音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

音楽雑記帳:ピッチ(音高)

2016-06-10 01:05:19 | 音楽
クラシック音楽のピッチを統一しようという動きは1859年のロンドンの会議に始まるらしい。その後1885年にもウィーンで同様の会議が行われている。この時はいずれも A=435Hz に決まった。時は後期ロマン派時代。リヒャルト・ワーグナーが楽劇の作曲し、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラが成熟期を迎え、ヨハネス・ブラームスが交響曲を作曲していた。その後1939年、ロンドンの国際会議で A=440Hz となり今日に至っている。
ピッチが統一される以前、ルネサンス、バロック、古典派時代のピッチは地域や楽器毎に異なっていたため、演奏家は演奏場所や他の楽器(主にオルガン)に合わせて自分の楽器を調整しなければならなかった。リコーダーやバロックオーボエのような木管楽器は数Hzしかピッチを調整できないので、ピッチの異なる楽器を複数持ち歩かねばならなかった。

バロック時代のピッチがどのくらいであったかを知る手掛かりはこの時代に作られたオルガンや楽器にある。ルイ十四世(1638~1715)の時代に作られたオルガンがベルサイユ宮殿に現存しており A=396 である。これは現在よりも1全音低くなる。つまり、フランスの宮廷音楽家であったラモ―やリュリの音楽を現代の楽器で演奏すると全音高く響くことになる。
一般論としては歴史的にピッチは高くなってきたと言える。

ところで、ピッチが変わると何が変わるのだろうか。一般的にはピッチが高くなると音の透明感が高まり、緊張感が増す。逆に低くなるとしっとりとして落ち着いた響きになると言われる。最近の古楽演奏では現代の国際標準よりも約半音低いバロック・ピッチ A=415 を使う事が多いが、同時に音律も快適音律(ベルクマイスター、キルンベルガー)と呼ばれる長三度が良く響く物を採用するので、ピッチだけの効果とは言い難い。
作曲家 黛敏郎氏が存命の頃、司会をしていた題名のない音楽会でシューベルトの交響曲8番(未完成交響曲)を全音高く嬰ハ短調(原調はロ短調)で演奏したことがあった。この時これに気付いたのは会場でたった一人だった。もっとも「次の演奏には何かおかしいところがあります」という前置きがあって演奏を開始したのであって、もし前置きが無かったら誰も気が付かなかったろう。つまり、ピッチが半音ないし全音上下しても我々は直ぐには気が付かないのだ。もちろん演奏会が終わってみると、なんか変だなぁという感想を持つ人は出てくるかもしれないが。
我々に与える印象としてはピッチの差よりも音律の差のほうが影響が大きいと思う。音律が変わると響きが変化するだけでなく、転調した時の響きが大きく変わって調性感が目立ってくる。平均律に慣れた我々の耳には古楽演奏の快適音律はとても心地よく響く。最近の古楽演奏の流行の背景にはこんな秘密も隠されていたのだ。

ピアニスト故ベネディッティ・ミケランジェリの演奏は透明感のある響きで評判が高かったが(気分が乗らないと演奏会をキャンセルする事でも有名だったが)、いつも演奏会にお抱えの調律師を同行していた。来日した時の彼の演奏を聴いて感じたのは長三度と完全五度の響きが特別にきれいだったことである。思うに、彼の調律師は演奏曲目に合わせてピアノの調律を調整していたのではあるまいか。作曲家の別宮貞夫氏も同様の指摘をされていた。

話を元に戻そう。古典派の時代のピッチはどうなっていたのだろうか。この時代にはまだ国際標準は無かったものの音叉が普及していた。Wikipedia 「音叉」の項によると「1711年、イギリスのジョン・ショア (John Shore) がリュートの調律のために発明したのが起源である。」と記されている。そして音叉は瞬く間に欧州に広がった。つまり、古典派の時代になり、ようやく楽器のピッチを統一しようという機運が盛り上がってきたと考えられるのだ。モーツアルト(1756~1791)が所持していた音叉は A=421.6 だった。自分の演奏会では奏者にこのピッチを指定していたのかもしれない。指揮者アーノンクールはウィーン・コンツェルトムジクスと演奏したモーツアルトの交響曲でこのピッチを使っている。

人間がどのように音高や同音をとらえているのか、科学的に解明されているとは言えない。440Hz の倍の 880Hz がどうして同じ音だと認識できるのだろうか。物理的には同音 440Hz(一点イ) や倍音 880 Hz(1オクターブ上のA=二点イ)は共鳴する。ピアノでオクターブ上の A 音(二点イ)のキーを音が出ないように押したままにし、中央の A(一点イ) をスタッカートで叩いてみるとオクターブ上の A 音が鳴っていることが確認できるだろう。これが共鳴である。A の隣の B, C, E...キーを押しておいても鳴らない(共鳴しない)。同音の認識には共鳴現象がかかわていることが予想される。しかし、なぜ共鳴する音が同音だと認識されるのだろうか。これは人間の脳の認識の問題であって、いまだに解明されていないのだ。
ところで、音高については無限音階(Shaperd Tone) とい面白い錯覚現象が知られており、音が無限に上昇又は下降するように聞こえる。
【無限音階の例1】
【無限音階の例2】
不思議なことに運動する音高の感覚は周波数だけで決まるわけではないらしい。
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葛飾北斎と歌川広重の波

2016-06-08 22:14:47 | 展覧会
 サントリー美術館の「広重ビビッド」展(2016/4/29~6/12)に行った。
 この特別展は歌川広重の<六十余州名所図会>と晩年の傑作<名所江戸百景>のいずれも全点(会期中入れ替えあり)を中心に展示する企画で、その他に葛飾北斎と歌川国芳の錦絵が展示されていた。
広重の六十余州名所図会は日本全国の名所案内といった趣の連作版画で、今で言えば写真集のようなものである。ただし、広重自身が全国を歩き回って写生したわけではない。渕上旭江の単彩スケッチ集<山水奇観>を参考にしてイメージを膨らませ、視点を変えたり人物や船を付け加えて制作したものである。江戸時代にはとても人気があり、何度も再版されたらしい。もっとも再版された版画は手間を省いて制作したために、仕上がりが雑になったそうだ。もちろん、今回出展されているものは初期に制作された仕上がりの美しい版画である。
 残念ながら六十余州名所図会には面白ものが無かった。もともと他人のスケッチを基に想像で作成したものだからか、構図も似たり寄ったりで新鮮味に欠けるし、迫力が無い。しかし名所江戸百景には斬新なアイディアが見られる。亀戸梅屋舗は梅の枝が前面に大きく張り出し、その隙間から遠くの梅林に集う人々が描かれている。また、深川洲崎十万坪では上部に大きなトンビが画面から飛び出さんばかりに迫り迫力がある。
私が一番おもしろかったのは「王子装束ゑの木大晦日の狐火」である。大晦日の夜中に狐が木の下に集まる話を題材にした錦絵だ。景色や中心の木は暗い独特の色なのだが、狐の群れだけはベージュが怪しく浮きたっている。帰りにミュージアム・ショップでこの絵ハガキを手にとったが、自分の机に飾るには怪しすぎるので購入しなかった。


 今回の展示で一番迫力があり且つ動きがあった錦絵は、葛飾北斎の<冨嶽三十六景>神奈川沖浪裏である。この有名な作品は本物を間近に見ると画集で見るよりもはるかに動きがあり、今にも崩れそうな波音まで聞こえてきそうであった。大波を前面に大きく描く手法は北斎の独創になるものではなく、広重の「阿波 鳴門の風波」や「冨士三十六景 駿河薩タ之海上」にもみられる。しかし、左から迫る大きく且つ動きのある波、そして波間に浮かぶ遠景(小さく富士山が描かれている)という構図は北斎独特ものではないだろうか。版画を比較してみると北斎の波のすごさが際立つ。
 この絵には二つ目の富士山が波によって形作られている。この冨士の山頂は定型の三峰ではなく左峰が突き出しているのだが、それもそのはず、この冨士は山梨県側から見た姿なのだ。題名の「浪裏」は実は波だけでなく富士にも掛かっていた。私はこれを高階秀爾氏の「西洋の眼、日本の眼」から学んだ。

余談だが、北斎や広重の波を見ると自己相似性のあるマンデルブロ曲線を思い出してしまう。

【葛飾北斎 神奈川沖浪裏】
本ブログのトップ参照

【歌川広重 鳴門の風波】


広重の展覧会に行って北斎のすごさを再確認することになってしまったが、実りの多い展覧会だった。



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