音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

音楽が音楽であるのは

2017-06-23 10:01:30 | 音楽
朝日新聞の「折々のことば」(鷲田清一)に「音楽が音楽であるのは、それを音楽と受けとる耳があるからだ。」(相倉久人)が引用されていた。然りである。どんなに良い曲であれ、聴いてくれる人が居なければ音楽によるコミュニケーションは成り立たない。

ところで作曲は創作活動の一つであるが、これを無から有を生み出す行為だと考えている人がいる。しかし、曲は楽譜として外在化される前に作曲家の心のうちにあり、推敲を重ねたうえで吐き出されたものである。推敲のやり方は様々で、ベートーベンのようにスケッチ長を持ち歩いて一つの動機を何度も何度も書き換える人もあれば、モーツアルトのセレナーデのように湧き上がる音をそもまま楽譜に書き付けたかのような場合もあろう。だが、いずれにしても音は楽譜に記述される前に作曲家の心の内で響いていたのである。その音を音楽として聴いてくれる人が居ようと居まいとにかかわらず、その時点で既に音楽は存在していた。
では、作曲家は無から有を生じさせる魔術師なのであろうか。曲と格闘するしかめっ面のベートーベン絵画を見るとなんとなく無から有を生み出す苦悩を表現しているように感じてしまうかもしれない。しかし、現存する彼の絵は全て後世の人が描いた神格化された像なのだ。また、ピーター・シェーファー作「アマデウス」を見ると(読むと)モーツァルトは心のうちに尽きることのない音楽の泉を持っていて次から次へと膨大な量の曲を生み出していったかのようである。彼の創作量から考えるとなんとなく納得できそうな解釈だ。

この二人の作曲家はスタイルこそ異なれ無から有を生み出しているように見える。しかし、二人ともいわゆる古典派の時代に生き、調性音楽やグレゴリオ聖歌のような旋法音楽(この時代、ミサは全てアラテン語のグレゴリオ聖歌で行われていた)の中で生まれ育ったので、彼らの音楽もまたそれを受け継ぎ、発展させるものであった。つまり、二人の天才もまた歴史を背負って活動をしたのであり、決して無から有を生み出したのではない。

舞台の上でピアノを壊したり、金属のごみの山をかき回してガチャガチャという音を音楽とする1960年前後の前衛音楽はまさに無から有を生じさせようとする試みだった。しかし、これを音楽として聴く耳は長続きしなかった。
ジョン・ケージの有名な曲「4分33秒」は、ピアニストがピアノの前に4分33秒間座っているだけである。けじめをつけるために鍵盤のふたを開け閉めする演奏家もいるが、楽譜には特にそのような指示はない。この曲を巡っては様々な解釈があるが、その間の会場の音が音楽なのだというのが一般的である。つまり、ケージも音楽を自分の外に聴き、それを自分の作品として切り出したのであって、無から有を生じさせたのではないだろう。世界初の試みであったことは確かだが。
作曲という行為は自分の外に音を聴き、それを内在化させたうえで耳を澄まして心で聴き、推敲して再び外在化させる行為のなのだ。作曲中の作曲家は内在化させた音を繰り返し聴き、推敲を繰り返した後でそれを楽譜に書き付けるのである。だから、既にそこにはコミュニケーションとしての音楽は存在している。

作曲家 徳山美奈子氏によると師である故イサン・ユン氏は折に触れ「宇宙や自然の中に音を聴かないと音楽は滅びる」と警告を鳴らしておられたそうである。
全ての音楽は聴く事から始まる。

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