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「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの美術鑑賞:美楽舎忘年会…長谷錦一さんのトークショー『梅原龍三郎と安井曾太郎』

2008年12月22日 | 美術鑑賞
美術愛好家団体・美楽舎の恒例忘年会が21日(日)青山彩画廊で行われました。

この会は、来年で20周年を迎える美術を愛好する人たちの集まりで、月1回の例会を中心に活動を行っています。

また、年に1回、『マイコレクション展』と称して1週間画廊を借り切り、コレクションを持ち寄って一般の方もご覧頂ける展覧会を催しています。

この会は、私が発案し、賛同した数名で1年間の準備期間を経て発足した、我が国でも極めて希なサラリーマンコレクターを中心とした美術愛好家の団体です。

発足当時、若かった人たちもそろそろ定年を迎えるような年になり、この会も一層の若返りを図る必要があるように感じます。

美術愛好家一人では出来ない事、たとえば著名な美術評論家・作家・長年美術関連の仕事に携わってきた人たちの講演依頼、著名な作家のアトリエ・窯場訪問、美術館訪問時の学芸員の解説依頼などを、会の活動として実現しています。

それに、何よりも同好の士との語らいで、とかく独り善がりになりがちなコレクターに、貴重な情報が得られることも大きな利点です。

また、月1回発行される会報には、様々な情報が盛り込まれ、美術に関心のある方には、読み応えのある内容となっています。



忘年会風景


昨日は、年次総会の後、画商として長年美術に関わってきた長谷錦一氏のトークショーがあり、その後忘年会を行いました。

長谷さんの話題は、まず『梅原龍三郎と安井曾太郎』。

弥生画廊に長年勤務された長谷さんは、取り扱い作家として、この2人を身近で接し、そうした立場でなければ知り得ない数々のエピソードを盛り込みながら話され、私などはとても興味深く拝聴できました。

聴衆の美学舎会員は、着座しているのですが、80歳の長谷さんは終始起立したままで、精力的にお話しをしてくださいました。



この2人は、奇しくも明治21年、同じ京都に生まれる。

梅原は絹問屋、安井は木綿問屋を営む商家で生まれ、浅井忠の画塾で同じく学んでいる。

後に同時に帝国美術院会員となり、昭和19年やはり同時に東京美術学校の教授に就任している。

ちなみにこの時期の日本画教授陣は、小林古径と安田靫彦

驚くほど豪華メンバーである。

昭和27年、2人は同時に文化勲章を受章している。

ここまで聞いていると、驚くべき類似性!

しかし、梅原はたばこを1日数百本吸い酒は極めて強かったが、安井は酒もタバコも嗜まなかったという。

豪快で破天荒な性格の梅原に対して、持参した空也の最中の礼状をサイン入りで出すという几帳面な安井。

安井は、パリのアカデミー・ジュリアンで学び、梅原は、ルノアールの直接の指導を受けている。

パリのアカデミー・ジュリアンでは、安井のデッサン力に他の者たちは驚愕したという。



アカデミー・ジュリアンで描いた安井のデッサンを手に講演する長谷さん


長谷さんは、梅原から様々な面倒のお礼として、20号から3号まで並ぶ絵から,好きなものを持っていって良いと言われ、最も出来の良い絵と思った3号の絵を頂いたそうだ。

20号の絵ならば、右から左に動かせば、若かりし頃の長谷さんに、大金が転がり込むのだが、長谷さんはプライドと粋がりで、3号の絵を選んだそうだ。

梅原は、あのような絵ではあるが、対象を前にしないと描けなかった。
したがって、旅館に長期逗留して、絵を描くのだが、失敗するとゴミ箱に丸めてぽいと捨てる。

この失敗作を、女中がていねいに皺を伸ばし保存していたという。
その作品がその後市場に出回り、シールを本人にもらいに来る。

普通はこんなものにサインや落款は押さないのだが、女中を責めることなく、「捨てた自分が悪い』と言いながら、サインをしたのだという。

それに比べて、ある著名な画家の絵を長谷さんが交換会で落として、そのシールをもらいに行くと、その画家から「出来は良いが、サインは書けない」と言われる。

その理由を聞くと「この絵は、女中に盗まれたものだ。」と、その有名な画家は言ったそうである。

同じ女中が関わる話ではあるが、人物の大きさの差を物語る逸話として、長谷さんは紹介された。

梅原は、安井が亡くなると、その通夜に参列せず、
「1日アトリエに籠もり、安井を偲びたい。」
という趣旨の手紙を使者に託して、行かなかったそうである。

いかにも梅原らしいエピソードだと思う。


長谷さんは、他に藤田継治についても話をされた。

藤田は戦後、戦争犯罪人のように言われ、石を持て追われるが如く日本を去る。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」
このことばを残して、彼は無念の思いで日本を去るのである。

そうした、藤田継治の事について、是非書き残しておきたいと、長谷さんは述べている。



忘年会風景


評論家が作家論を述べるよりも、実際側で作家に接した人の話は、面白く興味深いものです。

今回の、長谷さんのトークショーは、そうした意味で、私にとって貴重な作家論でした。

美楽舎に興味のある方は、例会のご案内を致しますのでご連絡ください。

外部の方のオブザーバー参加も歓迎します。



自宅のクリスマス飾り




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マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その3「池大雅と与謝蕪村」(2)

2008年09月03日 | 美術鑑賞



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前回のブログ マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」を観て…その3「池大雅と与謝蕪村」(1)に引き続き、今回は「池大雅と与謝蕪村」(2)として、2人の作品と作家自身に迫りたいと思います。

(1)をご覧でない方は、8月27日のブログをお読みになった後、ご覧いただくと、より一層理解が深まると思います。


与謝蕪村

『さみだれや大河を前に家二軒』

芭蕉を憧憬し、『芭蕉の奥の細道』を訪ね歩いて、蕪村が詠んだ句です。

『五月雨をあつめて早し最上川』

上の芭蕉の句に対して、蕪村の俳句は、山村の人々の生活の視点に立って詠まれているように思います。
自然の厳しさや雄大さ、そしてその中で暮らす人々の生活の危うさを、絵画的に詠んでいます。



与謝蕪村 「奥の細道画巻」


蕪村は、享保元年(1716年)摂津の国に生まれ、二十歳前後の頃に江戸へ下り、「夜半亭宗阿」(やはんていそうあ)に師事し俳諧を学ぶとともに、画業にも励みました。
しかし、程なく師は亡くなり、その後『奥の細道』を訪ねる旅に出ました。

『宿かさぬ火影や雪の家つづき』

名もない蕪村の奥の細道は、辛く厳しい旅だったことがうかがえる句です。



与謝蕪村 「奥の細道画巻」


しかし六十を超えて描いた、「奥の細道画巻」を見ていると、そうした若い頃に旅した辛酸は消えて、芭蕉と曽良の道中の旅情が、風流洒落(しゃらく)に描かれていて趣のある絵となっています。
与謝蕪村は、生活のために売り絵として、奥の細道の屏風や俳画を数多く手掛けていますが、そうした点で作品(特に小品)に、できの良し悪しがあるように感じます。


『鳶鴉図』(とびからすず)と『夜色楼台図』(やしょくろうだいず)は、いずれも晩年の作品で、与謝蕪村が六十歳を越えてから、新たな境地に至ったことを示しています。



与謝蕪村 「鳶鴉図」


『鳶鴉図』は、鳶の図と鴉の図が双幅として描かれています。

俳画を数多く手掛けたことから習得したのでしょうか、いずれの絵も、与謝蕪村ならではの絶妙の配置で鳥が描かれ、購買欲をそそる(無論無理)絵になっています。



与謝蕪村 「夜色楼台図」一部


また『夜色楼台図』は、暮れていく冬景色の街並みが、観ている者を静寂な詩の世界に引き込んでいくような魅力があります。
モノトーンの水墨画は、私たちの脳裏にある記憶に訴えかけて詩情を醸し出し、また淡い色で加色された街並みは、暮れゆく冬景色と対比され、どこか温かい人びとの生活をも感じさせます。
この絵は、どんな町屋に、またどこのお寺さんに、またどのような料亭の入り口に飾られていたのでしょうと連想させる、日本の南画・文人画の一つの画境を示す作品だと思います。

いずれの絵も画号は、『謝寅(しゃいん)』となっており、『南画』の確立者、『俳画』の創始者として、池大雅・松尾芭蕉との『対決』から、六十歳を超えて何か肩の力を抜いた、与謝蕪村芸術の完成を見る思いです。

(注)私がその作品を大きく評価した夜色楼台図が、このブログを書いた翌年の2009年、遅ればせながら国宝に指定されました。私の美術作品を観る目は確かだったと、自画自賛。

蕪村は、漂泊の旅人生から、四十歳半ばで京に居を構え家庭人になるものの、定住するのは五十を超えてからでした。

『時雨るや我も古人の夜ににたる』

しかし、ようやく安定したかに見えた生活の中でさえ、蕪村の心は、死ぬまで敬慕する芭蕉の奥の細道を、流浪していたのかも知れません。

「プータロウ」のような生き方から、歴史に残る俳人・画家となった与謝蕪村は、今の多くの派遣社員やニートに甘んじている若者たちに、一つの示唆を与えていると思います。

人間与謝蕪村は、彼の芸術・『俳諧』『絵画』を通して、現代の私たちに様々なことを語りかけてくるという点で、今回の『対決』に相応しい巨匠でした。

天明3年(1784年)68歳の生涯を閉じました。
辞世の句は…

『しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり』

蕪村が恋いこがれて果たせなかった生き方を貫き、旅の空に生きた松尾芭蕉の辞世の句を並べてみたいと思います。

『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』



池大雅



池大雅 「楼閣山水図」


池大雅は、享保8年(1723年)京都に生まれました。

高校日本史を習うまで、中学生で池大雅の名前を知っている生徒は、ほとんどいません。
同様に、一般の方で池大雅を知っている人は、歴史がとても好きか、美術に明るい方でしょう。

池大雅に比べ与謝蕪村の名前は、美術の時間というより、国語の詩歌を学習する時間でその名前は出てきます。
たぶん、小学生でもその名を知っている子供は多いはずです。

それは、美術史の中でしか出てこない池大雅に比べ、与謝蕪村が江戸時代の三大俳人(他に松尾芭蕉・小林一茶)として、必ず国語の学習に出てくる身近な存在だからです。

しかし池大雅、そして与謝蕪村が生きていた時代、この2人の評価は今の時代のようだったのでしょうか。



池大雅 「浅間山真景図」


池大雅は京都に生まれ、幼い頃より漢文・書道に優れた才能を発揮し、7歳の時、宇治黄檗山万福寺で書いた書が神童として賞賛されました。

池大雅は、15歳で扇屋を開き扇面に絵を描き初め、16歳で彫印店を開き篆刻の技を磨きました。



池大雅 鄭谷・少華甘露寺詩句 「飲澗鹿喧雙派水」 
【訳】澗に飲む鹿喧(かまびす)し双派の水。


後に柳沢淇園(やなぎさわ きえん)に学び、祇園南海(ぎおん なんかい)、彭城百川(さかき ひゃくせん)などの知遇を得て南画・文人画を習い、与謝蕪村とともに、『南画・文人画』を大成した一人に数えられています。



池大雅 「児島湾真景図」


池大雅の妻・玉蘭も画家として知られていて、冷泉家に和歌を学び、和歌に精通した文人を輩出した家系でした。

すなわち池大雅は、幼少から神童と呼ばれ、才能を磨く環境を与えられ、経済的にも姻戚関係においても、旅の人・与謝蕪村を圧倒する人生を送っていたように感じます。

また池大雅は、僧侶や儒学者を中心に広まっていた、江戸時代前期にもたらされた中国書法(唐様の書)の、代表的書家でもありました。



池大雅 書


筆を自在に操り、書と絵にその才能を発揮した、その当時最高水準の文化人だったことでしょう。
絵画においては、当時、与謝蕪村を上回る評価があったようです。

特に私が印象に残った池大雅の作品は、点描で描かれた『瀟湘勝概図屏風』(しょうしょうしょうがいずびょうぶ)です。



池大雅 「瀟湘勝概図屏風」右半分


「瀟湘勝概図屏風」左半分


「瀟湘」とは、中国湖南省洞庭湖付近で瀟水と湘江の合流するあたりのことであり、瀟湘八景として、中国で伝統的に絵のモチーフとされている景勝地です。

日本絵画においても、多くの画家に好んで描かれ、また日本の風景の中から、近江八景、金沢八景などが選ばれて、それを浮世絵師の葛飾北斎や歌川広重などが描きました。

抑え気味の色調のなかにも、メリハリのある筆致で、桃源郷のような瀟湘の風景を描いています。

近代日本画においても、「瀟湘八景」を画題にして多くの画家が描いていますが、特に横山大観・横山操などの作品は、傑作と言って良いでしょう。



横山大観「瀟湘八景のうち洞庭秋月」



「十便十宜図」(じゅうべんじゅうぎず)

この画帖に描かれている漢詩は、清の文人・李漁が、別荘伊園での生活をうたった七言絶句です。
草蘆を山麓にむすんで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうといったのに対して、便と宜とそれぞれ十則の詩をつくってこたえたというものです。



池大雅 十便帖 「鈞便図」


この漢詩に基づいて、1771年に池大雅が「十便帖」、与謝蕪村が「十宜帖」を描き、合作した画帖が「十便十宜帖」です。

この画帖は、大きさが縦横18cm程で、その大きさからすると、多くの人が観るというよりも、一人で画帖を開き、その絵に描かれた山中での隠遁生活の世界に入り込み、その空想の世界を楽しむように作られているように思います。

この特別展でも、鑑賞者は、絵をのぞき込むように顔を近づけ、食い入るように観ていました。



与謝蕪村 十宜帖 「宜夏図」


「十便十宜帖」の出来栄えは、書においては、書家でもある池大雅が、与謝蕪村を圧倒しているように思えます。

池大雅の絵は、持ち味ののびやかな筆遣いと抑え気味の色調が、隠遁生活の空気を良くあらわしているように感じます。



池大雅 十便帖 「眺便図」


それに対し、与謝蕪村の絵は、池大雅に対抗して作者が意気込んだ分、無駄な線が多く詩の雰囲気を若干損なっているように感じるのは、私だけでしょうか。

「十便十宜帖」の依頼主は、名古屋の素封家・下郷学海です。下郷学海は、尾張の鳴海宿で代々「千代倉」と言われていた豪商の出身で、銘酒「玉の井」の醸造を業としていた名家の主人です。



与謝蕪村 十宜帖 「宜秋図」


仲が良くなかったと言われている、その時代を代表する画家の、池大雅と与謝蕪村に対して、それを知りつつ俳諧の道にも詳しい下郷学海が、どういった意図で共作の(いや、競作の)画帖を注文したのか興味深いことです。

池大雅は、安永5年(1776年)54歳でなくなりました。
子供がいなかった妻・玉蘭は、大雅亡き後、寺子屋を開いて子供の指導にあったとのことです。



池大雅 十便帖 「吟便図」


この作品がどの様な経路・経緯かは知りませんが、作家川端康成の収集品となり、現在は川端康成記念館に収蔵されています。

興味ある方は、以下のブログも参考に御覧ください。

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その1「狩野永徳と長谷川等伯」

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その2「長次郎と本阿弥光悦」



マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」を観て…その3「池大雅と与謝蕪村」(1)

2008年08月27日 | 美術鑑賞
1回の「狩野永徳と長谷川等伯」の「対決」、
2回は「長次郎と本阿弥光悦」の「対決」を、お話ししました。
そして今回3回目は、「池大雅と与謝蕪村」の「対決」について考えます。

 『國華』創刊120周年を記念して、東京国立博物館で開催された「対決-巨匠たちの日本美術」特別展は、好評裡に8月17日その会期を終えました。

奇しくもこの時期、北京オリンピックのアスリート達の「対決」に、世の中は湧いていました。

そうしたアスリート達の「対決」に、私たちが胸躍らせ感動するのは、オリンピックという晴れ舞台に立ったスポーツ選手の一挙手一投足の中に、どれだけの努力と苦悩があったのかを、私たちが感じ取っているからに他なりません。

今回の巨匠達の対決は、その作品だけではなく、その作者の生き方や境遇にまで、スポットが当たってしまう「問題」をはらんでいました。

しかし私にとって、歴史に残る名品を生み出したその作者自身に、より一層関心を持てたという点において、良い企画展だったと思います。


今回の対決・「池大雅と与謝蕪村」の絵画作品のジャンルは、「南画」と言うことになるでしょう。

多くの方が、「南画」「文人画」という言葉に対して、茫漠として曖昧な印象を受けると思います。



富岡鉄斎の《妙義山・瀞八丁図屏風》


「富岡鉄斎」以降、この「南画」においては、ほとんど注目すべき実績は無いようにも思われ、そうしたことも「南画」「文人画」という言葉を、遠いものに思わせています。

ただ、日本画の題材として、たとえば川合玉堂のように奥多摩に住まい、人里離れた山村部の暮らしを描く様な点において、その創作精神に南画・文人画の境地に似通った所を感じる日本画家は多いと思います。



川合玉堂 「彩雨」東京国立近代美術館 蔵


また水墨画は、多くの日本画家にとって、魅力的なジャンルであり、現代的なモノトーンの世界に挑戦する試みが数多く為されていますが、残っていく作品は極めて少ないと言って良いでしょう。



横山操 越路十景 蒲原落雁


今回のブログでは、「池大雅と与謝蕪村」の絵画の鑑賞文を書く前に、どうも分かりづらい日本の「南画」「文人画」のルーツを、私なりに簡単に考えてみたいと思います。
そして、それは「南画」「文人画」を理解するためには、避けて通れないと考えたからです。



渡辺崋山 鷹見泉石像 天保8年(1837年)の作。東京国立博物館蔵。国宝


そのために、「池大雅と与謝蕪村」においては、長すぎるブログを避けるために、2回に分け、今回の一回目を「南画」の源流を求めてそのルーツを私なり探り、次回の二回目に、企画展出品作を中心に「池大雅と与謝蕪村」の作品とその人自身に迫りたいと思います。


【日本の南画の源流を求めて】

・中国南宋画

日本の絵画「南画」あるいは「文人画」の直接のルーツは、「中国南宋画」です。
中国明代末期に活躍した「文人・董其昌(とうきしょう)」の独自の画論において、「南宋画」あるいは「文人画」の概念が確立され、以降の興隆のきっかけとなりました。



董其昌 行草書羅漢賛等書巻(部分) 1603年 東京国立博物館蔵 


その画論において、その「南宋画」の始まりを、唐の王維まで遡り、董源・巨然・米家父子、そして中国元代末期の文人画家である元末四大家(げんまつしたいか)…黄公望(こうこうぼう)・呉鎮(ごちん)・倪サン(げいさん)・王蒙(おうもう)を賞賛しています。



文徴明1538年69歳の時の書


しかし、こうした画壇および絵画史的側面で源流を探訪するだけでは、「南画」「文人画」を理解することはできません。



黄公望「富春山居図巻」部分 1350 


本当にその本質を理解するためには、董が自分の書斎を「画禅室」と名付けたことからも分かるように、仏教・禅の思想、さらに老荘思想、そして中国・日本人の心の奥深くに刻まれた六朝時代の詩人・陶淵明の隠遁思想など、遙かな地平まで見渡す必要があります。



五代南唐 巨然 秋山図


そこで、今回は日本の「南画」「文人画」を語る上で、そのよりどころとなる思想を、大まかに紹介します。


・陶淵明の理想郷

中国・日本を含む農耕民族の理想郷は、仙人のように山水の世界で遊び、晴耕雨読の日々を送る、そうした「桃源郷」なのかも知れません。

「桃源郷」は、ご存じのように陶淵明の著した散文「桃花源記」が初出です。
「桃源郷」は、いわば西洋のユートピア思想の東洋版理想郷です。



具区林屋図、元末明初、王蒙, 台北故宮博物院


陶淵明自身の隠遁生活がどうであったかは別にして、この思想の背景に、俗世間から離れ仙人の住まうような隠れ里で、悠々自適な生活を送りたいという人々の願望が根底にあります。

(現代では、そうした考えは、受け入れられるのでしょうか。都会で住み、利便性を享受し、情報の海原に漂い、時にリゾートに旅し、また時に別荘で過ごす。それがかなわぬなら絵画や文学で桃源郷を夢想する。それが現代における桃源郷との接点になっているようにも思います。)



倪サン:容膝斎図


陶淵明の田園詩に表出される隠遁思想・隠者思想は、日本の「南画」「文人画」の源流を為しているように思います。



呉鎮「心経」


「暗闇に光をかざし、先導する神秘の案内者。内なる知恵に卓越した老賢人。外なる世界から身を隠し、内なる世界の諸問題と向き合う隠者。…」
タロットカードで、ナンバーⅨを割り当てられた「隠者」は、暗闇の山脈の上で、カンテラと杖を手に持ちたたずむ「老賢人」です。

人里から離れ、離れることによって近くにいては見えないものを見ようとする。
「虹の中に居る者には、それが見えない」
洋の東西を問わず、そうした思想があるようです。


・竹林の七賢と清談

中国・魏の時代末期に、河内郡山陽の竹林で、酒を酌み交わしながら清談を行ったと伝えられる七人の賢者。

その求道精神は、先のタロットに出てくる「隠者」より,だいぶ人間的で低いように思う七人ですが、老荘思想の「山林に世塵を避ける」を実践し、幽玄な哲学的議論「清談」を交わしました。

この時代、知識人は常識的な儒教道徳に飽きたらず、老荘思想を中心に「世俗を離れた清らかな談話」=「清談」を行いました。

「竹林の七賢」は、よく画題にもなり、隠遁思想そして隠者=賢者思想の延長に、人々が願望する生き方の典型として、称揚されているように思います。



伊万里 印判手小皿 竹林の七賢


中国における「文人」とは、「学問を修め文章をよくする人」という意味だけではなく、王侯貴族そして官僚や地主そして地方豪族などの、支配者的な階級や地位の出身者である「士大夫」であらねばなりませんでした。

「竹林の七賢」に代表される隠遁生活は、「士大夫」が自らの考えで名誉・地位・財産と距離を置き、世俗を超越した境涯に身を委ねることを良しとした思想を、実践したものと言えます。


・董其昌について

前記した董其昌は、中国明代末期において、書画にすぐれた業績を残し、中国絵画史において重要な人物に挙げられています。
日本では、書において文徴明とともに人気を二分するほど、日本の書法に大きな影響を与えました。

董其昌の絵は構図がダイナミックで、風景はデフォルメされているため奇異な印象を受けますが、彼の画論においては、山水画は「平淡天真」であり、「気韻生動」(風格・気品がいきいきと満ちあふれている)であることを理想としました。



董其昌 婉孌草堂図 1597


董其昌を含む明代末期の人たちにより確立し興隆した「南宋画」の様式・概念が、長崎を経由し日本に伝えられ、18世紀後半から19世紀末期にかけて日本の「南画」「文人画」として定着し流行しました。



文徴明 1542年 倣李成寒林図 紙本墨画 大英博物館


この日本における南画・文人画の系譜に入る代表的な画家は、祇園南海(ぎおん なんかい)、彭城百川(さかき ひゃくせん)、柳沢淇園(やなぎさわ きえん)、池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂(うらがみ ぎょくどう)、谷文晁(たに ぶんちょう)、渡辺華山、田能村竹田(たのむら ちくでん)、富岡鉄斎などそうそうたるメンバーが名を連ねます。



谷文晁 石山寺縁起絵巻 第7巻
贋作の多い谷文晁。
私は、二十数年前に、谷文晁が著した『日本名山図会』を購入し、その絵図を眺めながら、江戸時代の人々の山に対する思いを、共有したものでした。


続きは、第二回目として、今回の企画展出品作を中心に、「池大雅と与謝蕪村」の作品と作家自身に迫ります。




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マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その2「長次郎と本阿弥光悦」

2008年07月26日 | 美術鑑賞

前回の「狩野永徳と長谷川等伯」の「対決」に引き続いて、今回は、「長次郎と本阿弥光悦」
の「対決」です。


長次郎は、安土桃山時代に、陶芸の世界で活躍し、楽焼を創始して、千家十職の一つである楽吉左衛門の初代とされています。

「楽焼」というと、小学校の頃に学校で焼いた焼き物のことを想い出す方もいることでしょう。
また観光地などで、素焼きの陶器に絵付けをして、それをその場で焼いて完成する、あの手軽な焼き物「楽焼き」のことを想い出す方もいるでしょう。
気軽に楽に出来るから、楽焼きかと思っている方もいらっしゃるかも知れません。

しかし本来は、安土桃山時代に、瓦職人だったと言われている長次郎が、千利休の指導によって作り出した陶器のことを意味しています。


長次郎作 黒楽茶碗「銘大黒」(図録より抜粋)

茶の湯を総合芸術の世界まで高めた大立者・千利休。
その千利休の茶の湯に対する「侘びの思想」を具現化した器として、長次郎は赤楽茶碗や黒楽茶碗を創りました。
そういった意味で、私はこの人・長次郎は根っからの職人ではなかったかと考えています。

おそらく、時代の権力者とも密接に関わった、政財界の黒幕でもあったであろう千利休の絶対的な指示により、その思想を茶碗という形に具現化するのに、精一杯の人生を送った人ではなかったかと思います。
したがって、その作品に、長次郎その人の個性や主張などは、入り込む隙などなかったと私は考えています。

その作品は、重厚な存在感を表しているとされますが、侘び・寂びの思想を反映するためなのか、造形的にも装飾的にも特徴的な変化がない作品となっています。


長次郎作 黒楽茶碗「銘俊寛」

千利休以前の茶会では、茶器は中国製が主に使われていたようです。
当時は、極めて高価な天目茶碗が、舶来物として珍重されていたことでしょう。
そうした中で、長次郎により作り出された、手びねりで成形したこの楽茶碗は、茶会に大きなインパクトを与えたことは想像に難くありません。

その色は中国製の黒い天目茶碗を模したようにも思え、その形状は托鉢僧が手に持つ漆塗り椀の形や色を模したようにも、私には思えます。

草庵茶室の創出者・千利休の好みから考えると、楽茶碗は、薄暗い閉じられた空間の中にひっそりと置かれる茶碗としての佇まいを、演出するように出来ていると私は思います。


長次郎作 赤楽茶碗「銘無一物」

私の文の語尾が、少し煮え切らない、歯切れの悪い書き方になるほど、実は長次郎を始祖とする楽茶碗が、茶の湯の世界で今日(こんにち)までどれだけ隠然たる影響力を行使してきたことか。

千家十職(せんけじっそく)を中心とする横のつながりの中に、また茶の湯の家元を頂点とするヒエラルキー構造の中に、そうやって歴史の奥深くに秘蔵されてきた「長次郎の茶碗」…そうした重みは十分に伝わってくる茶碗でした。



一方、本阿弥光悦は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した芸術家です。
光悦は、ご承知の通り、陶芸・漆芸・書・絵画・出版・作庭など、総合芸術家と言って良いほど、幅広い分野において、足跡を残した芸術家でした。

この人は、この時代にあって、鋭い感性で、芸術の本質を見抜いていたような人ではなかったかと思います。
歴史のフィルターを通り抜けて、燦然と輝く名品を世に残しています。


本阿弥光悦作 黒楽茶碗「銘時雨」

光悦は、楽焼の2代常慶・3代道入から作陶の指導を受けています。
手びねりで作られる楽焼は、陶芸を本職としない光悦にとって、自分の発想や感性をかなり自由に表現できたに違いありません。

この時代、作陶はまだ職人の世界であったはずで、焼き物を作る者を芸術家と見る発想は無かったと思います。
民芸運動の中でもお話ししたように、作陶する個人を、陶芸家として芸術家と見る考え方は、かなり現代的な見方のようです。
そうした時代にあって、光悦は自分の茶碗の箱に、自分の署名を入れたそうです。

この人は、作陶行為を書や絵画と同様の芸術活動として認識して、その焼き物を通して自分を表現できた人だったように思います。


本阿弥光悦作 黒楽茶碗「銘七里」

光悦は、俵屋宗達・尾形光琳とともに、琳派の創始者と見なされています。
初期の琳派は、装飾的で構図が個性的で大胆(俵屋宗達 風神雷神図・尾形光琳 紅白梅図屏風など)であり、紙型を用いた同じパターンのくり返し(尾形光琳 燕子花図)など、今まで無かった斬新な手法で作品を仕上げています。
その時代における革新性や若干過度の装飾性は、私に19世紀末のアールヌーボーを連想させます。


本阿弥光悦作 赤楽茶碗「銘加賀光悦」

さて、光悦の茶碗ですが、その赤楽茶碗「銘加賀光悦」に代表されるように、「こうしてみたい・こうしたらどうか」と言った作者の作為が私には感じられます。
しかし、それは悪い意味ではなく、これらの作品からは、時空を越えて現代の鑑賞する者に、光悦が語りかけてくるものがある、という意味です。
長次郎と異なり、ハッキリした作者の意志が、感じられると言うことです。
今回展示されている茶碗の中で、最も印象が強い作品は、「加賀光悦」でした。


本阿弥光悦作 「舟橋蒔絵硯箱」

光悦の「舟橋蒔絵硯箱」は、この作家の代表的な工芸作品です。
私がこの美術品を知ったのは、国語の教科書にこの作品の鑑賞文が載っていたのを学習したときだと思います。
話はずれますが、法隆寺の「玉虫厨子」も、確か国語の教科書でその鑑賞文を習った時に覚えたように記憶しています。
「舟橋蒔絵硯箱」は、国語の授業で習ったときほど、何故か私に感動を与えませんでした。


本阿弥光悦作 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」

光悦の書、俵屋宗達下絵とのコラボレーションが美しい「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」は、もしもう少し私に書と和歌の知識があったら、もっと興味をそそる作品ではなかったかと思います。

私は、書のコレクションも少しありますが、三十数点の書軸・額の中で、書家の書は「西川寧・桑田笹舟・大石隆子」の3点のみで、私自身が筆を持って書を書くことは、ほとんどありません。
いつも書については、学習してみたい希望はあるのですが、そのチャンスが無くて今に至っています。


本阿弥光悦作 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」

「長次郎と光悦」、こうした先達がいて、その人達の弛まぬ努力の成果の上に茶陶の世界が広がり、その恩恵を私たちは享受しているわけです。
今回の2人は、「対決」と言う言葉よりも、陶芸を美術の世界に引き上げた「同志」と言った方が相応しかったかも知れません。
また、同じ陶芸でも、やはりその方向性が大きく異なり、比べること自体、お二人には可哀想な企画…と感じた私でした。

以下の「巨匠たちの日本美術」関連ブログも、興味ある方はご覧ください。

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その1「狩野永徳と長谷川等伯」

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」を観て…その3「池大雅と与謝蕪村」(1)

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その3「池大雅と与謝蕪村」(2)





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マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その1「狩野永徳と長谷川等伯」

2008年07月17日 | 美術鑑賞

東京国立博物館で開催されているこの特別企画展では、芸術家という最も個性的な人たちを、2人一対にしてその作品を対比しながら展示しています。

日本美術史上、巨匠と呼んで差し支えない作家達を、「対決」という言葉を用いて展示構成する今回の企画は、美術ファンに強い関心とインパクトを与えるものとなっています。

日本美術における巨匠の業績を、その美術史上で評価していくだけに止まらず、意図したかどうかは定かではないですが、「2人の対決」という構図から、展示されている作品を通して、その人達の個性や人間性、そしてその人たちの生涯を、見る者に考えさせる企画となっているように思います。

したがって、この企画展を鑑賞して、私の印象や考えたことを述べるには、全体を総覧した内容では、企画展全体の評価にしかなりません。

そこで12組の対決の中で、特に印象に残った幾つかの「対決」を、このブログで1組ずつ取り上げて、私が感じたことや考えたことをお話ししましょう。


初回は、「狩野永徳と長谷川等伯」の「対決」です。

いずれも、よほど不勉強な人を除けば、美術に関心のない人でも、その名前くらいは知っている芸術家です。
かつ、この2人は実際同時代に生きるライバルとして、火花を散らしただけでなく、きな臭い話も伝わっている因縁の2人です。
ある意味、この企画の中で最も「対決」に相応しいのが、「狩野永徳と長谷川等伯」かも知れません。



狩野永徳の「檜図屏風」図録より抜粋


狩野永徳は、室町時代から江戸時代末期まで、およそ400年にわたって日本画壇に君臨した「狩野派」の代表的作家です。
狩野派では、狩野正信・元信そして今回の永徳および探幽が、学校の教科書に出てくるほど有名な作家でしょう。

狩野派は、室町幕府そしてそれに続く江戸幕府の御用絵師として、多くの障壁画を手掛けました。
狩野派の絵師には、狩野派伝統の筆法を忠実に再現することが求められました。
したがって、永徳の孫の狩野探幽以降は、絵師個人の個性を絵に表現することが出来ずに、芸術的な創造性が失われていったといわれています。


今回出展されている狩野永徳の「檜図屏風」は、狩野派的形式の装飾性と力強さを感じる作品です。
時代の権力者に仕え、その威光を表現する巨大建築物の障壁画を中心に描いた狩野派ならではの、金屏風の上に迫力ある檜が描かれた作品です。
描かれた檜は、デフォルメされて、その生命力を画面一杯に力強く表出しているようです。



狩野永徳の「花鳥図襖(梅に水禽図)」図録より抜粋


「花鳥図襖(梅に水禽図)」は、大徳寺の塔頭・聚光院の客殿を飾る襖に描かれた作品です。
梅の古木の枝が画面一杯に力強く描かれ、構図は「檜図屏風」に似ています。
しかし、この襖が寺の客殿に設置されるものであったためか、狩野派のダイナミズムを感じるだけではなく、墨を中心とした抑えた色調を含めて、生き物の生命力や清々しさを感じる作品となっています。

どちらかというと、わたしは「花鳥図襖(梅に水禽図)」の方が「檜図屏風」より好みです。



長谷川等伯「萩芒図屏風」図録より抜粋


一方、長谷川等伯は、能登国七尾に生まれ、後に30歳を過ぎて上洛します。
狩野派全盛の時代にあって、後発の絵師として、自分を売り込む術に長けていた野心家であったといわれています。

今回出品の彼の作品「萩芒図屏風」などは、現代日本画家が手掛けている作品と見紛うほど、モダンな印象を受けます。
和室・洋間を問わず、現代の住宅の中に置いたとしても、時代を超えて古さを感じない、美の神髄に迫ろうとする画家の個性が光る作品となっています。



長谷川等伯「松林図屏風」図録より一部抜粋


多くの方が幾度となくご覧になっている、長谷川等伯の代表的作品「松林図屏風」は、何度見ても新鮮さを失わない傑作でしょう。
現代の画家でさえ、ここまで大胆になれない筆使いを見ていると、この時代にあって、作家の個性と作品の独自性を、よくここまで描ききったものだと、驚嘆してしまいます。

湿潤な冷気に消え入りそうな松林。
墨一色で描かれた松林の画面は、観る者を、静寂と幽玄の世界に導いてくれます。
鑑賞している方々は、しばしその絵の前に止まり、この絵が醸し出す冷厳な世界に浸っていました。
松林が秋の朝霧の中に消え入るその空白の中に、観る者それぞれがそれぞれの思いで、描かれていない何かを追い求めてしまう。

この絵がいつも新鮮な感動を私に与えるのは、この絵の余白が、その時々の私を映し出してくれるからなのでしょうか。
下絵の可能性があるとも言われるこの「松林図屏風」は、等伯の片腕となって制作に当たった才能ある息子の死の悲しみを背負って描かれたとも言われています。



長谷川等伯「松林図屏風」図録より抜粋


この水墨画「松林図屏風」は、様々な意味で、日本の絵画史上、傑作中の傑作といって差し支えないと私は思います。

以下の「巨匠たちの日本美術」関連ブログも、興味ある方はご覧ください。

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その2「長次郎と本阿弥光悦」

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」を観て…その3「池大雅と与謝蕪村」(1)

マッキーの美術鑑賞:対決「巨匠たちの日本美術」…その3「池大雅と与謝蕪村」(2)



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マッキーの美術鑑賞:東京都現代美術館 川俣正展「通路」

2008年02月25日 | 美術鑑賞
私が参加している美術の愛好団体「美樂舎」の例会企画で、東京都現代美術館で開催されている、川俣正展「通路」を見てきました。


東京都現代美術館前からのまわりの風景

 世界的に活躍されている現代アートの作家である川俣正は、名前こそ知っていましたが、その作品となると、今まで実際には見る機会がありませんでした。

 この展覧会では、美術館の内側だけでなく、外側にもベニヤ板による「通路」(当日強風のため、外部設置のものは、破損撤去されたもの多し)がつくられ、観客はベニヤ板で区切られた空間を歩き回ります。


通路を巡る観客

 作品の展示室と展示室をつなぐ「通路」であるベニヤ板の裏側にも、彼の30年にわたるアートの制作パネルが展示してあります。


川俣正の作品

 川俣正が歩いてきた30年を、「通路」という比喩的表現を使い、観客もその「通路」を歩きながら、その足跡を知ることができる仕掛けです。


川俣正の作品

 また、「通路」を歩き回ると、彼の作品展示室だけでなく、様々な美術活動を行っているメンバーたちの日常の活動を見ることの出来る、いくつかの「ラボ」と呼ばれているスペースがあります。

 そこはまた、観客も参加できる場所で、美術館に来ている子供たちも楽しそうに参加していました。

 こうした美術展示は、彼が行ってきた制作スタイルである、現場での様々な人や情報を作品に介入させる手法とマッチしていて、興味深いものでした。

 また、一般の人たちに、現代美術をさりげなく鑑賞・体験させる場として、今回の企画は成功しているようです。

 また、川俣正「通路」のもう一つの目玉は、川俣さんと招待者によるトークセッション「Cafe Talk」でしょう。

 今回の対談者は、自身の身体・コンピューター・映像テクノロジーなどのメディアを使う現代美術作家の高嶺格さんでした。

 このトークショーは、「通路」の一部を、飲食もできるスペースに充てて、日常会話的な気軽さで、話す側も聞く側も参加しているといったものでした。

 実際、2時間近くに及ぶトークショーは、現代美術の制作者の日常や家庭の話まで及び、最後のリスナーからの質問に対しても、2人とも丁寧に答えていました。

 現代美術の中でも、なかなか取っ付きにくい、造形作品の制作者と映像やパフォーマンスで表現する現代作家の話を、私も身じろぎもせず集中して興味深く聞くことができました。


トーク終了後の会場を上から見ると

 この川俣正「通路」は、会期が4月13日までですので、私は時間を置いて、もう1度訪れてみたいと思っています。


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マッキーの随想:年末の風物

2007年12月25日 | 美術鑑賞
 12月23日(日)は、私が参加している美術愛好家の集まりの「美楽舎」の忘年会でした。


恒例会員持ち寄りオークション

 この会は、20年ほど前、私が友人に提案し、1年ほどの準備期間を経て平成2年より活動をしています。

 私自身は、会社が多忙になったため、運営からは退き,一会員として参加しています。

 近年は月1回行われる例会にも、なかなか参加できない状況ですが、忘年会にはここ数年続けて参加しています。

 私のブログをご覧の方で、美術に関心のある方は、敷居の低い会ですので、気軽に例会に体験参加してみてはいかがでしょう。

 お問い合わせ:東京都中央区銀座1-5-1 第三太陽ビル6F
  K's Gallery内   Tel/Fax 03-5169-0809
 
 会員には、研究熱心な方が多いので、そういった方との語らいの中で、私も美術にもっと親しんでいきたいと思います。


 24日(振替休日)は、山に行く予定でしたが、朝起きできず築地の魚河岸に出かけました。年末最終よりも幾分すいていました。


何故か、鰹節を機械で洗っていました。理由をご存知の方は?

 築地は、アメ横より価格はちょっと高めのような気がします。

 しかしアメ横での食料品の買い物では、私自身失敗したことが何度かあります。たとえば、ゴムのような酢だこや上げ底の筋子や素人だましのマグロ中トロなどです。

 築地の方が、品物の質が良いものが多いようで、その分安心して買い物ができるようです。

 年の瀬の市場の雑踏は、あわただしく、そして否応無く背中を押してくる時の流れのようです。平穏に厳かに除夜の鐘の音を聞き、御節に舌鼓を打つために、人々は大きな市場の渦の中で格闘していました。


以下は、今年私が出かけた都内のイベントの写真です。

初めて出かけた、原宿のよさこいです。夏のエネルギッシュなイベントです。


原宿よさこい


 毎年出かける、阿佐ヶ谷の阿波踊りです。原宿と阿佐ヶ谷を比較して、私の趣味としては、どちらかというとよさこいより阿波踊りのほうが好きです。


阿佐ヶ谷阿波踊り


江戸川の花火大会は、花火の規模は無論、大きな河川敷と、そこの観客の多さで圧倒されました。


江戸川花火大会

前回の問題解答
〔1〕①6400×2×3.14=40192   
    約40000km
②40000÷360=111(km)
③111÷60=1.85(km)
④40000÷24=1667(km)

〔2〕①1.5×2×3=9(億km)
②90000÷360=250(万km)
③250÷24=10.4(104千km)




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