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音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

新国立劇場でプッチーニの「蝶々夫人」公演を聴いた

2025-07-28 23:00:34 | 演奏会雑感
プッチーニ 「蝶々夫人」
2025年5月14日 新国立劇場

だいぶ前だが、国立劇場の「蝶々夫人」初日公演を聴いた。

幕が上がって最初に目を引いたのは舞台装置である。
本公演の舞台は中央に蝶々夫人が住む和室を置き、左手に和室を囲むように上から降りてくる曲線階段と右手に同じく下からせり上がってくる坂道が置かれ、舞台の奥から手前・左右の袖から中央へという単調な直線になりそうな動きをうまく避け、動線が舞台全体を包み込んで広く見せることに成功している。さらに、階段と坂道の外側は壁が囲んでいるのでそこに映る歌手たちの大きな影が舞台に動きを与えている。この歌劇は全幕ともに同じ場面が使われるために単調になりそうな舞台を視覚的にも飽きさせない非常に優れた舞台設定だ。ブラボー演出家(栗山民也)である。

蝶々夫人の小林厚子は特徴のある声というわけではないが全音域をムラなく歌いあげ「ある晴れた日」では聴く者の涙を誘った。スズキ山下牧子も声量たっぷりで好演。ピンカートンのホセ・シメリーリャ・ロメロとシャーブレスのブルーノ・タディアは安定した歌声で蝶々夫人を引き立てていた。

プッチーニの音楽は脚本以上の何かを語るものではなく、ニーチェが「悲劇の誕生」で言っている模写的音楽(岩波文庫「悲劇の誕生」)に該当する。ただ、どのアリアやデュエットも聴いている者の心に迫るものがありグランド・オペラの真骨頂である。これはひとえに作曲家の職人技だろう。最後の自害する場面では、私の右のお年寄りは鼻をすすり、左の若者は涙をぬぐっていた。

序からピンカートンが登場すまでの導入音楽には勢いがあり、観客を日常生活から一気に舞台の世界に引き込む演奏で、その勢いは最後まで途切れることが無かった。(指揮者 エンリケ・マッツォーラ、管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団)

2025年7月28日記
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「平山智クラリネット・ピアノデュオ作品個展『哲学する音楽』その弐」を聴いて

2025-06-25 21:20:27 | 演奏会雑感
戦後の現代音楽を欧州に在ってけん引したメゾ・ソプラノ平山美智子の言葉「作曲家はすべからく哲学者でなければならない」をモットーとする作曲家平山智は、「そもそも哲学は…永遠に答えの出ることない問いに向かい合い続ける行為である。」と考える。そして「ただ、我々はしばしば日々の仕事や生活に追われ、これらに向き合う事を忘れてしまう。そんな時に『ちょっと立ち止まって思いを巡らせてみてはどう?』と肩をたたくのが作曲家の役割なのかもしれない。」(プログラムノートより一部省略して引用)と考えた。その一つの方法が引用によって聴取者の心に刻印された固有の記憶を目覚めさせることだ。

この日の演奏会「平山智クラリネット・ピアノデュオ作品個展『哲学する音楽』その弐」では、広く知られている次のような曲の動機やメロディを引用した曲を含む新旧作品が演奏された。
・A.ベルク: バイオリン協奏曲 第一楽章
・D.ブルーベック: Teke Five(変拍子ジャズの名曲)
・M.ムソルグスキー: 展覧会の絵 プロムナード
・H.アーレン: 虹の彼方に (ジュディ・ガーランドが歌い有名になった)

"People, Coming and Going" はクラリネットの特性であるの広い音域(4オクターブ)をフルに使った難曲であるが、日本初演も手掛けた岩瀬龍太はこの曲を手中にしており難しさを全く感じさせなかった。二楽章 Interlude ではベルクのV協奏曲一楽章の完全五度で上行下降する印象的な動機が引用されていた。この音型は不思議に日本風に聞こえるのだが、これは全ての音を同時に鳴らすと笙の響きになるからかもしれない。そして最後の楽章 Swing はTake Five で締める。なんとおしゃれな作りだろう。床を足でタップしながらリード楽器を演奏するのは至難の業と思われるが、岩瀬はそれを楽しそうに演奏した。残念なのは床が固く、靴底は柔らかかったため打楽器的な音にならなかったことだ。木の床で革靴だったならもっと硬質な音が響いて迫力が加わったはずである。
「プロムナードによせて」はピアノ・ソロのための曲で世界初演である。平山はクラシック愛好家ならだれでも知っているメロディをしゃれた和音と展開で料理した。この主題の後半は前半の反行形になっているのだが、前半と後半が心地よく融和・反発しながら溶け合っていった。ピアノ川村恵里佳のペダリングとチェコ製のピアノPETROF の響きが心地よかった。

最後の曲 "The Dance Of AME-NO-UZUME" も世界初演の曲である。
古事記の天岩戸開きの集団的情緒をイメージした組曲であるが、標題音楽ではなく6つの個別場面からインスピレーションをえている。最終第6楽章「神懸かり」はクラリネットが特殊なタンギングを使い、ピアノもかなりの難曲であるが盛り上がった。

ただでさえ敬遠されがちな現代音楽のコンサートに小中学生が来ているのは平山のユーモアと意図が子どもたちにも響くと保護者が考えたからだろう。その期待にも見事に応えた曲であり、演奏だった。
2025年6月8日 イデアレーブ池上にて。
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Mozart  オペラ「ドン・ジョヴァンニ」公演

2025-02-25 00:13:55 | 演奏会雑感
モーツアルト作曲 オペラ「ドン・ジョヴァンニ」 公演

鈴木優人指揮のバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の「ドン・ジョヴァンニ」公演3日目(2025/2/23 めぐろパーシモンホール)を聴いた。

私の関心は、ドン・ジョヴァンニ」をモーツァルトが作曲した当時の楽器で演奏したらどんな音になるのだろうという事にあった。管弦楽はBCJなので古楽器であり、演奏法もヴィブラートが抑制されたストレートな奏法であった。もちろん現代的な音と比べると乾いた音がする。しかしそれは音が薄いとか力強さが無いという事ではない。古楽器が生み出す響きと、指揮者の鈴木優人が作り出す音楽は時に緊張感が高く美しく、そして第二幕のおわり、ジョバンニが石像(=騎士団長)との押し問答に続いて地獄に引きずり込まれる場面では迫力ある演奏を生み出していた。また、モーツァルトの音楽に内包される情念との思えるものまで表現されていた。

日本人歌手ではレッポレッロを演じたバリトン平野和の張りのある響きが目立っていた。この役はしばしばジョバンニと対話するのだが、彼の声量がジョバンニ役のクリストフ・フィラーを圧倒していた。一方ドンナ・アンナの森麻季とツェルリーナの高橋維は繊細な表現には長けているが、二人とも高音部声量が細くなり物足りなさを覚えた。オペラでは高い音域でも力強さが欲しい。

歌劇場ではない一般のコンサートホールあるいは多目的ホールでオペラ公演を行う難しさの一つは、舞台袖に大道具の収納スペースが無く、強い制約がある事であろう。本公演も例外ではなく、演出家はそれを考慮に入れた舞台装置を用いていた。具体的には大道具は4本のエンタシスの柱と舞台奥の壇とそこへの階段だけ。あとはスクリーンに投影される大画像をうまく利用していた。

一つ気が付いたのは、合唱団員の動きがとても自然でしなやかだったこと。通常オペラ公演では合唱団員とダンサーは役割が異なるので全く別々動きをするのだが、この舞台では衣装も含め4人のダンサーと一体となって自然な舞台を構成していた。第一幕の宴席ではダンサーが前に出て踊りだすまでは、誰がダンサーなのかわからず、合唱団員もバレエの素養を持っているのかと思ったくらい。これは演出家あるいは振付師の指導の成果なのだろう。

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平山智ピアノ作品個展「哲学する音楽」 with 棚橋由美 を聴く

2024-11-23 18:11:27 | 演奏会雑感
平山智ピアノ作品個展「哲学する音楽」 with 棚橋由美

2024年11月17日(日) イデアーレブ池上ホール(東京)

今回演奏された曲の一つ "Faceless people" シリーズ(3曲)について思うところを述べたい。
プログラムには
『演奏者は「♩=58」に設定されたメトロノームとは「無関係」に曲を演奏しなければならない。』
と記されているユニークな曲で、ここで使用されるのは逆立ち振り子のメカニカル・メトロノームである。

ピアニストはメトロノームを聴きながら、あえてそれを無視して演奏することが求められる。すると、そこにはある種の緊張感が生まれるのだ。刻みを無視しようとする力と刻みに引っ張られる力である。基本的には、楽譜上のどの部分で力のバランスがどちらに傾くかはピアニストの個性によるだろう。しかし、長い休符やフレーズの切れ目では、いやでも刻みを意識することになる。それはピアニストだけでなく、聴衆も。その後の最初の音がどのタイミングで鳴らされるか、聴衆は固唾をのんで待つし、ピアニストも心にあるタイミングと刻みのタイミングの相克の中で決定することを迫られるのだ。その緊張感の持続時間はとても長く感ぜられる。
つまり、この曲は時間の「伸縮」と、主体(ピアニスト)と客体(メトロノーム)の「相克」という二つの要素の上に成り立っているのである。

一般にデュエットは二人の意思を持った演奏家が相手の動きを読みつつ自分の動きを決定してゆくのだが、この曲では一人の演奏家が意思を持たない客体(メトロノーム)と渡り合う中で緊張と弛緩を持続させてゆかねばならないのでピアニストはたいへんだろう。
メトロノームではないが、P.ブーレーズのアンテーヌ2のようにプログラムされたコンピュータ音楽を相手にソリストが演奏する作品はたくさんある。決定性の音楽を相手に演奏するという意味では今回の Faceless people と同じである。むしろ、メトロノームという極限まで単純化されたリズム楽器を相手に、ある程度の即興性を持った音楽を作り出している Faceless People のほうが演奏家にとっては自由度が高いのではないだろうか。

新作である三曲目の「Faceless people No.3 - Before the Epilogue」 に続けて演奏されたのは Beethoven のピアノ・ソナタ「悲愴」の2楽章であった。この曲は友人で会ったピアニストの故・佐藤祐介氏への追悼の意を込めたもの。とても新鮮に響いたのは直前の Faceless People と、棚橋さんの演奏と、この日使われたチェコ製のピアノ PETORF の響き、全てに負うものであろう。

棚橋さんの演奏は楽譜を深く読み込んだことがわかる自信のある音だった。現代曲の演奏によくある極端な表情付けではなく、平山の曲をやさしく、時に厳しく音の必然が聴衆にわかりやすく示してくれた。アンコールの高橋悠治編曲のBach の小フーガは迫力があった。
演奏会に使用されたチェコ製のグランドピアノ "PETROF" は倍音の豊富な、包み込むような響きと、強打した時のカツーンという硬質な響きの両方を備えた楽器であった。小ぶりの小ホール向けコンサート・グランドで、キータッチも比較的軽く引きやすい楽器だ。欧州ではしばしば見かけるが、日本でももっと使われてよい楽器だと再認識した。

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"L'incursion"-AI Computer Music Concert 雑感

2022-03-21 23:22:21 | 演奏会雑感
人工知能(Artificial Intelligence = "AI" )とは何かという問いに答えようとするとその歴史を語る事が避けられない。なぜなら、その意味は時間とともに変化し、昔AI研究の領域だった「かな漢字変換」のように現在では独立した技術となってしまった物が沢山あるからだ。ただ現時点で最先端の人工知能研究はディープ・ラーニングを超える技術と「意味」の取扱いにあるだろう。もちろん人工知能学会で研究テーマとしている領域は他にもたくさんあるが。ただ前者についてはDeep Mind社のAlphaシリーズ以外の応用は全くない。後者については暗中模索の域を出ていないように思われる。*1
*1 下記 Blog 参照
https://blog.goo.ne.jp/hirayama41713/e/a74ade06ac7d7a05a0d9d6013ca3e2aa

そんな中でAIを音楽に適用するとは、どんな技術を、どう使って、何をするのだろうか。いわば「意味の塊*2」である音楽にAIを適用するとどんなものが生まれてくるのだろう、という興味を持って会場である2022年3月20日オペラシティ・リサイタルホールに足を運んだ。なお、本演奏会の主催者後藤英氏は本日の曲を「AI音楽」と読んでおられるが、私はあえてコンピューター音楽と書かせていただく。その理由は上記のBlog と本稿の文末を参照していただきたい。。
*2 音楽は感情を表すものではなく「そこで表現される音列・音響には言語的な意味は無い」という立場もあるが、ここではその立場は取らない。

先ず当日のプログラムは以下のとおり。全て作曲及びコンピュータ(プログラミング及び操作)は後藤英氏である。
 1.Temps Tresse -ヴァイオリンとコンピューターのために (2000年)
 2.quantiqueGII - グレートバスリコーダーとコンピューターのために (2018)
 3.L'incursion - サクソフォンとコンピューターのために (2021年)
 休憩
 4.Duali II - リコーダーと弦楽四重奏のために (2020年)
 5. L'incursion - Sax, Vn, Va, Vc Per. のために (2021年)
 
 前半3曲は独奏楽器とコンピューターの対話音楽である。この形式のコンピューター音楽は30年以上前から試みられてきた。基本的には独奏者が生成する何らかのイベント(特定の音だったり、和音だったり、リズムだったり、音列だったり、何でもよい)をトリガー(起点)としてコンピューターが対話的に自分のパートを即興的に(古くは事前に用意された断片を)生成するものである。後藤の作品では様々なイベントを使い芳醇なサウンドを生成し、作品として充分聴きごたえのあるものであった。ブーレーズのAnthemes 2 のように技術者がイベントの代わりに介在することもなく、音楽をじっくり味わう事ができた。特に 1Temps Tresse はVn 辺見康孝の好演もあり、聴きごたえのあるものだった。このサウンドはIRCAM のソフトウェアを思わせる。
 プログラム2,3のSaxとリコーダーの曲は、伝統的な奏法ではない現代奏法が主体となっていたが、そのためにコンピュータが生成する芳醇な音が生かされていなかったように思う。技術的にはノイズ奏法から豊かな音響を生成することは可能であるが、対話となると、例外はあるが通常はノイジーな音になるだろう。そう考えると、あえて現代奏法を多用しなくてもコンピューター音楽は成り立つのではないだろうか。

 後半は指揮者付きのアンサンブル作品である。5. L'incursion は指揮者の動作をリアルタイムに(実時間で)画像(動画)解析し、その意図を読み取って各演奏者に個別の指示を(例えば、次にどの楽譜断片を演奏するか、他)を出していると解説されていた。指揮者は演奏に際して指揮棒の代わりに任天堂wii のリモコンを振る。これはおそらく wii の加速度センサーからテンポを読み取るためだろう、そして腕の動作から音楽の表情を読み取るのがこの曲の新規性だ。はっきり言って曲は全く面白くなかったし、指揮者の意図が演奏にどう反映されていたのか理解できなかった。また、指揮者が指示しているテンポと背景に表示されていたコンピュータが認識したテンポ変化に1秒以上の遅延があり、これが本当にコンピュータが認識しているテンポ変化だとすると、これでは指揮者の意図を音楽に反映できない。例えば急激なテンポ変化や accel. や rit. は音声と映像がずれた映画を見ているような状態になってしまう。ただ、遅延の問題はいずれ技術の進歩が解決してくれるだろう。

 しかし、もう一つ疑問がある。コンピュータが指揮者の意図を解釈して演奏者に独自の(ソフトウェアに基づいた)指示を出すとすると、コンピュータの役割は単なる翻訳機である。それがAI技術を使っていようと無かろうと、そこには独自の創造性はない。そもそも現時点のAI技術ではコンピューターに独自の意図 "intention" を持たせることはできない。それっぽく見せるために乱数を用いたり、確率を使って計算しているだけだ。これを人工知能とは呼ばない。
 
 ともあれ、作曲家後藤氏の前向きな試みには拍手を送りたい。おそらく音楽学校内でも孤軍奮闘であろう。ただ、現時点ではAI技術によってコンピューターで意図・感情・意味を生成したり理解させたりすることは夢物語である。これを実装するには移動知のような別の発想が必要と考えるが、如何であろう。

 最後に音楽とは関係ないお願いを一言。会場でいただいたプログラムは黒字に青ぬき9ポイントフォントが使われており、モダンではあるがものすごく読みにくかった。というより、ロービーよりも暗いホール内では全く読めず、家に持ち帰ってから読ませていただいた。次回のコンサートは全ての人が会場内で読める「読み易さ」にご配慮いただきたい。こんなことすると、また「だから現代音楽は独りよがりなんだ」と言われてしまいますよ。
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