室内楽の愉しみ

ピアニストで作曲・編曲家の中山育美の音楽活動&ジャンルを超えた音楽フォーラム

薪能の夜

2006-08-11 12:20:31 | Weblog
毎日、色々あって、日記がたまっている気がするのだが・・今日は、”薪能”の話にしよう
 この間の日曜日に、平塚八幡宮で神事能があり、見に行った。5時半の受付に合わせて行くと、まだ明るくて蝉が大合唱をしている。屋外の簡易舞台だが、右奧のひときわ大きな木を”ご神木”に見立てて、注連縄が締められている。やがて、客席が埋まって来た頃、会場内に早くから付けられていた提灯の灯りが際だって、いつしか夕闇がおりて来ていた事に気づかされる。
 6時15分頃にアナウンスが始まり、この薪能が”神事”であること、広島に原爆が落とされたこの日に、慰霊と平和の願いを込めて行われることが告げられる。神主さんの行事に合わせて観客も一斉に礼や黙祷をする。一連の奉行の後、薪に氏子の代表者が火を入れる。パチパチと火が爆ぜる音とともに、燃えるにおいがやって来る。それに合わせて、場内に用意されていたライトがにゅあっと付けられた。やっぱり、薪の炎だけでは足りないのだ。
 この日の出し物は、”隅田川””鬼瓦””融”の3つだった。”隅田川”は人買いにさらわれた子供を捜しに京から東の隅田川まで来た母親(狂女で面をつけている)が渡し守との話から、対岸の大念仏が我が子の弔いの塚であったと知り、念仏を唱えると、我が子が姿を現し、抱きしめようとすると、スルッと抜け出されて腕に抱く事ができない・・という悲劇の物語で、テーマの重さゆえに、能にとどまらず、歌舞伎やオペラ、絵画や美術他、さまざまなジャンルでも取り上げられている。殊に、最近の子殺し、親殺しの陰惨な事件続きの中にあって、あまりにもタイムリーな”曲”だった。狂女の母の道行の下のお着物が白く光り、常人ではない、この世の者と思えないオーラを放つ存在感に圧倒された。決してオーバーアクションの無い能の表現でありながら、二度も子供の亡霊に腕をすりぬける場面は、真の”哀れ”を強調してた。ハンパな”感動”ではない。
 ”鬼瓦”はお寺の屋根の鬼瓦を見て、何かに似ている、よく考えたら国元に残している妻の顔で、「もうじき会えますよ」と太郎冠者に言われて大笑いをする・・という他愛もない笑い話。しかし、この程度笑っても、”隅田川”ショックは到底、払拭されない。
 最後が”融(とおる)”の半能で、つまり第1楽章抜きの後半だけの上演。昔栄えていた塩田を通りかかった旅の僧の夢の中で、月の精のような源融(みなもとの・とおる)が舞いを見せる物語。華やかなキラキラした橙色の衣装で、かなり動きの激しい舞いで、笛のメロディも同じ節を繰り返すうちに、バリエーションされて行くのが面白かった。月にまつわる幻想的なイメージは洋の東西を問わず沢山あるなあ・・と改めて思った。これほど見ても、尚、”隅田川”ショックはかき消される事が無く、「悲劇は芸術のテーマに成りやすい」事を改めて思った。
 人の魂を揺さぶる芸術・・。エンターテイメントも価値があるが、やはり、それ以上の物だ。それは底知れぬ深みであり、究極の高みだ。今まで何度も感じ、考えて来ている事だけれど、久しぶりに実感し、ちょうど大きくなって来た月を、一緒に行った両親と友人と、愛でる幸福感にひたりながら帰った。

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