「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの時事問題:パリ同時テロ・遺族の手紙

2015年12月03日 | 時事随想



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 「感情」の対義語を知っていますか。そう、答えは「理性」です。世の中には、私の想像を超えて、感情を抑えることができる人がいるようです。人間の喜怒哀楽が最も象徴的に現れるのは、人間の生死に関わる時です。

 11月13日の金曜日、パリで過激派組織ISによる同時多発テロが起きました。サッカーの試合が行われていたスタジアムで自爆テロが起き、パリ中心部のレストランやカフェやコンサートホールで銃を乱射するなど、30分間に8か所で同時多発テロが起きて、少なくとも129人が死亡しました。

 これらのテロにより、死亡したり重症を負った人たちの多くは一般市民です。突然の惨禍によって被害を受けた本人とその家族は、言い尽くせない苦痛を受けました。被害者は、加害者に対して、強い怒りや憎しみの感情を抱くのが当然と考えられます。

 宗教や政治や信条の違いを根源的な理由に、一般的には弱者の側が強者に対して、やられたらやり返す手段としてテロを実行します。しかし、かつての刺客の時代と異なり、現代のテロリズムは戦争と同等の武器を用いて、無差別に人を殺します。その結果、憎しみが新たな憎しみを生む負のスパイラルに陥ってしまいます。

 今回のパリ同時多発テロで妻を亡くした男性(アントワーヌ・レリス)が、実行犯たちに宛てたメッセージをフェイス ブックに投稿し、その内容が世界的な話題となりました。今日は、その手紙をこのブログに載せ、アントワーヌ・レリスさんのメッセージについて、皆さんと考えてみたいと思います。


【手紙全文の和訳】

 
金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。

 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。

 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。

【アントワーヌ・レリスさんのメッセージを読んで】
 湧き上がる感情を抑え、冷静に理性的に語る文面ですが、その内容を熟読すれば、行間に言い尽くせない哀愁が漂います。ただこの人物は、単に悲しみに打ちひしがれているだけではなく、テロ集団に訴えたいことを世界に発信する意志と勇気があります。

 私はこの文面に綴られている主張に共感を覚えるだけではなく、我が身にもいつ起きるか知れない災難・不運を考えずにはいられません。サラサラと石畳の上を北風に吹かれる落ち葉を見ながら、最も大切な物がハラリと落ちてしまったとふと感じるような、掛け替えのない人を失った無常観を、私はこの文面に感じます。


 自爆したテロリストの魂を揺り動かしたであろう「民族的苦痛」の仕返しの為に、それを聖戦と呼ぼうが殉教と呼ぼうが、無差別テロで人々を殺戮する行為をした者に、未来は無いし魂も救済されない。自らの憎しみをもって、ほかの人の憎しみを買う行為は、絶えることなく続く地獄への回り階段を降りていくようなものです。

 記憶の中に生きる今までの幸福な日常と、突然に妻を亡くしたこの男性が今見つめている風景とでは、全く違ったものになったことでしょう。それでも、その原因を作り出したテロリストに対して、憎しみを抑えて屈することなく生きていこうとする「神聖な魂」に、私は感動を覚えます。

 ガンジーの「非暴力不服従運動」や、聖書に書かれていて信者でなくとも知っている、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」・「汝の敵を愛せ」という言葉に共通する精神を、私たちは再度確認する必要があります。自分だけではなく、母を突然に亡くした幼い息子にも、テロリストを憎むことを拒み、それが犯罪者に勝利する道なのだと彼は述べています。アントワーヌ・レリスさんのメッセージは、安倍首相が言うところの「積極的平和主義」の勇ましさとは異なる、精神の強さを要求する生き方を指し示しています。
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1 コメント

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覚悟は日本の仏教で (tsuguo-kodera)
2015-11-28 06:31:05
 私の息子も毎月のようにEU諸国のどこかの大学や研究所に駆け足出張しています。テロにあったら仕方ない、南無阿弥陀仏と私は唱えているだけです。他には何も言いません。因果は巡る。
 人をなじらず、政府にも期待せず、諸国の警備にも当方は期待していません。息子がテロに巻き込まれても運命と諦めることになるでしょう。それしかできないからです。行きたければ行けばよい。生きるべき人ならまだ呼ばれません。
 日本の仏教に再会などないのでは。神がいて天国があるのは古い時代の名残かも。私の辞書には天国も地獄もありません。今が天国か地獄かは分かりませんが。
 昔の農民のほとんどは南無阿弥陀仏で救われるしかなかったから。息子もテロリストも私たち夫婦も庶民、昔の農民、水飲み百姓のようなものです。
 悪人なおもて往生とぐ、いわんや善人おや、この考え方からしか救われません。私は毎日この村の数人の先生の記事にコメントし、南無阿弥陀仏と祈っています。
 だから私も浄土は行けるはず。喧嘩しても罵倒しても無視しても南無阿弥陀仏で済ませます。
 日本の自然は厳しかったし、ひもじさは肉を食べられる人たち以上に厳しかったはず。餓死など普通、棄民も普通、間引きも姥捨ても。
 江戸時代も餓死者が村にはたくさんいたと歴史が好きな私は学びました。諏訪の博物館だけでも大変な生活があったことがわかります。ぜひ見て欲しいのです。
 死んでも浄土、悪人でも浄土、昔の日本のお坊さんは偉かった。だから灌漑や治水などの専門知識もすごかったのでしょう。
 我々に日本人の宗教観は潜んでいます。キリストやイスラムを理解することはまだまだかかります。時間がかかるのです。
 だからこそ先生方も右でも左でも結構ですから、世界をもっともっと学んで日本の仏教を勉強して欲しいのです。世界の文化をです。
 管理人様の自然観は仏教者。日本の文化を書いて広めています。だから私は惹かれてしまうのでしょう。
 またもや南無阿弥陀仏。
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