昔、自分の事を写真家と言っていた。最近ではカメラマンと言うようになった。これはデジタル化の影響だ。
もう少し控えめな表記にした方がいいと考えたのだ。
昔いつものカメラ屋の社長が、「M野さん、いつから写真家になったのですか」とイヤミを言って来た。「税金の確定申告以降です」、店内大爆笑だった。
まあその頃から写真家って偉すぎないのか、と考えていた。だがアナログのものつくりに近い作業が、やっぱり家業的な、そんな感じをもっていた。写真展も何度か開いたし、まだ公開していない作品もある。なので写真家と言えばそうなのだが、ちょっと変わって来たのだ。
やればやるほど、テーマが重要になってくる。そしてそれ以上に個性が大切になる。しかも突出した何かがだ。最後に開いた写真展には、実は対になる企画があった。大体まとまっていたのだが未だもって仕舞いっぱなしになっている。最後がある意味、シューベルトの「冬の旅」でかなりマジメなものだった。真冬に、ひたすらほっつき歩いて撮影したものだ。対になるのは「パーソナルドキュメント」を超えて「写真で大嘘をつく」で、太宰治の「津軽」のパロディだった。
そう、自分の趣味がどんどん変わってゆき、撮る写真がどんどん軽くなってゆく。そういったのが解って来た時期だった。当ブログでは、そういった所も実験的にやっている。今の自分の一番軽い所を前面に出す、そういった具合だ。
アナログからその手触りとか物質性を取り除いたものが、デジタルだ。そこで重要なのは、ますます必要になったテーマと個性だ。軽くフワフワした自分が、写真家と名乗るのには既に限界が来ていた。
写真家と名のった頃から大切にしている言葉がある。ロラン・バルトの「明るい部屋」の最後の文章だ。
「愛と怖れに満ちた意識に、『時間』の原義そのものをよみがえらせるなら、『写真』は狂気となる。」
この言葉からどんどん離れてゆき、「方丈記」へと向かってゆく気がする。
ポスト・モダンそのものの中に写真が投げ込まれている。その中では、テーマから個性からすべてが流転してゆくのだ。そして私そのものも翻弄されている。
その中で「作品」を作るとはどういった事なのだろうか。「作品」の「不可能性」すらも感じてしまう。
さてデジタルで最も怖れている事は、データーを何で保存しようが、いつかは読めなくなってしまうことだ。実際今あるデジタルデーターの最も古いのは16年前のものだ。このデーターはCD-Rで保管しているのだが、読めなくなったデーターがある。それでは何年かにいっぺんバックアップのバックアップを作るべきだとなるが、もう手に負える量では無くなっている。それにいくらデジタルだって10回もコピーすればデーターが劣化する。
それではクラウドサービスはどうかとなるが、現時点で20Tはあるデーターを保管してもらうだけでかなりな金額になる。それではいっその事、フォトシェアのサービスにぶち込むかとなるが、趣旨が違いすぎるし彼らに迷惑だ。
頼まれて結婚式の写真を撮る場合、デジタル入稿なのだが、絶対写真も付ける。両方ダメになる事もあるが、写真だったらカビが生えようが脱色しようが、なんとか見れるし残る。
ロラン・バルトの言葉通りに写真がなるためには、見れないとしょうがないのだ。
もう少し控えめな表記にした方がいいと考えたのだ。
昔いつものカメラ屋の社長が、「M野さん、いつから写真家になったのですか」とイヤミを言って来た。「税金の確定申告以降です」、店内大爆笑だった。
まあその頃から写真家って偉すぎないのか、と考えていた。だがアナログのものつくりに近い作業が、やっぱり家業的な、そんな感じをもっていた。写真展も何度か開いたし、まだ公開していない作品もある。なので写真家と言えばそうなのだが、ちょっと変わって来たのだ。
やればやるほど、テーマが重要になってくる。そしてそれ以上に個性が大切になる。しかも突出した何かがだ。最後に開いた写真展には、実は対になる企画があった。大体まとまっていたのだが未だもって仕舞いっぱなしになっている。最後がある意味、シューベルトの「冬の旅」でかなりマジメなものだった。真冬に、ひたすらほっつき歩いて撮影したものだ。対になるのは「パーソナルドキュメント」を超えて「写真で大嘘をつく」で、太宰治の「津軽」のパロディだった。
そう、自分の趣味がどんどん変わってゆき、撮る写真がどんどん軽くなってゆく。そういったのが解って来た時期だった。当ブログでは、そういった所も実験的にやっている。今の自分の一番軽い所を前面に出す、そういった具合だ。
アナログからその手触りとか物質性を取り除いたものが、デジタルだ。そこで重要なのは、ますます必要になったテーマと個性だ。軽くフワフワした自分が、写真家と名乗るのには既に限界が来ていた。
写真家と名のった頃から大切にしている言葉がある。ロラン・バルトの「明るい部屋」の最後の文章だ。
「愛と怖れに満ちた意識に、『時間』の原義そのものをよみがえらせるなら、『写真』は狂気となる。」
この言葉からどんどん離れてゆき、「方丈記」へと向かってゆく気がする。
ポスト・モダンそのものの中に写真が投げ込まれている。その中では、テーマから個性からすべてが流転してゆくのだ。そして私そのものも翻弄されている。
その中で「作品」を作るとはどういった事なのだろうか。「作品」の「不可能性」すらも感じてしまう。
さてデジタルで最も怖れている事は、データーを何で保存しようが、いつかは読めなくなってしまうことだ。実際今あるデジタルデーターの最も古いのは16年前のものだ。このデーターはCD-Rで保管しているのだが、読めなくなったデーターがある。それでは何年かにいっぺんバックアップのバックアップを作るべきだとなるが、もう手に負える量では無くなっている。それにいくらデジタルだって10回もコピーすればデーターが劣化する。
それではクラウドサービスはどうかとなるが、現時点で20Tはあるデーターを保管してもらうだけでかなりな金額になる。それではいっその事、フォトシェアのサービスにぶち込むかとなるが、趣旨が違いすぎるし彼らに迷惑だ。
頼まれて結婚式の写真を撮る場合、デジタル入稿なのだが、絶対写真も付ける。両方ダメになる事もあるが、写真だったらカビが生えようが脱色しようが、なんとか見れるし残る。
ロラン・バルトの言葉通りに写真がなるためには、見れないとしょうがないのだ。