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音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

はてしない物語と聖書:自己言及のパラドックスについて

2025-03-28 00:39:55 | つれづれに思う
はてしない物語と聖書:自己言及のパラドックスについて

ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」( 上田 真而子、佐藤 真理子訳、岩波書店)では物語のちょうど中間地点(XI さすらい山の古老)でファンタージェンの出来事を全て記録する古老と王女である幼ごころの君のこんな会話が出て来る。

「あなたとわたくし、そして全ファンタージェンーーーあらゆるものがこの本に記録されているのですか?」 幼ごころの君は尋ねた。
古老は書き、同時に幼ごころの君の耳に古老の答えが聞こえた。
「そうではない。この本こそがファンタージェンであり君でありわたしなのじゃ。」
「では、この本はどこにあるのですか?」
「この本の中に。」 これが古老の書いた答えだった。

よく考えると、この話は矛盾を含んでいる。『この本は、この本の中に(ある)』 と言っているわけだから、自己言及のパラドックスに陥っているのだ。論理学的に考えてみよう。この文章が真ならば、この本はこの空間には存在しないことになり、偽ならばこの空間に存在するのでいくらでも書き換えることができる(=過去の事実を変えることができてしまう)。

このパラドックスは命題「この文章は偽である」と同種である。真ならばこの命題は偽だという事になり、偽ならばこの命題は真ということになる。つまり、真偽の判定ができないので、パラソックスとなる。

実はこのような真偽を判定できないパラドックスは新約聖書(聖書協会共同訳)にも出て来る。
『彼らのうちの一人、預言者自身がこう言っています。「クレタ人は、いつも嘘つき、たちの悪い獣、怠け者の食いしん坊。」』(テトスへの手紙 1:12)
話を簡単にするためにこれを書き換えると「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」という命題になる。この命題も真偽判定不能である。

この話を論理学的に記述しようとすると一階の術語論理を用いることになるが、一階の術語論理では記述できない(真偽を判定できない)ケースがある。それを解決する方法の一つが高階の術語論理と呼ばれる理論だが、ここでは詳細については言及しない。

話を はてしない物語 に戻そう。
『この本は、この本の中に(ある)』 という文章のパラドックスを解消にするには、論理学的には高階の術語論理を用いればよい。それが「人の子」という事は、ファンタージェンの世界内で解決できない問題を、別の世界から解決してもらおうという発想であり、実際はてしない物語を読んでいた人間(人の子)バスティアンは問題解決のために本の中に取り込まれてゆく。それがはてしない物語の後半である。
ところで「人の子」という訳は新約聖書でも多数用いられており、そこではキリスト(=救い主)を指しているが、この本ではファンタージェンを救うことができる唯一の人間の子という意味で用いられている。

虚無が広がりつつあるファンタージェンを救うためには幼なごころの君に新しい名前を与える必要がある。ただ、それができるのは人の子(人間)だけだった。
この話は新約聖書ヨハネによる福音書(1:1-5)に起源がある。
『はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらず成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。』

実は はてしない物語 には聖書のアナロジーがたくさん使われている。ここで全てを列挙することはできないが、この物語が聖書(特に新約聖書)と強いつながりがある事を示している。
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ギリシャ神話における子殺しの異常さ:日本の子殺しと比較して

2024-10-15 21:20:41 | つれづれに思う
ギリシャ神話における子殺しの異常さ:日本の子殺しと比較して

親が我が子を殺す話は古今東西を問わず必ずある。日本の上代における文学にもいくつかの話が語られている。日本最古の仏教説話集「日本霊異記」の下巻第十六話「女人、濫(みだりがは)シク嫁ぎて、子を乳に飢ゑしむるがゆえに、現報を得る縁」は、美しい母は子育てより男女の愛欲に生き、子どもに乳を与えなかった話である。子どもたちは死ぬことは無かったが、早死にした母親は成仏できず其の霊は苦しんでいた。長い年月が過ぎた時、霊が寂林という法師の夢に現れて懺悔したたため、彼が子供たちにその話をしたところ、子どもたちは母を悲しみ、仏像を作り写経して母の罪を償った。その後、母は再び寂林法師の夢に現れ、許されたと告げた。
この話は親としての努めを放棄した母に報いがあったという因果応報思想の説話ではあるが、子どもにとっては生命線である乳を与えないのは子殺しにも通ずるものであろう。

平安時代末期に成立した今昔物語には貧しさゆえに子供を間引かねばならなかった話がいくつか出て来る。生まれても成人するまでに死んでしまう事が多かった時代であり、生まれた子供を殺してしまう事については現代とは異なる思いがあったであろう。それは300年間人口がほとんど変化しなかった江戸時代でも同じであった。歌舞伎や人形浄瑠璃の演目には、菅原伝授手習鑑や伽羅先代萩のように恩がある主君の跡取り息子の命が危険にさらされたときに身代わりに我が子の首あるいは命を差し出すという場面があり涙なしには見ていられない。特に先代萩では小刀をお腹に突き刺され、死にきれずに痛いようと泣く我が子をじっと見守るしかない母政岡の心中はいかばかりであろうか。

万葉集には亡き子を思う山上憶良の長歌とその反歌「銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」が有名であるが、子殺しの歌はない。和歌という形式が子殺しという主題に合わないという事もあるだろう。
ただ、古事記には一つ子殺しの神話がある。
イザナミノ命は火の神を生んだ時に御陰部を焼かれて臥し、それが原因で亡くなった。「可愛い妻を、一人の子と換えてしまったのか」(引用:「現代語訳「古事記」蓮田善明、岩波現代文庫)と男泣きに泣いたイザナギノ命は、腰に帯びた十挙剣(とつかつるぎ)を抜いて息子である火の神ヒノカグツチノ神の首を切った。神代の話なので、切られたヒノカグツチノ神から別の神々が生まれてくるので、そこには子殺しの悲惨さはあまりない。

ギリシャ神話にも親が子供を殺してしまう話はいくつか出て来るが、そこには日本の神話や古典文学作品には見られないケースがある。
まずは、神託により生まれてくる子供に自分が殺されると知らされたため、先手を打って生まれたばかりの子供を殺してしまう話。この形式の話は複数ある。

神の時代に、おまえは生まれてくる子どもに殺されることになるという神託を受けたクロノスは、生まれてきた子どもを次から次へと食べてしまった。しかし最後に生まれたゼウスは危うく難を逃れ、逆襲して父親クロノスを殺した。すると飲み込まれた子供たちが後の者が先になってクロノスの口から飛び出してきた。そこで、最初に地に出たゼウスが神々の長となり、生まれた順とは逆順に兄弟神の序列が決まった。
人間の時代の典型的な子ども殺しがオイディプス神話である。テーバイ国王のライオスは、生まれた息子に将来殺されるだろうという神託を受けたので、息子オイディプスが生まれるとすぐに踝(くるぶし)を縛ったうえで家来に殺すように命じた。ここでその話の筋追ってゆくスペースはないが、この神話はソフォクレスによって戯曲化されギリシャ悲劇として有名になったのでご存知の方も多いだろう。

英雄アガメムノンの長女であったイーピゲネイアも神託の犠牲者であった。
ギリシャ軍はトロイアに攻め込むために結集したもののいつまでたっても良い風が吹かず、停滞を余儀なくされていた。その時に、生娘を生贄としてささげれば状況が改善されるという神託があった。もともと戦争の発端は弟メネラオスの妻ヘレネがトロイアに連れ去られたことであり、諸国の王を戦争に駆り出した手前、総司令官のアガメムノンは自分の長女イーピゲネイアを生贄として出さざるを得なくなった。
納得できないのはアガメムノンの妻でありイーピゲネイアの母クリュタイメストラである。そもそもアガメムノンの弟でありスパルタ王メネラオスの王妃ヘレネがトロイの王子にさらわれたことがトロイ戦争の原因であり、王は弟メネラオスとの約束のために戦争に巻き込まれただけにもかかわらずなぜメネラオス王夫妻の子供は無傷で自分の子供だけが犠牲にならねばならないのか、と怒る。この話はソフォクレスのギリシャ悲劇「エレクトラ」の中でも語られる。

いずれの話も事の発端は神託なので当事者にはなすすべがなく、自分の命を守るために子供を殺してしまったり、その神託に従って生贄として捧げたりする。それは当事者にとっては不条理であり泣く泣く子供を手放す(オイディプスでは生まれた子を殺させ、アガメムノンは娘を生贄として差し出す)ことになった。

しかし、ギリシャ神話には神託もなく、全く持って母親の事情だけで我が子を殺ししてしまう恐ろしい話が二つある。
英雄テレウスは妻プロクネの頼みによって義理の妹を母国に迎えに行った帰り、美しい妹ピロメラに対する愛欲ゆえに秘密裏に彼女と結婚したうえで幽閉し、口封じのためにしゃべれないように舌を切った。それを知った妻プロクネは復讐のために[父親似の]我が子を殺し、その首を宴会中のテレウスの足元に投げだした。
この話には、プロクネの復讐心の強さもさることながら、愛する我が子を夫を苦しませるためだけを目的として殺ししてしまう異常さがある。たとえその子の容姿が父親に似ていたとしても、それはその子の責任ではないし、母親としてその子を愛してもいたのに、である。

もう一つの神話はエウリピデスが脚本を書いたギリシャ悲劇「メディア」である。
王女であったメディアは人生をかけて父王を裏切り、母国を去って英雄イアソンに付いてきて結婚した。しかし後に彼が心変わりしたため、復讐のために彼が(もちろん母親である自分も)愛している息子を殺し、遺体も連れ去ったのである。
 メディアはもともと激しい気性の持ち主で、薬草を扱う魔女であった。その知識を使って、恋敵の王女と、自分を追い出そうとした恋敵の父王を殺した。
エウリピデスの悲劇では、外出から城に戻ってきたイアソンは子供の叫び声を城門の外で聞くと、中からメディアが現れて事の顛末を話したうえで、戦車に子供の遺体を乗せて空に駆け上ってゆく。子ども殺しは、愛していた夫イアソンをもっとも深く苦しめるために選んだ手段だった。
この話の異常さは、ピロメラとプロクネの話と同様、愛する子どもを殺すことが単に心変わりした夫を一番苦しめる手短な手段だったからであり、そこでは自分が子どもを愛しているという状況は全く考慮されていないし、子どもがかわいそうだという気持ちのかけらも斟酌されず、女の一方的な憎しみ・復讐心だけが浮き彫りにされている。
エウリピデスの悲劇はイタリアの映画監督パゾリーニが「王女メディア」として映画化しており、子どもを殺しても平然としてる王女メディアをオペラ歌手のマリア・カラスが好演している。ちなみに彼女はギリシャ系米国人である。

日本の上代の文学にはこのような形の異常な子ども殺しの例は見られないだろう。平安時代になると、源氏物語の六条の御息所の怨霊が源氏の新しい恋人にとりついて殺してしまうというような話は出て来るが、それは嫉妬心が背景にあるという点ではギリシャ神話と類似するものである。しかし、夫を苦しめるために自分たちの最愛の子ども殺すというような形は取っていないし、おそらくそのような例はないだろう。
つまり、日本では多くの女は心変わりした男に直接復讐しようとはしない。男が(源氏が)心変わりした時には、六条の御息所のように新しい恋敵に対して復讐をしようとする。それは現代の夫婦或いは恋人同士であっても同じである。夫に復讐するために最愛の我が子を殺し、夫を悲しみの淵に突き落とそうという発想は日本女性にはないだろう。それは現代でも変わることが無い。
逆に女が心変わりした場合はどうだろうか。ギリシャ神話にはそのような例はほとんどないし、有ったとしたら男はすぐに女を殺すか、切り捨てて終わりになるだけだろう。しかし、日本ならそんな時に男は女を手に掛けるより先に横取りした男に復讐しようとすることのほうが多いのではないだろうか。自分の息子ではないが、光源氏は自分の正妻女三宮と通じた柏木をいびって死地に追いやってしまった。

以上 2024/Oct.

追記: 2024/Nov.
メディアの子ども殺しについて、こんな見方もあったので紹介する。

演出家 宮城 聰
『つまりメデイアは「男から男へと家督が相続されていく」というシステムそのものへ復讐したのではないか。イアソンという男がこの「男性原理」の使いっ走りとなって自分(女)をゴミのように捨てようとしたとき、その「原理」自体を破壊しようとしたのではないでしょうか。 』
1999年の公演サイトからの引用です。
http://www.kunauka.or.jp/jp/work/play/medea99_01.htm

メディアは自尊心の高い女で、嘲笑されることを極端に嫌う。自分の夫であったイアソンにごみのように捨てられた時、彼女の怒りは頂点に達したであろう。しかし、本当の敵はイアソンというよりも古代ギリシャの「男性原理」にあったのだ、という見方である。面白い見方だが、本文には「男性原理」を示唆する会話や言葉は出てこない。実際の公演で、そこをどう表現されたのであろうか。観てみたかった。

西洋古典学 逸見喜一郎
ネットに公開されている下記論文(出典は不明)によると、エウリピデスの描くメディアには「魔女」と「人間の女」と「(ギリシャ神話の)神」の三つの側面がある。最後に子供を自らの手にかけ、返ってきた夫イアソンにそれを見せつけていたいと一緒に戦車で去ってゆくときには、メディアは神になっている、ということだ。
/https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/109/109-03.pdf

この論文は原典のギリシャ語の分析まで遡って議論されており、専門外の私には理解できない部分も多々あるが、示唆に富む指摘が多かった。確かにメディアの祖父は神であったし、彼女自身も自国に居る時は巫女であり、魔女(おそらく薬草使い)でもあったわけで、激高した時に神の側面が立ち上り、人間の女としては考えられないような子ども殺しをし、元夫のイアソンを嘲笑しながら去ってゆくことができるのだろう。

以上
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ソポクレス「エレクトラ」 と リヒアルト・シュトラウスのオペラ

2024-07-06 12:14:04 | つれづれに思う
ソポクレス「エレクトラ」 と リヒアルト・シュトラウスのオペラ
       *ギリシャ悲劇の登場人物の日本語表記は
        ソポクレス「ギリシャ悲劇 II」(ちくま文庫)による。

ソポクレス作のギリシャ悲劇「エレクトラ」のあらすじはこうである。
父であるミュケナイの王アガメムノンを殺した母クリュタイメストラと情夫アイギストスにエレクトラが弟オレステスと組んで復讐するというもの。ただ復讐の相手が実母であり、エレクトラと妹クリュソテミスは城内に幽閉され、奴隷のような扱いを受けているという事情が話を複雑にしている。

母クリュタイメストラと情夫アイギストスの迫害の手を逃れていたエレクトラの弟オレステスが身分を偽って子守の老人とともにミュケナイに戻ってくるところからこの話は始まる。まずはf二人の帰還の目的が明らかにされる。
物語はエレクトラを中心に妹クリュソテミス、母クリュタイメストラ、弟オレステスとの一対一の会話を通して登場人物の心情を吐露する形で進んでゆく。オレステスを除く二人とエレクトラは意見が対立し、この二つの対立軸が話の中心をなす。

妹クリュソテミスは、圧倒的な力の差がある現状ではアエギストスと母には逆らわないほうが賢明であり、正しいこと(復讐)が害になることもあるのだという。そして、オレステスがいない現状では復讐は成功しないと考えている。
一方復讐心に燃えているエレクトラは、不正に目をつぶって生きることはしない。正しいことをする、と反論する。
「だって、もし殺されたものが哀れにも、塵泥(ちりひじ)となり、無ともなって、
殺したものが、人を殺めた罪の報いを受けぬというのなら、
人間の恥を知り神を恐れる心はどこかへ消えてしまうはずだもの。」(引用)
ただ、クリュソテミスとエレクトラの唯一の一致点は今はどこにいるかわからない弟オレステスに復讐の実行と王家再興の望みを託すことである。

母クリュタイメストラの主張は次のようなものであった。
・夫アガメムノンが自分たちの長女を戦争のために生贄として出したことは承服しがたい。
・そもそもアガメムノンの弟でありスパルタ王メネラオスの王妃ヘレネがトロイの王子にさらわれたことがトロイ戦争の原因であり、王は弟メネラオスとの約束のために戦争に巻き込まれただけにもかかわらずメネラオス王夫妻の子供は無傷で自分の子供だけが犠牲になった。
これに対してエレクトラは、
・父アガメムノンが姉を生贄にしたのはやむを得ぬ事情があったからだ。*1
・理由が何であり、夫であるアガメムノンを殺して良いはずはない。さらに一緒に夫を殺した情夫アエギストスと臥所を共にしている母は恥知らずだ。
・アエギストスは王家の財産を浪費し、アガメムノンの子供たちは奴隷のように冷遇されているではないか。
 父が殺されたとき、将来を予見したエレクトラは子どもだった弟オレステスを信頼できる子守と一緒に逃したのであった。

ある日クリュタイメストラは夢を見て不安になる。元夫アガメムノンが生き返り、アエギストスが持っていた王笏を取り上げるとそこから若枝が生えだしてみるみるミュケナイ全土を覆うまでに成長したのである。そこで、彼女はクリュソテミスに頼んで鎮魂のためにアガメムノンの墓に供え物を捧げようとするが、それを知った姉エレクトラは妹を説得し、これを阻止する。ただ、墓を訪れたクリュソテミスが、もしかしたらオレステスが返ってきているかもしれないという情報をもたらした。

こうした状況下にオレステスが異国で死んだという連絡がもたらされた。それを聞いたクリュタイメストラはホッとし、エレクトラは頼みの綱が消えたことに悲嘆する。同時に自らの手で復讐を果たすことを決心する。だが直後に、成人して見分けがつかなくなったオレステス自身が現れて自分が弟であることを告白し、姉エレクトラと相談したうえで間をおかずに復讐を実行することになった。まずは母クリュタイメストラを殺害。続いて帰宅したアエギストスを処刑しようとする場面で幕となる。

*1 ギリシャ軍の総大将だったアガメムノンは生贄した鹿の事で女神アルテミス怒らせたために嵐になり、攻撃のために集結した船を出せなくなりトロイアへ行けない状況になった。そこに「アルテミスの怒りを鎮めるには、御息女のイピゲネイア様を生贄にしなければならない」との神託があり、彼は自分の腕前を自慢したために娘のイピゲネイアを生贄にせざる得なくなったのであった。

<リヒアルト・シュトラウス作曲/ホフマンスタール脚色 オペラ「エレクトラ」>

リヒアルト・シュトラウスは脚本家のホフマンスタールと組んでオペラ「エレクトラ」を作曲した。ホフマンスタールはソポクレスの「エレクトラ」をベースに脚本を作ったので、話の流れはそれに沿ったものになっている。しかし、原作では淡々と語るエレクトラのモノローグだが、オペラではその燃えるような復讐心が吐露される。圧巻は、原作では妹から間接的に聞くただけだった母クリュタイメストラの夢の話を、オペラでは母自身が語に語らせ、これをエレクトラが解き明かしをする場面であろう。陶酔したエレクトラが血なまぐさい殺しの場面を語る姿はとりつかれた巫女が語るかのようである。その場面をシュトラウスは不安定な和音と意表を突く転調で支えている。
また、クリュソテミスのモノローグでは原作のように常識的な意見を述べるのではなく、平穏な人生の中で「相手は農夫でもよいから子供をうみそだててみたい」と気持ちを吐露する。この場面のシュトラウスの音楽は空五度が現れ官能的である。
エレクトラの音楽を詳細に分析するスペースは無いが、ライトモティーフを使って展開され、転調やハッとする和音進行が印象的である。また、時に数小節ごとに変化する拍子が不安感を増長し、緊張感の高い曲になっていると思う。

以上
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ソフォクレス「オイディプス王」の心の動きとイオカステ

2024-06-22 15:33:04 | つれづれに思う
オイディプス王

                *文中の固有名詞(人名、地名)及び引用はワイド版岩波文庫「オイディプス王」(第一刷)による

ソポクレス作「オイディプス王」はギリシャ悲劇の傑作だ。哲学者アリストテレスも「詩学」のなかで高く評価している。

このたびこの悲劇を読む機会があったので、構成(話の流れ)の観点から悲劇オイディプス王の何が優れているのかを見てゆこうと思う。特にオイディプスとイオカステ(とその前夫ライオス王)それぞれに与えられたデルポイの信託と次々に明らかにされる事実がどう関わり、二人をどう追い詰めてゆくかに注目する。

*** この物語の発端
この悲劇の発端は場所も時間も異なるが内容が重なる二つのデルポイの神託にあった。テバイのライオス王に告げられたのは、王妃イオカステとの間に生まれてくる子供の手にかかって死ぬ運命にあるというもの。そこで夫婦は嫡男を生まれて三日後に両足の踝を針金で縛ったうえで、家来に捨てさせたのであった。もう一つはコリントスの王子であったオイディプスがある時、自分はコリントス王夫妻の嫡男ではないという噂が流れたので不安になってデルポイの神託を伺いに行ったところ、その答えではなく 「わしは自分の母と交わり、それによって、人びとの正視するに堪えぬ子種をなして世に示し、あまつさえ、自分を生んだ父親の殺害者となるであろう」(引用) というお告げが下された。父親(コリントス王)殺しから逃れるために自分はコリントスの地を離れて旅に出た。その途上、三ツ辻で向こうからやってきた一行と争いになり馬車に乗っていた人を打ち殺し、残る供の者も皆殺しにした。
いずれも神託を聴いたものは将来それが実現することを回避するための策を打ち、それが成功したので安心していたであろう。これらの神託があったことは物語の途中で王妃イオカステとオイディプス王のそれぞれのセリフとして語られる。

*** 物語とオイディプス王の不安
物語は飢饉や疫病で苦しむテバイの王オイディプスがデルポイの神託を聴きに送り出した摂政クレオンが返ってくるところから始まる。神託の趣旨は、この国の不幸は汚れからきているのであるから、これを国土から追放せよという事であった。具体的には殺されたライオス王の下手人どもを罰することと解釈された。そこでオイディプスは国中にライオス王の殺害者を知っているものは申し出よというおふれ出した。
一方で次善の策として預言者テイレシアスに殺害者が誰か問うてみることになった。王の前に呼び出されたテイレシアスは予言を拒否したが王に脅かされ、いやいやながら①先王の殺害者はあなただ、②その人は一番親しい身内と世にも醜い交わりを結んでいる、と告げるのであった。話をきいて憤った王はこれは摂政クレオンとテイレシアスが結託した陰謀だと決めつけ彼をののしった。そこに王妃イオカステが現れ、二人の言い争いの内容を整理し自分の知っていることを述べた。
・ライオスはコリントスとの境に近い三ツ辻で他国の盗賊に襲われ殺された、と逃げ帰った家来から聞いている
・ライオス王と自分との嫡子はデルポイの神託により父親殺しになるので両足のくるぶしを針金で縛って家来に捨てさせた
・ライオス王は複数の盗賊に襲われ命を絶たれたのであり、デルポイの神託は当たらなかった
・ライオス王は白髪交じりの初老の男であり、5人の供を連れ神託を聴きに行く途上だった

これを聞いたオイディプス王は不安になり、自分が何故コリントスの王だった父の元を去ってテバイに来たのかを語る。
ある時、自分はコリントス王夫妻の嫡男ではないという噂が流れたので不安になってデルポイの神託を伺いに行ったところ、その答えではなく 「わしは自分の母と交わり、それによって、人びとの正視するに堪えぬ子種をなして世に示し、あまつさえ、自分を生んだ父親の殺害者となるであろう」(引用) というお告げが下された。父親(コリントス王)殺しから逃れるために自分はコリントスの地を離れて旅に出た。その途上、三ツ辻で向こうからやってきた一行と争いになり馬車に乗っていた人を打ち殺し、残る供の者も皆殺しにした。

語りながら彼は、ライオス殺しの犯人は自分だったかもしれない、であれば自分はデルポイの神託の通り母親(ライオス王の王妃イオカステ)と婚姻によって結ばれ子をなしたことになるという疑念を強くいだい抱くようになった。イオカステは、争いから逃げ返った供の話によれば盗賊は複数であったのだからライオス殺しの犯人はオイディプスではありえないと主張する。オイディプスも再度ライオスの生き残った供の証言を得ることに一縷の望みを託したのである。

そこへコリントスから使者が来て、父である王が老衰で死んだのでその息子であるオイディプスに是非コリントスの王になってほしいと言った。これを聞いたオイディプスとイオカステはオイディプスが父親殺しをしていない証拠だと理解し、ひとまずホッとする。しかしオイディプスは母メロペが生きているので母親と臥所を共いするという予言(前記②)はまだ覆されたわけではないという不安を吐露する。それを聞いた使者は、コリント王夫妻には嫡子はなく、オイディプスはその昔自分がさしあげた子だと告げる。その子はコリントスとテバイの境にあるキタイロンの地で羊飼いをしていた時にライオスの家来からもらい受けたのだった。その際に家来はオイディプスの両足のくるぶしを貫いていた留め金を抜いた。そうであればそのライオスの家来を探し出してその時の事情を聴きたいというオイディプスの気持ちを聞いたイオカステは蒼白になってこれ以上の家来探しは止めるように主張するが拒否され、絶望して宮殿へ逃げ込む。イオカステの中ではこの時全ての事実がつながり、デルポイ神託の通りであったことを理解したのである。おそらくこの場面が本悲劇の一番の山場であろう。

その後赤子を捨てたライオスの家来であった羊飼いがあらわれ、その時の事情を告白するとオイディプスもすべてがデルポイの神託通りであったことを理解し、わが罪の深さに絶望して宮殿に駆け込む。そこで母であり妻であるイオカステの変わり果てた姿を見つけるとそのブローチを取って自らの両眼を突き刺した。

***イオカステの心はどう揺れ動き、何が決定的となってはてたのか
この劇の主役はオイディプスであるが、彼が生まれた時からの事情をもっともよく知っていたのは母であり妻である王妃イオカステである。前夫であるライオス王と一緒に「生まれた子供によって父親が殺されるであろう」というデルポイの神託を聴き、これを避けるために嫡子であるオイディプスの足を縛って家来に捨てさせた。そのことは王家の秘密であった。
しかしライオス王亡き後、スピンクスによって苦しめられていたテバイを救ったオイディプスと再婚し4人の子供をなすまではおそらく幸せであったのだろう。
それが、飢饉が続き、挙句に疫病が流行して国家が疲弊するにおよび、デルポイの神託を仰いだところ「この禍から逃れるためにはライオス王殺害の下手人どもを罰せよ」とのお告げが出たところからこの悲劇が始まる。
不思議なことに下手人を探すためにオイディプス王が呼び出した予言者テイレシアスの言葉と、オイディプスがコリントス王の息子として以前にデルポイの神託を得た時の内容は同じであった。劇はこの予言・神託を裏付ける事実が一つ一つ明らかにされるたびに揺れ動くオイディプスとイオカステの心を見事に映し出している。
オイディプスが神託を受けた時点で知っていたのは、自分の踝に醜い跡が残されているという事だけでその意味については知らなかった。イオカステは先王ライオスとの間に生まれた子が親殺しをすると言う神託の実現を回避するために嫡男を捨てさせた。また先夫のライオス王は他国の盗賊どもに襲われて殺されたことは報告を聞いて知っていた。
こうしてみると王妃イオカステは予言を解き明かすためにカギとなる断片的ではあるが重要な事実(盗賊は複数ではなかったが)を最初から知っていたのだ。だからこそ新たな証言によって状況が明らかになることを恐れて先王ライオス殺害の下手人が複数であったという報告にこだわり、たった一人の生き証人を呼び出すことに反対し、デルポイの神託は当たらないのだ、とまで言う。また、自分が捨てた嫡男がオイディプスである可能性が見えた時に、捨てに行った家来を呼び出すことに強く反発する。
一方、最後のコリントスの使者による証言はイオカステの知らない他国における事実なので反論する余地がなかった。イオカステにとってはすべての事実がつながり、予言が成就していたことを理解してその場に居られなくなった。そして自室に駆け込み、首を吊ってはてたのである。
この時点でオイディプス王にとっては自分がライオス王と王妃イオカステによって捨てられた嫡男であることの一点のみ未解決だったのであるが、その後彼を捨てるように命じられた家来(羊飼い)が召し出されてその事実を証言するにおよび彼も全ての事実がつながり、コリントスで受けたデルポイの神託が成就していたことを理解する。

以上
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息子に語るAI の現在

2023-04-01 23:39:39 | つれづれに思う
新聞記事でこのところしばしばChat GPT 等のAI が取り上げるけれど、それは現在のAI 進展が社会生活に与える影響が甚大であると予想されるからです。良い影響もないわけではないけれど、使い方によってはとんでもないことになります。その原因の一つは、AIチャット・サービス 、絵画自動作成、自動作曲、等のAI を支えている技術が未完成で、使う人や作った人にも確実には制御できない状態にあるからです。君たちにもわかるように説明します。

これらの最新AIサービスを支えているディープ・ラーニングという技術(下記の図参照)は人間の脳神経ネットワークをモデルにして考案さられたニューラルネットワークという構造を持っています。脳細胞であるニューロンがシナプス(樹状突起)を介して連結し、網の目のようなネットワークを構成しているので、ニューラルネットワークも脳細胞をノード、シナプスをエッジと呼んで同じく網の目のようなネットワークを構成しています。ただし、この時、階層という概念を導入しました。そして、その階層を増やせば増やすほど記憶量が増して性能が向上することが知られています。僕も40年前に、ここまではやってみました。でも、階層を増やすとシナプスの数がネズミ算的増加し、計算に恐ろしく時間がかかるようになり使い物になりませんでした。(人間の脳は数百億個の神経細胞で構成されています)でも、これをGoogle の協力を得て力ずくで解決したのが英国のデープマインド社(後にGoogle が買収した)です。Google は何万台ものPCをネットワークで結合したクラウド・サービスを持っているので、これを使ってディープラーニングの膨大な計算をやってのけたのです。最初に発表したのが「アルファ碁」という囲碁アプリで、囲碁の世界チャンピョンに勝って話題になったことを覚えているでしょう。つまり、彼らは個人や実験室では成し遂げられない膨大な計算を力ずくでやりのけ、それが有効であることを証明した訳です。これが2015年の事ですから、それからたった7年でChat GPT にまで発展し、マイクロソフトも負けじと同様の会社を買収し、自社製品に組み込もうとしています。彼らもPC ネットワークを自前で持っているのです。

さて、ディープラーニングは人間の脳神経の構造をモデルとしていますが、なぜノードとエッジという単純な構造を階層化しただけでこんなにすごい機能を実現できるのでしょうか。実は、その理屈はまだわかっていません。現在のAI は経験的にうまくいっているだけで、それがどうして機能しているのか分かっていないのです。だから、アルファ碁は次の一手を選択したとき何故その手を選んだのか説明できません。あえて言えば評価関数(実はこれが曲者なのですがここでは説明を省略します)が最大値だったから、ということになるのですが、なぜ最大値になったのか、他に極大値はないのか、説明できないのです。
つまり、現在のAI がなぜうまくゆくのか、その理論はわかっておらず、経験的にうまくいっているようだから使っているにすぎません。AI が出す答えが正しいのかどうか、保証する手段もありません。経験的に(つまり、やってみたら)うまくいっていればよしとしているに過ぎないのです。それでも、従来技術では対応できなかったある種の用途では実用レベルの解を提供できているので使われるようになってきました。いうなれば品質保証はできないけれど「結果良ければすべてよし」という危うい製品なのです。だから、この技術はクリティカルな判断が必要になる場合に適用すべきではないのです。ディープラーニングではありませんが、マシンラーニング(機械学習)という類似のAI の技術をカリフォルニア州で裁判官が被疑者の保釈可否の判断に使っているのですが、信じがたいです。実際そのAIサービスは黒人に不利な判断をすることが分かり、問題になりました。

このような状況に危機感を覚えた人たちが、AI 開発の一時凍結運動を始めたという報道が次の記事です。あまり現実的とは思いえない提案ですが、放置できない状況になりつつあるという現状認識だけは私も賛同します。

『マスク氏ら1000人超「AI開発、半年停止を」 「人類に深刻なリスク」 公開書簡』2023/3/31 朝日新聞



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