goo blog サービス終了のお知らせ 

どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カメラマンと写真16

2013-01-14 02:50:11 | 写真の話し
ヨーロッパでは、店などの光に制限があると聞いた事がある。白熱電球ばかりで、ネオンとかは制限されているらしい。蛍光灯とかも事務所では見かけるが一般家庭にはとても少ないと言う。本当だろうか。
アメリカ人だと多少違うような気がする。YouTubeとかの海外の映像を見ていると、室内で蛍光灯臭い感じの映像があったりする。ただ誰もがいうのは、日本みたいにいろんな色が溢れかえってはいない。特にネオンは少ないと言う。

多分そうなのだろう。

日本の照明が天井メインなのは、多分壁が暗かったからだと思う。天井も暗かった。そういうより黒かったと言うべきだろうか。黒いから間接照明なんてムリ、反射しないから。ランプも天井から吊るしたら壁ばっかりが明るかったろう。その意味では電球はまさしく文明の光だった。

ヨーロッパもそうじゃないのか?多分答えは簡単。壁紙がランプやガス灯が出来る頃にはあったからだ。もちろん上流階級での話しになるのだろうが、そういった「お手本」があるかどうかは大きい。

なにしろ日本は文明開化以降、一気に来てしまったものだから「お手本」が少ない。本格的な洋館を建てられればともかく、旧来の家屋ではマネできない。逆に昔通りにしようとすると、例えばだ、行灯と一曲の屏風(2枚の板だけの屏風)で行灯の光を反射させてとか、電球の光は強すぎただろう。


まあ「文明」の光だったからしょうがないのか、何でもかんでも光を受け入れて使ってしまったと言うのが、日本だろうか。これに対してヨーロッパは、生活に対しての保守性があるせいか、電球にこだわっているのかもしれない。


光を出す光源については、2種類ある。熱を使うものと、原子物理を使うものだ。おおざっぱにいえば、熱系は、光がリッチだ。原子物理系はプアーとなる。
少し詳しく話そう。


熱系は、実は太陽がそうだ。あの火の玉は核融合で光っている。人類誕生以前からあるので、あの光に慣らされていると言うのもあるが、プリズムで光を分けて出来る虹色、スペクトルともいうが、ほとんど切れ目なく各色グラディエーションを描いている。たった一つだけない色があるのだが、ほぼ誤差の範囲だ。

熱系の光はそういった特性がある。連続したスペクトルをもつのだ。ローソクもランプも、薪も炭も、石炭もコークスもそうだ。ただこの順番なのだがローソクよりランプの方が燃焼温度が高い。薪より炭の方が燃焼温度が高い。高いと何が起きるかと言えば、青い光の成分が増える。石炭は赤々と燃えると表現するが、コークスは青白い光と表現するだろう。

炭だと普通だと1000度程度だろうか。コークスなら1200度以上は簡単に作れる。この少しの温度の差が光の違いになる。どちらにしても明るさのためには燃料の量が重要になる。また空気量も問題になる。ランプの芯を上げると明るくなるのは、燃料の供給量が増えるからだ。

電球の場合もそうだ。太陽の光に近くなるよう、熱を高くする必要がある。通常の白熱電球の場合、その熱源になるフィラメント、極細いタングステンの針金をコイル状に巻いたもの、その密度で熱源としての質が変わる。緩く巻いて熱が集中しないようにしたものは、寿命が長くなるが明るくない。熱が集中しないからだ。これを密に巻けば青い光が増えて色がよく見えるようになる。写真用電球なんてそうだ。カラー用の青い電球は、更に密度を高くして電球も青く着色して、太陽の光に近づけたものだ。だが簡単に切れる。写真用の青電球の寿命は以上に短い。10時間だ。タングステンは高温で蒸発し、付けている間に蒸発して細くなって切れる。
このためハロゲンを密封し更にフィラメントを密に巻いた電球がある。ハロゲン電球だ。蒸発したタングステンがハロゲンと化合して、またフィラメントに戻って循環する。実はこの電球も、フィラメントの温度で寿命が相当変わる。温度がたった300度違うだけで、1000時間と100時間になる。おまけに取り扱いが難しい。電球内での対流がうまくいかないとすぐ切れる。表面を素手でさわらないようにと取扱説明書で書いているが、放熱条件が変わると電球の中のハロゲンの流れが変わって、循環にむらが出来てしまうからだ。


リッチな光の最大の欠点は、太陽の場合時間限定だと言う事だ。天気にも左右される。次に電球系だが、消費電力が大きすぎる。ほとんどのエネルギーが熱に変わってしまうのだ。使われている光はほんの少しだ。

次は原子物理系の話しになるだろう。ただその前に、一つだけ変な光源があります。原子物理系なのですが、ストロボです。ストロボとネオン管は基本的に同じ構造です。キセノンと言う希ガスを密封した石英管に、思いっきり電気を流すと、アラ不思議連続スペクトルではないけど相当きれいなスペクトルになるのですよ。なにしろ孤高の存在である希ガスの中でも、イロイロと化学反応する変な物質でもあります。そういった特性がいいのでしょう。
だが何か解らないのですが、多分キセノンを駆使するための電圧がとっても高いためか、原子物理系の中では寿命がイマイチな光源でもあります。
パワーは凄いけど。


カメラマンと写真15

2013-01-10 02:28:14 | 写真の話し
さてホテルの話しになったが、実際室内での光源は、昔は横にあった。日本だとあんどんだ。これにしたって日本では江戸時代まで菜種油が高価すぎて、庶民は使えなかった。ローソクなんてもう本当に高価。ほとんどがいろりとかで光をとっていたのだろう。これは実際ヨーロッパでもそうだったようで、暖炉の光とかを使っていた。

更にだ、ヨーロッパの家は窓が小さい。これは更に光が横にある状態になる。

でっかい窓や、豪華なシャンデリアは実際17世紀を超えないと出てこない。板ガラスの量産が出来るようになってようやくだ。しかも王くらいしか使えないものだった。シャンデリアも昔は全部ローソクが光源だった。あのガラスは多分、ローソクの数をより多く見せるための工夫なのだろう。キラキラひかるガラスは、30本のローソクを100本にも見せたのだろう。

とにかく暗いのだ。

この暗い部屋に画期的な商品が表れた。ランプだ。いままでのローソクの何倍も明るい。まぶしいので、天井に吊るすようになった。しかし構造上、真下に光が届かない。そこで天井や壁から反射する光で生活していた。

さて間接照明の始まりだ。だがもっと明るく、例えば本を読もうとすると横に置くしか無い。芯の高さの調整で明るさを変えられるから、まぶしさも多少は和らいだろう。

革命が起きたのは、エジソンの電球の発明だ。ランプのように真下がダメとかそういった事がない。軽くてランプより明るい。いままでと効率も違う。ホヤを磨いて油を足してと言う作業がない。
ただやっぱり明るすぎたのだと思う。横に置かれる事はもう無くなった。横に置いても、ライトスタンドのように傘で相当に弱くして真下を照らす程度に抑えられた。

いまでもヨーロッパは、家のなかってこんなもんだろ、と言う具合にサイドライトを多用している。ホテルはその流儀にそっている。そしてほの暗い雰囲気で、豪華さを演出している。

「陰影礼賛」になってきた。

実は写真のライティングの基本は、そうとうにイレギュラーなものだ。天が一番強く柔らかい光源で、横は演出的な役割になっている。なぜこうなったのかと考えれば、写真はその生まれから屋外のものだったからだ。初期のダゲレオタイプ、あの銀盤に映し出される一点ものの写真だが、感度がめちゃくちゃ低い。好天下で10分とかかかっていた時代だ。明るいレンズが作られてなんとかなったが、露出に相当の時間がかかったのは間違いがない。
実はこれが影響している可能性がある。
その上、もしかするとロマン派の、自然の発見、と言うものがあるかもしれない。人類は長らく自然であったが、文化文明が進むにつれて、分離して行った。だがそれに気がつかなかった。気がついたのはロマン派の文学者だった。


科学が、ロマンを切り開いた瞬間かもしれない。当時「太陽の鉛筆」と言う写真集がある。カロタイプを生み出したイギリスのタルボットの作品だ。いまでもこの写真集にある、写真の利用法は、変わっていない。芸術にもなれば記録にもなる。そういった訴えがある。
いま追加されたのは、「共有」と言う概念が強調されたことだろうか。


ロマン派の幻想は、写真の出来の悪さで一蹴された。フランスは絵画の代わりにするのをためらい、イギリスは絵画とは違うが、これってイインジャねと言い放ち量産できる方法を開発し、ドイツは最後に印刷とあわせてグラジャーナリズムを発明した。

この間たった50年しかないのだが、これが近代というものだ。


またしても大脱線してしまった。


カメラマンと写真14

2013-01-09 00:19:00 | 写真の話し
今一番悩むもの、それは光です。

カメラ、被写体(テーマを含む)、ときて写真を撮るのに必要なものは光です。そう思って自分の書いた記事の初めを読んだらビックリ。聖書のパロディをやっていないだけではなく、もう放り投げています。

なのでここは少し詳しく。実はめんどくさい事が横たわっています。

まず写真の発明以前から、いや絵画の発明以前から太陽があったので、上に光があると言う生活に人は慣れています。なので上に光源があった方がいいと言われています。で、大体間違っていません。

ただこの説だと、朝日や夕日はどうなんだとなります。ドラマティックでかっこいいですね。実際絵画でも多用されています。
多分ですが、答えは簡単で上に光源があった方が、ものはよく見えるということです。もちろん写真の初期の、あの感度が低かった時代では、昼間しか撮影できなかったから、それが影響した可能性もあります。
室内照明を考えれば簡単です。上からの光が一番影を作らず全体を照らす事が出来ます。なのでオフィスや会議室はそうなるのでしょう。

さてリラックスできる居間ですら、日本人は隅々まで見渡されるように天井に灯りがあります。この潔癖さは凄いと思いますが、ホテルなのでは間接照明が多用されています。光が上から来るのではなくて、横からフワっとくるイメージです。なおコマーシャル写真のほとんどは間接照明で撮影されています。多分ワット数からいっても間接光が主です。

ちょっとうんちくを。撮影で使う光源は何でもいいのですが、光源体が直接被写体にむき出しになっているものを、私は「生」と読んでいます。被写体に当たっている部分がキラキラする効果があります。ただ強い影が出ます。裸電球のライティングでしょうか。生な光に対して、トレーシングペーパーや薄い布で光を拡散させたものはデフューズといいます。弱い拡散光になります。影が弱くなります。
生な光を、箱で拡散させて更にデフューズさせたものをバンクと言います。バンクはもの凄く自然な影を作ります。

さて大きな壁面に光源体を向けて、被写体に直接当てない方法があります。バウンスといいます。このバウンスも、撮影用の内側が白い傘でやる場合と、それ用の板を使う場合と、単純に白い天井を使う場合があります。
バンクより面積が大きくなるので自然なライティングになります。場合によってはバウンスをデフューズして更に影を消してゆきます。
ホテルの天井は、大体白いです。バウンスと言う技法は間接照明と同義です。間接照明は光の損失が大きいので、天井からの拡散光も計算に入れなければ、かなり暗くなるからです。


さて間接光がなぜホテルで多用されるのでしょうか。それは多分安心感を演出するためです。なお今の新幹線も全面間接光です。それでも上からの光源になるように設計されています。多分室内の狭さを見せないような演出なのかと思います。天井が一番明るいので、高く見える効果が出ます。
ホテルではさりげなく横からの光があります。もしかするとディナーの席にはキャンドルがあるかもしれません。そうすると、下からの光になります。
室内では、上、横、ベットサイドと光源があります。もちろんお客様の利便性のためなのですが、「生」光と「間接」光の割合では、圧倒的に間接です。

なぜなのでしょうか。

そういいつつ、もう考えている事から相当逸脱してしまった。LEDの悪口を言いたかったのに!キー!


カメラマンと写真13

2013-01-08 23:32:50 | 写真の話し
この項は基本的に行き当たりばったり書いている。なのでどうもうまくいかなくなる。

さてカメラマンをやっていると、基本的に被写体は選べられない。だがそれをどうするのかと言う方向だけはある。
テーマだ。例えば食品の写真は基本「おいしそう」でなければいけない。あとはその商店の属性で決まる。安いんだけど豪華とか、ひたすら上品にとかになる。
ただそれでも基本のライティングは決まっている。なぜか?普段とあんまり違和感がないようにするためだ。その中でイロイロなテクニックがある。

実は被写体を見つけましょうと言う事は、テーマを見つけましょうと言う事だ。被写体を見失うと言うのは、テーマが粉砕されたり、腐ったりと言うのが本当の所だ。たまに衝撃的な事件があって、発表できないとかそうゆうのもあるかもしれない。ちょっと名前を忘れたが、戦場カメラマンでイラクの死産児たちを撮った写真があったが、このところ見ない。出ても良さそうなのだが、出ていないと言う事は福島の事故のせいだろう。


最も重要なテーマは、自分と「なんとか」になる。例えば自分と「彼女」とかだ。被写体は「彼女」だが、実は撮影している自分との関係性を撮影しているのに気がつかないと、まずアウト。写真の私と、今の私とどちらがいいのとなる。それこそ被写体を見失うどころか、失いかねない。
最高のお手本がある。荒木経惟の「センチメンタルな旅」だ。エロ部分はともかくとして、夢中になっている自分と彼女の関係を、冷静に見つめていながら、やっぱり愛していると言い放つ作品だ。


関係性、このバランスが難しい。

とはいえ写真には客観性がある。この客観性を全面に出せば多少はこのバランス問題から抜け出す事が出来る。例えば建築写真とか、歴史資料の写真とかがある。これらは技術的な問題が多すぎる。だからプロが呼ばれる。建築写真なんてある意味技術さえあれば誰でも出来る。なにしろ建築物の個性がこの位置から撮れと言ってくるのだから。難しい所は少ない。ただ引きが無いとかそういった物理的な問題が多き過ぎるだけだ。

ここからが更に難しい事になる。


昔、あるカメラマンが複写の仕事でも気合いが必要だ、とのたまわっていた。どうゆう事なのだろうか。左右から同じ量の光を均等に当てて、調整して撮影すればいい話しだ。それ用のスタンドもあるしレンズ等もそれ用のを使えば問題が無い。ただ単に、紙からフィルムに移すだけの作業だ。

友人が実験をした。ものを用意して、同じ光源で、ものは移動せずさわらせず、カメラを三脚に固定してレリーズを付けて、何人かの美大の学生に撮影してもらった。その写真を現像してプリントして、バラバラな状態で皆に見せたら、自分の撮影した写真がどれかを言い当てたそうだ。
つまり複写でも、関係性は写り込む、ということだ。気合いも目に見えてしまうようだ。


カメラマンのハイテンションと言うのは、実際そういった所にあると思う。モチベーションの低い状態では、低いレベルの仕事になりがちだと解っている。かといって長期間のスパンの撮影だとハイテンションはおろか、モチベーションのコントロールも難しくなる。またお祭りのように短期間の仕事はハイテンションがいいが、長くなるとそれでは互いに疲れてしまう。こういった問題はある。


さて、被写体をどうしようと思ったら、やっぱり人です。これは最強です。
人は人に反応します。これは可愛いとか美人とかイケメンと言うだけではありません。人であればだれもがその写真に反応します。これは人の直接的な本能です。なので人を撮れば大体は間違いがありません。子供と言うのは更に強です。
とはいっても、人が今一番撮影が難しい被写体です。肖像権のあの拡大っぷりがどうしようもありません。


カメラマンと写真12

2013-01-07 02:25:38 | 写真の話し
さて被写体を見失うと言う事はどうゆう事なのでしょうか。

前回までイロイロ遠回しにいってきました。
例えばあるテーマで撮影を続けていたのが、その被写体が変化し、自分も変化してしまった。しかしルーティンワークみたいになって、互いにそれに気がつかなくなった。

とか、

マンガのチビまる子ちゃんのシリーズで、カメラ好きなお父さんが娘を被写体にがんばって写真を撮っているうちに、娘は写真嫌いになってしまったとか。(この話しは笑えない。実例がゴマンとあるのだ。マジでだよ。ほんと)

とか、

夢中になるあまり、自分の困窮化に気がつかなかった。

とか、

これは前回指摘しましたが、有名カメラマンの写真通りにしようとして、被写体の事を忘れていたとか、まあいろいろあります。
自分が単純に飽きてしまったと言うのもあったりします。


継続は力なりと言いますが、この辺りが実は一番難しい所です。例のうち、お父さん例以外は全部やってしまった事です。まず第一の例を使って話しをしましょう。

あるグループをずっと撮影して来たのですが、ある年から構成メンバーのメンタルが相当変わって来たのです。ただそれには気がついていたのですが、私は表現の方法を変えていなかったのです。軋轢は生まれなかったのですが、距離を置く事にしました。
この場合、見失う前に撮影を打ち切ってしまう必要がありました。もしくは人間関係を維持するために最低限におさえるとかが必要でした。ただ互いに甘える関係になってしまって、もうこりゃダメだとなったのです。

困窮化はいうまでもありません。ちょっと夢中になりすぎたかなと反省しています。とは言ってもカメラマンとしてやって行く上では、とにかく写真を撮りまくらないといけないのは間違いがありません。

頭で考える前に、身体が反応するレベルが大切です。それが出来なければ、周囲のありとあらゆる条件を把握して頭ん中がカラッポになるほどに情報を集めてシャッターを切ると言う、何か分けの解らん世界の話しになります。

土門拳が撮影中、「鬼が来る」と言っていたそうですが、まず過集中の事だと思われます。

正直な所、オススメしません。この状態。コントロール出来る人ならいいですが、かなり難しいです

普通は、こういった撮影をするとシュミレーションします。いろいろ想定します。被写体の変化がも著も重要なシュミレーションになります。とはいっても細かい手数は考えないと言う事が重要です。例えばズームレンズは手数を減らせます。それ以上に、自分がどこに立てれるのかをシュミレートします。
大体立ち位置で写真は決定します。どこにいるのか、その時いたのかで決定されます。

最適な場所で、その時にいたのかどうかです。実は表現を超えた偶然性なのですが、それが写真と言うものを決定している側面があります。

ますます混迷を深めてゆきますが、次回へ。