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どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カメラマンと写真11

2013-01-05 21:57:16 | 写真の話し
被写体なのだが、まあ最近では難しくなった。

とりあえず子供の写真は撮れなくなった。小学校の近くでカメラもってウロウロなんて全く出来ない。

仕事として行っているのだが、通報される可能性を考えるとイヤなものだ。ましてやこちらは独身でフリーのカメラマンだ。梨下で冠をたださずでは無いが、今現時点で要注意。


肖像権の問題なのだが、その肖像に価値がある場合と、無い場合がある。様はタレントの場合と一般人の場合だ。
まずお金の問題だ。これは解りやすい。
次が媒体の問題だ。多分ここが大きい。ネットがあるからだ。しかもどう使われるか解らないと言う時代だ。

肖像権が拡大している時代です。


写真と言うのはとってもめんどくさい所がある。すべてのものには名前や意味がある。それが一気にゴチャっと写ってしまうのだ。それを避けるために望遠レンズを使ったり、絞りをあけたりのテクニックはあるが、根本的にどうしようもない。コマーシャルではそういった意味で、背景をコントロールします。まずは無地のバック紙とかです。背景に風景とかが入る場合、文字情報に気をつけます。文字情報は余程ボケが大きくない限り読み取れてしまいます。
様々な雑音が写真には入りやすいのです。


実は写真の最大の特性は、何でもかんでも記録するということです。

それが最大の魅力なのですが、それがノイズになって伝える力が弱くなると言うことがままあります。

逆にノイズがコントロールされた、コマーシャル写真にはなぜか写真そのものの印象が薄くなる傾向にあると思います。ただやっぱり一流は違います。例えばベネトンの新生児の写真は、旧来の流儀からいけばノイズです。
生まれて来てから、人は服を着る。そういったニュアンスがありますが、服は一切ありません。新生児なのに周囲の物品は程よくコントロールされています。

コマーシャルでは、リアル感を出すためにノイズをコントロールしつつ、ノイズに新たな意味を付け加えたりしています。

話しは大きくズレていますが、次回へ。




カメラマンと写真10

2013-01-05 03:13:01 | 写真の話し
世界にはいっぱい被写体になるものがあります。何でも出来ます。フツーには難しいものに顕微鏡写真がありますが、かなり特殊な例です。なおこの顕微鏡写真で世界コンクールがあるようです。細胞の染色からはじまって様々なテクニックを駆使して実用的でなおかつ美しさが求められる世界です。

前の項目の時に、被写体選びがキツイと言いました。実は画になら無いものは、ありません。画に出来ます。ただ結果それが流通するかどうかです。他人から賛同を得られるかどうかです。

一番厄介なのが、ここです。

例えばですが、東松照明はアスファルトに埋め込まれたネジとかそんなばっかり撮影したシリーズがあります。たしか「日本」に収録されていたものだと思います。
文明批判をしたのです。基本的には。でも撮影された当時の状況があって解るもので、今だったら純粋に東松照明の美学を感じる作品になっています。マジックマッシュルームというシリーズで、おなじ美学が確認できます。
ミクロコスモスが大好きなのかと、いまフト思いました。

時代を超えると文脈が変わるのですよ。

もう一つ重要なのは、記録に残らない作品は作品でなくなる、と言う事です。例えば私がやって来た写真展はギリギリ記録の残るかもしれませんが、それでも人の記憶に残らないものになる可能性があります。
変な話しですが、報道とかメディアに載るとなぜか覚えてくれます。昨年、大昔にやった「下北」の写真展を好評してくださる方がいました。

彼は見ていないはずです。

そんなものです。



被写体は無数にあるのに、なぜ全部撮れないのでしょうか。
時間がないからです。フツーは。それをやっているから森山大道が凄すぎるのだ。人生写真。
次が、好き嫌いがあるからです。これは当たり前。
その次は、興味が持てないからです。
その次の次は、意味を感じないから。


さて写真を撮ると言うのは、逆説で意味を求めてと言う事になりそうです。


被写体を選ぶと言う事は、自分の意志があると言う事です。


もの凄い飛躍をしています。


実は被写体がいらない可能性があります。作っちゃえばいいのです。しかしコスト的に難しいですよね。映画ですよ。それは。でも全部自分の意のままに、コンパクトになるのだったら、可能性があります。
これの最高峰が商品撮影、特に宝飾品や時計の撮影の世界です。

実はあまり表現が変わっていない世界でもあります。人の価値観が安定している領域なのでしょう。




カメラマンと写真9

2013-01-05 01:58:18 | 写真の話し
さてマニア対する悪口をいいつのりました。とはいえ気持ちはよくわかるのです。こちらは逆説的にそういった世界に陥りやすいのです。
なぜでしょうか。
ブレイクスルーするためには、機材の刷新とかあります。自分の壁がどうなのかよくわからない時にそういった事をしてしまいがちです。でもなかなかうまくいきません。
あげくの果てに、クラシックレンズをかき集めたりすると言う状況だけは避けたいものです。

話しを戻しましょう。どんなにいいカメラとレンズをもっていても被写体が無いと何も意味がありません。だから被写体を捜さなければいけません。でもこれが全くキツイんだな。


さて次の議題に移ろう。実は誰かと同じ写真が欲しい人は一杯いる。
極端な話しは、アメリカでヨセミテのあの風景、あのアンセルアダムスと同じ位置になるような、立ち位置があって少し遠くに枠があって、その枠中で写真を撮ればアンセルアダムスの写真のフレーミングですよ、と言うサービスがあるようだ。
これはおかしい話しで、確かにあわせているのかもしれないが、彼のシステムと全く違うものをもって来ても、同じものにはならない。なぜそういった発想になるのかだ。その上、アダムスの写真はわりと安い。写真集も高くない。そちらの方か努力に比べても、圧倒的に効率がいい。

それでもアンセル・アダムスはアメリカ写真会のイコンであり、シェラクラブの創始者だ。だから追体験する事に意味があり、そうなるのだろう。

実のところ大きく思うのは、カメラマンは再現不可能と考えているシャッターチャンスに対して、誰もが可能と考えられる時代になったのかなと。
そんなこんな考えていても、どうして誰かが取ったのと同じような写真を撮りたがるのか、全く理解に苦しむ。一時期有名になったが、尾瀬の一本立ちの白樺とか、小岩井農場の一本桜とか、あそこに人が群れる理由が解らない。


ただ解っているのは、コミュニケーションツールとして写真を考えれば、誰も知らない被写体なんか撮っても役に立たないからだ。よくある話しだが、例えば春日大社に観光でいって、建物を撮らないで鹿ばっかりとちゃったりする。それを誰かに見せても、なんで鹿ばっかり?と思われてそれで会話も続かず、それで終わりとなってしまう。

カメラマンをやっているとこの辺りが難しい。職業柄古今東西様々な写真を見るし、それをまねする事だってある。この辺りは写真を流通させるための、言語能力と言ってもいい。テクニックともいわれているが、それとはちょっと違う。エロ本なんてそうだ。荒木経惟の写真は、よくありがちなポージングをさせていないと言うだけで、使えない本とも呼ばれた。
パクリなのだが全く違うとか、ニュアンスを取り込みましたとかイロイロある。これにコピーがつけば、全く違う話しにも作り替えられる。写真とはそういった所がある。
その前に彼が撮った写真と私が撮ったものは全く違うと言う、そういった自負が無いとやって行けない商売だ。だから全く同じ事はしないし、出来ない事もよくわかっている。そしてカメラマンは変人ぞろいになる。


だからこそ、被写体を良く見なければいけない。そうでないと、へたな物まねになってしまう。自分にとってのその被写体を掴んでいないと、器用なだけでおわってしまう。プロとしてはいかがなものかとなる。


これは愚痴になるが、カメラマンが並んでいる状態で、誰がどこをどう切り取っているのかが大体解る。自分と同じ構図を狙っているのが隣にいて、まあほんの40センチしか離れていないのだが、シャッター切ったタイミングが全く同じだった瞬間。大体同じ写真になった訳だ。ホント嫌になる。


アマチュアにそこまで求めるのはどうかと思うが、せっかくオリジナルである自分がいてオリジナルである被写体があるのに、誰かのまねをするのはどうかと思う。そのためにする努力を他に振り向けた方が良くないか?ある割り切りが必要なのではないのか?
オリジナルを前にして、コピーを追求するのはどうなのか?



最後に、小岩井農場の一本桜だがこれには伏線がいっぱいある。まず小岩井農場家訓と言うのがあり、牧場全体の景観整備が義務付けられている。なので牧場内に桜を植えたのは、もしかすると小岩井が早いかもしれない。
なのであの中にある木は、牛が休む場所でもあり(実は小岩井は昔は軍馬の生産で有名だった、なので牛の休む場所と言うより馬の休む場所だったのだが)、最初っから景観整備のために植えられたフシがあるのだ。小岩井農場の景観整備にかける熱意はもの凄い。まきば園の入場料はほとんど景観整備費になるほどだ。


次に一本桜の写真だが、最初の公開は、山岳カメラマンの撮影したものだった。小岩井は気に入ってポスターにもした。しかしタマタマ撮影したもののようで、ちょっとイマイチだった。そこでそれこそプロ・アマが撮りはじめたが、数は少なかった。しかし蛇腹のカメラとかでちょっと工夫するとか、高さを変える方向になった。最後にNHKがドラマタイトル用に撮影した時には、撮影する高さがかなり変わった。高いのだ。多分撮影ポイントの地上3メーターかそれ以上になった。なので、今一番いいと言われているポイントから撮影しようとすると、フツーは無理。脚立もって来てとかだと、他の人に迷惑。絶対やらないでください。道路にパケットクレーンを付けて撮るのも辞めてください。ラジコンヘリで撮影するのも辞めてください。それこそヘリコプターに乗って撮影するのはもっと辞めてください。オスプレイはヘリじゃねぇ?岩手山と一本桜とオスプレイがフレームに入った写真なんて、素敵かも?
てな冗談いってるんじゃないですよ、やっぱりF35でしょう。
蛭子能収のマンガになってしまった。

どう考えても、やる奴はイナイだろうというオチでしたが、脚立はいそうですね。なおポストカードが売られていますので、自分はサラっと撮影して、背景バックで記念撮影をして、ポストカードを購入なさるのがスマートだと思います。


カメラマンと写真8

2013-01-03 03:36:46 | 写真の話し
ところであなたは写真を撮りたいようですね。カメラもあるようです。もちろんケータイカメラでも十分です。使い捨てカメラでも十分です。あ!使い捨てカメラは極めて優秀ですよ。あの機構が簡単すぎるから、シャッターチャンスはかなりとれます。単純な機構の方が使い易い実例です。

太陽がある限り、光はあります。私らの周りには様々な光源があります。全くもっての文明の光です。この光については呪いをかけたいので、あとで話しましょう。

あと必要なものは?被写体です。写したいものが無ければ写真は撮れません。

ここがポイントです。写したいものがあるのにうまくいかない人が多いのです。
まず第一に、カメラをもちたい人です。次が誰かの作品のように取りたいと思う人です。そして最後に写したいものを見失っている人です。

まず第一ですが、これはある意味論外です。例えばライカの何とかチュウーレンズのために写真を撮るのは意味がありません。もちろん私も新しいレンズやチェックのために試し撮りはします。ただ使えるかどうかのテストなので、目標があります。その目標レベルにあるのかどうかが大切で、逆にこの一点だけでは誰にも負けないレンズなんか欲しがっていますが、絶対自分で安心できるレンズが重要なのであって、味の使い分けなんか正直な所無理です。
逆に被写体がいっぱい動く訳で、というか変化します。光も変化します。その中で最適なレンズ選択なんてする前に、コイツに命をかけないと、イヤ逆だ。ダメな組み合わせでも使いこなさないとダメなんです。

実はカメラのデジタル化で、こういった話しが減ってきました。理由は簡単です。フィルムの厚さと光学素子の薄さの違いです。フィルムは何のかんのと言って、レンズ特性にあわせて多層分割しています。これがレンズの光学特性の曖昧さを吸収してきました。だがデジタルになると厚みがありませんん。真っ平らな撮像素子があるだけです。レンズの物理特性そのまんまで撮影してしまうのです。

古いレンズを、デジタルで使えば使うほど、恐ろしい幻滅にブチ当たる訳です。

現実に今、あのニコンの50㎜F1.4は使いにくいレンズです。今の新型でもイマイチです。理由は設計が古いからです。デジタルではもう難しいレンズなのではないのでしょうか。その上でライカの解像度とかツアイスのコントラストとかは、かなりの弱点になりつつあります。
両方もっていないと難しいのです。高解像度高コントラストレンズです。実際使うと難儀します。ニコンの50㎜F1.8の新型なんてそうでしょう。でもこういったレンズが今後の流れです。最強のレンズですが、過去のレンズの使いこなしを知っていると、かなり汚く見えるレンズでもあります。
固すぎるのです。でも解放で使えるデジタルレンズはそう滅多にありません。


さて我が家にはニコンの24-12ミリF4のレンズがあります。これはD-80までは一絞りから使えるレンズでしたが、現在のDー7000では2絞りのレンズに成り下がっています。


カメラの変化にレンズがついて行っていない状況があります。


カメラマンと写真7

2012-12-30 15:05:21 | 写真の話し
デジタル化になってから、いろんな人に聞かれた。「デジタルって本当はどうなんですか」


もう答えるのが嫌になって来た。「やっぱりアナログですよ」そう答えると、ホっとした顔をして「やっぱりそうですか」とため息をつかれるのも、飽きて来た。

実はかなり前からアナログは危機的な状況になっていたのだ。まずプリントを仕上げる職人が減って来たのだ。カラーネガからプリントを起こす場合なんか特にそうだ。そんな事は無い、街にはいっぱいプリント屋さんがあるじゃないのか、そう思うかもしれないが、あのシステムですら、使いこなせているプリンターがいる店はかなり限られている。
ましてや全紙などを焼けるプリンターは現在絶滅危惧種になっている。

これは経済効率の問題だ。全紙を注文する客は大体ウルサイ。ウルサイから気に食わないと言って、焼き直しさせられる。何回やっても1枚分しか料金が取れない。これでは誰もが逃げる訳だが、実際4つ切りサイズの見本を付けてもダメなのだ。そうゆうプリンターが増えた。
昔カラーで写真展をやった時、なぜかすんなりきれいに行くロットがあったのだ。その時そのラボにはプリンターが5人いるがそのうち一人が、本当のプロだったのだ。その人指定でやれば大丈夫だったのだが、それからしばらくして辞めてしまった。

最近多い言い訳には、ペーパーが違うから見本と同じようには仕上がらない、というものだ。
さて今の、あのL版とかのプリントを作る街のプリント屋さんがもっているシステムだが、実はあれはデジタルプリンターだ。フィルムを高性能のスキャナーで読み込んで、写真のカラーペーパーをデジタル向きに作り直したペーパーに置き換えて焼いている。昔と同じく焼いているのだが一気に焼くのではなく、スキャナーの逆で、ペーパーが移動しながらレーザーで露光してゆくのだ。
大体出力は320dpiなのだが、焼く時にちょっとした事をしているらしい。拡散処理と言えばいいのだろうか、dpi数よりかなり細かく見えるように処理しているようだ。だからフィルムから焼いたのと遜色は無い。

ただ厳密に見れば乳剤層が少し薄いように感じられる。若干コクが薄いようにも感じられる。

だがそのシステムを使いこなせられるプリンターが、やっぱり少ない。中身はデジタルのバケモノなのだ。何でも出来るのだが、そこまでの注文も少なく、使いこなすだけのトレーニングを積む暇もない。


デジタルも1200万画素を超える頃から写真と遜色無くなって来た。あとは色の最大濃度の問題と、色の分離だけだが、最大濃度はCCDがCMOS系に変わってダイナミックレンジが向上した。色の分離は撮像素子からのアナログ信号(撮像素子は最初っからデジタルデーターを出している訳ではない。微小な電圧の差で構成されるデーターだ)をデジタルに変換する所のbit数が12bitから14bit以上になり、色の分離が向上した。


色の分離だが、昔のケータイについていたカメラだがデジタルが10bit程度だった。それがようやく12bitになったが、スマートフォンだと14bit以上なのではないのだろうか。この差がガラケーとスマホの写真の写りの違いになっている。

デジタルはもう少し進歩するはずだ。既にアナログを凌駕している部分もある。それは流通だ。

アナログの欠点は、流通だ。限られた人にしか見せる事が出来ない。だがデジタルはいくらでも可能だ。そもそもデジカメはそうゆう発想でアップルが作ったものだ。もちろんその前からコダックが作っていたが、アップルが利用法を考えたと言ってもいい。
撮って、すぐにメールに添付して送る。例えば外出した折に、気になったカップがあった。それを彼女にプレゼントしようと思うのだが、どうしようか。そこで写真に撮っておくって聞いてみる。そういった使い方や、商談や建築の進行具合とか、百文は一見にしかず、みたいなことはいっぱいある。


そう。写真は生まれた時には誰もがどう使うのか解らなかった。だから肖像画の代わりとかになった。もしくは新しい絵画とも捉えられた。だが写真が生まれたフランスでは、悩んだあげく建築物の記録保存に使った。そしてしばらくすると、写真を交換し合うコミュニケーションツールになった。カルト・ド・ヴィッジだ。
だが日本では家族の記録とかそういった方向のみに進んだ。おみあい写真とか七五三の家族写真とか遺影などの肖像写真と、パパががんばって撮影した家族のスナップとか、そういった消費になっていた。外に出すのはせいぜい年賀状の家族写真くらいなもの。あとは来客が求めたら見せる程度。

そう出なければ逆に、他人に見せるための作品としての撮影、そればっかりだった。
その前に写真には何か呪術的な何かを誰もが感じ取っていた。死の匂いだ。なんらかのタブーがあった。なのである一定以上の年齢の女性は、写真を嫌いになる。

コミュニケーションツールにはならなかったのだ。それがデジタルになって、コミュニケーションツールとして変化しつつある。
デジタルの起こした最大の変化だ。

デジタルとアナログは、既に対立軸を失っている。使い方の問題のみだからだ。
だがアナログはますます衰退するだろう。今既に、アナログを支える基盤がズタズタになりつつあるからだ。だがニッチのように生き残るだろう。どの程度か解らないが。