音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

古典芸術の現代化 ② オペラの場合 - 1

2016-07-25 01:44:51 | 音楽
オペラはルネッンス後期のイタリア、フィレンツェではじまった古典文化(ギリシャ)を復興しようという運動に起源をもつ。古代ギリシャ演劇を復興しようというグループ「カメラータ」が1570年~1580年代にかけて活動を始めたのである。それはギリシャ悲劇を基に台詞を歌うように語る劇だった。後の研究により、ギリシャ演劇では台詞と合唱が分かれており、カメラータの運動は古代演劇の復元という意味では正しくなかったが、セリフを歌い、また音楽にのせて語る(レチタティーボ)という新しい音楽劇様式を生み出すことになったのである。
カメラータの活動は劇場ではなく貴族のサロンで行われていた。これには物理学者ガリレオ。ガリレイの父で音楽家だったヴィンチェンツォ・ガリレイも参加していた。

カメラータによるルネッサンス音楽批判は、ポリフォニーが多用されるために歌詞が聴き取れないという点にあった。そのため、古代ギリシャ演劇では単純な器楽伴奏にのせた単旋律で歌われたと考えたのである。この様式がモノディ様式と呼ばれる独唱又は重症に器楽伴奏を付けた新しい音楽様式を生み出した。モノディ様式はポリフォニーに比べて旋律や歌唱表現の自由度が高く、オペラと共に瞬く間にイタリア全土に広まった。また、この様式は新しい様式「バロック音楽」を生み出すことになる。

モノディ様式はメロディが一本なので歌詞が聴き取りやすくなり、ソリストが活躍する場面が用意されたことになる。そこで注目されたのがソプラノ歌手である。高音で大きな声を張り上げ、伴奏の上でメロディを自在にアレンジし、誇示する。まるでのど自慢だ。時にはソリストが即興で歌いまくり、延々とアリアが続くという場面もあった。伴奏は単純な和声進行だからなんとでも対応可能である。さらに、この状況にピッタリはまったのが男性ソプラノ「カストラート」である。肺活量が大きく、声量で聴衆を圧倒する。歌を聴いて失神する女性が続出するありさまだった。*1

オペラが始まった16c末から17cは、中央官僚と常備軍によって国家統一を成し遂げた絶対王政の時代であった。君主は民衆を力で押さえつけるだけでなく、オペラを欲求不満のはけ口として利用した。だから、この時代のオペラ劇場の絵を見ると平土間や最上階は立見席で(現在でもウィーン国立歌劇場にはその名残がある)なっている。
一方、貴族にとってはオペラ劇場は社交場であった。開演中にボックス席でのおしゃべりはもちろん、飲食までするありさま。休憩時間のロビーはお酒を片手に語り合う人々であふれた。


こんな中で演じられるオペラは豪華絢爛、空中ブランコに乗って歌い、グロテスクな着ぐるみが舞台を動き回る。時には花火まで上がり、舞台上に池を作って水浴する。聴衆はこれにやんやの喝采で応えた。こうなると、オペラのストーリーや登場人物の心理描写なんてどうでもよくなる。(だから、現在この時代のオペラが上演されることはほとんどない)
カストラートが大声を張り上げ、自由気ままに歌いまくり、ど派手な衣装と奇をてらった大道具。筋は支離滅裂。こうしてオペラは単なる見世物と化した。

実はモーツァルトの歌劇「魔笛」にその名残を見る事ができる。ハチャメチャな筋書き(最後には収束するが)、奇想天外な登場人物、夜の女王(ソプラノ)が歌う名人芸的なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」。もちろん17C のオペラと魔笛を同一視するものではないが。

そこに登場したのがグルック(1714~1787)である。『彼は、歌手のためにオペラがあるのではなく、オペラのために歌手が奉仕するような、あくまで作品とドラマの進行を第一とするような方向にオペラを再び立ち返らせ、ドラマの進行を妨げる余計な要素を一切廃したスタイルのオペラを書いた。』(Wikipedia「オペラ」より引用)改革された最初の作品が「オルフェオとエウリデイーチェ」(初演 1762年)である。
グルック自身は終生 絶対王政の貴族の保護下で活動した作曲家である。(神聖ローマ帝国の皇女マリー・アントワネットの音楽教師として共にパリに移った。)もちろん彼の改革は一筋縄ではいかなかったが、それでもそれが可能になった背景には次のような事がある。
➀ 行きすぎたバロック・オペラへの反動
② 作曲家としての強い意志とそれを支える聴衆の存在 (一部の貴族と官僚や技術者等のインテリ達)
③ 絶対王政のほころび(1789年にはフランス革命が起こる)により、民衆の欲求不満のはけ口としてのオペラの役割が弱まった。
その結果、オペラが他の演奏会と並行して芸術鑑賞の対象に変化してきた。

グルックによるあたらしいオペラを支持したのは、主として当時育ってきた中産階級の人たちであった。これはハイドン、モーツァルト、ベートーベンの音楽を支持した層と重なる。
新しいオペラや古典派の音楽とそれに続くロマン派の音楽を支持したのは、貴族、官僚、技術者等のインテリ達であった。その中で音楽の思想性、構造性、論理性が醸造されていった。その結果、これ以降のオペラには即興が無くなり、作曲家の書いた譜面は絶対となる。他方、オペラを作曲することは今まで以上の時間とエネルギーが必要になり、モーツァルト以降の作曲家が作ったオペラ作品数は激減した。ちなみに交響曲もモーツァルト以降では10曲未満になったことはよく知られている通りである。

フランス革命以降 絶対王政下の領主が没落し、芸術音楽の担い手は新たに富を手にした中産階級に移った。*2
芸術音楽は擁護者の後ろ盾を失い、オペラも管弦楽曲も公演は経済的な自立が求められる時代になった。それまでほとんどのオペラ劇場は貴族が建設し、安い料金で民衆にチケットを販売していたのである。

*1 映画「カストラート」にもそんな場面があった。
*2 松田智雄「音楽と市民革命」岩波書店(1985年)に詳しい。

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