自分の親に運転をやめてもらう方法としてよく例に上げられるのは、①免許返納を迫る(説得する) ②キーを隠す ③クルマを処分する などがありますが、いずれも問題が残ります。家族関係が非常に悪くなることも明らかです。
それは、運転する本人(当事者)が納得しないからです。説得に応じたとしてもイヤイヤながらでしょう。なぜ納得しないかと言うと、たぶん本人の気持(思い)に十分耳を傾けて共感するということがないか、理屈だけで言い含める結果になってしまうからではないでしょうか。そこには「オレの問題を、なんでお前たちが決めるんだ」という思いが横たわっているのだと思います。
それに、クルマを運転して出かけるということは、単なる移動手段、交通手段にとどまらず、いつでも好きなときに(必要なときに)、好きなところへ(行きたいところへ)行くことができるという、いわば人間にとって根源的な欲求(硬い言葉で言えば「基本的な権利」)というか、そういうものであるということだと思うのです。
今回の「コロナ」では不要不急の外出の自粛が求められています。Stay Home など。これが結構苦しいものです。人間にとって「不要不急の外出」はそう長く我慢できるものではないとわたしは実感しているところです。
加えて、「クルマの運転は楽しい」ということがあります。
ですから、運転をやめる気持になるには、そういう深い欲求を放棄するに見合う楽しさというか、生きがいというか、そういうもの・ことが必要だということではないか、と思ったのです。
本書の主人公雅志の父は、よくいる頑固者です。いくら説得力のある説明をしても、とてもウンと言うはずありません。その父の気持に初めて変化が生じたのは、雅志のヒマワリ号の助手席に乗った時でした。父が自分のクルマの前輪を側溝に脱輪し動けなくなっているところへ雅志のヒマワリ号が通りかかり、とりあえず助手席に乗ってもらった。
そしたら見える景色一つひとつに感動し、自宅から数キロしか離れていないのに、見える人々や風景などに感動していました。「帰ったら母さんに報告しなければ・・・」ともいうほどに。生まれて初めて見る風景も多かったといいます。(それくらい日常の行動半径が狭かった?)
ヒマワリ号の在庫チェックの日には両親そろって手伝ってくれて、まる一日かかるかと思った仕事が1時間ほどで終わってしまったということもありました。父母もそういう仕事(息子の手伝いでもある)にやりがいを感じたのでしょう。そのあとスーパーへ品物の補充に行くときに「一緒に来る?」と言うと嬉しそうに即答! スーパーの従業員とも嬉しそうに挨拶するなど。
父も母も助手席に乗りたがったと言います。集落を回っていろいろな人と会話をするのがとても楽しいらしい。
都会の息子が実家に帰ってきて、楽しそうにヒマワリ号という移動販売の仕事に精を出す姿を見続けたり、孫の息吹(高一)までもが都会の大学進学をやめて、地元の農業高校へ転校してしまった。そういうプロセスを見ることで、さすがの頑固な父親の気持にも大きな変化が出てきたのでしょう。「運転をやめても楽しい、面白い、生きがいのある生活があるじゃないか」と。
理詰めの言葉よりもそのような実感によって、「もし自分の運転が危ないと思うことがあったら、力ずくでも止(と)めてくれよ」と、自分の気持を吐露するに至ったのだと思いました。