出した。

「夜中の2時頃になると、亡くなった亭主が夢に出てきて私を地獄に連れていこうとするの。必死で手を振り払うと目が覚めるんだけど、そのあと心臓がドキドキして眠れなくなるんだ・・・」

 ラーは、不幸な結婚が終わったあと、ストレス性の心臓疾患で長期療養をした経験がある。

 昨年末、私と結婚したあとにも同じような症状が現れたのでモーピー(霊媒師)に相談したところ、「家に元亭主のピー(悪霊)がついている」というご託宣だった。

 そのときには、お祓いをしてもらうことで解決したのであるが、今回の私の長期不在が原因でまたまた性質の悪い“ピー”が舞い戻ってきたらしい。

 どうやら、ラーには“ピー”がつきやすいらしく、私が帰国する前には亡くなった義兄の霊が夜な夜な現れては“あの世からラーの助けを求めて”手招きを繰り返した。

 ラーはその夢を見るたびに物が食べられなくなり、50キロあった体重が45キロまでに落ちてしまった。

 そこで、私たちは帰国のためチェンマイに出る前日に、激しいスコールの中川原に座り込んで“お清めのためのお祓い”を行ったのであるが、今度は私の帰国で落ち込んだラーの心の隙間を狙って元亭主のピーが再来したらしく、なんとも忙しい話ではある。

         *

「病院で心音を聞いてもらったら、少し問題があるって。考えすぎると心臓が働かなくなるから、できるだけ考えないようにしろってドクターに言われた」

「そうだな。お前さんは俺が日本に帰るたびに、別の妻がいるんじゃないか、ガールフレンドがいるんじゃないかって、バカなことを考えるからなあ」

「違うよ、クンター。わたしは日本のお母さんとあなたのことがとても心配なの。お母さんのお世話をしたいけれど、わたしにはそれができないから、とても辛いんだ」

「分かってるよ。でも、急なことでビザが間に合わなかったから仕方がないさ。とにかく、おふくろはまだ眠り続けているんだ。ときどき目は開けるし、左手ではこちらの手をしっかり握りしめることもできる。ただ、アルツハイマーもあるから、いまどんな意識状態なのか、医者にも判断がつかないんだ」

 そう言うと、電話口でラーが悲しそうな溜め息をつく。

「早く帰ってきて」とは言えない宙ぶらりんの情況が、ラーにとっても重いストレスになっていることは間違いない。

「ラー、お前さんの気持ちはよく分かるけど、考えすぎて心臓が働くなったらおふくろも悲しむぞ。適当に軽い運動をすれば気分も晴れるし、夜もよく眠れるさ」

「・・・うん、分かった。明日は、筍掘りにでも行ってみるよ」

「ああ、そうしなさい。でも、あんまり夢中かくんじゃないぞ」
  
            *

 ラーが崖から転がり落ちたのは、この会話の翌日のことである。

 私の勧めが裏目に出たわけだが、まあ、ひどい怪我でなくてよかった。

 それに、もともと男勝りのラーにとって、この“冒険譚”は格好の気分転換になったらしい。

 体中の痛みを訴えながらも、その声が前よりも元気で明るいのである。

            *

 チェンマイで購入した往復チケットの期限は、来週の火曜日に迫ってきた。

 ベッドが空き次第リハビリ専門病院に移り、人間として生きるための基本である“咀嚼と飲み込み”の訓練を行う。

 その道筋だけはついたものの、もしもその訓練が不可と判断されれば、次の処置としては胃に穴をあけてチューブで栄養物を送り込む方法しか残されていない。

 それが、果たして母の望む“生き方”であるのかどうか。

 厳しい選択が、目の前に迫っている。

            *

「クンター、わたしのことは心配しなくていいいから、お母さんのお世話をしっかりしてね。わたしは毎晩、仏さまにお祈りしているから」

 崖から転落するような浮遊感の中、宙ぶらりんの心が揺れる。

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