本日は改姓なり!

うだうだな日記ですがどうぞよろしく

師走

2016-11-30 21:29:19 | 日記
今年も早いもので、明日からもう12月・・・。

忘年会だ、年賀状の準備だ、クリスマスだ、大掃除だと言っている間に、今年も大晦日を迎えそうな感じです。
一昨年から本ブログで書いてきたと思いますが、私、一昨年、昨年、今年と厄年でして、今年は後厄の年だったんですが、この3年間、今のところたいした災厄もなく、無事、過ごしてきました。
ま、あと1ヶ月ありますので、油断は禁物ですが、とりあえずここまで色々な面においても、悪い事がそれほどなかったのは幸いですかね。
‘来年の事を言えば鬼が笑う’という諺がありますが、来年は厄年も明ける事ですし、個人的に何か良いニュースを本ブログを呼んでいる方々にもですし、身近な人間にもお伝えできれば良いんですけどね・・・と、そんな予定は、今のところ全くありませんが。
しかしながら、今日も会社の同僚と話していたんですが、本当に1年が過ぎるのが歳をとるにつれて早くなっていきます。
それが良い事か悪い事かはわかりませんが、あと1ヶ月、気を抜かないよう健康等に注意して生活していこうと思います。

蘆花浅水荘

2016-11-26 23:17:39 | 重要文化財
今回は前回からの続きで、旧三井家下鴨別邸を出て向かった先は、滋賀県大津市にあり、記音寺とも呼ばれる蘆花浅水荘です。

本屋や離れ、表門や土蔵等、6棟もの建造物が重要文化財に指定されていて、一般公開されているんですが、事前に予約が必要で、当然ながら2,3日前に直接電話をして予約をしておいて足を運びました。
蘆花浅水荘は、明治から昭和初期にかけて活動した円山四条派の日本画家、山元春挙の旧邸でして、山元春挙は、本ブログでも何回か紹介した事があります竹内栖鳳(詳しくはインターネット等でお調べ下さい)と近代京都画壇の両雄として並び称され、当時、帝室技芸員にも任命された人物です。
山元春挙は、大津市膳所町の生まれで、40歳頃に生地に近い琵琶湖畔に自分の絵の師である森寛斎(この方も詳しくはインターネット等でお調べ下さい)と両親の恩を記す目的で、別荘の建築を思い立ち、大正3年から7年ほどの月日をかけ、大正10年に一応の完成をみて、その後も増築され、現在の蘆花浅水荘にいたるそうです。
記音寺とも呼ばれているのは、邸内の中に上記で紹介した森寛斎と両親の像を安置した持仏堂(記音堂)があるからで、山元春挙の嗣子の代には、円融山記音寺として開山されています。
見学のガイドは、山元春挙のお孫さんがして下さったんですが、住宅や庭園自体にも山元春挙が自ら手を加えた所も多く、現在は湖岸道路を挟んで蘆花浅水荘がありますが、建てられた当初は庭園がそのまま琵琶湖に面していたそうで、しかも、その庭園が琵琶湖や対岸にある三上山(近江富士とも呼ばれています)を借景にして作られており、いかにも画家の感性というか芸術性が感じられました。
住宅自体も、画家の風流な心というか、洒脱さが随所に現れていまして、これまで見て来た住宅とは、ひと味もふた味も違った感じで、書院や茶室等の独特な優雅さや、仏間にある襖の引き手が満ち欠けを表している月の形になっていたり、実際に舟に乗っているかのような印象を受ける圧巻の船底天井、他にも網代天井があったり、莎香亭と呼ばれる部屋から見える、蘆花浅水荘からほど近い場所にある膳所城の遺構を使った手水には中秋の名月の折りに、月が写り込むように設置されていたり、山元春挙が絵の構想を練った梅づくしの小部屋、他にも竹の間と呼ばれる部屋は、床柱から狆くぐり、丸窓にはめ込まれた木材まで竹を使っているという徹底ぶりで、なおかつこの竹の間からは見える景色には、前述した梅づくしの部屋と、庭に植えてある松を眺める事が出来‘松竹梅’がそろうという何とも風流な嗜好がされていたりします。
ただ、この住宅はこれだけではなくて、2階がまた驚きで、外観からは全くわからないんですが2階の1室は完全な洋館になっており、1階の書院等の照明器具や洋室のシャンデリアにも描かれていた、山元家の家紋である桔梗が洋室の天井の四隅には彫刻されていました。
また、洋室の隣には、現在の記音寺の本堂になっていて、当時は山元春挙が画室として使った部屋があり、使われていた画材や下絵が残っており、山元春挙自身が設計した絵の具の専用棚等もあり、部屋の広さと高い天井にも驚かされ、それこそこの部屋で山元春挙は、大作を生み出していった事なんでしょう。
見学の最後には、庭園に出て、住宅を眺めさせて頂いたんですが、とにかく見所が満載の住宅で、ガイドをして下さった山元春挙のお孫さんも非常に丁寧に説明して頂き、なおかつ見学者(私達の事ですね)にはわざわざ、写真を撮影するための時間まで最後にとって頂いて、家族共々、大満足の‘文化財巡り’になりました。
実を言うと、訪れる前までは、個人的には蘆花浅水荘はそれほど期待していなかった(どちらかと言うと、前回のブログで紹介した旧三井家下鴨別邸の方が期待が大きかったです)んですが、今月の19日付けのブログ‘濱口家住宅’でも書きましたが濱口家住宅同様、蘆花浅水荘もこれまで訪れた重要文化財指定の建造物の中では、個人的にかなりの上位に入る印象度でした。
今月は、文化の日絡みなのか、特別公開が多い月でもありましたが、個人的に強い印象や、満足度の高い建造物を多く見られて、非常に充実した‘文化財巡り’の月となりましたね。

旧三井家下鴨別邸

2016-11-24 19:27:30 | 重要文化財
今月は、貴重な文化財の特別公開が目白押しという話を以前書きましたが、先日、またもや今度は家族と共に‘文化財巡り’に行って参りました。

今回、訪れたのは京都市左京区にあります旧三井家下鴨別邸で、豪商、財閥として名高い三井家の別邸として建てられ、下鴨神社(正式には賀茂御祖神社ですね)のすぐ南にあり、戦後は財閥解体のあおりもあってか昭和24年(1949年)に国に譲渡され、昭和26年(1951年)から平成19年(2007年)までは、隣接する京都家庭裁判所の所長官舎として使用されていたそうです。
主屋、玄関棟、茶室が重要文化財に指定されているんですが、平成25年(2013年)から老朽化した部分の修復工事が始まりまして、その工事も無事終了し、今年の10/1より一般公開が開始されました。
通常の一般公開では、3階建てである主屋の1階部分しか公開してないんですが、11/19から12/4まで2階の座敷や3階の望楼も特別公開されていまして、当然ながら私はその期間を見計らって、足を運んで来た次第です。
上記写真を見て頂くとわかると思いますが、主屋は非常に特徴的な建物になっていまして、特に3階の望楼は、畳3畳ほどの小さい空間ながら、360°周りが見渡せるようになっており、五山の送り火で知られる大文字山も一望でき、この建物が建てられた当初は、今以上に鴨川や東山の眺望が見事だったと思われます。
私や父母も、望楼からの眺めは‘絶景やね’と言っていたんですが、望楼から見える庭園も非常に趣があり、主屋自体が庭園に面しているので、非常に開放的な感じがしました。
また、主屋の2階座敷や茶室は、貸出もされているそうで、私は茶をたしなんだりはしませんが、こういった場所で茶を点てて頂いたりすると、身も引き締まる感じがするでしょうね。

さて、この日は、旧三井家下鴨別邸を出た後、もう1件、別の文化財を巡ったんですが、どこに向かったかは明日以降のブログにて紹介したいと思います。

濱口家住宅

2016-11-19 21:50:06 | 重要文化財
今回は、前回からの続きで、稲むらの火の館を出て向かった先は、同じく和歌山県有田郡広川町にあり、徒歩で2分ほどの場所にある濱口家住宅です。
ここの一般公開は、事前にはがきでの申し込みが必要で、しかも公開されるのは11月半ばの年に2日、なおかつ1日に時間を区切って2回だけの公開で、当然ながら私は事前にはがきで申し込んだんですが、各回の定員が10人以下という事で‘ひょっとしたら外れるかもな’と思っていたんですが、大丈夫でした。
というのも、行って見てわかったんですが、大々的に一般公開しているわけではなく、一般公開の告知も、濱口家住宅を管理している会社のホームページと広川町の広報紙しか情報を掲載していなくて、私は、こういった文化財絡みの情報をインターネット等で集めているので、情報は得ていたわけなんですが、今回の応募で他府県から応募があった事に非常に驚かれた(私たちが見学した回の見学者は6名で、私たち以外は地元の方でした)ようで、住宅内の案内をして下さったガイドの方から、見学前に‘どこで、一般公開をお知りになったんですか’と聞かれたほどでした。
濱口家住宅は、前回紹介した濱口梧陵とも少なからず関係がありまして、濱口梧陵が出た家は西濱口家と呼ばれるのに対して、今回訪れた濱口家住宅は、東濱口家と呼ばれ、元々は同族なんだそうです。
主屋や本座敷、蔵等、9棟もの建造物が重要文化財に指定されているんですが、西濱口家同様、東濱口家も江戸時代から醤油問屋を営んでおり、関東地方の醤油メーカーとしては有名(私は関西の人間ですので詳しくないですが)なヒゲタ醤油を当時の他の醤油醸造家である2つの家と合弁して設立しています。
濱口家住宅自体は、約300、200、100年前に建てられた建造物が混在しており、最も古い主屋は生活の場として、町屋の形式がとられています。
約200年前に建てられた本座敷は、非常に格式が高そうな建造物で、茶室や仏間、座敷等の意匠は素晴らしく、さすがは商売の成功により商家でありながら紀州藩から特別な地位を受けていたのが理解できる感じでした。
しかし、この濱口家住宅で最も感心させられたのは、築約100年になる明治末期に建てられた‘御風楼’と呼ばれる木造3階建の迎賓施設で、一級品の木材が使われた柱や床の間、職人技が光る格天井や欄間も見応え十分なんですが、2階の座敷から階段状の岩山をつたい直接行き来できる見事な庭と、3階の座敷から北・西・南の3方向を眺められるパノラマの壮大な景観は圧巻の一言(建造された当初は、今よりももっと素晴らしい景観が広がっていたと思われます)で、その先には太平洋が望めるわけなんですが、施工主の景観へのこだわりは非常に強かったようで、窓を開け広げると視界を遮るものが何もないように工夫(雨戸をしまう戸袋が階下に移動できるようになっています)されています。
私もこれまで、結構な数の建造物を見てきましたが、今回訪れた濱口家住宅は、驚きに満ち溢れていまして、これまで訪れた重要文化財指定の建造物の中でも印象度という意味では、個人的にかなりの上位に入るのではないでしょうか。
一緒に訪れた母も同じような印象だったようで‘こんな建造物は初めて見たね’と言っていましたしね。
また、住宅内を案内して下さったガイドの方が、濱口家の話として教えて下さったのが、東濱口家の9代当主である濱口容所という方の娘に濱口尚子という女性がいらしたんですが、この方、かの清国最後の皇帝にして満州国皇帝でもあった‘ラストエンペラー’愛新覚羅溥儀(詳しくはインターネット等でお調べ下さい)の弟である溥傑と結婚し‘流転の王妃’として知られる嵯峨浩の母親だそうで、嵯峨家と言えば旧華族で侯爵の家柄ですから、濱口家も実業家としてたいした名家だったんだと感心したと共に、人の繋がりというのは奥深く興味深いなと改めて思いました。

稲むらの火の館

2016-11-15 23:19:54 | 観光スポット
皆さんは、濱口梧陵という人物をご存知でしょうか。

濱口梧陵という人物は、江戸時代に現在のヤマサ醤油株式会社の当主になっておられた方なんですが、この方の名前が知られるようになったのは、1854年(安政元年)に起こった安政南海地震の際に紀伊半島一帯を襲った津波に対して適切な判断をし、現在の和歌山県有田郡広川町の住人を速やかに安全な場所に避難させた事でして、これをもとに作られた話がラフカディオ・ハーンこと小泉八雲(詳しい事はインターネット等でお調べ下さい)が著した「A Living God」という物語で、これは後に日本語に翻訳され、当時の国語教材にも使用された『稲むらの火』という話になります。
濱口梧陵は、津波により大きな爪あとが残った故郷の復興にも尽力し、現在は国の史跡にもなっている広村堤防という当時としては最大級の堤防を私財を投じて築造し、後の大正時代に現在の広川町を襲った高波は、この堤防により防がれ、村への被害が食い止められたそうです。
2007年(平成19年)に、濱口梧陵の偉業と、津波による教訓を学び受け継いでいくために、広川町内に濱口梧陵記念館と津波防災教育センターから成る‘稲むらの火の館’がオープンし、濱口梧陵記念館には、濱口梧陵の人となりがわかる展示や、梧陵にまつわる品々が展示され、津波防災教育センターには、津波や防災に関する知識が紹介してあるんですが、昨年の7月には、皇太子殿下が館内を見学され、9月には天皇皇后両陛下もお見えになっています。
私は今回、家族で行く予定にしていたんですが、急遽、父が別の用事で行けなくなりまして、私の‘文化財巡り’としては珍しく母と2人で出掛けてきました・・・私は『稲むらの火』の話は全く知らず、濱口梧陵という人物に関しても全く知らなかったんですが、母は『稲むらの火』の話は知っていたそうです。
今回‘稲むらの火の館’を訪れて、このような偉人がいた事にも驚きましたし、江戸時代以降、こういった地域に貢献された方で、その地域では活躍を讃えられて有名ではあっても、全国的にはそれほど世に知られていない人物というのは、まだまだたくさんいらっしゃるでしょうね。

さて、今回の遠出は、実は‘稲むらの火の館’がメインなわけではなく、次に訪れた場所が個人的には、完全に‘文化財巡り’の一環だったわけなんですが、次にどこに向かったかは、明日以降のブログにて紹介したいと思います。