デーヴィット・アイクは何者か?
敢えて表現するなら、
デーヴィット・アイクを演ずる意識体と言うことになる!!
同じく、人それぞれ固有の名を持つ、
アクターであり、アクトレスである。
これは、演劇、ないしは映画に喩えて考えるとよく分かる。『大いなる意識』は、アクター、アクトレスでない、本当の自分である。シナリオは既に出ている。そして、そのシナリオには、物語を盛り上げるために、様々な趣向が巡らしてある。趣向が込み入って精巧であればあるほど「物語は盛り上がる。当然である。その中で、人は役になりきるために演技を凝らすのである。
そう言うことになるであろう。人間は、今(シナリオ)を無限の時間軸を持った空間において、役(想念)演じている存在である。それをシナリオを書いた本当の自分が観ている。それが大いなる意識と一体化した本当の自分である。
想念はデーヴィッド・アイクの言う、マインドであろう。広い意味で、人生とはマインドトレーニングかも知れない。マインドコントロールされることではない。マインドの状態、つまり想念の状態により、時間は容易に変化する。究極の喜びは、時間が止まるし、究極の悲しみは時間が永遠となる。
デーヴィット・アイクは、現代というステージに咲いた、『大いなる意識』の伝達者かも知れない。確かにそう言う側面を感ずる。単なる陰謀論者ではないことは確かである。
陰謀は、想念の集大成である。只、『大いなる意識』に依るものでないことは確かだ。陰謀は想念に依って、想念に作用する。あらゆる策略も謀議も、想念の方向性に依って決まる。そして、そのエネルギーは想念の力に作用される。その力が大きければ大きいほど、方向性と作用はベクトルとして作用する。あらゆる事が可能だ。
少々、難しいことを書いた。概念を表現することは難しい。まあ、お許しを!
【転載開始】
デーヴィッド・アイク ニューズレター、2009年3月29日号
唯一の「時間」は今だ…
… 文字通り
http://www.davidicke.jp/blog/20090405/#extended
みなさん、こんにちは
「人生」と呼ばれる幻想をさらに深く探求するにつれ、気がつくと自分がますます笑っている。本当に笑いが止まらない。我々が「現実」だと信じているものは、実は全くそうではないからだ。あるいは我々が「現実」と考えるような意味では全然現実ではないからだ。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」でアリスがこう言っていた。
「もし私だけの世界があったら、そこではすべてがばかげているの。何もかもがあたり前の現実じゃないの。だって全部あたり前の現実じゃないものばかりだから。それから逆さまにすると、あたり前の現実は現実じゃなくて、あたり前の現実じゃないものが現実なの。わかる?」
だが、アリスの描く世界はおとぎ話のつくり物ではない。それはまさにここにある。我々がその真っ只中で暮らしている。
人生や社会を変える出来事は無作為に起きるもので、長期的に計画されている結果になるよう操作などされていないという思い込みのように、五感の幻想はすべて、我々が誰で、どこにいるのかについて、と言うより大きな幻想から派生した下位の幻想にすぎない。
一旦最も重大な幻想に陥ると、他のすべての幻想がそれに続く傾向がある。そしてそれらの中心にあるのが「時間」の存在を信じることだ。「時間は存在しない」という主張を初めて聞いた時、私は本能的にそれが正しいと気づいた。しかし「マインド」では全く理解できなかった。
ある時マインドを”超えて”「大いなる意識」の状態になった。そして確かにあるように見える時間が、どうして存在しないのか即座に理解できた。マインドが鍵だ。マインドは「大いなる意識」に仕えるべきものだが、五感の領域では、知覚を支配してしまっている。
「世界」の現状がこのようなものなので、舵を取るべき「大いなる意識」が働ける状態ではない理由が、この一文でわかるだろう。
我々はこの現実で経験をしている「無限の意識」である。そして最も広い意味での「大いなる意識」と我々が経験している「世界」の橋渡し役が「マインド」と呼ばれるものだ。
我々は私やあなたのマインド、彼や彼女のマインドについて語るが、これらはすべて「無限の意識」と五感の領域、あるいは「物質的」幻想、との連絡や橋渡し役となる唯一の「マインド」の表現なのだと私は言いたい。
あなたは、ニューエイジ信奉者か、ウォール街の銀行関係者で、表面的には著しく異なって見えるかもしれない。しかしマインドの中にいて「大いなる意識」の状態でなければ、異なる観点からではあるが、同じひとつのマインド(『知的マインド』と呼ぶことにする)を通して自分の現実を表現することだろう。
「知 的マインド」は「人格」をつくり上げる。我々「人格」は固有の名前を持ち、鏡に映る固有の姿があり、固有の存在である「自分」だと思っている。しかしこれ は本当の自分ではなく、自分が「経験している」ものなのだ。このようにこの2つを混同するやり方が、世界を今のような有り様にし、我々の「人生」をこのようなものしている。
たくさんの顔、たくさんの人格、しかし本当に意識的にならない限り、ひとつの「知的マインド」にすぎない。
「パワー・オブ・ナウ(The Power of Now)」 の著者エックハルト・トールは、「マインドでできた人々」または「マインドでできた話」と彼が呼ぶものが、しばしば「人生の物語」または「私の人生」など と呼ばれていることについて語っている。彼の言う通りだ。実際、我々は本当の自己、すなわち「大いなる意識」との繋がりを失った「マインドでできた世界」に暮らしている。[訳注:The Power of Now:邦訳『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(徳間書店)]
これが、マインドによる思考から出て「大いなる意識」による認識にシフトしないと何も変わらないと私が言い続けている理由だ。我々が「過去」における「変化」とみなしてきたものは、まさに同じマインドの異なる側面同士で人員を交換したにすぎない。
従って、時にはしばらくの間表面的には物事が変わったように見えるが、結局本当は何も変わっていないと悟ることになる。なぜなら「古い」ものの背後に横たわるこれまでと同じ前提が「新しい」ものを知覚する際に同様に支配力をもつからだ。
筋書きどおりの上演方法が、しばしばわずかに変わるだけだ。現実の認識を左右するもの、すなわち「知的マインド」が、(変化の)「前」と「後」の背後で常に働いているからだ。
時事問題の好例がブッシュからオバマへの「変化」だ。言葉(表面的な領域)は変わったように見えるが、その内実のすべては同じか、前より悪い。なぜなら同一の知覚のパターンである「知的マインド」がブッシュとネオコンの人脈を操ったのと同じように、オバマとその側近を支配しているからだ。
本当の変化は「マインド」の支配の外に出て「大いなる意識」に移った時にのみ起きる。「マインド」は極めて低いレベルの知覚である「思考」の領域だ。「大いなる意識」が「認識」の無限の大洋であるなら、思考やマインド、知性が村一番のバカに見えてしまう。
マインド …
… 大いなる意識
2003年にブラジルの熱帯雨林の中で幻覚性植物アヤワスカを飲んだ時、女性のとても奇妙な声が聞こえるという経験をした。それは大声で私に「物質的」現実の実体は幻想であると5時間もしゃべり続けた。最も意味深い主張のひとつが「振動していたら、それは幻想なのよ」というものだった。
私はその後自分の経験から、その言葉の意味を理解した。最も深い意味で純粋の愛である「大いなる意識」は静かであると同時に平穏である。それは無限の潜在力、すべの可能性、自身を意識する”すべての物事を心得たもの”である。これを「虚空(ボイド)」と呼んだ古代の文献もある。
それは「愛」の源だ。「愛」は「虚空」の平穏と静寂の中にある。誰かが「愛の波動(バイブレーション)」を見つけたと主張するのを聞いたことがあるが、これは本当ではありえないと言っておこう。この「愛の波動」は水のボトルに入れて売られているようだ。
「愛」 と誤解されているこの舞い上がった愛の状態は振動(バイブレーション)をもちうる。それはそうだ、なぜならばそれは振動する状態の領域に属するからだ。し かし「無限なるもの」の意味の「愛」は平穏と静寂のうちにあり、すべてのものに浸透している。従ってある振動数の肩書のついた名刺を持っていることはない。
このような「愛」を水のボトルに入れて高額で売ることはできない。それは自分自身の存在の状態によって到達しなければならないものだ。
「虚 空」は静かだ。なぜならばそれは”すべての物事を心得たもの”であるからだ。よって「考え」たり「すべてを明らかにする」おしゃべりは必要ない。それはマ インドがすることで、「大いなる意識」はそうしない。すべてが潜在力として静寂のうちに存在している。音が持ち込まれると、それはすべての可能性であることを止め、ひとつのみの可能性になる。
それは音、形、「物体」、そしてすべてが振動している「知的マインド」が現れた世界だ。我々は振動に基づいた宇宙に「生きて」(知覚して)いる。五感がその振動を電気信号に変換し脳に送り、脳がさらに我々の脳/マインドの中だけに存在する「物質的」世界というホログラフィックな幻想に変換する。
こ れもひとつの経験で、何も悪くはない。しかし自分自身と現実の知覚があまりに物質の幻想の世界に閉じ込められた状態になったため、幻想を超えた「大いなる 意識」という本当の自分を認識することから我々を切り離してしまったのだ。簡潔に言うと、我々はマインドに操作されるようになった。すなわち「知的マイン ド」に支配されている。
こ れはすべてに根本的な影響を及ぼす。「大いなる意識」は戦争を始めるだろうか?もちろんしない。マインドが始める。「大いなる意識」は豊かな世界で、何十 億の人々が食べ物と物資の欠乏で苦しむようにするだろうか?もちろんしない。マインドがそうする。「大いなる意識」あるいは「一つにして全体」は知覚を隷属し、優越性を巡って戦う宗教をつくり出すだろうか?もちろんつくらない。そうするのはマインドだ.
そして同じような例は尽きることがない。
「知的マインド」は、すべてが他のすべてから分離していると知覚し、そのように描く。それは「あなた(おまえ)」と「私」、「我々」と「彼ら(やつら)」の世
界だ。この誤って導かれた現実観の中に紛争と対立の膨大な可能性が存在する。そして我々の現実はまさにそのようになっている。これはすべて「知的マインド」の創作物であり、我々が意識的になり、意識を通して見ることを選択しなければ、我々をその振動の罠に閉じ込める。
→②に続く