「べてるの家」から、メールマガジン「ホップステップだうん!」というのが創刊された。そのサンプル号を読んだらおもしろそうだったので定期購読(月極め300円)の申し込みをした。
4月1日創刊号で、いちばんひびいてきたのが次のところでした。
(一部引用します)
野末(精神科医)・・・ ひとつは先ほどちょっと言いました症状があって、その症状を医者がかっこよくやっつけて患者さんに感謝されてというストーリーがたまたま成り立つ人もいるんですけど、成り立たない人もすごく多くて。薬がちょっとは効いているのかもしれない、自殺したいとは最近言わなくなったけど、大体一時避難的というか。そのやり方だけでやっていくと、久高さん(当事者)の症状が手ごわいのに、久高さんが困った患者さんに思えてきたんですね。
向谷地(べてるのソーシャルワーカー)・・・ 症状ではなくて、久高さんそのものが。
野末・・・さすがにそれは違うぞってその時に思いはじめて、その時にたまたま川村先生(べてるの主治医)や向谷地先生の本を読んでいたら、一番困難な症状を持った人が実は一番すごい財産を持っているんだっていう、それに近いフレーズが書いてある本に出会って、あっこれ発想逆かなと思ったのがもう随分前のことですね。そうすると自分にとってなかなか症状が良くならない当事者の方っていろいろなもの持って教えてくれているという、まさに治療者の方が認知を変えるような言葉があって、それがたぶん源流としては大きいですね。
(中略)
久高(当事者)・・・ はい。
野末・・・ それで浦河ではこういうことをやっているらしいということに気づいて、治してあげるんじゃなくて一緒に病気に向き合っていきましょうっていう横並びの方がよっぽどうまくいくし、患者さんも自分と病気とを分けて考えられる。その方が私も気持が楽になる、そんな経験が私にはあります。
向谷地・・・ 私はかつて一生懸命援助して、いわゆる助けて問題を改善していってその結果その人が生きやすくなるっていう、ある種のパターンを最初思い描いて本当に走り回ったんですけど、それをまるで裏切り続ける患者さんとの出会いというのは私にとっては本当に大きくて、それで3年目か4年目に胃潰瘍になったんですね(笑)。アルコール依存症の患者さんに振り回されて。なかなか自分の努力と成果が結びつかない。川村先生も同じようなことになったことがあったと言っていました。そういう意味では主治医の期待を裏切り続けた久高さんの功績っていうのはとても大きいわけですけど(笑)、この10年間に先生とそういうなかでやりとりするわけですよね。病気ではなく、その人が憎たらしくなってくるというかね。当事者研究では「人と問題を分ける」ことが大事だと言うんですけど、実は一番難しいことで、なかなか人と問題が分けられなくて、そういう葛藤をしながらやっていくわけですね。
(引用終わり)
症状(というか独特の行動)のため周囲を困らせる、という人は少なくない。たとえば・・・・・
・仲間のメンバーのところへ片っ端から電話をかけ、迷惑をかける(今は収まっているが)
・話題がワンパターンで、「またその話かよ!」と言われる
・声が大きく、「もっと小さな声で話して」と言われてもすぐ大きくなり、鎮静剤を飲む人まで出る
・面接をして具体的なアドバイスをしてもすぐ忘れて自己流(自分流?)の行動を何度もとる
・何を聞いても自分の悪口を言っているなど被害的に受け取り、トラブルになる
・集中力が続かず、作業所中に「あゝ、いやになった!」などと言う
・すぐ、ひとにツッコミを入れるくせがあり、トラブルになる
など。
一般世間の常識ならば、「まったく困った人だ」ということになるでしょうが、それでは解決しない。「困った人」というレッテルを貼るよりも、そのこと(症状)で「困っている人」と見方を変えることで、対処法を考えることができる余地があらわれると思う。
「困った人」というのは、固有名詞を持った本人そのものを排除、切り捨てにつながるように思われる。だが「困っている人」と考えると、「本人」と「困っていること」を切り分けて考えることができる。
「ひと」と「こと」を分ける。
とても大事なことだと思う。