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どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カメラマンと写真6

2012-12-30 14:03:30 | 写真の話し
昔、自分の事を写真家と言っていた。最近ではカメラマンと言うようになった。これはデジタル化の影響だ。
もう少し控えめな表記にした方がいいと考えたのだ。


昔いつものカメラ屋の社長が、「M野さん、いつから写真家になったのですか」とイヤミを言って来た。「税金の確定申告以降です」、店内大爆笑だった。

まあその頃から写真家って偉すぎないのか、と考えていた。だがアナログのものつくりに近い作業が、やっぱり家業的な、そんな感じをもっていた。写真展も何度か開いたし、まだ公開していない作品もある。なので写真家と言えばそうなのだが、ちょっと変わって来たのだ。

やればやるほど、テーマが重要になってくる。そしてそれ以上に個性が大切になる。しかも突出した何かがだ。最後に開いた写真展には、実は対になる企画があった。大体まとまっていたのだが未だもって仕舞いっぱなしになっている。最後がある意味、シューベルトの「冬の旅」でかなりマジメなものだった。真冬に、ひたすらほっつき歩いて撮影したものだ。対になるのは「パーソナルドキュメント」を超えて「写真で大嘘をつく」で、太宰治の「津軽」のパロディだった。


そう、自分の趣味がどんどん変わってゆき、撮る写真がどんどん軽くなってゆく。そういったのが解って来た時期だった。当ブログでは、そういった所も実験的にやっている。今の自分の一番軽い所を前面に出す、そういった具合だ。


アナログからその手触りとか物質性を取り除いたものが、デジタルだ。そこで重要なのは、ますます必要になったテーマと個性だ。軽くフワフワした自分が、写真家と名乗るのには既に限界が来ていた。



写真家と名のった頃から大切にしている言葉がある。ロラン・バルトの「明るい部屋」の最後の文章だ。

「愛と怖れに満ちた意識に、『時間』の原義そのものをよみがえらせるなら、『写真』は狂気となる。」

この言葉からどんどん離れてゆき、「方丈記」へと向かってゆく気がする。
ポスト・モダンそのものの中に写真が投げ込まれている。その中では、テーマから個性からすべてが流転してゆくのだ。そして私そのものも翻弄されている。



その中で「作品」を作るとはどういった事なのだろうか。「作品」の「不可能性」すらも感じてしまう。


さてデジタルで最も怖れている事は、データーを何で保存しようが、いつかは読めなくなってしまうことだ。実際今あるデジタルデーターの最も古いのは16年前のものだ。このデーターはCD-Rで保管しているのだが、読めなくなったデーターがある。それでは何年かにいっぺんバックアップのバックアップを作るべきだとなるが、もう手に負える量では無くなっている。それにいくらデジタルだって10回もコピーすればデーターが劣化する。
それではクラウドサービスはどうかとなるが、現時点で20Tはあるデーターを保管してもらうだけでかなりな金額になる。それではいっその事、フォトシェアのサービスにぶち込むかとなるが、趣旨が違いすぎるし彼らに迷惑だ。


頼まれて結婚式の写真を撮る場合、デジタル入稿なのだが、絶対写真も付ける。両方ダメになる事もあるが、写真だったらカビが生えようが脱色しようが、なんとか見れるし残る。
ロラン・バルトの言葉通りに写真がなるためには、見れないとしょうがないのだ。


カメラマンと写真5

2012-12-30 13:10:34 | 写真の話し
アナログのいい所は、なんといっても目で見えることだ。デジタルは直接的には見えない。コンピューターを通して、そのCPUで計算され、モニターのGPUによって書き出されたものだ。そうやってモニターの表面に見える。
実はこれが厄介で、ウチのモニターと隣のモニターで見え方が変わる。だからカラーキャリブレーションと言うのが流行った。カメラとコンピューターのモニターとプリンター、印刷所のモニターと製版機の色を統一しましょう、そういったものだ。
だがなかなかうまくいかない。なんでそうなるのかと言う事で、結局カメラマンのモニターに責任が押し付けられる。カメラマンとしては、品質保証の意味があってキャリブレーションをする事になる。だがそのコストは大きい。

自動キャリブレーションの装置があった。モナコという商品だったと思うが、モニターの中心部に観測器を付けて、いろんな色を連続して出して、その観測結果からキャリブレーションすると言うものだった。契約している会社が、オマエのモニターがおかしい、ウチのを使えと言ってモニターがやって来た。キャリブレーションにウルサイ会社だったのだが、そのモニターどうみても何かがおかしい。画面の周辺と中央部の色が違うのだ。

モナコの使い過ぎで、画面中央部が焼けていたのだ。これではキャリブレーションと言っても限界がある。そもそも見えている絵が狂うのだ。それを会社に言うと、それでもそれでもそのモニターを使えと言う事だ。
キャリブレーション信者になっていたのだ。

実はデジタルの導入は速い方だった。とは言ってもデジカメに移行するのはとても遅く、アナログをデジタルに置き換えて使うのが長かった。なのでキャリブレーションの意味は解っている。出来る限り徹底してやっていたのだが、ある時アドビのキャリブレーションで十分だと気がついた。むしろ自分の感覚をどうキャリブレーションするのかが問題であると。基準は写真屋にデーター持ち込んでプリントをする事だった。そうしてズレを修正してゆく。

さて最近キャリブレーションの話しは聞かない。理由は簡単だ。液晶モニターが普及したからだ。特にLEDバックライトの液晶モニターの融通が利かないからだ。ヘタにキャリブレーションすると、もの凄い画が映し出されるようになる。キャリブレーションの意味が全くない。多分そのせいだろう。


アナログのいい所は、現像が終わって出来た結果そのもの、それ以上もそれ以下でもないからだ。プリントしようが印刷しようが、その原盤に忠実でなければいけない。とてもシンプルだ。

フィルムの中で、魔法のように分子が動き回り、画が浮かび上がってくる。まあそのためには、フィルムのロットや露出とか光源に対してとか、現像所によって更に考えるとか、様々な事に気をつけて撮影しなければならないのだが、出来上がった結果はどこに持って行っても同じなのだ。これ以上確かなものは無い。


デジタルはその点相対的だ。クィックタイムで描画した場合と、フォトショップで描画した場合とで見え方が違う。モニターの質も影響するし、OSすらも影響してくる。ここがデジタルの嫌な所だ。


カメラマンと写真4

2012-12-30 03:20:18 | 写真の話し
次からはアナログvsデジタルの話しになります。

私の仕事のほとんどが、現在デジタルです。アナログは昔の機材を維持するために撮影する程度で、うっかりすれば忘れてしまうほどです。

さてこの対立は、よく言われているほど難しいものではありません。
まったく別な映像手段だからです。比べる必要もありません。それでもアナログに圧倒的な優位を感じます。これは簡単です。フィルムサイズを変える事が出来るからです。そしてフィルムの特性です。

例えばアメリカの著名な、いや神と言っていいアンセル・アダムスは、8インチ×10インチサイズのフィルムを使っていました。彼らはレンズの絞りを極限まで絞って撮影するので有名です。F64グループと言っていたほどです。当時のレンズの性能、特に大板カメラ用のレンズの解像度が悪かったのも原因ですが、ここまで絞るとレンズの性能が極度に悪くなります。大体64線/ミリです。今言われている単位では、1500dpi程度でしょうか。当時のフィルムの解像度がその程度だったと言う説もあります。
ただ作品を目の前にすれば、圧倒的な情報量を感じるはずです。なぜでしょうか。
実はアンセル・アダムスですが、アメリカの教科書を作るほどの理論派でした。撮影の段階でフィルムに移すデーターを考え、現像でプリントイメージに一致させるように、コントロールしているのです。その結果フィルムの機能から、印画紙の機能までフルに使うのです。
さてF64まで絞って撮影した映像と言うのはどういったものなのでしょう。実はピントがボケています。全体で見ればあっているように見えるのですが、小さく見ると少しにじみがあるのです。これはどういった事なのかと言えば、レンズについている絞りから、光の回折効果でピントがあっていても光が集中しないと言う現象が起きるのです。

しかしですね、フィルム上に散らばっている銀塩からみれば、このにじみが作るグラディエーションが大切になります。実はフィルムには特殊な現象があります。フィルムはベースになるプラスティックの上に、ゼラチンと銀塩を混ぜたものを塗って出来ています。この混ぜたものを乳剤と言っているのですが、たしかアダムスの時代でもこの乳剤を4層程度には重ねていたと思います。フィルムベースのプラスティックから、接着層(ベースからの反射を防ぐために色素添加)高感度乳剤層、低感度乳剤層、そして保護層となります。光が入る向きから言えば、保護層は出荷から現像が終了しても、一枚膜があれば傷つく怖れが無い、もしくは回復できるためにある層です。次に低感度乳剤層になりますが、これはフツーですね。そして高感度乳剤層は、2層を通って減衰した光に対して反応できるようにしたものです。低感度乳剤を単純に厚くすれば、実は高感度になります。ただ厚さの分だけ解像度の低下が大きいので、2層に分けるのです。
ちょっと解りにくいと思いますので、光を円錐だと思ってください。さきっちょだけで反応したら解像度が上がります。でも根本まで来たら根本の太さが解像度の限界です。フィルムは薄ければ薄いほどいいのです。ただ物理的に限界があります。そこでこういった多層構造になるのです。
カラーフィルムだと最低12層程度に薄く作られています。もっと多いと思います。

ベースとの接着層に色素を入れるのは、ケースバイケースです。ただ必要な層です。これをなんと言えばいいのでしょうか。ミルフィーユの一番下、とでも言いましょうか。フィルムの固さとゼラチン層の固さのつなぎと言えばそうなります。


さて長くなりましたが、化学反応で現像するのですから、実は余分なものが出ます。その余分なものが周りの化学反応に影響するのです。代表が塩化銀の、その塩です。ハロゲンと言いますが、それが銀から分離される反応、還元反応というのですが、切り離されて分散してゆくのですが、それが光の当たった強度で量が変わります。量が多い所は量の少ない所に分散してゆきます。同じ仲間がいる所はイヤだと言う事です。なので明暗の差が大きい所にはなぜか自動でエッジが出来てしまいます。ハロゲンはせっかく還元された銀と反応してしまうからです。

さてカラーフィルムとかになると更に複雑です。RGBの色の層が干渉し合うのです。しかもフィルムの薄い層の中で複雑な工程が起きます。
各色の層の、感度層に牽制しつつも、アンシャープマスクをかけつつ全体を制御している、とでもいいましょうか。

レンズから来た適切な光がフィルムに当たって、それが現像されて画になるのですが、フィルムの中では実は複雑な事が起きているのです。


さてアンセル・アダムスですが、フィルムと印画紙を密着させて、写真を焼いていました。最も写真表現としては理想です。直接的な表現だからです。
コンタクトプリントには拡大と言う作業はありません。直接と言う意味で、コンタクトプリントと言うのですが、35ミリだろうが何だろうが、コンタクトプリントの生々しさはすごいので、どこかで体験して頂ければ。だけどインパクトはありませせん。
大きく引き延ばされてプリントされている作品があります。それでもアダムスの価値は変わりません。なぜなのでしょうか。拡大倍率の問題はありますが、フィルム上に残されたにじみが関係していると思います。

レンズからのにじみと、複雑な化学変化によるフィルムの出来上がり。にじみとフィルムと現像方法が単純な拡大倍率の話しと違うのです。


アンセル・アダムスは本当に神様なのですよ。アメリカで写真の教科書を作っただけではなく、1940年代以降の写真表現を決定づけて、なおかつ、アメリカが愛する作品を作ったのですよ。


次は、やっぱりアナログ擁護にしましょう。


カメラマンと写真3

2012-12-29 02:31:51 | 写真の話し
カメラと言うのは、ラテン語で「箱」を意味する。今あるカメラは、正確にはカメラ・オブスキュラ、「暗い箱」である。まあ箱にレンズとピント合わせのためのガラスを付けて、フィルムが撮像素子があれば、写真を撮影する事が出きる。その際脇から余計な光が入らないようにするために「暗い箱」が必要と言うだけだ。

なのでそういった一連のシステムを備えていれば、写真は撮れる。ビデオカメラだって撮れる。ムービーフィルムだってカット出しでやればいいはずだ。現実に行われている。

ただここで厄介なのは、道具としてのカメラの進化だ。なぜカメラが必要なのかと言えば、この一点につきる。止まった画、ということでムービーに対して「スティル・カット」と言われる写真なのだが、人が手元でじっくり観察できると言う特徴がある。ムービーは動いているのであの大画面であるのにレンズの解像度が実は要求されなかった。これに対して写真は要求されたのだ。あとブレは禁物だ。ムービーは実は被写体がかなり動いているので、切り出したカットはかなりぶれている可能性がある。


使い勝手の問題も大きい。だがその意味では今の携帯やスマートフォン、そしてiPodなりの機材でもかなり使えるものになっている。レンズが交換できない程度だろうか、不便さは。


ただカメラマンとしては、なかなかそこまで踏み切れない。まず画の基本になる解像度や色を揃える必要がある。どうゆう事かと言えば、例えば1ページに5点写真を掲載する仕事を受けたとする。その写真の色味や解像度がバラバラだったらどうなるだろうか。ページがデコボコ見えてしまうのです。この写真は出っ張ったりとなりは引っ込んだり。
なのであるラインのレンズを揃える必要になります。
キャノンのレンズがお高い理由はこの辺りなのです。キャノンのお高いレンズは、本当に良く出来ていますよ。


さてこの問題に対しては、簡単な方法論があります。機材を固定する事です。例えば森山大道は、オリンパスの「μ」というカメラで写真を撮っていました。シリーズ全部これです。なのでスマホならそのカメラで一貫して撮影すればいい事になります。


なので、カメラ素子をもったものでも写真は撮れるし、作品まで昇華できるのは間違いがありません。ただし他の機材を交えて展示する場合には、もの凄い計算が必要になります。


実は何をやりたいかで、機材が決定するのです。なので実はカメラは必要ありません。カメラ機能がある機材なら何でもいいのです。
だけどカメラマンは、多様なニーズに対応するために、カメラと言う機材を選択しています。


カメラマンと写真2

2012-12-28 00:42:23 | 写真の話し
視線の話しの前に、もう一つか二つ。

カメラはなぜ必要なのでしょうか。

もちろん写真を撮るためです。
でも旅行先で、「心に風景を刻み込む」ほうがかっこいいと言われていました。
さて旅行先で写真を撮ったのと、心に刻み込んで言葉で語った方と、どちらがいいのでしょうか。

写真は程々に、隣にいる友人や見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しみましょうと言うのが今の私の答えだ。
そして適当に撮ってフェースブックなりに載せてイイネ!を取るほうが正しいだろう。
今ではね。

さて写真の起源で、やはりオートマティックと言う考えがある。元々の発明家は木口印刷の精密化と簡素化を狙っていたフシがあるが、それがどうこうしてダゲレオタイプと言う写真術になった。実は被写体に対してもの凄い苦痛を与えるのだが、それでも手間は省けた。ここに様々な、涙ながらのドラマがあり訴訟になったりするのだが、最も重要なのはその発明を利用する方法がイマイチ解らなかったのだ。逆に初めて成功した写真が、どうでもいい窓からの風景だった。そこまで未知の技術だった。
肖像写真が最初の利用法だった。最初の成功から、いちばんのハードルが人像写真だった。これを証明できなければ誰もが納得しなかったのだ。
発明された写真だが、初めに発明国のフランスが、都市開発と重要建設物のために写真を使う。そしてイギリスなのだが、ネガ・ポジ法を発明して大量複製の道を開いたにもかかわらず、芸術写真と言う道を開いてしまう。そしてドイツは遅れてワイマール共和国で最新の印刷技術で、フォトジャーナリズム、あの震災で海にプカプカ浮かぶ、アレを今でも掲載する文化を生んだのだ。
そしてイギリス生まれのネガ・ポジ法が、フランスに渡って名刺サイズの写真を一気に作る方法で流行する。
この流れだけでも、実は50年くらいの、しかも当時の技術発展の歴史が凝縮されているのだが、写真の利用法としてはあまり変わっていない事に気がつく。
工事現場の記録写真、フェースブックの顔写真、そして森山大道がまだ健在な理由。


なぜカメラが必要なのでしょうか。
答えは簡単です。道具だからです。
ビデオのワンショットとどこが違うのか、これも簡単です。ちょっとした気分の問題です。


ベイ・ブルースが健在な頃でしょうか、アメリカの大リーグでのカメラの写真を見た事があります。大リーガーがカメラマンをからかってカメラを取り上げて自分でのぞいているのです。
そのカメラはみかん箱です。そのサイズ。フィルムのサイズは大体A4です。8×10です。スポーツ写真でですよ!


もうこの頃にはドイツのライカはありますしローライもあります。なぜこの巨大サイズに彼らはこだわったのでしょうか。あのコダックの生まれた土地です。

答えは簡単です。彼らは写真の結果にこだわったからです。より精密に、更にプロだったら巨大な方向にこだわったのです。
私はこの方向がとんでもなく憧れます。あのみかん箱のカメラを私がぶん回す姿を望みますが、残念ながらフィルムがない。あるが高い。


香港活劇姉妹の舞台撮影は、初めっからブローニーで6×6であった。
デカイほうが楽しいのが写真だった。あの余裕が重要だったのだ。


なぜカメラが必要なのでしょうか。



続く