古代日本の歴史を謎解き

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卑弥呼が女王になった年、死亡した理由

2019-10-20 18:36:48 | 歴史
邪馬台国は九州しか考えられないからの連続投稿です。
こちらからご覧ください。
最後に、魏志倭人伝で史実では無理な部分があります。
卑弥呼が女王になった年です。
大陸の史記で 「後漢書」編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)があります。
魏の前の大国 漢 の時代の暦所ですが
編集は、魏志倭人伝より後です。
この二つの倭人伝には、同じような事が書いてあり
双方がお互いに情報を補完していると思います。
その中で
後漢書では
「桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。
一女子がいて、名は卑弥呼という。
高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操った。
各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。
桓帝の在位は147~167年
   霊帝は168~188年
です。

魏志では
その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。
名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。

多くの方が西暦100年ぐらいから倭国が乱れ(倭国大乱)
80年後の180年位に、卑弥呼が女王になったと考えています。
卑弥呼の死が247年です。
女王になった際に既に高齢で
70年近く女王を務めたことになります。
当時の寿命(現代でも)では絶対に無理です。
私の様に
卑弥呼複数説になってしまいます。

・卑弥呼が女王になった年は正確にはわからない。
・卑弥呼は人前にです、建物の中で祈祷を行っていた。
・玄界灘側からの侵入に対する防備は十分できていた。
・南側の隣国 狗奴国からの攻撃は想像していなかった。
・魏国に応援を求める。
・張政らが卑弥呼の元へ来るが、既に亡くなっていた。
卑弥呼の大失敗は
大陸の役人 張政らを易々と倭国内へ入れてしまいました。
卑弥呼の祈祷政治に終止符を打ち
男王を張政らに合わせ様とした事が
反発されて争いに発展
張政らは、卑弥呼の宗女 台与 を女王にして
国を纏めて倭国を去る。

この時代を最後に、弥生時代から古墳時代に移ります。
・銅矛・銅鐸などの祈祷の儀式が無くなる。
・環濠集落が無くなる。
・各地の豪族単位の国々による王族政治
・九州ては筑紫一族が九州北部を支配
金製の冠など新たな権力体制が出来たようです。

さて
人前に出ることなく姿を消した卑弥呼
一方、13歳で女王となった台与
同じ政治が出来るわけはありません。
皆さんは
台与のその後を
どう想像されますか?
当時13歳は結婚できる年齢です。
張政らは台与の結婚まで準備したのではないでしょうか。
その相手とは
・筑紫の王
・狗奴国の皇子
・奈良の豪族(後の大和朝廷)
空白の四世紀は
その扉を開けてはくれない様です。


副官 卑奴母離 は軍の長官

2019-10-20 15:20:31 | 歴史
まだまだ、魏志倭人伝からわかる古代の事実があります。
官、つまり役職名で、卑狗 と 卑奴母離 が多数登場します。

     官        副官
対馬国 卑狗       卑奴母離
一支国 卑狗       卑奴母離
伊都国 爾支(にき)   泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)
奴国  兇馬觚(しまこ) 卑奴母離
不弥国 多模       卑奴母離
卑狗(彦:ヒコ)は王、又は皇子で男性の長
玄界灘側の国々で副官に卑奴母離(ヒナモリ)が四人登場します。
その役目は、防衛(人守)ではないでしょうか。
弥生時代、大陸の大国(漢、魏)は朝鮮半島の支配に力を入れています。
もちろん、その先には 倭国があり
朝鮮半島の国々も生き延びるために倭国へ勢力を広げる可能性が十分にあります。
玄界灘の国々には、防衛の為の武人組織が必要でした。
もちろん、邪馬台国の卑弥呼も必要性を感じていたでしょう。
「漢委奴国王」の金印
卑弥呼に贈られた「親魏倭王」の金印は
大陸の強国との安全保障条約で必要だと感じて実行したのでしょうか。
弥生時代の鉄器の出土数でも

福岡、佐賀が圧倒的です。
地図の上では有明海上でも多数ある様に描かれていますが
多くは玄界灘側です。
朝鮮半島の状況、大陸の情報は
交易の中で、伊都国の一大卒を通じて
卑弥呼に伝えられてでしょう。

銅矛文化圏と銅鐸文化圏の地図でも

九州北部の邪馬台国連合が銅矛文化圏です。
朝鮮半島からの侵略の心配が排除できない
九州の地理的条件の為
武力の証である銅矛を祈祷、信仰したのです。

有明海の地形で農耕や生活に有利な土地は
筑後川周辺です。
参考までに古代の有明海の地図です。

現在では内陸にある久留米市も湾岸の地域です。
奴国が二万戸
邪馬台国は七万戸ですので
博多湾よりかなり広い地域です。
筑後川の広い部分が邪馬台国ではないでしょうか。
その中の、どこかに卑弥呼が1000人の女性と暮らす館があったというわけです。
ここまで如何でしょうか。
魏志倭人伝を読む限り
卑弥呼の邪馬台国は
福岡県南部、熊本県北部の有明海側としか考えられません。

朝鮮半島の方には残念ですが
半島は東西に 百済と新羅に分かれて
一つにまとまることはありませんでした。
北には高句麗の南下政策と倭国に挟まれる時代です。


       

邪馬台国は ヤマト と読む

2019-10-20 15:19:05 | 歴史
もうひとつ、私たちが大きな間違いをしています。
邪馬台国 と書いて ヤマタイコク と読んでいる事です。
卑弥呼の次の女王
台与 と書いて トヨ と読んでいます。
邪馬台国も、当時の倭人の発音を漢字一文字一音で書き換えてものです
邪馬台 は ヤマト 或いは ヤマトゥ と読みます。

ヤマトの地名は日本に多数ありますが
九州の 山門 と書いてヤマト
近畿の 大和 と書いてヤマト

どちらも、ヤマトとは普通読みません。
山門の歴史
大陸から漢字が伝わり、地名を漢字二文字にすることにした。
漢字の意味と地形を考え
山 と 門 の文字を使用するが
読みは ヤマトにした。

大和の歴史
元々は、倭国の 倭の文字を使いヤマトと読んだ。
魏志倭人伝を読んで、日本全体が 倭 の文字で表現されている事を知る。

もちろん、邪馬台国の存在も知る
読みを ヤマト にする。
後に 大倭、和、大和 と漢字を入れ替える。
大和朝廷(ヤマト王権)と現在呼ばれ、奈良の地名にもなった。
邪馬台国=大和朝廷だから、魏志倭人伝の邪馬台国は近畿(奈良)にあったと
決めつけるのは無理がある様です。
ヤマトと云う響き(読み)は邪馬台国が始まりで各地の地名に影響を与えたようです。

その他にも
卑弥呼(ヒミコ) と 卑弥弓呼(ヒミヒコ)
卑弥呼が後の
巫女



卑弥弓呼のヒコは
男性の名前 彦 に使われています。
弥生時代の日本語が現在の名前に影響しています。

1万2千里 と 水行10日陸行1月の誤差

2019-10-20 13:01:54 | 歴史
この事で悩んでいるの私だけかもしれませんが
やはり、気になります。
水行1000里=1日
陸行 100里=1日
で計算するなら
1万2千里は
水行10日(末盧国まで)
陸行20日で邪馬台国になるのですが
陸行1月
当時の1月は27日、或いは28日ですので
7,8日ほど誤差が発生します。
二つの情報には
・時代のずれ
・入手元の違いがあります。

水行10日陸行1月の情報は
卑弥呼が魏国に貢物を届けたいと申し出た時
やはり伊都国へ最初に寄ったでしょう。
その際に、邪馬台国から伊都国まで22日程と伝えます。
或いは
玄界灘の国々と邪馬台国の間には
20の国があり、奴国、不弥国を加えて
22国を1日と計算して22日
末盧国まで陸行5日ですので
陸行1月と計算して書き込まれた。

1万2千里の情報は
実際に大陸の役人が邪馬台国へ行った時の情報です。
その人とは
247年に卑弥呼の応援依頼で倭国へ渡った
帯方群の曹掾史の張政らです。
魏志倭人伝を書いた陳寿には
卑弥呼の死後の情報
・径100歩の墓
・1000人が亡くなった。
・台与が卑弥呼の後の女王になった。
邪馬台国の新しい情報が伝わりました。
実際には
陸行20日で邪馬台国へたどり着いたのです。
博多湾の奴国は経由せずに
唐津から南へ進み
有田や多久、武雄、佐賀と
西側のルートだったかもしれません。
邪馬台国は
末盧国(松浦半島)から南へ陸行20日の
場所にあります。

投馬国も伊都国など博多湾は通過しません。
朝鮮半島の狗邪韓国から対馬へ
対馬から宗像半島の沖ノ島
山陰地方を海流に乗って出雲へ
投馬国は ずま国 と読んで
後の出雲(いずも)ではないでしょうか。

伊都国は大陸人の国、権力者は一大卒

2019-10-20 12:12:07 | 歴史
魏志倭人伝から読み取れる事実に
伊都国と一大卒があります。
・一大率をおいて、諸国を検察させている。
・諸国はこれを畏れ憚っている。
・一大率はつねに伊都国いて治めている。
一大卒は漢の時代の役人です。
「漢委奴国王」の金印が贈られた
紀元前の頃に倭国へ配置されたのでしょう。
漢が滅んだ後、伊都国に残り
交易のかなめとして権力の頂点にいました。

倭人伝に紹介される国名ですが
・奴国(二万戸)
・邪馬台国(七万戸)
・投馬国(五万戸)
その他の小国も
倭人の発音を漢字一文字一音に置き換えています。
使われている漢字もあまり意味がない、良くない漢字が多いです。

その中に
伊都国 と都と云う漢字を使い、倭国の代表とも言いたげな国名
諸国の交易の品々は、伊都国を通り、帯方郡へ届けられます。
水行に必要な船の手配などもしていたでしょう。
魏志倭人伝の情報の多くは、伊都国の役人からの情報です。
しかし、伊都国の一大卒も実際には
玄界灘の国々、奴国、不弥国までだったようです。
その南にあるつまびらかに出来ない国々
邪馬台国の情報は、交易に応じた倭人からの情報だったのです。

伊都国は、その機能から
奴国(博多湾)のすぐ西側(糸島半島の東側)にあったでしょう。
奴国まで100里(一日)
不弥国は東100里(一日)ですので
宗像半島辺りになります。
漢の時代(漢委奴国王の金印が贈られた時代)の倭国は
玄界灘湾岸の国々までは知る所で
百国余りの国までは把握できていなかった。
魏の時代になり、邪馬台国の卑弥呼が朝貢することで
有明海側の国々情報を知ることが出来た。
・倭国の東に千余里を渡海すると倭種の国がある。
・邪馬台国の南に狗奴国があり
・男王卑弥弓呼と不和であった。
等は魏の時代の情報です。
・投馬国までは水行20日の情報も
新しい航路により知ることが出来た情報です。



水行1日=1000里、陸行1日=100里

2019-10-20 11:48:25 | 歴史
邪馬台国を否定するのに
古代の 1里は 何mだったのか?
約50m程、いや100mの時代もあった・・・
と議論されています。
そもそも必要はないです。
実際に
狗邪韓国から対馬国~一支国を経由して末盧国まで
各1000里で合計3000千里
実際に地図を見てみましょう。
対馬も壱岐もちょうど三分の一の場所にはありません。
もし、精度よく距離を計測していたのであれば
対馬国まで1300里
末盧国まで 700里などと端数の表記があるはずです。
水行は1000里の単位しかありません。

陸行でも同じで
伊都国まで500里
奴国、不弥国まで100里の単位しかありません。

当時、幾度も交易で行き来があったでしょうが
正確に測量するまでには至っていません。
交易に必要な情報は日数です。
当時の移動方法で船で移動する場合
一日に1000里程移動できた。
陸行の場合は
100里程しか移動できなかった。
距離の情報は、日数から逆残した結果です。
つまり
・帯方郡から末盧国まで水行10日(約10000里)
・末盧国から伊都国まで陸行 5日(約 500里)である。
と云う事です。

邪馬台国は九州しか考えられない

2019-10-20 09:53:15 | 歴史
過去に投稿しましたが、古くなりましたのでもう一度
邪馬台国も卑弥呼も魏志倭人伝にしか登場しません。
もし、魏志倭人伝がなければ、邪馬台国論争もなかったのです。
邪馬台国の否定地は、魏志倭人伝を中心に考えるべきです。
魏志倭人伝に紹介される倭国
・漢の時代は100国ほどあったが
・現在(魏の時代)が30国
・帯方郡(ソウル辺り)から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
・周旋すること五千余里ばかり
魏志倭人伝
・魏国が滅んだあと、西晋の陳寿により3世紀末に書かれた。
・魏国の国書など情報
・より古い大陸の史記からの情報
・帯方郡の役人や交易を行った人々から情報
を集めています。

倭国までの道程が紹介されています。
・帯方郡から狗邪韓国(現在のプサン辺り)まで7000千里
・海上を対馬国~一支国を経緯して、末盧国(松浦半島)まで3000千里
・伊都国(糸島半島)まで陸路で東南500里
・更に奴国まで東南100里
・不弥国へは東行100里
ここまでは、ほぼ全員の意見一致で
奴国は 博多湾の国です。
邪馬台国の否定地を厄介にしたのが
この後に続く
・投馬国までは水行20日(方向指定なし)
・邪馬台国まで南へ水行10日陸行1月
道程の単位も里(距離)から日数にかわります。
近畿説、近江説では方向があわないので
無理やり当時は日本列島を南北に長いと考えていた。
つまり、魏志倭人伝の東は 南である。
しかし、よく読みなおしましょう。
邪馬台国まで1万2千里
伊都国まで合計10500里ですので、
邪馬台国まで残り1500里
更に、周旋すると五千里 です。
不弥国や伊都国を始点にして
水行20日
水行10日+陸行1月では
魏志倭人伝の倭国を飛び出してしまうのです。
もちろん
南に水行10日でも九州を飛び出してしまいます。

更に続きがあります。
邪馬台国の北(奴国などの南)につまびらかに出来ない
詳しくはわからない国が20国
その南に邪馬台国
更にその南に敵国 狗奴国 と続きます。

・投馬国までは水行20日(方向指定なし)
・邪馬台国まで南へ水行10日陸行1月
の出発地は 帯方郡です。

魏志倭人伝は、倭人(日本)の為に作成されたのでありません。
大陸(当時の西晋)の為に倭国を紹介しているのです。
帯方郡から邪馬台国まで何日かかるのか?
こちらの情報が必要だったのです。

邪馬台国は
伊都国、奴国など玄界灘の国々の南
20国の更に南側にある。
玄界灘から1500里程
つまり、有明海側の
福岡県南部、熊本県北部しか考えられないのです。

狗奴国は更に南です。
熊本県南部より南
後の熊襲国(現在の熊本)で間違いないです。