天津五大道の旧英国租界は租界時代の立派な戸建ての洋館が良好な保存状態のまま連なっており、当時の雰囲気をそのまま残すエリアです。
この3階建てのレンガ造りの洋館は1920年につくられたようですが、プレートによると、国民党軍の中将だった関麟徴(1905-1980)の旧居だったそうです。

関麟徴は陝西省出身で、少年時代に軍に入隊し、士官候補生として黄埔軍校を卒業後、東征と北伐に従軍します。
日本との戦争では1933年に長城の古北口で、1938年には第52軍の司令官として台児庄で日本軍と戦いました。関の部隊は勇敢で、日本軍を繰り返し攻撃して退けたため、「関鉄拳」と呼ばれたそうです。
当時第五師団の師団長だった板垣征四郎は関の軍隊について、一般の中国の部隊の10個分ぐらいに相当する、と語ったのだとか。
関がこの建物に住んでいた時期は分かりませんが、建築当初は英国人租界民の住居だったはずです。
関は香港で退役後の晩年を過ごしていますが、それまでの激動の軍人人生を考えると、この天津で暮らした時間は短かったのではないでしょうか。

中央の建物の半円形の塔のファサード、玄関右の丸窓など、いかにも当時の流行を取入れた感じがします。
この3階建てのレンガ造りの洋館は1920年につくられたようですが、プレートによると、国民党軍の中将だった関麟徴(1905-1980)の旧居だったそうです。

関麟徴は陝西省出身で、少年時代に軍に入隊し、士官候補生として黄埔軍校を卒業後、東征と北伐に従軍します。
日本との戦争では1933年に長城の古北口で、1938年には第52軍の司令官として台児庄で日本軍と戦いました。関の部隊は勇敢で、日本軍を繰り返し攻撃して退けたため、「関鉄拳」と呼ばれたそうです。
当時第五師団の師団長だった板垣征四郎は関の軍隊について、一般の中国の部隊の10個分ぐらいに相当する、と語ったのだとか。
関がこの建物に住んでいた時期は分かりませんが、建築当初は英国人租界民の住居だったはずです。
関は香港で退役後の晩年を過ごしていますが、それまでの激動の軍人人生を考えると、この天津で暮らした時間は短かったのではないでしょうか。

中央の建物の半円形の塔のファサード、玄関右の丸窓など、いかにも当時の流行を取入れた感じがします。









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