音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

Orchestr Project 2020 を聴く

2021-06-03 23:37:39 | 日本の音楽
緊急事態宣言下ではあったが、昨年延期になった「オーケストラ プロジェクト 2020」を聴きに出かけた。
このシリーズは4人前後の新作管弦楽曲あるいは協奏曲を演奏しているのだが、今回も4作品すべてが新作初演であった。多くの作曲家はこの機会に大規模編成の曲を書いているが、今回も2・3菅編成とはいえ多数の打楽器やハープ、チェレスタ、ピアノを伴う曲が多く、作曲家の意気込みをうかがい知る事ができた。

松岡貴史作曲の「新しい朝に」は手堅いオーケストレションに裏打ちされた、破たんの無い曲で一瞬眠ってしまった。
木下真紀子作曲の「サクソフォーン・コンチェルト」は若いソリスト田中拓也の力強く且つ繊細な演奏もあって引き込まれた。トロンボーンやチューバが無いとはいえ、難しいパッセージの部分でも2菅編成のオーケストラの ff に負けずサクソフォーンの音が聴こえてくる力強さは並大抵のものではあるまい。また音が鋭く大きいだけではなく、時にメランコリックなエロティックな響きを聴かせていた。
小坂直敏作曲の「ピアノ協奏曲 第2番」は途中で眠くなってしまった。ごめんなさい。ただ、公開演奏は音響実験ではないので、プログラムに長々と技術解説をする必要はないと思うのだが、如何か。
水野みか子作曲の「Parva Naturalia for orchestra」は先ず第一にTomTom のオスティナートが印象的だった。
五拍子の中で繰り返されるリズムが管弦楽の響きの中で時に表になり、時に裏で目立たない様に、でもしっかりと鳴っていた。3楽章でもTomTom のオスティナートが効果的だ。これがあってトロンボーンの長いソロが生きてくるのではないだろうか。ただ、一点残念だったのは、TomTom の拍頭音の食いつきが遅く、オスティナートが音楽を引っ張る緊張感・ワクワク感が出てこなかった。指揮者は練習でそこを指摘して修正おくべきだった。ともあれ、この曲はもう一度聞いてみたいと思わせる秀作だ。
2021年6月2日 東京オペラシティ コンサートホールにて。演奏は角田鋼亮指揮、東京交響楽団。ソロ ピアノ 小坂紘未 、アルト・サクソフォン 田中拓也
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L'espace String Quartet: ブラームス作曲 クラリネット五重奏曲、他

2019-12-13 23:58:42 | 日本の音楽
最近、集中的にブラームスの楽曲を分析している中でどうしてもクラリネット五重奏の生演奏を聴きたくなって演奏会を探したところ、12月13日(金)に上野の奏楽堂で L'espace String Quartet という若いグループがこの曲を取り上げることを知り、さっそく聴きに出かけた。

プログラムの最初はハイドン作曲の弦楽四重奏曲 第74番「騎士」であった。ハイドンのSQの特徴の一つは爽快感にあると思う。本日の演奏は若者らしいテンポが春の野を駆け抜ける一陣の風のような心地よさを作り出しており、続く2つの重い曲の露払いとしての役目を果たしていた。

ヤナーチェックの弦楽四重奏曲 第1番は「トルストイのクロイツェル・ソナタに霊感を受けて」という副題を持ついわゆる標題音楽である。もちろん小説の筋を音楽で説明する類のものではなく、作曲者の受けたインスピレーションに基づく曲である。たった15分ほどの短い曲ではあるが様々な点でものすごく凝縮された内容を持っている。例えば冒頭の導入部では弱音器を付けた伴奏の中で弱音器を外したパートが交代で短いパッセージを奏してゆくのだが、ここでは弱音期の有無が新鮮な響きを効果的に作り出している。弱音器のこうした使い方は珍しい。続くテーマの演奏はシンフォニエッタ同様、ヤナーチェック・サウンド全開である。そしてフィナーレは心をえぐるような悲しみの中で音が消えてゆく。この内容の濃い曲をレスパスの若者たちは確かな個人技と息の合った演奏で見事にこなしていたとおもう。終曲では熱いものがこみ上げてきた。

1981年に作曲されたブラームスのクラリネット五重奏曲は彼の晩年の名作とされる。確かにそれまでのブラームス音楽の集大成になっているのだが、それだけではない。この曲でも彼は新しい音を求めて様々な試みを繰り出している。
L'espace SQと西崎智子(Cl)の演奏はこの密度の高い曲を鮮やかに解きほぐし、役割を与えられたすべての音がきちんと聞こえるようだった。つまり明解な解釈の基づくバランスの良い演奏だった。ただ、バランスを優先し過ぎたせいか、2楽章ではもっとClの音が浮き出てほしかった。あえて言えばもう一つ。第1楽章の第一主題と関連した激しいスタッカートで奏される経過句の部分にはもっと重みがあると良かった。この動機は2楽章や3楽章の主旋律を引き立たせる役目を持つものだからである。

こんなに楽しい、充実した内容の濃い演奏を聴くのは久しぶりである。もっと広く、多くの人にこの演奏を聴かせてあげたかった。
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文楽ー生写朝顔物語の場合

2017-09-12 00:24:39 | 日本の音楽
文楽についてドナルド・キーン博士は「文楽は脚本に多くの文学上の傑作が書かれた、世界で唯一の人形芝居である。」(吉田健一訳「文楽」、講談社1966年刊)と指摘している。確かに江戸時代、文楽からは近松門左衛門、河竹黙阿弥、他、多くの浄瑠璃作者を輩出した。そしてその作品は歌舞伎にも転用され、時代に合わせて少しずつ改作され今日に至っている。
また、文楽は人形劇でありながら、けっして人形が主役ではない。人形と浄瑠璃と三味線が一体となって構成される。人形は浄瑠璃と三味線に合わせて動いているように見えるが、それは人形が主で浄瑠璃・三味線が従であることを意味しない。生写朝顔話の嶋田宿笑い薬の段において笑い薬を飲んだ悪医者祐仙が七転八倒する場面では人形が自由に、しかしポイントでは義太夫と呼吸を合わせて動く。義太夫が絶えず舞台を牽引している訳でもない。人形や義太夫の伴奏をしているように聞こえる三味線が舞台をリードしている場面も多い。句を介して初めて出会った二人の男女が見つめ合う場面。無音空間を破り、この場面を取り仕切るのは太棹の三味線である。ベンという一撥によって動きの止まっていた義太夫と人形が生気を取り戻す。

国立劇場 第二〇〇回=文楽公演 2017年(平成29年)九月八日の公演を観た。

生写朝顔話は講釈師の司馬芝叟(しばしそう)が書いた読本「朝顔日記」を基に山田案山子の脚色で1832年(天保三年)に「生写朝顔話」として初演された。大名大内家の御家騒動を背景にした宮城阿曾次郎と深雪の恋物語であるが、そこには近松作品のような情念ではなく、純粋な恋が語られる。もちろん話の筋にはおなじみの義理や人情が絡んでは来るものの、それが二人の一途な想いを変えることは無く、むしろ恋の成就を支えている。これは、シェークスピア「ロメオとジュリエット」の恋に近い。外国船が度々開国を迫って現れ、政治的にも天保の改革を断行せざるを得なくなり、江戸文化も煮詰まってきていたこの時代の作品としては実に爽やかである。
阿曾次郎の『諸人の行き交ふ橋の通ひ路は、肌涼しき風や吹くらん』という句が深雪の手元に流れ着いたのが出会いの始まり。国元から御家の一大事との知らせが入り、その場は分かれたが、たまたま明石浦の船上で再会。二人は夫婦の契りを結ぶが、突然の大風によりまたも分れ分れに。別れ際に残した句『露の干ぬ間の朝顔を、照らす日かげのつれなきに』が三度目の出会いの縁となる。
ここからが、この作品の真骨頂。大内家の御家騒動を収めた阿曾次郎。今は駒沢家の養子となり、駒沢次郎左衛門となっているが、謀反を起こした残党に命を狙われる身。深雪は親の決めた結婚を拒否して家出し、阿曾次郎を探すが杳として会えず。泣きはらした目を患い、今は瞽女(ごぜ:盲目の芸能者)となり放浪している。そこへ、母の死を伝えるために深雪を探していた乳母浅香と出会うが人買いに襲われる。浅香は身を挺して戦い、ついに人買いを倒すが自らも深手を負い絶命する。この男と女の戦いの場面はなかなか見ごたえがあった。浅香が戦いで裾を乱し、通常は絶対に見せない女人形の足首が現れるほどだが、そこには微塵の色気もない。深雪を守るために奮闘する浅香の必死さが伝わってきた。この時深雪を守った浅香の守り刀が次の場で深雪の身の証となる。
浅香の刀を携えて訊ね来た深雪を引き取った宿屋の亭主 戎屋徳右衛門は浅香の父であり、深雪の父秋月弓之助の元家臣で、命を救ってもらった恩ある身だった。そこへ駒沢次郎左衛門と謀反の一味岩代多喜太(いわしろ たきだ)と医者萩の祐仙(ゆうせん)が投宿するのが嶋田宿笑い薬の段と宿屋の段。岩佐と祐仙は結託して阿曾次郎に毒を飲ませ、亡き者にせんとするも徳右衛門の機転により逆に祐仙が笑い薬を飲む羽目になる。この三分にも及ぶ笑いが太夫と人形遣いの腕の見せ所。萩の祐仙を遣った桐竹勘十郎はおみごと。まさに笑い転げ七転八倒、人形ならではの動きで楽しませてくれた。ただ、豊竹咲太夫の笑いは迫力に欠け残念。
ある時この宿で深雪は御座席に呼ばれ、筝を奏で『露の干ぬ間の朝顔を、照らす日かげのつれなきに』と歌い駒沢次郎左衛門と三度目の出会いを果たすが、盲目ゆえにそれが阿曾次郎であることに気が付かない。阿曾次郎は岩代多岐太の手前、名乗り出るわけに行かない。そこで阿曾次郎は出立の前に岩佐に気付かれないようにもう一度深雪を呼び出すが、折悪しく別の御座敷に出かけており、またもやすれ違い。深雪はお客が残してくれた品々からそれが阿曾次郎であることを知り、雨の中を直ぐに後を追う。この辺がこの作品の山で、胸に迫るものがある。私も目頭が熱くなってきた。
深雪は雨の中を一人で何とか大井川までたどり着くが、無情にも阿曾次郎は既に川を渡った後で、川は増水で川止め。希望を失った深雪は川へ身を投げようとするが、深雪を探していた奴(やっこ:元の使用人)勘助が追いついて引き留めます。時を同じくして追いついた徳右衛門は事情を聴くと自ら腹に刀を突きさし、深雪にその血で阿曾次郎が残した明国渡来の秘薬(甲子の血で飲めば万病に効く)を飲むように勧めた。そして彼は深雪の父秋月弓之助の家臣で命を救われた恩がある事、さらに自分は甲子の生まれであることを告げ絶命。眼が見えるようになった深雪は勘助と一緒に阿曾次郎、駒沢次郎左衛門、の後を追う。
最後はロメオとジュリエットとは異なり、希望に満ちたエンディングとなる。

この話の爽快さは和歌を軸にした前半の流れのスマートさと、男も女も夫婦になるという口約束に一部の迷いも疑いも持たない生真面目さにある。二人の思いを阻んだものは義理や悪意ではなく、三回とも運命としか呼びようのない偶然であった。
また、この話には文楽や歌舞伎でよくある「実はxxxだった」が少なく、話の流れが分かりやすいのも特徴である。宿屋の主人が実は深雪の父親に恩のある元家臣であった事くらいだろう。
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古典芸術の現代化 ③歌舞伎の場合

2016-02-03 01:26:00 | 日本の音楽
➁オペラの場合は後回しにしました。

歌舞伎では通し狂言として上演される場合、オリジナルの台本がしばしば改修される。一つの作品が通し公演として取り上げられる頻度は一番人気の仮名手本忠臣蔵でさえ数年に一度くらいだから、高くはない。一般には通し公演のたびに何らかの改修がなされると言ってもよいほどである。
では、なぜそんなに台本が改修されるのだろうか。その一つのヒントは歌舞伎が置かれた社会的背景にある。
歌舞伎は元来、時の権力者である徳川幕府の庇護を得ることなく発展してきた。従って、興業(ビジネス)として成功させるには収入である観覧料と公演支出のバランスがとれていなければならなかった。つまり、たくさんのお客がお金を払って見物に来てくれるような公演を継続しなければならなかったのである。人気が無い公演は早々に打ち切りとなり、人気があれば公演期間は延長されたはずである。その点では現代のミュージカル公演に通ずるところがある。ブロードウェーの "Chikago" のように何年にもわたるロングランを続ける公演もあれば、1ヵ月の公演予定が不入りのため二週間で打ち切りになるケースもざらにある。そこで、興行主、脚本家(台本作者)、演出家(歌舞伎では「座頭(ざがしら)」)、役者は見物人を楽しませることに腐心する。そうせざるを得ないのだ。今も昔も。もちろん役者には見せる芸を磨く事を怠ってはいけない。それも、公演のたびに台本の改修、つまり現代化を要求するのである。台本が時代の要請に合わなければ幕府や政府の公的支援の無い歌舞伎は生き残れなかったのである。*1 言い換えれば、その柔軟性が歌舞伎を今日まで支えてきたと言えるだろう。もちろん柔軟性以外の要因もあるが。
幕府の庇護を受けていた能・狂言でも世阿弥が「風姿花伝」で言う「花」を大切にし、観客を楽しませるという事大切にしてきた。しかし、その方法においては歌舞伎とは大いに異なっていた。能・狂言でギャグのようなセリフを即興で言う事は考えられず、我々現代人にはわからない江戸時代のギャグがそのまま残っていたりする。
ところで、一口に改修と言ってもその程度は即興的なギャグからすっかり筋立てが変わってしまうものまで様々である。例えば河竹黙阿弥作の「小春穏沖津白浪(こはるなぎ おきつ しらなみ)」の最後は男(三人の盗賊)の悲しい別れだったのに、1月の国立劇場歌舞伎公演(改修:木村綿花)では、殿様の政敵に盗まれた大事な品物を三人の盗賊が協力して奪い返し、その功績により全員召抱えられることになるというハッピーエンドに変わっていた。
古典作品の改修を良しとする文化には多様な背景があるが、根底には歌舞伎という芸能が置かれた社会的な地位の低さがあると考えざるを得ない。もちろん、地位の低さが人気と芸の高さに比例しないことは言うまでもない。そもそも、江戸時代は士農工商という職業序列があったが、最も豊かさを満喫したのは最も身分の低い商人たちであり、歌舞伎を支えていたのはこの人たちだったのだから。
改修しなければならなかった背景を次のように分類することができるだろう。

1.オリジナルの台本の筋書きが破たんしていて現代人が観ても理解できない。
 後述の小春穏沖津白浪がその典型である。(Web Site 「歌舞伎見物のお供」*2参照)
2.通し狂言としては上演時間が長すぎる。(これは実に現代的な要請である)
 11時あるいは12時に開演しても終演が17時を過ぎるようだと帰宅がラッシュアワーにぶつかってしまう。高齢の見物客が多い歌舞伎興業には致命的な問題になる。従って、場の間引きをするか台本を改修して短くする必要がある。
3.時代背景や当時の事件について知らないと筋を理解できない。
 歌舞伎の台本にはその時代や過去に起こった事件を基に作られたものが沢山ある。(時代狂言)
 例えば鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の台本は江戸時代の赤穂事件を背景につくられ、最初は「仮名手本忠臣蔵」と抱き合わせで上演された。従って、最後の討ち入り場面は共通である。しかし、現代の観客は事件のことはよく知らない。そこで、昨年の12月国立劇場の公演では最初に「口上の段」を追加し、鶴屋南北自身が登場して事件の背景を説明するという改修が付け加わっていた。
4.見物人の受けを狙ったギャグ。
 ギャグは即興的に付け加えられる遊びであり、客の心を和ませる。「この道はさっき来た道」というセリフを山田耕筰作曲「この道」のメロディーに乗せて歌ったり(語ったり)、最近ではラグビー日本代表の活躍に乗じ劇中で五郎丸のポーズを取る場面があった。

この分類で全てを場合を尽くしたわけではなく、他にもあるだろう。ただ、ここに分類されたケースはいずれも見物人を楽しませるという精神に基づくものであり、400年以上続く歌舞伎を支えてきた要因の一つである。

*1: 歌舞伎のような大掛かりな舞台芸術が昔も今も公的な支援をほとんど受けずに興行的に成り立っているという事は世界的に見てもまれな例ではなかろうか。洋楽(クラシック)では主要なオペラ劇場やオーケストラはほとんど全て公的な支援がある。例外は米国だが、そこには公的な支援に代わって莫大な寄付がある。だから、米国主要オーケストラの音楽監督や常任指揮者の大切な仕事の一つが寄付金集めなのだ。たくさん集めた指揮者の在任期間は長くなる。
*2: http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/2555b16dc41f541481f71ecc76ca0d5f

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原節子と早坂文雄の歌曲「うぐひす」

2015-12-10 16:51:07 | 日本の音楽
11月末に女優の原節子さんが9月5日に亡くなっていたという情報がリークされ、マスコミが一斉に報道した。各週刊誌は特集を組み、電車の吊り広告はこの話題でにぎやかであった。どの週刊誌(私が読んだのは文春、新潮、朝日)も言及したのは永遠の処女原節子の恋物語である。原節子を重用してたくさんの名作を残した小津安二郎はじめとする監督や助監督、俳優、等々、噂の域を出ない話が羅列してあった。

作曲家 早坂文雄*1の作品リストに掲載されている唯一の歌曲が「春夫の詩に拠る四つの無伴奏歌曲」であり、その第一曲が「うぐひす」である。

「うぐひす」  詩: 佐藤春夫

君を見ぬ日のうぐひす
海近き宿のうぐひす
波の音にまじりなくよ うぐひす
ひねもす聴くよ うぐひす
うぐひす うぐひす うぐひす

佐藤春夫詩集(旺文社、阪本越郎編)の解説には、『海近き宿にただひとり泊っている主人公が、君(恋人)のいないさびしい胸に、一日中「うぐひす」の声を沁み通らせ、君への恋情を高ぶらせる。終行にいたって、「うぐひす」の声に狂うばかりの恋慕の情の強迫を覚える。』とある。彼がこの歌曲を完成したのは1944年(昭和19年)5月15日*2のことだった。

一方、1941年戦時中に原節子主演、熊谷久虎監督(原節子の義理の兄にあたり、彼女を芸能界に誘った人でもある)の国策映画「指導物語」が公開された。この映画の音楽を担当したのが早坂文雄であった。おそらく1939年に専属作曲家として東宝入社後、最初期の作品だった。彼はそれまで北海道で生活していたので東京の映画社会に入っていきなり、売り出し中の原節子と出会ってさぞ衝撃を受けたことだろう。それが、「うぐひす」に作曲するきっかけになったと考えても不自然ではない。

実は早坂文雄は私の父方の親戚である。彼は父方の祖母の従兄弟であり、私の父(作曲家)や叔母(声楽家:在ローマ)もその影響をうけて音楽家になった。ついでに書くと、祖母は私の父が結核になったのは、文雄さんから感染したものと信じていたし、実際仕事上の付き合いも深かったのでその可能性は十分あった。
その父が生前「文雄さんの恋人は原節子だ」と言っていたのを覚えている。また、その頃はまだ東京にいて演奏活動をしていた叔母も同様に感じていた。もちろん、そんな事実を表ざたにはできないから、表向き、早坂文雄はいつも原節子の付き人だった彼女のお姉さんに逢いに行くと言っていたのだ。映画評論家 西村雄一郎氏の著書「黒澤明と早坂文雄」(筑摩書房)では、早坂文雄は女優A(匿名になっている)の姉に恋したことになっているが、これはまんまと彼らの術中にはまったと言えないだろうか。

この「うぐひす」をソプラノ平山美智子が歌ったCDアルバムがリリース(「曼珠沙華」カメラータ・トウキョウ 2015年)されている。ぜひ一度聞いてみていただきたい。都節テトラコードを基調とする無伴奏の歌曲である。小節線が無く、かなり自由に歌われることが意図されている。心が震える曲であり、想いのこもった熱い演奏だ。

注:
*1 戦前、戦後の日本を代表する作曲家。映画音楽も、黒澤明監督「七人の侍」、溝口健二監督「雨月物語」、等、たくさん手掛けた。黒澤明監督の「白痴」、成瀬己喜男監督の「めし」では原節子が主演し、早坂が音楽を担当した。
*2「世界音楽全集 日本歌曲Ⅲ 」(音楽之友社 昭和46年 第2刷)の解説による。
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