どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

近況

2015-06-15 00:55:42 | 日記

 

仕事まみれで、わけが分からなくなっている。

馴染みの店で大げんかになった。元々変わった人なのだが、まあ三つの関連しそうにもない話を同時並行で展開しながら自説をとうとうと述べる人だった。なんらか関連性のありそうなところを拾いながら話を聞いてゆくと、ひどく平凡なところや全く違うところに着地する。そこまで下手すると10分は喋り続ける人だった。ようは偉い人なのだ。そのせいか暴論が混じることがあった。アマチュアカメラマンなのもわたしにとっては厄介なことだった。

以前そこでストラヴィンスキーの「エディプス王」をかけてもらった時、彼がいた。最初のミッシェル・ピコリの朗読で「ああこのダミ声、ダメだダメだ」と激しく言い始める。台本がジャン・コクトーだと知ると突然大人しくなった。権威主義でもある。次に「このデイスクにアナログはないのか、あるはずだろう」と言い始める。「CDになってから大々的に日本に入ってきたレーベルなのでアナログ盤はありましたがかなり少ないものです。残念ながら私は持っていません」すると「アナログでなければいけない、なぜアナログを買わなかったのか」「いや当時はすでにCDばかりの時代でしたし、このCDだってそんなに売れたものではありません。」と水掛け論。どうもレコードでないのもお気に召さなかったらしい。そして「コリン・デイビスは売れっ子だったからこの曲を録音したんだろう」と言い始める。どうも売れっ子だったというのが気に入らないらしい。「デイビスはそんなに売れっ子じゃないですよ、むしろマイナーな曲にも目配りする分人気のない指揮者です」そう弁護する。「エディプス王というと愛欲というテーマだった。そうゆう著作がある」「そうゆう著作はあるでしょうが、代表はフロイトでしょうか。」「いやフロイトではない」「小説はわかりませんが、フロイトかユングだったらそういった記述ではないと思います」。

「それではこの曲のテーマは何か?」「呪いです」。ここで彼は盛大に聞き間違いをする。そして大音声で「モモイロピンク!そんな曲を聞かされていたのか!」と猛烈に怒り出す。「いやだから呪いです」そういっても「モモイロピンク!」という。これを3回繰り返した。「神からかけられた呪いとの戦いの不条理さがこの悲劇なのです。」そこまで言わないといけないのか。当初二人しか店に客はいなかったが、この頃は忙しくなっていた。店主からさすがに静かにしてくれと言われる。

すると話は突然写真に切り替わる。ただ内容がとても良くなかった。

はじめに木村伊兵衛を切り捨てた。そして「どうしてくだらない写真ばかりで、私のようにならないのだ」とくどくどと言い始めた。ちなみに私は木村伊兵衛のシンパではない。だが木村伊兵衛のわけのわからなさを研究した身としては極論すぎる。だからそこは放置したが、くだらない写真には私も入るのだろうというのは間違いがない。彼に私の写真は見せたことはないが、彼の写真は私は知っている。構図は素晴らしいアマチュアだが、それ以上のものではない。

どうも彼は自分中心すぎて、他人がどう考えるのか本当にわからないのだろう。ジェシー・ノーマンの歌が始まったので席を離れた。彼との会話で全然音楽を聴けなかったからだ。

 

 

 

以降彼のことは避けまくっていた。路上でパッタリであっても最低限の会話以外はしないようにしたし彼の姿を見たら逃げた。この忙しい時期に、しかも契約の話もある上で余計なことは入れたくない。そしてその現場では若者に声をかけて話を聞く子にとうとうと謎の自説を述べるもののようだ。無視されても立ち続ける彼を見て、さすがに声をかけた。「これは変人に見られるからやめたほうがいいです。特に女の子に声をかけるのはやめたほうがいいです」かなり言葉を変えたがそう伝えたら、「正しさを伝えるのが私の義務なのだ」そういう。いやあの3つの話が同時並行で、傍流に流れて話が増えつつ、着地が平凡極まりないなら、結論だけいい。そんな話を聞かされる立場を考えないのかね。

そんなこんながあって馴染みの店でバッタリであった。まあいつかは来る話だ。そうすると毎度の3つの話が同時並行で動きつつ、珍しく写真に収斂した。木村伊兵衛を切り捨て土門拳の正しさを褒め称えた。そうしてまた3つの話が並行でわけわからなくなりつつ、自分の写真は誰それに褒められた、その人はとっても素晴らしい人で尊敬できる人だ。私は撮影には正しい行動をしている、本人の了解も取っているし感謝もされている。とくどく言い始め、そういった人たちから褒めてもらったのがこの写真だと、バラの写真を出してきた。

構図的に素晴らしい写真だった。だが彼は「これはなんとかさんに褒められたしそれ以外にも褒められた。欠点を教えてくれ」

困った。アーヴィング・ペンの写真集を用例に出そうとしたら、「なぜそういって逃げるのだ」そう怒り出す。その一手がどう違うのか、その説明には必要なのだがまずい手を出してしまった。「バラは絵に尽きます。写真では難しいものが実はあります」。火に油を注いでしまった。特にルドゥーテのバラ図鑑が頭にあるのに名前が出てこなかったのが悔やまれる。「絵画も勉強した。その上での写真だ。欠点をいえ!」

欠点などあるはずもないのだが(写真には常に欠点はない。そこは過去でしかないからだ)、そのバラの写真には人に伝えるための一手が欠けていた。大きく引き伸ばして家に飾ったりカードにしたりするには最高なのだ。その一手とは「何にお使いですか」そう聞いてしまった。彼にとっては至高の芸術である写真を汚されたと思ったらしい。

ディレッタントにとっては確かに目的があるというのは貧しい話なのかもしれない。だがコミニケーションツールとしては目的が必要なのだ。私の考えていることを写真で誰かに伝えなければいけないわけだ。それが他者に受け入れられるかどうかは覚悟しなければいけない。

罵詈雑言が3つの話の同時並行で始まった。お前が回答を出さないのは失礼だ、お前の知識は浅はかで私もそういった潮流に毒されているがそれは否定する。そんなお前が俺を避けるのは失礼だ、というのがロンドになった。

「あなた過去にこんなことを私に言った上に、そこまで言うのか」「私は言っていない」。この議論が3回続いた。

そして私が失礼だということと、世間は毒されているということと、私がいかに高貴であるかということを証明しようとした意味のない引用が混じりながら謝ろうとしてくれた。

「私があなたに言ったことを文面に起こして提出してくれ。そうでないと謝罪しきれない」

やめてよコレ。彼もキレたようで、この店には来ないと未練たっぷりにいった。

そうして彼は荷物を3つの袋にまとめようとして、6回チャレンジして諦めて、車に5回に分けて荷物を運んだ。袋に入るものは袋に入れて運んだが、最後の本や雑多なものが入った袋に、オルトフォンのトランスつきのカートリッジ、LPの針の高級品の希少品、箱に入っているとはいえそれをその袋に入れて立ち去った。

私なら胸ポケットに入れたタバコを袋に入れて、あのカードリッジをしまう。あれはそこまでも大切なものだ。

やはり戻ってきた。実は荷物を運んで戻るたびにくどくどと話はしていった。さすがに3つの話ではなく2つに減っていたがそれでもわけがわからない。最後の話をまとめると、「今回の件は内密に」。これもくどく5分かかった。

いい加減にしろ。

彼の一番痛いのは64歳だということだ。それがわかったから私も我慢ができなくなったというのはある。だから文面に起こして公開する。

 

 

バスケットの試合を撮っていたらものすごい雨が通り過ぎた。虹が出るかもと考えて外に出たが、地平線近くわずかに色が違うとことがあった。だがそれは黄砂のいたずらかもしれない。

 

 

昨年もこの頃クリケットの試合を出したと思うが、今年も遠巻きに見た。やってみたいのだが、クリケットの試合時間の長さは野球の比ではないというのがわかっているわけで、短縮版でもチト辛い。

 

 

その前にヒンズー語がわからないし、彼らも日本語はよく分からない。何人か隣のインド人がいるような気がする

ただ何か今年もチャンスを逃しているようだ。時間がないというのはいいわけだが、たぶん私はミスをしている。

 

 

この白人はイギリス人なのかな。クリケットでこの帽子だったらオーストラリアなのかとも思うが聞けなかった。

北東北大学野球1部2部リーグ入れ替え戦では、岩手大学と秋田大学が1勝1敗の引き分けとなり月曜日にもつれ込んだ。

 

 

やる必要があった喧嘩だったが、わたしにとっては全く必要のない喧嘩だった。そういったものが心に突き刺さってゆく。わたしがすべて悪いのだとしてしまっても破れたことには根本的に繕うことはできない。

そして彼はわたしが服従することを望んでいたとしか思えない。それが許せない。