音楽と情報から見えてくるもの

ある音楽家がいま考えていること。アナリーゼ(音楽分析)から見えるもの。そして情報科学視点からの考察。

『クラシック名曲「酷評」事典』を読んでみた

2024-05-16 23:52:59 | 音楽
ニコラス・スロニムスキー[編] 藤村奈緒美[訳]
 クラシック名曲「酷評事典」 上 B→P
YAMAHA (株式会社ヤマハミュージックエンターテインメントホールディングス)

 絵画や音楽のような芸術作品の好き嫌いの多くは直感で決まるからそこには評価尺度ははなきに等しい。あっても、その人固有の評価軸、尺度だから他の人に押し付けられない。しかし評論となれば好き嫌いはあっても自分の立場、評価軸、尺度を明確にすべきであろう。罵詈雑言を浴びせたり皮肉を言うだけでは評論にならない。少なくとも「論」という限りは。
 本書に採択された評論にはいかに好き嫌いだけの記事が多いことか。批評家はもちろん、作曲家仲間である人たちの記事でも同じである。我々は芸術をまず直感で判断し、あとからそれに理由をつけているのだろう。その理由は必ずしも客観的ではなく、結論ありきから始まっているので公平ではないことが多い。批評家やその記事を採用した新聞・雑誌は、読者が興味を持って読んでくれるのならそれでも問題ないのだろう。たとえ無根拠で罵詈雑言を浴びせるだけの評論だったとしても。
本書にはほとんど採用されていないが、旧共産圏の公式メディアによる演奏会批評には読者が興味を持って読むかどうか、という視点(価値観)はなかった。それに代わって唯物史観と政治的志向に合致しているかどうかが評価軸となる。ショスタコーヴィッチの新作がしばしばその矢面に立たされ、時には書き直させられ、葬られた(ソ連国内では演奏されなかったが、海外のコンサートでは取り上げられた)のはすべてそうした視点からの評論によるものであった。

 本書は上・下に分冊されており、それぞれ頭文字B→P(上)とそれ以外の文字で始まる作曲家(下)の作品についてほぼ同時代の批評家や同業の作曲家たちが公開した「酷評」記事を収集したものである。年代的には一番古いベートーヴェン(1770年生まれ)の批評記事が1804年であるから、作曲家が存命中に書かれた記事もたくさん採用されている。
その内容を編者の言葉を借りて一言でいえば『なじみなきものに対する拒否反応』(p18
)という事になるのではないか。

【演奏会の主催者と批評家】
 古典派の時代前半まで、演奏会は主に貴族の社交を目的として王侯貴族が主催した。広い演奏会専用会場の場合には、座席のない平土間や舞台が良く見えない最上階等の条件が悪い場所を家来や兵士たちに開放することもあった。ちなみに教会が一般庶民を対象とした無料のオルガン演奏会、等を開催することもあったが、そこでモーツアルトの歌劇やピアノ・ソナタが演奏されることは無かったに違いない。J.S.Bach がブックステフーデの曲(主としてオルガン曲)を聴くためにわざわざ北ドイツまで旅をしたという話はよく音楽史の本に出て来る。
 それが古典派後半(モーツァルト晩年やベートーヴェン時代)になると、貴族が没落し(つまり音楽家を抱えたり劇場を維持できなくなる)代わって新興の中産階級が社会の実権を握るようになる。そこで演奏会も作曲家や演奏家による自主興行が行われるようになった。もちろん有料演奏会だから、聴衆は良い演奏には惜しみない称賛を送るが、気に入らなければブーイングという事になっただろう。批評家という役割はこの頃から始まった仕事である。モーツアルトの手紙を読むと、王侯貴族が主催する演奏会でも聴衆は様々な反応を示していたようだが、これを誰かが批評という形で公開することは無かった。王侯貴族に無料招待された演奏会を批判するなんてことはできなかったのである。

【批評家の立場とは】
 批評家は自分の文章によって共感を得て仲間を増やしたいわけで、必然的に文章は過激になるだろう。彼らは読者をひきつけるために面白い文章を書かねばならない。畢竟文章は過激になる。
 多くの批評家は伝統的な価値観と評価尺度を使って新しい音楽を評価するので、新しい音階や和音、そして従来とは異なる響になる楽器の使い方はそれ自体が攻撃の対象になる。その場合、問題は音楽の内容以前に存在するのであって、新しい試みを古い尺度に従って評価することは全く意味がない。ここで批評家は対象の音楽内容とは関係なく罵詈雑言を浴びせるのみである。これは自己満足でしかなく、何の意味もない醜い(とても評論とは言えない)感想文が残るだけである。

【酷評】
次に何人かの作曲家に対する「酷評」とその背景を見てみよう。

<ベートーヴェン> 1770~1827
 ベートーヴェンは生存中から社会的には高い評価を得ていた作曲家・ピアニストであった。ウィーンの諸侯から年金ももらっている。従って、同時代の批評家諸氏も罵詈雑言を浴びせるわけにはゆかなかったのだろう。彼らの非難には、現代から見るとそれが何故問題なのかわからないような事項が多い。
・演奏時間が長すぎる。
特に交響曲3番や9番が槍玉に挙がっている。確かに1世代前のモーツァルトの交響曲と比べると相対的には演奏時間が長くなっているが、後続世代の交響曲はさらに長くなっている。
・曲の中で不協和音が鳴っている。
交響曲3番の有名な不協和音は分析的に見れば二つの和音が同時に鳴っていると解釈できるものであり、緊張感の高い不協和音を作り出した後にさっと潮が引くような解決を見る。また、交響曲5番の3楽章から4楽章への移行部でも非和声音が響く部分があり、非難の矛先が向けられているが、この部分も4楽章の冒頭で解決される。つまり、ベートーヴェンの不協和音は必ず解決されるのだが、さび付いた耳にはその流れが聞こえてこなかったのだろう。
・メロディーが粗雑だという非難も多々ある。
その中には現代では世界中で定着した交響曲9番の4楽章のテーマも含まれているのだから、批評家はいったい何を聞いていたのだろうか。

<ショパン> 1810~1849
・転調といえば近親調へ移行するのが普通だった19世紀前半にショパンは大胆に遠隔調への転調や一時的転調を多用したため、一部の批評家諸氏はついてこられなかったのだろう。
・和音においても、付加音や変化和音を多用することで独特の雰囲気を醸し出した。

<ブラームス> 1833~1897
 ブラームスが活躍した1850年代以降は後期ロマン派の時代とされる。この時代は新しい音楽の方向性についてブラームスを擁護する絶対音楽派とワーグナーこそが新しい道を導くとする標題音楽派が戦っていた。彼を擁護するのは音楽学者のハンスリック(「音楽美論」岩波文庫)で、情景描写や文学的内容、心理描写を排し、純粋に器楽音だけで音楽美を表現するとした。一方の標題音楽派は楽曲に物語や情景描写を付随させようとするもので、アンブロース(「音楽と詩の限界」音楽文庫、絶版)がワーグナーを支えていた。従って、批評活動においてもどちらを支持するかによって論調は大きく分かれることになった。
 現代から見ると、ブラームスもワーグナーもそれぞれの方法でロマン派の枠組みを乗り越える工夫をしていて、その手段として主として器楽曲、歌曲・オペラ、のいずれを使ったかの違いのようにも見えるが、評論となるとその対立は激烈であった。

・作曲家だけでなく、ピアニスト、指揮者としても高い評価を得ていたブラームスの曲を分析的に評価するのは容易ではなく、そのため評論では「思想が無い」「聞くに値しない」「うんざりする」というような抽象的な悪口にしかならなかった。いったいその曲のどの部分がどう問題となるのか、具体的に指摘できたものはない。最後は好き、嫌い、という表現になっている。
・ただ、同時代の作曲家たちの批評も強烈である。
チャイコフスキー: 「なんと才能のない奴なんだろう! この思い上がった凡人が天才として崇められるとは、実に腹立たしい。」 と日記に記している。
フーゴー・ヴォルフ: 「(交響曲4番を評して)思想もないのに作曲するという方法を代表する存在としては、ブラームスが最も優れたものの一人であることは明らかだ。」
標題音楽派だったヴォルフらしい評論だ。
批評家や作曲家ではないが、著名な脚本家だったバーナード・ショーはと書いた。
「私から見れば、ブラームスの真の姿が感傷的な快楽主義者でしかないことは明らかだ。」

<バルトーク> 1881~1945
・ピアノの打楽器的な用法、ヴァイオリンの新しい奏法、長調・単調ではない旋法に基づくオーケストラの斬新な響き、これらは伝統的な価値観と評価尺度しか持っていない批評家たちには豚に真珠であっただろう。後年の音楽学者が解読した精緻な音構造や独創的な樂式について同世代の批評家たちが知っていたはずもない。しかし、同時代にバルトークの音楽を高く評価し、彼に作曲を依頼する数少ない優れた耳を持った演奏家や音楽仲間がいたことを忘れてはいけない。

<ベルク> 1885~1935
 ベルクの時代は作曲世界全体がワーグナー以降の調整音楽に代わる新しい道を模索していた。従ってそこでは無調やシェーンベルクの12音音楽以外にも、多調、等、様々な手法が試みられていた。しかし伝統的な調性音楽を金貨極上とする守旧派の批評家たちにはどの手法も全く理解できなかったであろう。日本でも戦後、武満徹作曲のピアノ曲「レント エ レント」の初演を聞いた有名な批評家(さる音大の教授でもあった)が『音楽以前』と切り捨てたことがあった。もちろん、後日この批評家はその地位を失った。

・ベルクの二つの歌劇はいずれも脚本が世紀末的な強奪・自殺・殺人・等々全体に漂う病んだエロティシズムを扱っており、世紀末的時代感覚をとらえきれない中産階級を代表する批評家はその退廃性を激しく攻撃する。現代ではベルクの書いた音楽が、世紀末的な状況と実によくマッチしていると評価されているにもかかわらず。これは彼の音楽が時代を先取りしていたという事なのかもしれない。
・無調や12音音楽を理解できない批評家は、ベルクの音楽の何が問題なのか具体的に指摘することができず、「しっかりとした構造もなく、うちに精神的な動機があるという証拠を見て取ることもできない。」(p87)、「頭でひねり出したもので、ぎこちなく、自意識過剰であり~」(p86) 、と言うしかなかったのである。

【終わりに】
 本書に集められた批評は「酷評」ばかりであるが、同じ演奏会に対して好意的な批評を掲載した新聞・雑誌もあったはずである。それを比べてみるとさらに面白くなるだろう。

2024年5月記
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音楽家はルソーの言語起源論から何を学ぶか

2018-03-15 17:09:56 | 音楽

フランスの哲学者ルソー(Jean-Jacques Rousseau)は「言語起源論ー旋律と音楽的模倣について」(*1)において次のように述べている。
原初ことばと音楽は一体であった。言葉は情念を表すものだった。そこでは音(ことばの抑揚)が我々の心の中に入り込み、関心をかき立てる。
古代エジプトの象形文字やメソポタミアの楔形文字は単に「もの」をだけでなく、その環境や時間変化をも含む概念である「こと」を指しており、それは豊かな表現となっていた。その後、記号としての文字(例えばアルファベット)が発明されるに及び、文字は「もの」を指し示すようになり、この時に音と文字が分離された。

日本語も古くは多くの言葉が「もの」ではなく「こと」をさしていた。(*2) その残滓は例えば色の表現に見る事ができる。
「みどりなす黒髪」の「みどり」は分光学的な緑色ではなく、若々しいつややかな様を表している。「あかあかと燃える」の「あかあか」は炎が揺らめき燃料である木がはじける様を指すのであり、単なる赤色を意味しない。
専門家によると、日本語にはこのような擬態語が多いらしい。「青々と茂る森」等々、思い当たる言葉はたくさんある。近代以前の日本語に色を表す言葉が多様であるのは我々の先祖が色を分光学的な特定の波長に対して定義する(「もの」)のではなく、色をその環境は時間の流れの中で「こと」としてとらえたからである。近代になってそこから「赤」「黄」「青」のような分光学的な色表現が分離され、多用されるようになってきた。だから、印欧語と比較すると日本語には色の表現が豊かなのである。

また、ルソーは同書において『感情やイメージを表現するには、リズムと音すなわち旋律が必要である。』と述べる。感情やイメージをうれしい、悲しい、というような抽象的な「もの」としてではなく、育てていた水仙に花が咲いてうれしいとか、母が死んで悲しいという具体的な「こと」として表現するには旋律が必要なのである。

西洋音楽発展の基礎となったグレゴリオ聖歌は元来ラテン語の歌詞(聖書からの引用が多い)を朗唱するもので、歌い方は口伝に依っていたが、9世紀ごろから先導者がネウマと呼ばれる記号によりその歌い方を記録(というよりもメモ)するようになった。それが12~13世紀頃に四線譜に書き写された(四線ネウマ譜とも呼ぶ)ことにより音高が明確になったが、この時に元々のネウマ譜が持っていた抑揚やリズムの情報が失われてしまった。そして四線譜が五線譜になり、定量記譜法が定着。バロック音楽以降は舞曲の形式が多用されたために(例:バッハ「管弦楽組曲」)小節線(縦線)と共に拍子記号が導入されて現在の記譜法が固まった。これによって記譜法が標準化され、その規則さえ知っていれば誰が演奏しても同じ音がするようになった。しかしネウマが持っていたフレーズやリズム、音の流れの勢い等、音楽が持つ豊かな「こと」表現情報が失われ、楽譜は単なる音高や音価、つまり「もの」しか記述できないものとなった。これを補うために表情記号等が導入されたが、ネウマが持つ豊かな情報量とは比べるべくもない。

さらにルソーは言う。『リズムの周期的で律動的な回帰、抑揚の旋律豊かな変化へ言語とともに詩と音楽を誕生させた、というよりその幸福な時代と幸福な風土ではそれらすべてが言語そのものだった。』(*1・p90)
『音声言語の多彩な音以外に旋律はなく、抑揚は歌を形作り、音長は拍子を形作り、人は文節や声〔母音〕に寄ってと同じくらい、音とリズムによって話していた。』(*1・p91)
四線ネウマ譜や五線譜のような定量記譜法の導入によって言語と音楽が一体であった幸せな時代は終わり、我々は音楽を表現するために五線譜と格闘し、その中に自然なフレーズやリズムを見つけ出さねばならなくなったのである。

だから現代の演奏者や指揮者の重要な仕事の一つが固定的な五線譜で記述された音符の中に隠れている自然なフレーズや自由なリズムを見出し、それを演奏に生かして行く事となった。

追記:ルソーは最後の結論に至るもう一つの原因として和声の導入を挙げているが、これについは別途議論してみたい。(*1・p103)


*1 ルソー(増田真 訳)「言語起源論ー旋律と音楽的模様について」岩波文庫(2016年)
*2 樋口桂子「日本人とリズム感」青土社(2017年)」
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音楽が音楽であるのは

2017-06-23 10:01:30 | 音楽
朝日新聞の「折々のことば」(鷲田清一)に「音楽が音楽であるのは、それを音楽と受けとる耳があるからだ。」(相倉久人)が引用されていた。然りである。どんなに良い曲であれ、聴いてくれる人が居なければ音楽によるコミュニケーションは成り立たない。

ところで作曲は創作活動の一つであるが、これを無から有を生み出す行為だと考えている人がいる。しかし、曲は楽譜として外在化される前に作曲家の心のうちにあり、推敲を重ねたうえで吐き出されたものである。推敲のやり方は様々で、ベートーベンのようにスケッチ長を持ち歩いて一つの動機を何度も何度も書き換える人もあれば、モーツアルトのセレナーデのように湧き上がる音をそもまま楽譜に書き付けたかのような場合もあろう。だが、いずれにしても音は楽譜に記述される前に作曲家の心の内で響いていたのである。その音を音楽として聴いてくれる人が居ようと居まいとにかかわらず、その時点で既に音楽は存在していた。
では、作曲家は無から有を生じさせる魔術師なのであろうか。曲と格闘するしかめっ面のベートーベン絵画を見るとなんとなく無から有を生み出す苦悩を表現しているように感じてしまうかもしれない。しかし、現存する彼の絵は全て後世の人が描いた神格化された像なのだ。また、ピーター・シェーファー作「アマデウス」を見ると(読むと)モーツァルトは心のうちに尽きることのない音楽の泉を持っていて次から次へと膨大な量の曲を生み出していったかのようである。彼の創作量から考えるとなんとなく納得できそうな解釈だ。

この二人の作曲家はスタイルこそ異なれ無から有を生み出しているように見える。しかし、二人ともいわゆる古典派の時代に生き、調性音楽やグレゴリオ聖歌のような旋法音楽(この時代、ミサは全てアラテン語のグレゴリオ聖歌で行われていた)の中で生まれ育ったので、彼らの音楽もまたそれを受け継ぎ、発展させるものであった。つまり、二人の天才もまた歴史を背負って活動をしたのであり、決して無から有を生み出したのではない。

舞台の上でピアノを壊したり、金属のごみの山をかき回してガチャガチャという音を音楽とする1960年前後の前衛音楽はまさに無から有を生じさせようとする試みだった。しかし、これを音楽として聴く耳は長続きしなかった。
ジョン・ケージの有名な曲「4分33秒」は、ピアニストがピアノの前に4分33秒間座っているだけである。けじめをつけるために鍵盤のふたを開け閉めする演奏家もいるが、楽譜には特にそのような指示はない。この曲を巡っては様々な解釈があるが、その間の会場の音が音楽なのだというのが一般的である。つまり、ケージも音楽を自分の外に聴き、それを自分の作品として切り出したのであって、無から有を生じさせたのではないだろう。世界初の試みであったことは確かだが。
作曲という行為は自分の外に音を聴き、それを内在化させたうえで耳を澄まして心で聴き、推敲して再び外在化させる行為のなのだ。作曲中の作曲家は内在化させた音を繰り返し聴き、推敲を繰り返した後でそれを楽譜に書き付けるのである。だから、既にそこにはコミュニケーションとしての音楽は存在している。

作曲家 徳山美奈子氏によると師である故イサン・ユン氏は折に触れ「宇宙や自然の中に音を聴かないと音楽は滅びる」と警告を鳴らしておられたそうである。
全ての音楽は聴く事から始まる。
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上原ひろみザ・トリオ・プロジェクトにおける Simon Phillips のドラム

2017-05-01 23:27:36 | 音楽
The Trio Project はピアノの上原ひろみ(以下「ひろみ」と記)、エレキベースの Anthony Jacksonとドラムスの Simon Phillips で構成するジャズ・コンボである。
このコンボのドラム Simon Phillips が使用しているドラムセットが巨大である。通常ジャズで使用されるドラムセットはドラム4種類5台、シンバル2種類3台で構成される。しかし、彼が使うセットはドラムもシンバルもこれの倍以上あるのだ。一見すると楽器既囲まれ、その中心で演奏しているような格好になる。(さすがに背面には楽器はないが。)これだけの規模になると楽器間の移動に時間がかかり、ドラマーの運動量も大きくならざるを得ない。また、速い曲の場合は周到な準備の下で楽器を選択しないと遅れてしまう。
 CDアルバム "SPARK" では彼のドラムはひろみのピアノに対して若干遅めに食いつくのでゆったり合わせている感じである。そのため、ひろみのピアノが音楽を引っ張っている印象が強まっている。しかしサイモンのドラムが遅れているのではない。躍動するピアノに対してドラムが寄り添い、そして時に対抗して緊張感を高めているのだ。それはアルバムのタイトルにもなっている "SPARK" によく表れている。
もう一つ大事なことは、ピアノが正確な時間の流れを刻んでいる中で、ドラムが独自の時間の流れを堅持している事だ。もちろんフレーズの最初と最後では両者の時間は一致するのだが、その途中は両者が別の流れを創り出している。結果的にフレーズの途中ではドラムが若干遅く感じられることがあるし、ピアノとドラムが微妙にずれることがある。しかしドラムが独自の大きなフレーズ(波)を作り出しているおかげでピアノはそれに乗って自由奔放に音空間を動き回ることができているのだ。
生粋のジャズドラマーではない Simon だからこそできる技であろう。
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ジャズ・ピアノ 上原ひろみと和のテースト

2017-04-26 21:22:19 | 音楽
 ジャズ・ピアノスト上原ひろみ(以下「ひろみ」と記)は絶好調である。尽きることがない音の流れが次々にわき出すようだ。The Trio Project の最新アルバム "SPARK" ではドラムの Simon Phillips が多数のドラムとシンバルでピアノに応えて盛り上げてゆく。そして Anthony Jackson がエレキベースでこの二人を支え、ダイナミックでスケールの大きな音楽を作り上げている。
 ところで、Simon は通常のドラムセットの倍以上の多種多様なドラムとシンバルを使いこなす。それは音楽的にも見た目にも躍動感を生み出している。一方、静かな部分では多様な音色と音質を見事に使い分け、聴く者の心をとらえる。ひろみのダイナミックなピアノと好対照をなしている。

 言うまでもないことだがジャズの命は即興性にある。そこに演奏者の個性が出る。ひろみの演奏は、時に激しく鍵盤をたたきつけるような激しい奏法と超絶技巧に特徴があるのだが、もう一つ大事な事は「和のテースト」ではないか。あえてテーストと呼ぶのは、和がいつも表に出ているわけではないからである。上記のアルバムに収録されている "All's Well" のメロディーは 【ララララソラ|ドラソミレド|レレレレドレ|ミドララソ】 はいわゆる「ヨナ抜き」の日本音階である。(同曲のソロ版参照)リズムも演歌でよくつかわれる 6/8 ♪♪♪♪♪♪|♪♪♪♪♪♪|(以下省略)であり、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」と同じ音階、リズムである。演歌はテンポがゆっくりだが。
また、2006年のアルバム "Spiral" にある "Love and Laughter" の愛らしいメロディ 【♪♪ソラドレ|ミ♪レドレミ|ド♪…】もヨナ抜きである。(ライブ参照)ただし、このメロディはジャズ・コードの衣装をまといサラッと登場するので、日本人でも日本音階だと気付かないかもしれない。この他にも、ひろみの演奏には時々和太鼓の特徴的なリズムが現れる。
彼女の和のテーストを意識するとしないとにかかわらず日本語を母国語とする人(リスナー)ならそのメロディーとリズムに親近感を持つはずであり、我々は同じ日本人である恩恵に浴している。おそらく外国人はこの部分に対して我々日本人とは異なり、エキゾチズムを感じているだろう。


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