音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

古典芸術の現代化 ① 現代化の背景

2015-12-16 23:45:19 | 音楽
西欧クラシック音楽や日本の歌舞伎・能のような再現芸術の古典作品を現代に演奏あるいは演ずる場合、作品が発表された当時の形態そのままで舞台にあげられることはきわめてまれである。それは舞台芸術がその時代の観客のニーズにフィットしなければ飽きられ、社会組織に適応できなければ淘汰されてしまうからである。歴史上で一時は隆盛をきわめても次の時代の要請にこたえられず、消滅していった芸術・芸能はたくさんある。むしろ、現在まで残っているものより淘汰されてしまったものの数のほうが多いだろう。
例えば日本音楽では平安時代に歌と踊りと音楽が一体になった今様が隆盛を極めた。記録によれば民衆も貴族もこぞってこれをたしなんだらしい。歌詞は後白河法王の撰になる「梁塵秘抄」として残っている。それは万葉集のように生き生きとしており、同時代の勅撰集である「新古今和歌集」と対照的である。ところが今様の踊りと音楽の伝承は途切れ、歌詞だけが書物として残った。

第二次世界大戦後、古典派より古い西欧クラシック音楽(中世、ルネサンス、バロック)を、音楽学の研究に基づいて作曲された当時の演奏様式で演奏することが多くなってきた。作曲された時代の楽器(もちろんそのコピー楽器を使う)を用い、現在よりも低い当時のピッチで演奏する。これを総称して古楽と読んでいることは御存じのとおりである。ただ、当時の録音は残っていないので、Purcell, Bach, Handel,Mozart が自作をどう演奏していたのか、わからない。従って、古楽の演奏にあたっては史的な考証が欠かせないが、現時点では古楽団体、指揮者によって同じ曲でもビックリするほど異なる音楽になるケースが多い。それほど古楽にはわからない事が多く、演奏者は想像力を駆使して演奏しているのが現状であろう。
中世、ルネサンス、バロックのピッチについても正確なところは分かっていない。そもそも国際標準などというものは無い時代であった。そこで現存する管楽器やオルガンのピッチから当時のピッチを推定する事になるが、それは概ね現在のピッチよりもかなり低いが、時代や地方によってかなりばらついている。それがMozart の時代になるとピッチが統一されてきたのではないかと考えられている。彼が使っていた音叉は現存しており421.6Hz である。これは現在のAs(変イ=415Hz)に近いので、約半音低いことになる。*1
従って、現代における古楽の演奏は当時の音楽の再現というより、古楽器と低ピッチ(楽器の特性を考えれば、この2つは一体で考えるべきであろう)条件下で新しい音・音楽を作り出す試みであると考えるのが自然である。300年以上も前の音楽を正確に再現しようとしても所詮それを検証する手段が無いのだから。

日本音楽においては時の権力者(貴族や幕府)の庇護を受けて育成・保存された雅楽や能と民衆の中から生まれ育った今様や歌舞伎では全く異なる歴史をたどって現在に至っている。
例えば、雅楽はもともと律令体制と共に中国から輸入された音楽であったが、長い時間を経る中で次第に日本化して今日に至っている。その背景には、雅楽担当の政府部門である雅楽寮の規模の(唐との)違いや、律令体制崩壊後(貴族社会が崩壊して武家社会になった)の日本雅楽が歩んだ独自の道がある。つまり、規模の小さい雅楽楽団では必然的に演奏者の人数も使える楽器の種類も制限され、オリジナルの曲を実情に合わせて編曲せざるをえ無かったのだ。だから、正倉院には現在の雅楽では使われなくなった芋(「う」、低音の笙)や大篳篥(「おおひちりき」、低音の篳篥)が残っている。それでも、その伝承は途絶えることなく現在まで続いている。
今様については冒頭に述べたとおりである。

それでは、現在残っている古典芸術・芸能がなにゆえに存続することができたのか。総合舞台芸術であるオペラと歌舞伎を例にとってもう少し詳しく考えてみたい。
尚、引き続き以下の投稿を予定している。

・古典芸術の現代化 ➁ オペラの場合
・古典芸術の現代化 ③ 歌舞伎の場合

(注) 
 *1 古楽の演奏形態やピッチについては柴田南雄「西洋音楽の歴史 中」(音楽之友社)に詳しい。
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シュトックハウゼンの「シュティムング~内観する声ひとつ」何故この曲の基音が「変ロ(B♭)」なのか

2015-12-16 12:07:30 | 演奏会雑感
もう4か月も前の話題だが、サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2015 ではK.シュトックハウゼンのシュティムングが演奏された。日本での演奏は1970年の大阪万博ドイツ館での演奏以来となる。男女各三人が車座になって会場の中央に座り、それを取り囲むように聴衆が座る。全曲は70分に及び、切れ目なく演奏される。楽譜はいわゆる図形楽譜である。
曲は変ロ音を基音とする倍音音列の低いほうから2,3,4,5,7,9、倍音、つまり変ロ、へ、変ロ、ニ、変イ、ハ音の六つを各歌手の基音として設定してある。実際はそれぞれの基音の上にさらに倍音が生まれてくるので、全体はとても豊かな響きとなる。
曲の詳細解説はこのブログの目的ではないので他書に譲るが、当日のプログラムに記載されていた作曲者自身による解説と当演奏会の企画立案者である長木誠司氏によるわかりやすい解説が有用であったことを付記しておく。
今回の暖か味にあふれた演奏を聴いた後、何故この曲の基音が「変ロ(B♭)なのだろうという疑問が残っていたので帰宅してからネットや書籍で調べてみたがどこにも言及されていなかった。もちろんスコアにも記載されていない。
そこで、ここでは私が考えた仮説を述べてみたい。(海外版のCDの解説には掲載されているかもしれません。ご存知の方があればぜひ教えてください。)

この曲を作曲した時シュトックハウゼンは米国に住んでいた。ご存知のように米国の電源周波数は60Hzである。これを音に当てはめると近似的に変ロ(B♭)になるのだ。参考のために前後の音と周波数の関係を次に示そう。

A___55.00 Hz

B♭_58.25 Hz

B___61.75 Hz

A の55.00 Hzを8倍(4倍音)すると国際標準の A=440 Hzになる。一方60Hzの4倍音は丁度ロ(B) と変ロ(B♭)の中間の音程である。

話は飛ぶが、私たちの生活環境は様々な音に満ち溢れている。風や水の音に代表される自然音。人の話し声や犬の鳴き声。そして都会では自動車や電車の音が絶え間なく襲ってくる。これらの音を総称して環境音という。その環境音として私たちが避けられないのが電気に由来する音である。
いまや私たちは電気の無い生活は考えられない。その電力の供給源である電源の周波数が60Hz/50Hz であるという事は、私たちは好むと好まざるとにかかわらずこの音 及びその倍音を聴いて生活しているのだ。テレビや音響機器に限らず冷蔵庫や掃除機等々全ての電気製品(電池駆動の物は除く)はこの周波数およびその倍数の音を発している。実は最近の製品はオフにしている時でさえ待機電力を消費するので、小さな音を発している。試しに、真夜中にテレビを消してテレビ受像機あるいは受信機に耳を近付けてみていただきたい。ブーンという音がするはずである。耳の良い人なら、携帯電話等の電源アダプターに耳を近付ければ、非常に小さな音量だがノイズが聞こえる。(これを電気工学の用語で「ハム・ノイズ」と呼ぶ)
2年前、改築した我が家に入居した直後に息子が、夜寝ているとドアホンの子機(無線子機)から音が聞こえてきて気になると言い出した。子機の電源を外すと明らかに聴こえなくなるらしい。試しに夜中に確認してみたものの私にはハム・ノイズは聴こえなかった。取りあえずメーカーにクレームを出し、交換してもらったところハム・ノイズは消え、彼は以後快眠できるようになった。この音は明らかに、音感に優れた若者だけに聞こえる音だったわけである。
私たちの生活環境はこのような電源周波数音とその倍音に満ち溢れていると言っても過言ではない。ちなみに交流モーターの音も通常は電源周波数音及びその倍音である。こちらの音は誰にでもよく聴こえる。
ちょっと話はそれるが、日本の電源周波数は富士川を境に西は60Hz、東は50Hzになっていることはご存知だろう。そのため、関西に住む絶対音感を持つ人(ほとんどが音楽家)が東京に来ると環境音に違和感を覚えるらしい。それは、環境音の基音が変ロ音(60x8=480Hzの近似値)から変イ音(50x8=400Hzの近似値) に下がるからである。

さて、米国で生活していたシュトックハウゼンは60Hzとその倍音に囲まれて生活していた。従って、シュティムングを作曲した当時にとって彼は変ロあるいはロ(どちらの近似値を取るかは重要な問題ではない)に満ち溢れた環境で生活していたことになり、この音が最も身近な音程になっていたと考えられる。これがシュティムングの基音が変ロ(B♭)になった理由ではあるまいか。
一つ付け加えると、変ロの倍音構成は丁度人間の声の音域に都合が良かったこともあろう。最初に記述した変ロ、へ、変ロ、ニ、変イ、ハ音の六音は下からバス・テナー(2)・アルト・ソプラノ(2)に無理なく割り当てられる。これが二音だったりすれば低いほうのバスが苦しいし、ト音だったりすれば高いほうのソプラノは悲鳴になる。

この仮説は検証したくても作曲者がすでに亡く、どこかに本人の証言が残されていない限り確認しようがない。もっとも、本人が存命中であれば私は仮説を考えることもしなかったであろう。
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原節子と早坂文雄の歌曲「うぐひす」

2015-12-10 16:51:07 | 日本の音楽
11月末に女優の原節子さんが9月5日に亡くなっていたという情報がリークされ、マスコミが一斉に報道した。各週刊誌は特集を組み、電車の吊り広告はこの話題でにぎやかであった。どの週刊誌(私が読んだのは文春、新潮、朝日)も言及したのは永遠の処女原節子の恋物語である。原節子を重用してたくさんの名作を残した小津安二郎はじめとする監督や助監督、俳優、等々、噂の域を出ない話が羅列してあった。

作曲家 早坂文雄*1の作品リストに掲載されている唯一の歌曲が「春夫の詩に拠る四つの無伴奏歌曲」であり、その第一曲が「うぐひす」である。

「うぐひす」  詩: 佐藤春夫

君を見ぬ日のうぐひす
海近き宿のうぐひす
波の音にまじりなくよ うぐひす
ひねもす聴くよ うぐひす
うぐひす うぐひす うぐひす

佐藤春夫詩集(旺文社、阪本越郎編)の解説には、『海近き宿にただひとり泊っている主人公が、君(恋人)のいないさびしい胸に、一日中「うぐひす」の声を沁み通らせ、君への恋情を高ぶらせる。終行にいたって、「うぐひす」の声に狂うばかりの恋慕の情の強迫を覚える。』とある。彼がこの歌曲を完成したのは1944年(昭和19年)5月15日*2のことだった。

一方、1941年戦時中に原節子主演、熊谷久虎監督(原節子の義理の兄にあたり、彼女を芸能界に誘った人でもある)の国策映画「指導物語」が公開された。この映画の音楽を担当したのが早坂文雄であった。おそらく1939年に専属作曲家として東宝入社後、最初期の作品だった。彼はそれまで北海道で生活していたので東京の映画社会に入っていきなり、売り出し中の原節子と出会ってさぞ衝撃を受けたことだろう。それが、「うぐひす」に作曲するきっかけになったと考えても不自然ではない。

実は早坂文雄は私の父方の親戚である。彼は父方の祖母の従兄弟であり、私の父(作曲家)や叔母(声楽家:在ローマ)もその影響をうけて音楽家になった。ついでに書くと、祖母は私の父が結核になったのは、文雄さんから感染したものと信じていたし、実際仕事上の付き合いも深かったのでその可能性は十分あった。
その父が生前「文雄さんの恋人は原節子だ」と言っていたのを覚えている。また、その頃はまだ東京にいて演奏活動をしていた叔母も同様に感じていた。もちろん、そんな事実を表ざたにはできないから、表向き、早坂文雄はいつも原節子の付き人だった彼女のお姉さんに逢いに行くと言っていたのだ。映画評論家 西村雄一郎氏の著書「黒澤明と早坂文雄」(筑摩書房)では、早坂文雄は女優A(匿名になっている)の姉に恋したことになっているが、これはまんまと彼らの術中にはまったと言えないだろうか。

この「うぐひす」をソプラノ平山美智子が歌ったCDアルバムがリリース(「曼珠沙華」カメラータ・トウキョウ 2015年)されている。ぜひ一度聞いてみていただきたい。都節テトラコードを基調とする無伴奏の歌曲である。小節線が無く、かなり自由に歌われることが意図されている。心が震える曲であり、想いのこもった熱い演奏だ。

注:
*1 戦前、戦後の日本を代表する作曲家。映画音楽も、黒澤明監督「七人の侍」、溝口健二監督「雨月物語」、等、たくさん手掛けた。黒澤明監督の「白痴」、成瀬己喜男監督の「めし」では原節子が主演し、早坂が音楽を担当した。
*2「世界音楽全集 日本歌曲Ⅲ 」(音楽之友社 昭和46年 第2刷)の解説による。
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