去る9月20日政治的指導を仰いで来た我が「師」土井たか子氏が肺炎により死去されたと言う報道がありました。
私は、23歳で結婚。組合活動を通じて学ぶ中、労働組合運動の限界を知らされ、自らの生活向上や平和と民主主義を守る為には政治的活動に力を注がなくてはとの思いから、日本社会党に入党。身近な自治体議会議員選挙の応援は日常的活動の範疇だった。
1969(昭44)年、第32回衆議院総選挙時、私が所属していた私鉄関西地方連合会は兵庫2区から立候補された社会党内でも護憲派の「トップリーダー的存在」だった、故土井たか子さんを準組織内候補として大々的な選挙運動を展開。私も応援者の1人として、共に闘う中での出逢いが出来、人なりを知り、党人として、政治家として、思想家として、得がたい先輩を持つ事が出来ました。以来、長い
年月の中で、勝手ながら最も尊敬出来る存在「師」と位置付けさせて頂き今日に至っています。
土井さんは、この間連続12回36年間、社会党・社民党の議席を守り、常に党の顔としてご活躍されました。
成田知巳委員長に召された土井さんは、名実共に「護憲派のトップリーダー」としてその実力を発揮されました。
飛鳥田一雄・石橋政ジ両委員長を懸命に支え、党勢拡大に献身的貢献をされましたが86年の衆・参同日選挙で大敗した石橋委員長の辞任により、「やるっきゃない」と言う決心のもと、女性として始めての野党第一党の委員長に就任されました。(写真は委員長に立候補され全国遊説中、私鉄関西地方連合会の大会に参加された時「共に頑張ろう」と強い絆の握手)当時外国で働いていた、商社マンの方々のお話しによりますと、商談に入る前に相手方より「日本に、女性の野党第一党党首が誕生した事について」の質問攻めにあったようです。1988年、消費税導入を掲げた自民党に対して「ダメなものはダメ」と言う端的で明快な言葉で反対を表明し、翌89年の参議院選挙には女性候補者を多く擁立し「マドンナ旋風」を巻き起こし、与野党逆転を
実現。その時の状況を「山が動いた。」と表現され名台詞をのこされました。
ところがその2年後の91年4月の統一自治体議員選挙では全国的に敗北の選挙であったため、その責任をとって委員長を辞任されました。
しかし、その2年後の93年8月に、細川非自民・非共産政権が成立し、憲政史上初の女性衆議院議長に就任されました。この人事の表向きの姿は最高に素晴らしい様に思えますが、私流の感想は賢明な土井たか子衆議院議員の「口封じ策」人事でなかったか?と今も疑問におもえてなりません。
議長職修了後、社民党に改名された委員長に就任されたりしましたが、民主党の発足がひびき05年の第44回衆議院議員選挙で落選され後は護憲のエキスパートとして、全国各地区で講演されていました1986~91年の委員長にあられた時に、写真にある色紙を頂きました。
真理 以寒梅
耐風雪花開
真理は寒梅のごとし
風雪に耐えて花開く
と言う漢詩です。25年たった今も私の宝物の1つとして大切にしています。
この漢詩は同志社大学の創始者新島襄氏が日銀総裁になられた、深井英五氏に贈られた
真理以寒梅
敢侵風雪開
と言う漢詩を、護憲派の土井さんは「敢えて侵す」と言う言葉を避けられたようです。
私は、もう1つ、高校時代の担任だった先生(恩師)から市議会議員に当選させて頂い時にお祝いの品としてくだささった色紙「一生初心」を35年たった今も居間の常に見える処で大切にしています。
貴重な色紙をくださったお二人の「師」は去られましたがお二人の「意志」は我が身が朽ちるまで引き継いで行く所存です。お二人様のご冥福を心からお祈り致します。合掌