音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

音楽雑記帳:テンポ(速さ)

2016-05-02 01:05:11 | 音楽
ヨハン・ネポムク・メルツェル(独)がメトロノームの特許を取得したのは1816年だった。そして作品に最初にメトロノーム記号(数値による速度記号)を書いたのはベートーベンである。彼は自分のイメージしたテンポで演奏されないことを強く警戒したようで、元々はメトロノーム記号が無かった初期の曲にも後から追記している。 しかし、彼の指定したテンポには異常に速いものがある。例えば交響曲第三番「英雄」の第4楽章の導入部(♩=152)*1 や交響曲第八番の第4楽章(♩=336)*2 の指定は速すぎて演奏不可能なので、通常は演奏可能なレベルに落として演奏する。それでも、第八番の古い録音の演奏では出だしの三連音符二つが分離して聴こえないケースがたくさんある。音楽学者によってはベートーベンのメトロノーム記号の指定がどの程度彼の意図を表しているのか疑問をいだいている。
話はそれるが、モーツァルトも自分の曲がイメージとは異なるテンポで演奏されたことに憤慨している手紙が残っている。イタリア語による速度記号(Allegro, Andante, etc.)だけでは作曲者の意図を正確に反映できない。
ベートーベン以降の作曲家はメトロノーム記号を書くのが普通になった。

ベートーベンやロマン派の作曲家はソナタ形式の曲では楽章の冒頭及び構成上の転換点でのみテンポ指定をしているが、ショスタコーヴィチのテンポ指定はとても細かい。
おそらく最も演奏頻度の高い管弦楽曲の一つである交響曲五番の第4楽章では Allegro non troppo ♩=88 (4/4) ではじまり、提示部はほぼ10~20小節毎に ♩=104,108,1020,126,132...加速してゆく。その後も10~50小節ごとに少しずつ速くなり、一度だけ減速するが後はコーダまで一貫して加速する。作曲者の意図はよくわかるのだが、このテンポを正確に再現するだけだと指揮者はメトロノームになってしまう。実際の演奏は指揮者独自の解釈でテンポをつくり、演奏されているが。
余談だが、米ソ冷戦時代、西側諸国では Boosey & Hawkes 社のスコア(総譜)が使われていた。そこでは第4楽章のコーダは ♩=188 となっている。ところが戦後本家であるソ連の国営出版社ムジカから出版されたスコアでは第4楽章のコーダが ♪=184 となっていたのだ。これで世界の音楽界は騒然となり、日本でも全国紙に記事が掲載されるほどだった。最後の35小節は加速の頂点として盛り上がるどころかテンポがほぼ半分のになり、荘重な音楽になってしまうからだ。
1980年に出版されたムジカのスコアでは ♩=188 に訂正されている。

五線譜が無かった時代の音楽はどんなテンポで演奏されていたのだろうか。
グレゴリオ聖歌についてはネウマ譜(4線の譜線ネウマではなく、歌詞につけられた記号)の写本が残っており、グレゴリオ聖歌セミオロジー(古楽譜記号解読解釈)によってその演奏法が解明されている。そこにはテンポの指定はない。しかし、
・典礼聖歌である(典礼聖歌以外の聖歌もある)
・残響の長いロマネスク様式の礼拝堂で歌われた
・歌詞(ほとんどがラテン語訳聖書からの引用)の1フレーズを一呼吸で歌う
という原則があり、歌唱法の制約から必然的にテンポが決まる。また、修道院という外界から隔離された空間と組織に於いて千年以上も伝承されてきた現在のグレゴリオ聖歌のテンポもこの原則のほぼ合致している。

モーツァルトのピアノ・ソナタ K331 の第3楽章 Alla Turca(トルコ風)のテンポは Allegretto と指定されている。これが実際の演奏ではどのくらいのテンポになっているか、調べた人がいる。それによると、
 ♩=132 ケンプ、エッシェンバッハ、シフ、内田光子 
 ♩=144 リリークラウス
 ♩=100 ピリス
 ♩= 88 グールド
となっている。この曲の何処にも「行進曲」とは書かれていないのだが、2/4拍子なので行進曲とするなら ♩=144 では重武装の歩兵は歩き続けられない。すぐにへばって隊列が乱れてしまうだろう。♩=100,88 では遅すぎて士気は上がらず敵に脅威を与えられない。
ところで、17世紀の中央ヨーロッパの人々にとって強大なオスマン・トルコ帝国軍のバルカン半島侵攻は差し迫った脅威であった。
1683年にはオスマン帝国軍がハンガリーを突破し、オーストリアの首都ウィーンが2ヶ月間も包囲される事態になった。幸いポーランド、オーストリア、ドイツ諸侯の連合軍が到着。長引く包囲戦によるオスマン軍の士気低下もあり、ウィーンは持ちこたえる事ができたが、人々にとって異教徒の侵攻は脅威であった。この記憶がモーツァルトのピアノ・ソナタやヴァイオリン協奏曲第5番の第3楽章の背景にある。共通するのはオスマン軍の鼓笛隊が打ち鳴らすのドラムの基本リズム |♩|♩|♫|♩|である。
人間は目覚めている時、通常は五感の働きで意識が緊張状態にあり脳はβ波を出すがリラックスするとα波に変わってゆく。テンポ ♩=116 の音楽は人間をリラックスさせ、集中力、思考力、運動能力を高める効果があることが医学的に証明されている。おそらく何処の軍隊も経験的にそのことを知っていただろう。だから、オスマン軍の鼓笛隊もそのテンポで演奏していたと想像してもよいだろう。
モーツァルトのK331 第3楽章 Alla Turca(トルコ風)の Allegretto はそんな背景を持った速度記号なのである。

北京出身のピアニスト Yuja Wang (王羽佳) の演奏しているVolodos編曲の Alla Turca は丁度 ♩=116 だが爽快である。卓越したピアノ・テクニックとユーモアあふれる編曲は聴く者に笑みをもたらす。もちろん眉をしかめる気の毒な人もいるだろうが。


*1 スコア上では Allegro molto (二分音符=76)と指定されいるが、ここでは比較のため四分音符で記載した
*2 スコア上では Allegro vivace (全音符=84)と指定されいるが、ここでは比較のため四分音符で記載した
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