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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

滙川公司旧址 - 日本企業の社名プレートが残る老建築

2023-08-31 | 天津を歩く
天津旧日本租界の旧宮島街を歩いていると、古そうな社名プレートを掲げる建築物を見かけました。



滙川公司とあります。



日本租借時代に掲げられたものでしょうか。
当時の文献を調べてみると、宮島街17番地に滙川公司という店舗があったことが分かりました。
まさにここです。



合資会社滙川公司はカメラや写真用品、時計を販売した会社だったようです。

邦字書籍に広告も出していました。



ドイツのカメラメーカーであるライカ社やツァイス社の販売代理店だったようです。舶来品を扱っていたと。

創業者は中川敏浩という1893年、神戸市出身の実業家でした。
同氏は1912年に大連に赴き、1916年に天津に渡り、1920年にこの会社を立ち上げたとあります。

天津を拠点に青島や済南にも支店を持ったようです。

意図的だったのか偶然なのかわかりませんが、今も日本企業の社名プレートがそのまま残っているのは極めて珍しいことです。

これはお宝です。
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興中公司天津事務所 / 華北石炭販売公司旧址

2023-08-28 | 天津を歩く
天津旧日本租界の淡路街と伏見街の交差点にレトロな洋館がありました。



今は住宅として使われているようですが、日本租界時代は何だったのでしょうか。玄関には高さ3メートルほどの立派な門構えがあります。

古地図によると、当時ここは伏見街15番地です。



昭和16年版(1941年)の中国工商年鑑をめくってみると、この番地にあるのは興中公司天津事務所でした。
株式会社興中公司は1935年12月に設立した満鉄資本の国策会社ででした。本社は北京で、華北の石炭、電力、鉱物、綿花、運輸などの経済開発を担いました。

1941年12月に解散して北支那開発株式会社(1938年設立)に引き継ぎました。

このためか、昭和17年版の工商年鑑には華北石炭販売公司となっています。

「満華職員録 康徳9年・民国31年版」(1941年)によると、華北石炭販売有限公司天津販売事務所と記されています。事務所長だった藤松盤石は明治33年長崎生まれ、京都大学卒と紹介されています。

建物そのものの建築年次は不明ですが、門柱といいエントランスの階段といい、格調と威厳を感じさせるつくりです。

このあたりは幅を利かせていた国策会社だから、ということでしょうか。







これは半地下に通じる通用門です。
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旧福島街32番地建築 - Yの社紋の謎

2023-08-25 | 天津を歩く
天津旧日本租界の多倫道を歩いていたときに見かけた2階建てL字型、長屋風の建築物です。





多倫道と山西路に面して間口3メートルほどの小型店舗が規則的に並んでいます。飲食店や菓子店、生花店、肉まん店、みやげ物店、サッカーくじ売り場など、18店舗ほどあるでしょうか。

このつくりからすると、おそらく日本租界時代も同じような横丁的な使い方だったのではないでしょうか。



注目したのは、2階の切妻部分にあるロゴです。



丸の中にYの文字が入っています。おそらく、この長屋を使っていた会社の社紋でしょう。

Yですから、頭文字「や行」の会社です。

古地図を参照すると、当時ここは福島街32番地です。

当時の商工名簿をみると、この番地にあった施設は、金森時計店、玉光堂(印章、判)、光陽商会(貿易)、大東印社(印章、ゴム印、石印、篆刻小売)、玉水(飲食業)です。

うーん、や行の会社がありません。K、G、K、D、Gです。

この広さですから、きっとほかの会社も入っていたと思います。

この社紋の謎解きは、今後の楽しみにしようと思います。

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旧樫村洋行 / 四面鐘 - 元の姿に再建された日本租界旭街のランドマーク

2023-08-21 | 天津を歩く
旧日本租界の和平路にこんな時計台が備えた目を引く洋館があります。



ここは日本租界時代は旭街とよばれたメインストリートでした。

2階建ての上に建て付けられた美しい時計台は高さ20メートルほどでしょうか。

当時、この時計台は1時間おきに時刻を告げる鐘を鳴らしたそうです。

「四面鐘」とよばれた鐘楼は建築時から長くランドマークのひとつであり続けました。

租界時代の古写真にもたくさん登場します。





デザインは当時の姿そのものですが、近くで壁面の質感を見ると経年の劣化を感じません。

調べてみると、鐘楼の部分は当時のままではなく、唐山地震(1976年)で破損して解体されたものを、2000年頃行われた和平路の再開発プロジェクトで再建したようです。

鐘楼の時計は東西南北それぞれの方向に4つ据え付けられていました。つまり、住民はどの方向からでも時を知ることができました。

このため、鐘楼は四面鐘とよばれました。そしてそれがこの一帯の地名にもなりました。
旭街を通る路面電車には四面鐘という停留所までありました。

日本国内でいえば、銀座の和光のような場所に当たると思います。

考えてみると、20世紀前半、時計はまだ貴重品で、誰もが持っていたわけではありませんでした。今のようにスマホや腕時計で気軽に時間を知ることはできません。

4面向きのこの時計台は実用的なそういう意味でも住民から相当重宝され、親しまれたのではないでしょうか。

この建物は、日本租界時代は樫村洋行というカメラや光学機器、時計、貴金属などを扱う会社でした。







樫村洋行は時計を扱う店だったから社屋に時計台を作ったのでしょうか。

1943年発行の「大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇」は、樫村洋行の社長だった樫村貫をこう紹介しています。

樫村貫 樫村洋行株式会社代表 写真機械商 通名嘉昭と称す 熊本県又吉長男 明治39年9月11日現地に生まる 昭和元年青島学院卒業 父業現洋行青島支店勤務 同13年改組とともに現職 宗教真宗 趣味野球蹴球

この中国で、一度壊した日本の建物物を後から同じ姿に再建するというのは非常に珍しいことです。僕はここ以外にそういう例を知りません。

四面鐘は、時代を経て長年にわたって天津在住の人々の記憶に刻まれてきました。
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外交官・高井末彦旧居

2023-08-16 | 天津を歩く
旧日本租界の甘粛路を歩いていると、こんな幾何学的な面構えの老建築を見かけました。



1930年前後の建物だと思います。

今は集合住宅のようです。
日本租界時代からそうだったのでしょうか。



古地図で当時の番地を確認すると、ここは住吉街1番地18です。

「大衆人事録 外地・満支・海外篇」(1940年)で調べてみると、この住所には高井末彦なる外交官が住んでいたようです。

どんな人物だったのでしょうか。

官報で確認すると、高井は1937年12月28日に在天津領事館勤務の辞令が出ています。

先ほどの「大衆人事録 外地・満支・海外篇」にはこう紹介されています。

高井末彦 従六勲五 天津総領事館勤務の領事で、島根県人夙に外務省に入り、現職に就く

高井は島根の士族出身だったようです。

「日本外交年鑑」(1943年)にはこう紹介されています。
高井末彦 1895年1月生まれ、1915年東京外国語学校支那語学科卒業、1917年外務通課生長春勤務、1918年チチハル、1920年鉄嶺、1921年リバプール、1925年アモイ、1927年広東副領事、1930年漢口、長沙、1937年天津領事、1938年北京・天津、1939年汕頭
とあります。

別の文献によると、1942年10月には山東省煙台の芝罘、さらに1944年には九江総領事を務めています。

リバプール以外はすべて中国です。
確認できるだけで、実に中国国内12か所の都市で勤務しています。これはなかなか目まぐるしくハードな勤務環境です。

戦前から戦中の激動の中国国内を転々として日本の国益のために汗をかいた中国通の外交官の姿が浮かびます。

波乱万丈の外交官生活だったことでしょう。

高井末彦の名前を調べてみると、今も松江市にこの人物にちなんだと思しき高井奨学金なる小学制度があるようです。

また、市内にはこの人が寄付した土地が雑賀幼稚園という幼稚園になっていて、顕彰記念碑があるのだとか。

高井は退官した後は地元に戻って余生を過ごしたようです。

高井領事がここで暮らしたのは2年に満たない短い時間でした。40代半ばの頃です。
当時の高井領事に天津の街はどう映ったでしょうか。
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旧天貿ビル - 日本租界の貿易センターとして存在感か

2023-08-13 | 天津を歩く
この立派な5階建てビルは、天津日本租界の繁華街だった旧旭街の一番東側に建っています。



このビルは当時、天貿ビルとよばれたオフィスビルでした。

1939年の竣工です。

当時の商工年鑑で入居していた会社の情報を調べてみると、ほとんどが貿易に関係する会社や団体です。

ここに一部を列記してみます。

華北繊維組合天津支部
天津綿糸布同組合
日本東亜輸出入組合連合会天津支部
満鉄天津調査分室
名古屋第一貿易館
昌光洋行
伊奈製陶会社支店
井口洋行
春日井商店支店
高知県物産貿易会社出張所
西部海陸公司出張所
瀧定合名会社出張所
天津輸入配給組合連合会
遠山商店出張所
服部商店出張所
森林商店出張所
山一商店
福井県北支駐在員事務所
徳島県北支駐在員事務所
東京市天津出張所

いかがでしょうか。
伊奈製陶は今のLIXILですが、日本から輸入していたのでしょうか。





当時の公告です。

「天津★天貿ビルを占める十大事務所」だそうです。

日本租界の中で5階建てビルは珍しかったはずです。かなり目立っていたと思います。

このビルで働いていた日本人ビジネスマンは鼻が高かったことでしょう。



これは旧秋山街です。秋山街は日本とフランスの租界地の境界で、左側はフランス租界、右側が日本租界でした。



旧旭街です。



ビル名の天貿とは、天津貿易を略した名称でしょうか。

現在は中国工商銀行が使っています。

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天津YMCA / 天津キリスト教青年会旧址

2023-08-10 | 天津を歩く
天津の東馬路に、こんな4階建てのレンガづくりの老建築がありました。





これは天津キリスト教青年会とよばれた建物だったそうです。
YMCA天津(Young Men's Christian Association of Tianjin)ともよばれ、中国で最も早い時期につくられた都市型YMCAだったそうです。

文献によると、1895年、中国寧波生まれの北米YMCA役員だった米国人デビッド・ウィラード・ライオンによって設立されたとあります。

この建物は募金によって資金が集められ、1914年に建てられたのだとか。
読書室、会議室、体育館、講堂、ゲストルームがあったそうです。





新中国設立後もYMCA活動はしばらく続けられたようです。

今は天津市少年宮として使われています。



正面北側の庇がありませんが、老朽化で崩落したか、撤去したのでしょうか。

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旧在天津満洲国領事館

2023-08-07 | 天津を歩く
天津の旧イギリス租界である五大道エリアを散策していると、偽満洲国領事館旧址というプレートを掲げる建築物に遭遇しました。





このレンガと木造を組み合わせた3階建ての豪華な建物です。

満洲国が天津に領事館を置いていたとは知りませんでした。





この建物が満洲国領事館として利用されたのは、1943年から満洲国崩壊までの2年間だったそうです。

建物自体は1920年代に建てられたようです。

その後1926年に中華民国政府総理と大統領を務めた顔回慶の住居になったと。顔回慶は民国政府の要職を退いた後、ここで1931年まで暮らしました。満洲事変の後に南京国民政府に指名されて駐米大使となり、ワシントンDCに転居しました。

その後、建物は大連永源船舶公司の李学孟に譲渡されました。

そして1943年、李学孟はこの建物を満州国に貸与し、満洲国領事館としての業務が始まりました。賃貸料金は3000元/月だったとか。

さらに戦後、満洲国が崩壊した後は、この建物はソ連に貸し出され、ソ連領事館となりました。

左右対称のデザインで、2階部分と3階部分にそれぞれバルコニーがあります。
3階部分には掲揚台がありますが、ここには満洲国の国旗が掲揚されていたのでしょうか。

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大公報社(2代目)旧址

2023-08-04 | 天津を歩く
天津の旧日本租界の和平路を歩いていると、「大公報社旧址」というレトロな建物を見かけました。



大公報といえば天津が発祥で、現存する中国最古の新聞とされています。今でもときどきネットニュースで大公網の記事をみかけます。



なぜ日本租界に社屋があったのでしょうか。

大公報の創刊は清代末期の1902年6月です。
創刊当時の社屋は天津のフランス租界にあったそうです。

カトリックで満州族の英斂之が代表でした。

カトリックの普及に加え、立憲君主制を主張するなど政治に独自の論陣を張るメディアとして知られ、清朝に対しても政治批判を行いました。

このため、弾圧の及ばない治外法権下の租界地に社屋を置いたということだと思います。

当初の株主は駐清国フランス公使やカトリック教会司祭、満州貴族などさまざまだったそうです。

1905年にこの場所に社屋を移転しました。つまり、これは2代目の社屋ということです。

辛亥革命後、中華民国の時代になっても大公報は政治批判を続けました。

1931年の満洲事変後、日本軍が天津市内を占領すると、大公報は社屋を再びフランス租界に戻しました。

つまり、ここで新聞を発行したのは26年間ということになります。

そして1937年に日中戦争が始まると、天津での発行を停刊し、漢口へと移転しました。

同じく1937年に発行された書籍「満洲国及支那に於ける新聞」(外務省情報部)では、当時天津で発行されていた30あまりの中国語新聞のうち、大公報が最権威を有すると評しています。

大公報の主義系統については次のように説明しています。

不偏不党を標榜し、論旨比較的公平なるが、特に対日問題に対し忌憚なき意見を吐露し両国の和平親善に努力しつつあり。

おそらく、休刊する直前に出されたものだと思われます。

大公報は戦後さまざまな変遷を経て、現在は香港で情報発信を続けているというわけです。

大公報という新聞名は「己を忘れることは偉大であり、無私であることは公である」という意味なのだとか。

この旧日本租界の2代目社屋は、近年天津の再開発プロジェクトで取り壊しの方針が一度決まっていたそうですが、保存運動を受けて行政が決定を覆し、保存を決めたそうです。

外見からは、今はコンタクトレンズの販売店として使われているようですが、僕が訪問した日曜の午後はカギがかかっていました。

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旧天津開灤鉱務局大楼

2023-07-29 | 天津を歩く
天津の旧英国租界泰安路を歩いていると、荘厳な重厚感たっぷりの3階建ての古典様式の大型建築が見えてきました。



旧ヴィクトリア公園の斜め向かいです。

一見したところ、英国租界の公的機関か金融機関だったのでしょうか。



歴史保護建築のプレートを見ると、元開灤鉱務局と記されています。



聞き慣れない機関名ですが、なんでしょうか。

調べてみると、唐山市にある開灤炭鉱で産出される石炭の管理を掌る機関だったようです。

開灤炭鉱の前身は清代の1878年に開業した中国初の官営の近代的炭鉱だった開平炭鉱に遡ります。

1900年の義和団事件で8か国連合軍に占領されると開平炭鉱は英国商務局に移管され、英国の保護下に置かれました。その結果、中国は採掘権を失い、炭鉱は英国人が経営しました。

その後1912年の辛亥革命の際に灤州炭鉱を合併して開灤鉱務局となり、経営に当たることになったそうです。

そのような経緯があったから、この英国租界に建てたということでしょう。

戦前、日本は撫順炭鉱の採掘権を得て大きな利益を得ましたが、これに対して英国はこの開灤炭鉱という利権を得たというわけです。

1922年には4万人以上の鉱夫を雇用し、約60万エーカーの採掘権を持つ巨大な企業であったといいます。

ちなみに、第二次世界大戦が始まった1941年には日本が開灤炭鉱を接収して管理しました。

この旧天津開灤鉱務局ビルは、1919年から1921年にかけて建設されました。設計は上海に拠点があったアトキンソン&ダラス事務所が担ったそうです。

通りに沿った長方形で、地上3階、地下1階でしょうか。
玄関前にはスロープがあって玄関が少し高くなっています。目線の高さぐらいでしょうか。



ファサードの1階と2階部分にかけて14本のイオニア式柱廊がどんと構えています。これがなんとも威厳を感じさせます。

この鉱務局の広大な敷地と荘厳な作りが、当時の中国を動かしたこの企業の重さと影響力を反映しているようです。

2階部分と3階部分の間、イオニア円柱の上の横長のスペースに目を凝らすと、アルファベットの文字版の跡が残っています。



THELANMININGADという文字が確認できます。
おそらく、機構名だったTHE KAILAN MINING ADMINISTRATIONと書かれていたのだと思います。

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天津旧日本租界扶桑街15番地 - 日満商事株式会社天津出張所旧址

2023-07-26 | 天津を歩く
天津の旧日本租界を歩いていると、榮吉大街に2階建てと3階建ての商業ビル風の老建築が3棟、隙間なく連なっている一角がありました。



真ん中の3階建ての建物は、天津和平区第八幼稚園という看板が掲げられています。

ここは当時どんな会社が使っていたのでしょうか。

古地図で調べてみると、扶桑街15番地です。この15番地はとても面積が広く、この3棟はすべて15番地に入ります。きっと多くの会社が入っていたと思います。



当時の商工名簿などで調べてみると、多くの社名が出てきました。

特に目を引いたのが、日満商事株式会社天津出張所でした。

日満商事とは満洲国勅令による特殊会社でした。本社は新京で、1936年10月に設立しています。

出資者だった満鉄と満州炭礦株式会社(後に株式会社昭和製鋼所と株式会社本渓湖煤鉄公司も参加)が製造する満洲国重要物資の配給や統制品の取り扱い、輸出入業務を担いました。
すなわち、石炭や燃料、鉄鋼、肥料、非鉄製品、建設材料、化学工業薬品など、満洲で国策会社が生み出した製品をメーカーに配給する役割を担ったのだと思います。



西隣のビルが満洲中央銀行天津支店だったことは何か関係しているでしょうか。

このほか、大阪自動車株式会社天津出張所(ダイハツ号北支代理店)、永順洋行出張所(一般貿易)、大同機械工業会社出張所(自動車部品、付属品製造卸)、津田勝洋行(鉄材、地金、金物、機械工具)、天津大谷製鋼所(製鉄、酸素製造)、大阪鋼材株式会社天津出張所など、さまざまな会社がこの番地にありました。

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旧日本租界 満洲中央銀行天津支行旧址

2023-07-23 | 天津を歩く
天津の和平路と榮吉大街の交差点に、ポツンと古そうなクラシックスタイルの洋館が建っています。



ここは交通量の多いメインストリートの交差点で、近代的な高層ビルが通りを囲んでいるので、タイムスリップしたような感じのこの建物はとても目立っています。

かつて日本租界時代は北旭街とよばれた場所です。これはなんだったのでしょうか。



近づいて文物保護プレートを見てみると、元老九章絹織物店とあります。
シルクを扱う民族系の店だったようです。

調べてみると、老九章とは清朝末期上海の商人が開業した店でした。
建物自体は1883年に建築が始まり、後に老九章が借り受けたようです。一見した感じではそこまで古そうには見えませんが、本当でしょうか。

元々は3階建てのレンガ造りだったのが、その後増築されて今の姿になったという情報もあります。

ファサードは交差点の方向を向いており、2階と3階にそれぞれベランダが設えられています。

1階部分、2階部分、3階部分と5階部分にそれぞれギリシャ建築風の円柱がありますが、それぞれ太さも装飾も違っていて、統一感がないというか、手が込んでいますが。これは増改築が繰り返された痕跡なのでしょうか。

文献によると、シルクの店だった老九章は1934年で営業を終了しているようです。

それでは、その後この建物はどう使われたのでしょうか。

日本租界時代の古地図で調べると、ここは北旭街85番地です。

「中国工商名鑑 昭和17年版」でこの番地で調べると、満洲中央銀行天津支行とあります。

満洲中央銀行は1932年設立の満洲国の中央銀行だったわけですが、天津支行の設立は1938年9月1日です。満洲以外では東京、北京、天津、山海関、張家口に支行がありました。

また、同じく北旭街85番地には泉商会と泉食堂という情報もありました。泉商会は泉忠之が経営した軍需品の店だったようです。創業明治22年、泉忠之氏は熊本県出身だったそうです。

泉商会と泉食堂は同じ番地でありながら、北隣の建物だったのかもしれません。



今は空き家になっていて、賃貸物件として入居者募集中のようでした。
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大陸銀行倉庫旧址

2023-07-20 | 天津を歩く
天津の海河沿い、旧万国橋の隣にとても目を引く欧州の城郭のような重厚な建物があります。
レンガが美しいですが、複合構造のようです。





観光で天津を訪れた人の多くが目にする建物ではないでしょうか。

これはかつて、大陸銀行の倉庫でした。

1925年の竣工だそうです。





大陸銀行の設立は1919年です。本店は天津で、北方を中心に支店を持ちました。

全体が4階建て、一部は6階建てです。

目の前は海河です。



ここに船舶を接岸して荷役を行ったのだと思います。



今は中国銀行清算中心として利用されているそうですが、ちょっともったいないような気がします。

なにしろこの抜群のロケーションです。
天津は観光都市なのですから、観光施設や商業施設として市民に開放すればいいのに、と思ったりします。





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天津日本租界探求 国産自動車工業株式会社天津工場 / 京都国産自動車販売株式会社天津出張所 / 平和タクシー

2023-07-17 | 天津を歩く
天津和平区の万全道と西蔵路の交差点で、曰くありげな3階建ての老建築を見かけました。

集合住宅でしょうか。





玄関両脇の丸窓は、いかにも1930年代前後の特徴です。

天津日本租界の古地図で調べてみると、ここは伏見街27番地1です。

集合住宅のようにも見えますが、なんの建物だったのでしょうか。

当時発行された商工名簿などを調べてみると、この番地には3つの会社名がありました。

ひとつは「京都国産自動車販売株式会社天津出張所」、次に「国産自動車工業株式会社天津工場(出張所)」、もう一つは「平和タクシー」です。

この3社はいずれも、今のいすゞ自動車の系列会社だったと思われます。



いすゞ自動車は戦前(1933年~)、自動車工業株式会社という社名でした。

文献をたどっていくと、国産自動車工業株式会社は東京が本社だったようです。京城府(今のソウル)にも同名の会社がありました。

京都国産自動車販売株式会社天津出張所は文字どおり京都の会社ですが、社名からいすゞ系列でしょう。

2番目と3番目は大内澄という人物が代表者になっています。

場所は海光寺の北支那駐屯軍司令部/兵営のすぐ近くです。

おそらく、軍部が得意先だったのではないでしょうか。



木造の使い込まれた階段は歴史を感じさせます。当時のままとすれば、100年近く踏み続けられてきたことになります。





今は住宅として使われているようです。

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天津日本租界探求 三利洋行旧址

2023-07-11 | 天津を歩く
旧日本租界福島街の三利洋行だった2階建て長屋の建物です。





今の多倫路と河北路の鋭角な交差点です。

参照した1930年代と思しき日本租界の古地図にはここが「三利洋行」と社名が記されています。

三利洋行とは聞き慣れない社名なので、今は存在していない会社かもしれません。

1936年発行の北支在留邦人芳名録によると、三利洋行とは、三文字圓五郎という1872年生まれ、宮城出身の人物が大正4年に立ち上げた会社で、雑貨や化粧品を扱ったとあります。

このほか、別の文献によると食料品、野菜、雑貨、水産品を取り扱っていたこともわかります。

圓五郎さんは1938年の天津日本商工会議所の議員名簿にもその名を残しています。

1942年版の中国工商名鑑によると、圓五郎さんは北支青果組合の組合長という公職も務めています。



42年といえば戦況が激しくなり、相当混乱の度合いが深くなっていて、在留邦人の物資調達に不自由が深刻化し始めていた頃です。

当時圓五郎さんは70歳です。とっくに引退して後進に道を譲っていてもよさそうです。
今の70歳と当時の70歳は同じではありません。

それでも公職について汗をかいたというのは使命感だったのでしょうか。

その後終戦から引き揚げまでの混乱期は相当な苦労があったことは想像に難くありません。

無事に帰国を果たしたのだろうか、没後はちゃんと埋葬されて、今もお墓がご家族に見守られていらっしゃるだろうか、などと想像をめぐらせました。
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