私は昨日、満73歳の誕生日を迎えさせて頂きました。私の両親は共に37歳の若さで、私と兄貴をこの世に残して逝去致しました。父親が亡くなった時、私は数えの5歳でした。また、母親が亡くなった時私は8歳でした。以来私は、叔父さん叔母さんの元で、百姓を手伝うかたわら、少しでも生活を豊かにする為に乳牛、綿羊、鶏等々家畜の飼育する事で、なんとか最低の生活を維持する事が出来、お陰様で機械いじりが大好きだった私は滋賀県立瀬田工業高校に進学させて頂く事が出来ました。高校ではボ-ト部に入部し、3年生の時には朝日レガッタや関西選手権等々数々に優勝し、近畿地方においては瀬田高校ボ-ト部の名を轟かせるほどの活躍をする事が出来、昭和32年全国高校体育大会第4位、同国民体育大会第5位と言う輝かしき成績を残し、高校を卒業させて頂きました。また、待望の京阪電車に入社させて頂き、30歳になるまで仕事とボ-トを漕ぐ事を続け、実業団になってからも京阪電鉄ボ-ト部として
東京、熊本、岐阜等々で開催された国民体育大会に京都府の代表として出場させて頂きました。京阪電車に入社させて頂いて間もないころ、会社の上司である加藤様宅に居候をさせて頂き、ここで親身のお世話になった事は今もはっきりと記憶に留める傍ら、若かったとは言え「よくもあれほど厚かましくさせて頂いたなァ-」と言う思いと「親以上にお世話下さった恩人」として一生涯忘れる事の出来ない私にとって最も大切な御仁として、お仕えさせて頂いています。この様に、この歳に至るまでの私は、会社や職場は勿論の事、労働組合運動に取り組んでいる時も、自治会を初め地域の活動をしている時も、また初めて市会議員に立候補させて頂いた時に戦う城をお貸し下さった村上建設の社長、乾初代後援会長、野村氏、久保氏、中尾氏等々歴代後援会長やその時々の後援会の役員の方々、そして今尚一生懸命私のお世話をして下さっている方々、また応援をして下さっている方々など数え切れない沢山の方々に今もお世話になっています。本当にありがとうございます。改めて心から
厚くお礼申し上げます。73年もの長きにわたり、私をここまで育てて下さった皆々様に、私の命のある限り、ご恩になった満分の一でもお返しが出来ますようこれからも頑張って参りたいと思っています。まだまだ至りませんがこれからもよろしくお願い致します。
東京、熊本、岐阜等々で開催された国民体育大会に京都府の代表として出場させて頂きました。京阪電車に入社させて頂いて間もないころ、会社の上司である加藤様宅に居候をさせて頂き、ここで親身のお世話になった事は今もはっきりと記憶に留める傍ら、若かったとは言え「よくもあれほど厚かましくさせて頂いたなァ-」と言う思いと「親以上にお世話下さった恩人」として一生涯忘れる事の出来ない私にとって最も大切な御仁として、お仕えさせて頂いています。この様に、この歳に至るまでの私は、会社や職場は勿論の事、労働組合運動に取り組んでいる時も、自治会を初め地域の活動をしている時も、また初めて市会議員に立候補させて頂いた時に戦う城をお貸し下さった村上建設の社長、乾初代後援会長、野村氏、久保氏、中尾氏等々歴代後援会長やその時々の後援会の役員の方々、そして今尚一生懸命私のお世話をして下さっている方々、また応援をして下さっている方々など数え切れない沢山の方々に今もお世話になっています。本当にありがとうございます。改めて心から
厚くお礼申し上げます。73年もの長きにわたり、私をここまで育てて下さった皆々様に、私の命のある限り、ご恩になった満分の一でもお返しが出来ますようこれからも頑張って参りたいと思っています。まだまだ至りませんがこれからもよろしくお願い致します。