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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

芙蓉ホテル新館旧址

2023-09-27 | 天津を歩く
かつて天津日本租界にあった芙蓉ホテルは日本人経営のホテルとしては最も古く、部屋数が多く、かつ名の通ったホテルだったとされます。



設立は1902年ですので、租界を開いた初期中の初期で、秋山好古が清国駐屯軍守備司令官として天津に駐在していた頃です。

何度か移転を行い、やがて本館、別館、新館などの複数の場所に分かれました。



ここは1939年に開業した新館です。場所は旭街で、四面鐘の東隣です。日本租界時代の住所表記は旭街12番地です。



芙蓉ホテルグループではここが最も豪華で、その内部施設、サービス、価格は当時の天津のトップクラスだったといいます。

当時、ホテルを経営したのは大原清兵衛という佐賀県出身者でした。

要人が宿泊し、関東軍や満鉄などの部門が指定して様々なサービスを提供しました。





左側が芙蓉ホテル新館です。

これは当時の刊行物に掲載されたホテルの広告です。



「日本都市大観 昭和15年版」(大阪毎日新聞社、1940年)では、このホテルのことを次のように紹介しています。

明朗北支の天津日本租界旭街松島街角に豪華な一大偉観を呈しているのは芙蓉ホテル新館及び芙蓉ホテルグリル新装の姿である。
館主大原清兵衛氏が巨費を投じて、近代的建築様式の粋を集めて設計建築したもので、まづその正門に立てば、言ひようのない落つきを感受し一度足を踏み入るれば、目を奪はれるばかりである、客室総数は70室で、種類の部屋に分類し浴室、便所付き部屋も多数備はり、特に大陸旅行団体のため百人収容の団体部屋も用意されているなどいかに理想的に、且つ大掛かりに設計されたかがうかがえるが、これら内部の設備はいづれも近代的に、豊かな調和をもつて完備し、サービスまた至れり尽せりの態度で決して客に失望を興へない、これらは館主大原氏は勿論であるが、市街人柚木輝夫氏の苦心の存するところで、特別の注意は単に設備のみならず総ての待遇において「客の気分を従業員の気分として」をモットーに懇切周到、いささかのうらみも残さぬことを念頭に経営しているため、客もまた感嘆推奨に口を極めているのも、もつともである。
また大原氏は天津日本租界栄町公園前に芙蓉ホテル別館を経営している、支配人は小原福松氏で、施設は素晴らしく完備し、サービスもたぐひなく100%の満悦を興へ、ために40の客室では不足を告げるに至り、前記の如く新館、グリルを新築したものである。
芙蓉ホテル本館は天津日本租界宮島街に商人向旅館として館主泉勝一氏が経営し、客室30室はいづれも完全な設備に万全の接待をなし「天津では芙蓉ホテル」と常連も素晴らしい数にのぼついている
芙蓉ホテルは各館を通じて、視察団その他団体何人からでも相談に応じている
新館(朝夕二食付)9円より35円まで、団体は(二食)6円以上
別館(朝夕二食付)9円より17円まで、団体は5円以上
新館(朝夕二食付)5円より8円まで、団体2円50銭以上
祖国に本を偲ぶ和室、香新しい青畳、完全なる暖房、衛生設備の完璧、訓練されたるサービス、優秀なる板前技術など特筆すべき数々を持つ芙蓉ホテルの経営主大原氏は日本奈良県肝塚町に累々の聲をあげ、幾多の辛酸と貧困と戦ひながら、その百折不撓の努力がつひに報ひられ今日を築き上げた立志伝中の人である

いかがでしょうか。

経営者の大原氏は帰国後も神戸市で経営を続けたそうです。

この新館は竣工から約85年が経過することになりますが、今も当時の姿をなんとか残しています。

当時は和室を含む70の客室があったとのことですが、それらは今どんな利用状態にあるのでしょうか。
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