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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

フランス公議局旧址 - 1945年10月6日、日本軍降伏式の地

2023-10-03 | 天津を歩く
天津旧フランス租界にあるフランス公議局だった近代歴史建築です。



1929年から31年にかけて建てられたそうです。こういうのはクラシックリバイバル様式と呼ぶのでしょうか。

旧フランス租界には今でも当時の多くの公的機関の建物が残っていますが、ここは大きさといい、優美さといい高い水準にありそうです。保存状態も良好です。

設計は、最初にフランス人建築家ミュラーが手がけ、その後、イーピン社の技術者たであっやメンデルソンによって正式に設計された、とあります。

公議局は天津フランス租界の行政事務を行う機関でした。
駐天津フランス領事が代表を兼務して、総務部、警察部、工務部、寄付部、会計部の5つの部署があったのだとか。

この建物を説明する中国語の文献によると、先の戦争が終わった1945年、天津の日本軍の中国軍への降伏式がここで行われた、とあります。

本当でしょうか。

少し掘り下げて調べてみると、このときの様子を記した中国語のサイトがいくつかありました。

この中国語ページに注目してみます。

要約すると、こういう説明されています。

1946年9月、国民党軍は東北三省を除く中国の16か所で日本軍の降伏式を行う計画を立てた。それぞれの地で中国側の最高軍位にあった中国人司令官が受諾の役割を受け持つことになった。天津は第10受諾区だった。

ところが、天津での式典の開催が迫った9月下旬になって米国海軍が割り込んできて降伏式を受け持つと言い始めた。

フランス公議局のビルは、第二次世界大戦末期から、米国海軍第三軍の司令部として使われていたので、降伏式はここで行うことになった。

1945年10月6日、霧の濃い天津旧フランス租界公議局ビル前の小広場で、日本軍の降伏式が始まった。

降伏側の日本軍代表は陸軍第118師団長の内田銀之助中将、受諾側は予定されていた中国側司令官から米国海兵師団のロッキー少将に変更された。

これに対して中国側関係者は疑問を感じたが、それまでの経験から、彼らが上から目線で一方的で、かつ朝令暮改で口出ししてくることをよく知っていたので、不本意ながら自らを納得させた。

式典の流れはとても簡素で、ロッキー少将が中国を代表して署名し、続いて日本軍の内田中将が署名した後、内田中将はロッキー少将に軍刀を差し出した。

本来、最も降伏式に参加すべきであった中国側代表は2人のみで、1人は第10受諾区参謀長、1人は天津市副市長だった。

当時、広場の周囲には200から300人の群衆が集まっていた。

勝利の喜びを待っていたが、降伏式が終わった後に会場に掲げられたのは米国国旗であり、演奏されたのは米国国歌だった。


いかがでしょうか。
上記サイトには降伏式当日の写真が掲載されています。内田銀之助中将と思しき人物が署名しているシーンの写真があります。

ロッキー少将と思しき人物が立っている写真の背景に写っている建物は、たしかにこのフランス公議局です。





現在、日米と中国は政治的に何かとややこしいわけですが、こういう一見何気ない街角にも日米中の歴史が静かに刻まれている、という例です。

戦後まもなく、建物は天津軍統制委員会の事務所として使われました。その後目まぐるしく役割を変え、天津図書館、天津児童青少年図書館、天津美術館、天津文物局庁舎などとして使われたそうです。


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