秀才とは・・・・(塾のお便りより転載)
3・11の大地震によって福島第一原発が大事故を起こしました。その原因の一つは地震で、その結果起きた津波も原因の一つです。しかし、今後20年間は自宅に帰れないなどという悲惨な結果に逢った人たちが出たのは、地震と津波だけが原因ではなかったようです。
その後の政府・東京電力などの対応がもっと適切であったなら、多量の放射性物質の流出は避けられたかもしれない、という話に接しました。「海水投入による廃炉」を初期段階から検討していたら、被害はここまで拡大しなかっただろう、と。
あの大地震と原発事故に対して、どういう対応をしたらいいかの判断を迫られたのは、東京電力・政府(関係省庁の指導者)・原子力安全保安院、原子力委員会などの関係者です。その人たちはそれぞれの部署の指導的存在ですからエリートと言っていいのでしょう。
そのエリート・秀才たちが集まっても、初動に遅れが出た。いや、秀才たちだったからこそ、そうなったらしいのです。特に日本型秀才の場合・・・。
(以下、内田樹のブログより引用します)
秀才は判断が遅い。ことの帰趨が定まったあとに「勝ち馬に乗る」ことで彼らは成功してきた。その成功体験が骨身にしみついているので、彼らは上位者の裁定が下る前にフライングすることを病的に恐れる。ひとたび「正解」や「勝者」が示されると、素晴らしいスピードでその責務を果たすけれども、「どうふるまっていいかわからないとき」にどうふるまうべきかは知らない。つねに正解してきたせいで、危機的局面においてさえ、秀才たちはつい「正解」が開示されるのをじっと待ってしまう。その「遅れ」がしばしば致命的なビハインドをもたらすということを彼らは知らない。
秀才たちは官僚であれ、ビジネスマンであれ、政治家であれ、査定者(それは上司であり、メディアであり、株主であり、有権者である)のまなざしをつねに意識している。だから、何を決定するときも「説得力のあるエビデンス」(根拠)を求める。エビデンス抜きの直感的な決断を彼らは自分に許すことができない。「あとになって言い訳が立たないこと」ができない。エビデンスとエクスキュース(言い訳、理由付け)が整うまでは「フリーズ」して待つ。それが秀才のピットフォール(落とし穴)であり、その「遅れ」はときにシステムに大きな被害をもたらすのである。 (引用終わり)
これを読んで思いました。秀才ってそういうものか・・・と。ただ一つの正解を求めることのみにこだわっていると(学校のテストはこれですが)、正解が二つも三つもある場合や、正解がない場合には立ち往生してしまうでしょう。実際の人生ではそういう場合が多いです。
秀才恐るるに足らず。あなたやわたしには、秀才にできないことができるのかもしれません。(なんか、こじつけている感じ?)
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