音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

"L'incursion"-AI Computer Music Concert 雑感

2022-03-21 23:22:21 | 演奏会雑感
人工知能(Artificial Intelligence = "AI" )とは何かという問いに答えようとするとその歴史を語る事が避けられない。なぜなら、その意味は時間とともに変化し、昔AI研究の領域だった「かな漢字変換」のように現在では独立した技術となってしまった物が沢山あるからだ。ただ現時点で最先端の人工知能研究はディープ・ラーニングを超える技術と「意味」の取扱いにあるだろう。もちろん人工知能学会で研究テーマとしている領域は他にもたくさんあるが。ただ前者についてはDeep Mind社のAlphaシリーズ以外の応用は全くない。後者については暗中模索の域を出ていないように思われる。*1
*1 下記 Blog 参照
https://blog.goo.ne.jp/hirayama41713/e/a74ade06ac7d7a05a0d9d6013ca3e2aa

そんな中でAIを音楽に適用するとは、どんな技術を、どう使って、何をするのだろうか。いわば「意味の塊*2」である音楽にAIを適用するとどんなものが生まれてくるのだろう、という興味を持って会場である2022年3月20日オペラシティ・リサイタルホールに足を運んだ。なお、本演奏会の主催者後藤英氏は本日の曲を「AI音楽」と読んでおられるが、私はあえてコンピューター音楽と書かせていただく。その理由は上記のBlog と本稿の文末を参照していただきたい。。
*2 音楽は感情を表すものではなく「そこで表現される音列・音響には言語的な意味は無い」という立場もあるが、ここではその立場は取らない。

先ず当日のプログラムは以下のとおり。全て作曲及びコンピュータ(プログラミング及び操作)は後藤英氏である。
 1.Temps Tresse -ヴァイオリンとコンピューターのために (2000年)
 2.quantiqueGII - グレートバスリコーダーとコンピューターのために (2018)
 3.L'incursion - サクソフォンとコンピューターのために (2021年)
 休憩
 4.Duali II - リコーダーと弦楽四重奏のために (2020年)
 5. L'incursion - Sax, Vn, Va, Vc Per. のために (2021年)
 
 前半3曲は独奏楽器とコンピューターの対話音楽である。この形式のコンピューター音楽は30年以上前から試みられてきた。基本的には独奏者が生成する何らかのイベント(特定の音だったり、和音だったり、リズムだったり、音列だったり、何でもよい)をトリガー(起点)としてコンピューターが対話的に自分のパートを即興的に(古くは事前に用意された断片を)生成するものである。後藤の作品では様々なイベントを使い芳醇なサウンドを生成し、作品として充分聴きごたえのあるものであった。ブーレーズのAnthemes 2 のように技術者がイベントの代わりに介在することもなく、音楽をじっくり味わう事ができた。特に 1Temps Tresse はVn 辺見康孝の講演もあり、聴きごたえのあるものだった。このサウンドはIRCAM のソフトウェアを思わせる。
 プログラム2,3のSaxとリコーダーの曲は、伝統的な奏法ではない現代奏法が主体となっていたが、そのためにコンピュータが生成する芳醇な音が生かされていなかったように思う。技術的にはノイズ奏法から豊かな音響を生成することは可能であるが、対話となると、例外はあるが通常はノイジーな音になるだろう。そう考えると、あえて現代奏法を多用しなくてもコンピューター音楽は成り立つのではないだろうか。

 後半は指揮者付きのアンサンブル作品である。5. L'incursion は指揮者の動作をリアルタイムに(実時間で)画像(動画)解析し、その意図を読み取って各演奏者に個別の指示を(例えば、次にどの楽譜断片を演奏するか、他)を出していると解説されていた。指揮者は演奏に際して指揮棒の代わりに任天堂wii のリモコンを振る。これはおそらく wii の加速度センサーからテンポを読み取るためだろう、そして腕の動作から音楽の表情を読み取るのがこの曲の新規性だ。はっきり言って曲は全く面白くなかったし、指揮者の意図が演奏にどう反映されていたのか理解できなかった。また、指揮者が指示しているテンポと背景に表示されていたコンピュータが認識したテンポ変化に1秒以上の遅延があり、これが本当にコンピュータが認識しているテンポ変化だとすると、これでは指揮者の意図を音楽に反映できない。例えば急激なテンポ変化や accel. や rit. は音声と映像がずれた映画を見ているような状態になってしまう。ただ、遅延の問題はいずれ技術の進歩が解決してくれるだろう。

 しかし、もう一つ疑問がある。コンピュータが指揮者の意図を解釈して演奏者に独自の(ソフトウェアに基づいた)指示を出すとすると、コンピュータの役割は単なる翻訳機である。それがAI技術を使っていようと無かろうと、そこには独自の創造性はない。そもそも現時点のAI技術ではコンピューターに独自の意図 "intention" を持たせることはできない。それっぽく見せるために乱数を用いたり、確率を使って計算しているだけだ。これを人工知能とは呼ばない。
 
 ともあれ、作曲家後藤氏の前向きな試みには拍手を送りたい。おそらく音楽学校内でも孤軍奮闘であろう。ただ、現時点ではAI技術によってコンピューターで意図・感情・意味を生成したり理解させたりすることは夢物語である。これを実装するには移動知のような別の発想が必要と考えるが、如何であろう。

 最後に音楽とは関係ないお願いを一言。会場でいただいたプログラムは黒字に青ぬき9ポイントフォントが使われており、モダンではあるがものすごく読みにくかった。というより、ロービーよりも暗いホール内では全く読めず、家に持ち帰ってから読ませていただいた。次回のコンサートは全ての人が会場内で読める「読み易さ」にご配慮いただきたい。こんなことすると、また「だから現代音楽は独りよがりなんだ」と言われてしまいますよ。
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ユジャ・ワン (Yuja Wang) の新しさ

2016-10-18 22:04:58 | 演奏会雑感
第二次世界大戦後、有名なピアノ・コンクールでの優勝あるいは入賞を足掛かりにピアニストとしての活動を広げてゆくという一つの流れがあった。ポリーニは第6回ショパン国際ピアノコンクール、アシュケナージは1962年のチャイコフスキー国際コンクールの優勝者である。しかし、近年ピアニストの登竜門としてのコンクールの存在感は薄れているように思う。優勝・入賞しても以前のように華々しい活躍をする人は少ない。
それに代わってネット社会に対応した音楽マーケティングのツールとして新しく出現したピアニストの登竜門は YouTube である。YouTube で惜しげもなくライブ録画を公開し、そこで視聴者者を引き付け、演奏会に足を運んでもらう戦略である。
YouTube は巨大な動画データベースであり、そこで頭角を現すには高いヒット率を維持する必要がある。そのためにはインパクトのある演奏と映像が必要だ。中国出身のユジャ・ワンはそれにふさわしい資質を持ったピアニストである。
・卓越した超絶技巧
・チャーミングなチャイナドレスとハイヒール(しばしばピンヒールを履いて演奏している)
・明るい、あっけらかんとしたインタビューやドキュメンタリー映像
どれをとっても、ヒット率に貢献している。

YouTube には十代の頃と思われる演奏の映像も公開されているが、ショパンの練習曲モーツァルトのソナタを聴くと、その完成度の高さに驚かされる。

ユジャ・ワン のピアノ・リサイタル(2016年9月7日 サントリーホール)を聴いた。
一ヶ月前に発表されたプログラムは彼女の希望で変更され、演奏会当日に配布されたプログラムは再度変更された。

シューマン: クライスレリアーナ op.16
カプースチン: 変奏曲 op.41
ショパン: バラード第1番 ト短調 op.23
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 op.106「ハンマークラヴィーア」


主催者の発表によると『「各会場の大きさやアコースティック、聴衆の皆さまの雰囲気等を考え合わせ、事前に準備をしてきた多くのレパートリーの中から当日プログラムを決定したい」という強い意向をもっております。』。
聴衆の大多数はプログラムを知らずに(発表前にチケットが売り出されたので)チケットを購入したのであろう。にもかかわらず巨匠の演奏会のように会場はほぼ満席であった。

クライスレリアーナは難曲である。でも彼女は見事に演奏して見せた。ユジャの優れているところは超絶技巧の指回しだけではない。アゴーギク、ルバート、等々の表現は申し分なくうまい。それはホロビッツの演奏を彷彿とさせる音楽であった。ただ、部分的にハーフペダルが多く、響きが濁ってしまったのは残念。もっとこの曲はもっとクリアの音で聴きたかった。
2曲目のカプースチン作曲 変奏曲では、楽譜の代わりにiPad をもって登場。譜面台に立てかけるのではなく、スタインウェイのフレームに直接これを置き、あの速い曲を指タッチでページ送りしながら演奏した。ジャズの伴奏ではよくiPad を使う演奏家がいるが、クラシックの演奏会では私ははじめてお目にかかった。
ショパンのバラードは自由に、ベートーベンのハンマークラヴィーアは爽快であった。

ユジャの演奏は技巧的にも音楽的にも文句なくうまい。しかし、今夜の演奏=音楽には新しさが無かった。先人を超える何かが出てきた時に彼女の新しい音楽が始まるだろう。

アンコールは何と六曲もサービスした。多くの曲はYouTube に投稿されているので、聴衆にとってはおなじみの曲という事になる。サイ/ヴォロドス編曲のモーツァルト「トルコ行進曲」なんか、大いに受けた。

シューベルト(リスト編):糸を紡ぐグレートヒェン
プロコフィエフ: ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83「戦争ソナタ」から 第3楽章
ホロヴィッツ:ビゼー「カルメン」の主題による変奏曲
モーツァルト:(サイ/ヴォロドス編):トルコ行進曲
カプースチン: トッカティーナ op.40
ラフマニノフ:悲歌
グルック(ズガンバーティ編):メロディ

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小林愛実 ピアノ演奏会 :ポーズ・デジュネ第1回

2016-04-20 23:17:30 | 演奏会雑感
 久しぶりにマチネー演奏会(4月20日 東京オペラシティ コンサートホール)を聴きに行った。2015年のショパンコンクールでファイナリストになった人である。若干20歳にして既に多数のコンクール優勝やリサイタル、オーケストラとの共演の実績がある。
 ともかく達者に弾くピアニストでモーツアルト、ドビッシー、リスト、いずれの曲も速いパッセージでは鍵盤の上を指が転がるように動き、且つ音の粒がそろっているので感心した。特に最初のモーツアルト作曲「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 K.573」では音の流れが心地よかった。また、リストの「巡礼の都市第2年 イタリアから」では技巧的な節回しや、腰を浮かして弾く打撃音が効果的で面白かった。
ただ、ドビュッシーの「版画 パゴダ/グラナダの夕べ/雨の庭」では音色の変化が少なくて退屈した。何故だろうか。小林さんの演奏ではハーフ・ペダルが多用されていたのだが、モーツアルトを演奏する場合にはこれが効果的に作用して、流れるような音楽を作り出した。しかしドビュッシーではハーフペダルを多用すると音色の変化が無くなり、音の陰影が聴こえなくなってしまう。ピアノという一つの楽器から様々な色の響きを紡ぎ出すのが彼の音楽の根幹なのでとても残念だった。もっとペダルを踏み込むところ、ハーフペダルのところ、ノン・ペダルのところをはっきり使い分けたらもっと色彩豊かなドビュッシーになるだろう。
 リストの曲でも同じことがいえると思う。様々なペダルを使い分けることによって流れるようなパッセージにとガツンという打楽器なフレーズの対比が鮮やかになるので、もっと芳醇な音楽が立ち表れてくると思う。M.ポリーニがNHKのインタビューに応えて「自分はなるペダルを使わないように心がけている。」と言っていたことを思い出した。
 ところで、今回の演奏会は開演が11:30と、マチネーとしても早い時間帯の演奏会だったが、平日にもかかわらず広い会場は6割以上埋まっていた。客層の年齢が高いのは当然だが、居眠りしている人が多いのが気になった。その結果か、演奏中に物を落とす人が少なからずいた。私の隣のご主人はプログラムを滑り落としたので奥さんが用心のためにパンフレットの束を取り上げていたっけ。
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シュトックハウゼンの「シュティムング~内観する声ひとつ」何故この曲の基音が「変ロ(B♭)」なのか

2015-12-16 12:07:30 | 演奏会雑感
もう4か月も前の話題だが、サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2015 ではK.シュトックハウゼンのシュティムングが演奏された。日本での演奏は1970年の大阪万博ドイツ館での演奏以来となる。男女各三人が車座になって会場の中央に座り、それを取り囲むように聴衆が座る。全曲は70分に及び、切れ目なく演奏される。楽譜はいわゆる図形楽譜である。
曲は変ロ音を基音とする倍音音列の低いほうから2,3,4,5,7,9、倍音、つまり変ロ、へ、変ロ、ニ、変イ、ハ音の六つを各歌手の基音として設定してある。実際はそれぞれの基音の上にさらに倍音が生まれてくるので、全体はとても豊かな響きとなる。
曲の詳細解説はこのブログの目的ではないので他書に譲るが、当日のプログラムに記載されていた作曲者自身による解説と当演奏会の企画立案者である長木誠司氏によるわかりやすい解説が有用であったことを付記しておく。
今回の暖か味にあふれた演奏を聴いた後、何故この曲の基音が「変ロ(B♭)なのだろうという疑問が残っていたので帰宅してからネットや書籍で調べてみたがどこにも言及されていなかった。もちろんスコアにも記載されていない。
そこで、ここでは私が考えた仮説を述べてみたい。(海外版のCDの解説には掲載されているかもしれません。ご存知の方があればぜひ教えてください。)

この曲を作曲した時シュトックハウゼンは米国に住んでいた。ご存知のように米国の電源周波数は60Hzである。これを音に当てはめると近似的に変ロ(B♭)になるのだ。参考のために前後の音と周波数の関係を次に示そう。

A___55.00 Hz

B♭_58.25 Hz

B___61.75 Hz

A の55.00 Hzを8倍(4倍音)すると国際標準の A=440 Hzになる。一方60Hzの4倍音は丁度ロ(B) と変ロ(B♭)の中間の音程である。

話は飛ぶが、私たちの生活環境は様々な音に満ち溢れている。風や水の音に代表される自然音。人の話し声や犬の鳴き声。そして都会では自動車や電車の音が絶え間なく襲ってくる。これらの音を総称して環境音という。その環境音として私たちが避けられないのが電気に由来する音である。
いまや私たちは電気の無い生活は考えられない。その電力の供給源である電源の周波数が60Hz/50Hz であるという事は、私たちは好むと好まざるとにかかわらずこの音 及びその倍音を聴いて生活しているのだ。テレビや音響機器に限らず冷蔵庫や掃除機等々全ての電気製品(電池駆動の物は除く)はこの周波数およびその倍数の音を発している。実は最近の製品はオフにしている時でさえ待機電力を消費するので、小さな音を発している。試しに、真夜中にテレビを消してテレビ受像機あるいは受信機に耳を近付けてみていただきたい。ブーンという音がするはずである。耳の良い人なら、携帯電話等の電源アダプターに耳を近付ければ、非常に小さな音量だがノイズが聞こえる。(これを電気工学の用語で「ハム・ノイズ」と呼ぶ)
2年前、改築した我が家に入居した直後に息子が、夜寝ているとドアホンの子機(無線子機)から音が聞こえてきて気になると言い出した。子機の電源を外すと明らかに聴こえなくなるらしい。試しに夜中に確認してみたものの私にはハム・ノイズは聴こえなかった。取りあえずメーカーにクレームを出し、交換してもらったところハム・ノイズは消え、彼は以後快眠できるようになった。この音は明らかに、音感に優れた若者だけに聞こえる音だったわけである。
私たちの生活環境はこのような電源周波数音とその倍音に満ち溢れていると言っても過言ではない。ちなみに交流モーターの音も通常は電源周波数音及びその倍音である。こちらの音は誰にでもよく聴こえる。
ちょっと話はそれるが、日本の電源周波数は富士川を境に西は60Hz、東は50Hzになっていることはご存知だろう。そのため、関西に住む絶対音感を持つ人(ほとんどが音楽家)が東京に来ると環境音に違和感を覚えるらしい。それは、環境音の基音が変ロ音(60x8=480Hzの近似値)から変イ音(50x8=400Hzの近似値) に下がるからである。

さて、米国で生活していたシュトックハウゼンは60Hzとその倍音に囲まれて生活していた。従って、シュティムングを作曲した当時にとって彼は変ロあるいはロ(どちらの近似値を取るかは重要な問題ではない)に満ち溢れた環境で生活していたことになり、この音が最も身近な音程になっていたと考えられる。これがシュティムングの基音が変ロ(B♭)になった理由ではあるまいか。
一つ付け加えると、変ロの倍音構成は丁度人間の声の音域に都合が良かったこともあろう。最初に記述した変ロ、へ、変ロ、ニ、変イ、ハ音の六音は下からバス・テナー(2)・アルト・ソプラノ(2)に無理なく割り当てられる。これが二音だったりすれば低いほうのバスが苦しいし、ト音だったりすれば高いほうのソプラノは悲鳴になる。

この仮説は検証したくても作曲者がすでに亡く、どこかに本人の証言が残されていない限り確認しようがない。もっとも、本人が存命中であれば私は仮説を考えることもしなかったであろう。
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