芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 いやな感じ

2016年01月31日 | エッセイ
                      

 高見順に「いやな感じ」というアナーキーな名作があった。近年、どうも「いやな感じ」が続いている。山本七平の「『空気』の研究」というのもあった。いやな感じは、この空気のようでもある。何か漠然と、日本全体の空気が気持ち悪い、居心地が悪い。日本人の思考パターンや、方向が気持ち悪い。TPPといい、安保法制といい、新国立競技場といい、気持ち悪い。
 
 私たちが若かった頃、解放、革命、自由という言葉は、何か至高の、正義の、大義のワードとして流布していた。学生たちの多くは「ベトナムの解放」と言えば正義だと思い、「帝国主義」を悪だと思った。それは長い思索や深い思想から出たものではなかった。幼稚で無思慮なポジティブワードやネガティブワードの一つだったのだ。これらの言葉はレッテルになりやすく、そのほとんどはワンフレーズである。改革、革命は正義で、反動、反革命は悪であり敵なのである。学生たちは幼稚に、それらのレッテル語を多用した。
 煽動者も権力者たちもポジティブワードを一早く我がレッテルとし、ネガティブワードを敵対する陣営のレッテルとして貼り付ける。例えば、自分たちの陣営は聖域なき改革派で、彼らは守旧派、抵抗勢力であると。これらのワンフレーズは、思考を停止させるばかりか、使用者を酔わせ、興奮させる。
 煽動者は自らの言葉「聖域なき構造改革」「郵政民営化」に酔い、その単純な言葉で、単純な論理(理屈、詭弁)を付ける。マスコミも大衆も、そのポジティブワードの単純なレッテルとワンフレーズに思考を停止させ、その詭弁を易々と受け入れ熱狂する。マスコミも大衆も、レッテルとワンフレーズの「ノリ」を煽り、その「空気」をつくり出す。そして「雰囲気」「空気」には反対しにくい。
「TPPに参加し開国します」ということに反対すると、「鎖国するのか」「グローバリズムの流れは止められない」と言う。「開国か鎖国」と問われれば、この二語はポジティブワードとネガティブワードに分かれ、思慮を欠いたノリと空気を生み出すのである。TPPがどんなものかを深く考えることはなく、ただ開国という言葉に酔うのである。
 幼稚なポジティブワードやレッテル…いわく開国、いわく維新、船中八策。まるで幕末ごっこ志士ごっこだ。「ごっこ」は当然幼稚である。ろくな思索もなく、大阪都構想だ、カジノだ、道州制だ、一院制だ、グローバル化の流れは変えられないのでTPPだ…。批判者に対してはネガティブワードのレッテル貼りを連発し、それをツィッターで拡散する。それがノリであり、空気をつくり、大衆の思考を停止させる。マスコミがそれを煽る。「平成の開国」響きも何となく良い。こうして政治家が演説し、財界からも「これがラストチャンス」「TPPに参加しなければ、世界の孤児になる」と噴飯物の脅しが入る。「開国」「ラストチャンス」「世界の孤児」「バスに乗り遅れるな」…こうして幼稚な発想と言葉が流布し、気持ちの悪い空気に覆われ、それに何となく支配されてしまうのだ。 
 かつて石原はTPPに関し、それを読売グループ挙げて推進するナベツネを、「今に吠えヅラかくよ」と嗤笑したが、TPPを支持する橋下維新と合流するに当たり、「小異を捨てて大同につく」と言った。そして離合集散。
 
 山本七平によれば、大日本帝国陸軍は「大に事(つか)える主義」で、「すべて欠、欠、 欠…」でも「員数を尊ぶべし」であり、絶対にやってはならないと教えていたことや、 絶対に無理なことを「やれ」と命ずるから、命じられたものは「思考停止」になるのだと言った。帝国陸軍海軍に関わらず、一兵卒から士官、高級軍官僚に至るまで、 全てが思考停止状態に陥らねば「やれ」ないのである。 彼はこの「思考停止」を「日本的」なものと考えていた。
 おそらく「公聴会」はアリバイづくりであり、「有識者会議」も仕込み、ヤラセ、あるいは「思考停止」状態の空気で作られた「承認」なのである。
 原発の再稼働も福島第一原発の冷温停止と収束宣言も、実に「日本的」な空気と思考停止で作られた「員数合わせ」「ステップ合わせ」「スケジュール合わせ」なのではないか。「冷温停止や収束の定義なんてものはいくらでも何とでもなる。収束と言ったら断固収束せねばならぬ! 無理でも断固やり遂げるのが大和魂じゃ! 国家プロジェクトである。三千、四千億円かかろうが、現行案のまま作らねばならぬ。世界に誇れる競技場を作らねばならぬ。絶対ラグビーのワールドカップに間に合わせろ! 足を靴に合わせろ! それが帝国軍人たる者の精神じゃ! 大和魂じゃ!」
 山本七平は辻政信的煽動を「気魄演技」と言った。多くの兵士が、そして捕虜がこの気魄演技のために死んでいったのである。そして日本は、まさに気魄演技の無理難題のため無残なる結末を迎えるのだ。

「日本という国はすばらしい機械だけど、一つだけ部品が欠けている。つまりブレーキです」と言ったのはアレックス・カーであった。
 彼とその著作「美しき日本の残像」「犬と鬼」については、だいぶ以前に二度ほど触れた。彼は「美しき日本の残像」で日本の自然、美、日本の伝統文化を賞賛し、急速に失われていくこれらを哀惜した。この地球上で日本ほど温暖で、四季の変化も美しい土地はないのではないか。彼は屋根の茅葺きや甍や土壁、障子に至るまで、日本が大好きだったのだ。
 それから十年も経たずに書かれた「犬と鬼」で、彼は日本に三行半を突きつけたかのようであった。ローマができたことをなぜ京都はできないのか、パリができたことをなぜ東京はできないのか。…日本は自らその美も文化も破壊し続けて止まらぬのである。こうして確かに日本は経済大国となった。しかし「日本はもうだめだ」…カーの日本論は正鵠を射ていた。
 これも以前書いたが、渡辺京二に「逝きし世の面影」という名著がある。幕末から明治初期に来日した外国人たちが残した書簡、報告書、日記等を博捜した一大労作である。彼らが口々に言ったことは…神様は不公平だ。この極東の列島はなんと自然に恵まれた、なんと美しい所なのだろう…。この美しい自然や 育まれた伝統文化は、早くも明治十年前後から急速に失われていくのである。外国人たちは言った。我々は間違っていたのではないか、この国に西洋文明をもたらしたことは大きな過ちだったのではないか…。
 ブレーキのない優れた機械は、明治維新時の危機を乗り越え、日露戦争にも危うく勝利し、欧米にキャッチアップすべく全力で走り続けた。こうして日本は日中戦争にのめり込み、誰もそれを止めることができず、さらにアメリカとも戦端を開いた。その戦争の拡大を誰も止めることができなかった。この機械は自壊自滅以外に止まりようがなかったのだ。

 そして戦後、再びブレーキがないまま走り出した。ダム建設計画も一度決めると、それが何十年かかろうが、またある時点ですでに無用のものと判定されようが、もう誰も止めることができないのだ。高速道路建設も、無用で長大なばかりの河口堰も、ギロチン干拓事業も、原発建設も、その再稼働も、核燃料サイクルや核廃棄物処理の政策や施設建設も、何千億円何兆円かかるかも不明のまま、一度走り出したら最後、もう誰にも止めることはできない。
 なぜならそれらには地方の活性化と経済成長という大義と、ビッシリと複雑な利権や票がからみ付いており、誰も中止の責任を取りたがらないからだ。福島原発のような重大な事故、財政破綻等による自壊自 滅以外に、もう止まりようがないのである。一度スタートしたプロジェクトや政策は「途中で変えられない」のが、日本の度し難い性癖、あるいは病理なのである。
 福島第一原発も、政府は早々と収束を宣言し、大飯原発を再稼働させ、さらに停止中の各地の原発を再稼働させようとしている。 四十年前に走り出した原発推進政策は、もう止まらないということなのだ。大飯原発をはじめとする再稼働は、電力業界と経済界の強い要請と、国の「メンツ」による。
 経済的理由が安全に優先することは、決して日本的な現象ではない。例えば…アメリカ東海岸の海辺の田舎町アミティは、のんびりとし、さしたる産業も無い。強いて挙げれば夏に海水浴客で大いに賑わう。その海に巨大な鮫が現れ海水浴客の若い女性が襲われた。町の警察署長ブロディは翌日浜辺に打ち上げられた遺体を検視して、サメに襲撃されたものと断定した。彼はビーチを遊泳禁止にしようとするが、海水浴と観光で成り立つ町は、これからかき入れ時を迎えるところなのだ。市長や街の有力者たちはビーチの遊泳禁止を受け入れなかった。こうして海水浴を楽しんでいた少年が、巨大サメの第二の犠牲者となる。…経済優先がもたらす悲劇、これが映画「ジョーズ」の教訓なのであった。
 
 カーは「犬と鬼」を上梓した翌年、「『日本ブランド』で行こう」を出版した。彼はその中で、日本に四つの要素を提言した。
 第一は「意識」、「こんなものをやってはいけない。止めなければならない。しっかりしましょう」という意識を持つこと。第二は「勉強」、「例えばパリ、ローマはどうしてああなのか勉強しなければならない」。第三に「融通」、「いままでのやり方を変える」自在な融通性である。第四に「勇気」、「変えられないというのでは何もできないから、従来のシステムを変える勇気」である。
 そして彼は「日本はもうだめだ」という日本国民の意識を「一筋の光明」と言った。カーが「『日本ブランド』で行こう」で示した四つの提言から早くも十年余が過ぎた。これは今もそのまま当てはまる。原発も、新国立競技場も…「こんなものやってはいけない。止めなければいけない」と強く意識すること。
「ドイツではなぜ原発廃止を決議できたのか、再生可能なエネルギー政策とその推進策はどういうものなのか」を勉強すること。いままでの政策や計画に縛られず、融通自在に考え、やり方を変えること。変える勇気を持つこと。

「散歩」のついでに、ギリシャに触れてみたい。…EU、ユーロは壮大な失敗だったのだ。加盟「国」は、国であるにもかかわらず、通貨発行権も持たない。つまり財政・経済政策に関して自由裁量の幅は極めて狭く、その政策に多様性はない。ギリシャには「緊縮財政」しかないである。あるとすれば、ユーロ圏から離脱し、独自通貨ドラクマの発行であろう。
 私の脳裏にはギリシャに関する二つの視像が焼き付いている。ひとつはテオ・アンゲロプロス監督の長大な映画「旅芸人の記録」である。そこには第二次世界大戦前夜から戦後数年のギリシャの歴史と政治の混乱が、淡々と描かれていた。ホメロスを意識的に継承した叙事詩的な作品である。
 その映画が公開される前、私はギリシャを旅していた。そのときもギリシャは混乱していた。軍事政権が崩壊し、戦後初めての総選挙を控えた政治運動のただ中だったのだ。毎日毎夜デモ隊がパネピスティミウ坂をうねり、シンタグマ(憲法)広場は群衆に溢れていた。若者たちの政治的運動の拠点はアテネ工科大学だが、そこで学生が死んだのだ。
 その旅の初日、私は腹を空かせ小さなタベルナ(食堂)に入った。狭い店内は人でいっぱいだった。彼らは私を一瞥したのみで無視した。一人の男だけが立ちあがって演説をぶっていた。話し終わって男が座ると、ひとりの老女が立ち上がり蕩々と演説を始めた。次に店主とおぼしき男が演説をした。次は鞣し革のように日に焼けた老人が演説をした。次は長身の若者が演説した。その間誰ひとり、口をはさむ者も、ヤジを飛ばす者も、拍手をする者も、同意の声を挙げる者もいない。ただじっと聞き入っているのだ。私もただ立ったままそれを見ていた。
 演説が一巡したのだろう。人々が私に笑顔を向けて声をかけてきた。そしてここに座れと席を示した。店主が「何にする?」というようなことを言った。私は「メニューは?」と尋ねた。「そんなものはない」と言うようなことを店主が言い、みんなが笑った。店主は私に「こっちへ来い」と言いながらゼスチャーで促した。招き入れられたのは狭い厨房の中である。店主は一つ一つ鍋の蓋をとって見せ「どれにする?」と尋ねた。私は「これと、これと、これを」と指で示した。主人はにっこり笑って頷いた。
 さて、店内で行われていた演説会は、来る総選挙で「王制か、共和制か、共産(社会主義)制か」を、それぞれが自らの持論を展開していたのである。
 そうだギリシャは民主主義(デモクラティア)の発祥地だったのだと、つくづく思い至った。その後私は、ギリシャのあちこちで同じ場面に遭遇した。選挙の結果、 カラマンリスの新民主主義党が勝利して共和制となり、その後の国民投票で王制の廃止が決定したのである。…

競馬エッセイ 大いなる野望~地方から世界へ~

2016年01月30日 | 競馬エッセイ
       

 三石の加野牧場は中小牧場である。生産馬の多くは安い値しか付かず、そのほとんどは地方競馬に行く。2001年、この牧場に一頭の鹿毛の牡馬が生まれた。しばらく買い手もつかなかったが、やっと有名なホースマン岡田繁幸が400万円で購入した。岡田はコスモバルクと名付け、夫人名義(後にビッグレッドファーム名義に変更)でホッカイドウ競馬の田部和則厩舎に預託し走らせることにした。さほど期待はしてなかったのに違いない。
 コスモバルクの母は未勝利馬のイセノトウショウ(生産者は沙流郡のマル良牧場)で、その父はトウショウボーイ(父テスコボーイ、その父プリンスリーギフト)である。祖母マルミチーフ(生産者はマル良牧場)にはビッグデザイアー(父トライバルチーフ、その父プリンスリーギフト)の血が入り、さらに曾祖母にキタノカチドキ(父テスコボーイ)の血も入っている。
 これは明らかに意図的で極端な配合である。マル良牧場には並々ならぬテスコボーイ、プリンスリーギフト系への信仰にも似た愛、こだわり、信頼があったのに違いない。コスモバルクの母系は極端なテスコボーイ、プリンスリーギフト系なのである。いや、その血の偏りは、コスモバルクそのものがテスコボーイ、プリンスリーギフト系と言っても大袈裟でないほどである。
 コスモバルクの父はザグレブ、ザグレブの父はアイルランドのシアトリカルである。この馬はアメリカに転厩してから本格化し、チャンピオンホースとなった。その半弟は日本で走ったタイキシャトルである。
 ザグレブはわずか3戦目にアイルランドダービーに挑んで6馬身差で圧勝し、続いて凱旋門賞に挑んで16着に惨敗、そのまま4戦2勝で引退した。種牡馬として日本に来たザグレブは全く人気がなかった。ザグレブはスピードよりスタミナ型で、鋭い決め脚がない。産駒の成績も不振であった。その種付料は2年間の種付け権利で50万円。つまり25万円で、人気種牡馬サンデーサイレンスの百分の一の安さである。ザグレブの供用は2002年に停止し、故郷のアイルランドに買い戻されて行った。その日本に残した数少ない産駒から、コスモバルクが出たのである。

 2003年夏、コスモバルクはデビューした旭川競馬で2戦1勝、秋は門別で2戦1勝し、その後ホッカイドウ競馬認定厩舎制度(ホッカイドウ競馬に所属したまま民間施設で調教し、そこから直接競馬場に輸送して出走可能とした外厩制度で、本来の目的は馬房数と馬数の少ないホッカイドウ競馬へ民間施設の馬房を活用して出走頭数を増やすことであったはず…)の適用第一号として、晩秋の東京競馬場にやって来た。「野望」の第一章である。
 彼の鞍上はホッカイドウ競馬の五十嵐冬樹である。彼は1999年、わずか24歳でホッカイドウ競馬のリーディングジョッキーとなり、その後も首位を守っていた。その百日草特別(500万下、芝1800)は11頭立ての9番人気に過ぎなかった。初めての芝の高速馬場である。失笑され、舐められたのである。しかしコスモバルクと五十嵐は、人気良血馬たちを嘲笑うかのように楽に先行抜け出し、しかも上がり3ハロン34.3秒の脚を披露して勝った。
 続くレースは、阪神の重賞・ラジオたんぱ杯2歳Sで芝の2000。競馬ファンはまだその能力を怪しみ、4番人気に甘んじた。彼等は終始先頭を行き、しかも上がり3ハロンが34.9秒の末脚で楽勝した。翌年春、弥生賞(G)に挑み、終始二番手を進んで楽に抜け出し、上がり34.6秒の完勝。これで皐月賞の出走権を得た。
 皐月賞ではついに1番人気に推された。レースは初めて中団やや前を進み、上がり3ハロン33.8の鋭い末脚を見せたものの、先行、逃げたダイワメジャーの2着に敗れた。
 ダービーも2番人気に推されたが、岡田オーナーが五十嵐騎手に要求した抑える競馬は、前に行きたがる馬との折り合いを欠き、1番人気のキングカメハメハの8着に敗れた。しかしここで野望を断念する陣営ではなかった。
 秋初戦は旭川競馬の北海優駿に出走した。久々のダート、かなりの太目残りのため辛勝であった。ここから再び中央競馬に挑戦を始め、第二章が始まる。中山のセントライト記念を楽に逃げて日本レコードで完勝し、菊花賞の出走権を得た。旭川や門別のホッカイドウ競馬の馬が、3歳の三冠クラシック全てに出走するのである。これだけでも快挙である。
 コスモバルクは菊花賞で堂々2番人気に推された。好位につけてレースを進めたが途中から引っ掛かって先頭に立った。その直後を一緒に動いたデルタブルースにかわされ、僅差の4着に敗れた。ついにクラシック制覇の野望は叶わなかった。しかしここから「野望」第三章の始まりである。
 ジャパンカップへの挑戦である。陣営は鞍上をC・ルメールに替えて臨んだ。コスモバルクは終始好位につけ、ゴール前で伸びたがゼンノロブロイの2着に敗れた。暮れの有馬記念は五十嵐騎乗で臨んだが、ゼンノロブロイから離された11着に敗れた。おそらく疲労が蓄積していたのだろう。
「野望」第四章。年が変わってホッカイドウ競馬の千葉騎手が乗って日経賞を叩き、何と香港のチャンピオンズマイル(国際G1)に挑み10着に大敗した。帰国すると宝塚記念へ挑戦し12着に大敗。この年は大敗続きで、安藤勝己、D・ボニヤ、五十嵐と次々と乗り手が変わった。負けたから騎手を替える…しかし、コスモバルクはかなり疲れていたに違いない。それは精神的な疲労であったろう。
 2006年は春の天皇賞の出走権を得んと日経賞でスタートさせたが、8着に敗れて目標を失った。しかし「野望」第五章は再び海外への挑戦であった。五月にシンガポールで施行されるシンガポール航空インターナショナルC(国際G1)である。コスモバルクと五十嵐は直線でコースの真ん中を抜け出し、追随する馬を押さえ込んで、ついに優勝した。
 しかしここから、宝塚記念、天皇賞・秋、ジャパンカップ、有馬記念、シンガポール航空国際G1、宝塚記念と勝てないレースが続いた。旭川のレースでも3着に負けた。やっと勝てたのは2007年秋の盛岡の岩手県知事杯であった。
 その後の天皇賞・秋で問題が起きた。エイシンデピュティが外に大きく斜行し降着処分になったが、それはコスモバルクが外によれたのが原因だったというのである。その影響でカンパニーに騎乗し3着に敗れた福永祐一は、五十嵐を激しく非難した。「五十嵐さんはG1に乗る騎手じゃない。福島にでも行けばいい」…ラフプレーと斜行の多い福永がよく言うものである。
 しかし岡田オーナーはその後のジャパンカップから、コスモバルクの鞍上を松岡正海騎手に替えた。
 ちなみに近年、有力馬主、生産者の吉田勝己氏が「あの程度で降着、失格なら競馬はやってられない」という発言をした。降着、失格処分はレースに責任のある騎手のミスで、責任のない馬主たちに入るはずの賞金に影響するのは納得がいかない、というものである。それらの有力馬主たちの圧力なのかどうか、JRAはできる限り降着や失格にはせず、騎手への制裁を厳しくすることにした。道理で最近は審議ランプも点けないことが多くなった。

…2009年の六月まで、コスモバルクは負け続けた。それも二桁の着順である。やっと2着に好走したのは盛岡のせきれい賞で、鞍上は水沢の名手・小林俊彦騎手であった。このコンビで、秋に盛岡の岩手県知事賞を勝った。二年ぶりの勝利である。コスモバルクは8歳になっていた。
 その後、松岡正海で天皇賞・秋に出走し14着。二年ぶりに五十嵐冬樹騎手に再会し、ジャパンカップに出走して「後方まま」12着、続く有馬記念も10着であった。コスモバルクと五十嵐冬樹は、どんな会話をしたのだろうか。
 岡田オーナーは日本国内でのレースを断念し、アイルランドのレパーズタウン競馬場で厩舎を開いている児玉敬厩舎に移籍すると発表した。
 2010年の出国直前、彼は剥離骨折をした。オーナーはアイルランド移籍を断念。引退を発表し、五月に門別で引退式が行われた。コスモバルクは功労馬としてビッグレッドファームで余生を送ることになった。
 しかし2011年、骨折が完治した10歳のコスモバルクに、アイルランド移籍の話が再燃して、調教も始められたのである。もう「野望」第何章になるのか忘れた。
 その五月にホッカイドウ競馬に新しい重賞が設けられた。レース名は「サッポロビール杯コスモバルク記念」である。
 コスモバルクは実際に六月にアイルランドに行ったが、今度は屈腱炎のため現役復帰はご破算となり、無事帰国し、再び功労馬として余生を送ることになった。多くのファンは心からほっとしたのである。やっとコスモバルクの「野望」の物語が終わったのである。
「コスモバルク記念」のことである。1着賞金は250万円、副賞が種牡馬の種付け権利で、中小の馬産界の切実さを象徴している。2011年から四年間の種牡馬はコンデュイット、2015年はダンカークである。
 コスモバルクの競走生活は、地方で9戦5勝、中央で35戦4勝(内重賞3勝)、海外4戦1勝。G挑戦は国内22回、海外4回に及び、ジャパンカップに6年連続出走し、有馬記念の6年連続出走は新記録である。獲得賞金は4億8200万円、219万シンガポールドル。

また貴乃花か

2016年01月29日 | 相撲エッセイ
            

 貴乃花は現役時代からトラブルメーカーだった。現役時代、彼は占い師か整体師か何かに洗脳されて、精神を患っているのではないかとさえ思われた。無理に太り、吹き出物がその無理を示していたが、怪しげな整体師以外の、誰の意見も一切聞かなかった。
 兄の三代目若乃花が横綱になると、なぜか兄と口を利かなくなり、事実上決別した。
 金にものを言わせて、現役時代から複数の親方株を手に入れていた。自分は一代限りの現役名で部屋が起こせるのに、何のために複数の親方株に固執したのか。金銭のため出世のため、野望のためだろう。兄の三代目若乃花は引退後に藤島を襲名したが、すぐに師匠に返上し相撲界を離れた。
 貴乃花は現役を引退すると貴乃花親方として二子山部屋の部屋付き親方となった。しかし、二子山親方に対し貴乃花はほとんど口もきかず、師匠の話や意見にも全く耳を貸さなかったという。
 彼は夫人の意見も入れた健康のための減量だったのであろう、無理に痩せた。異常な体重管理である。そんなに急激に痩せた身体では、自らマワシを締めて、弟子たちに胸を出してあげられないだろう。
 父で師匠だった二子山親方の体調が悪化し、長期入院した。貴乃花と安芸乃島の関係が悪化した。安芸乃島が二子山親方から約束された藤島親方株を、貴乃花はそんな話は聞いていないと主張したのである。貴乃花は藤島は自分が継ぐべき親方株だと主張し、安芸乃島と一悶着を起こした。
 安芸乃島は千田川株を入手し、他の一門への移籍を希望した。安芸乃島の移籍届けには親方の印が必要だが、貴乃花は押さなかった。そればかりか安芸乃島の二子山部屋からの破門を言い渡し、相撲協会に引退の届けを勝手に提出したのである。安芸乃島は若貴兄弟が藤島部屋に入門した際の、最も部屋を牽引していた兄弟子であり、二人に胸を出し、鍛えてくれた恩人でもある。さすがに協会はこの引退届け(廃業届け)を受理しなかった。千田川は病床の二子山親方の許可を得て、元大関・前の山の高田川親方の元に移籍することになり、協会もそれを認めた。安芸乃島は一門を出た。そして貴乃花と完全に絶交した。千田川は後に高田川親方となって部屋を継承した。

 その二子山親方の死にともない、葬儀をめぐって兄の勝や母親と悶着を起こし、完全に絶縁した。貴乃花は相撲界を離れた兄が喪主はおかしいと主張したのだ。しかし兄は長男なのだから喪主は当然だろう。現役親方が亡くなり、一般人の息子さんや夫人が喪主となる例は多くあり、むしろそのほうが普通なのである。この喪主騒動での貴乃花の主張と態度は、伯父の初代若乃花を呆れさせ激怒させた。「光司は人の話に全く耳を貸さん!」
 また貴乃花は理事長選をめぐって二所ノ関一門と悶着を起こし、一門と完全に袂を分かった。貴乃花はあれだけ固執した藤島を継ぐわけではなく、後に引退した武双山に売却した。また後に二子山も雅山に売却した。二所ノ関一門系の親方名跡だった藤島、二子山を出羽海一門系の武蔵川系に譲ったのである。伝統があり一大勢力の出羽一門は、やがて自分が理事長選に出た際に、協力してくれるだろうと読んだのだろう。

 彼は俺が俺がと異様に出世欲と金銭欲が強い。その背後に元アナウンサーの景子夫人がいると囁かれている。弟子とは同じ屋根の下で寝起きを共にせず、別の自宅マンションから通う。景子夫人が子どもの教育とお受験のために、相撲取りとの同居を嫌い、そうしたらしい。
 ちなみに二子山部屋は貴乃花部屋と看板が代わったが、そのまま移籍した弟子たちは、一人辞め二人去り、たちまちほぼ半数になった。激減である。彼らは貴乃花のエキセントリックな姿に嫌気がさしたのだろう。
 景子夫人と貴乃花は、「サポーター制度」という今風の会を立ち上げた。しかし二子山部屋時代からの古い後援者たちとは悶着を起こし、彼らも貴乃花から離れていった。しかし景子夫人と貴乃花は政財界に人脈をつくり、サポートをお願いし、それなりに成果を上げているらしい。
 貴乃花部屋からはなかなか関取が生まれなかった。貴乃花部屋は学生出身と外国人は弟子にしないと言っていた。それはそれでよかろう。しかし、ついにモンゴル人の弟子・貴ノ岩を取り、初めて関取が誕生した。彼は素質のある力士だが、まだ幕内下位を低迷している。ある方がブログに書いておられた。「貴乃花でも、モンゴル人力士なら育てられた」

 貴乃花はまたぞろトラブルを起こすに違いないと思っていたが、案の定である。
 彼の相撲協会改革案には、いくつも賛意を示したいものがあるが、あのトラブルメーカー的人間性はいただけない。理事や理事長は人望がなければならない。
 亡くなった父・師匠の二子山親方は病床を見舞った元・大関の貴ノ浪に「お前だけは、貴乃花をよろしく頼む」と言ったそうである。頑なでエキセントリックな貴乃花を案じたのだろう。貴ノ浪の音羽山(この株も貴乃花の所有だった)親方は、律儀に師匠との約束を守り、貴乃花親方の傍で部屋付き親方として彼を支えていた。しかし惜しくも若くして突然死してしまった。これは貴乃花にとって大きな痛手であったことだろう。
 いま貴乃花は貴乃花一門を形成し、改革に惹かれる若手親方衆を集めて一大勢力となっているらしい。しかし彼のこれまでのトラブルの数々を見ていると、とても理事長になる器でもなく、人望もなかろう。彼の引き起こした悶着は、端から見ても異常で、実に気持ちが悪い。できれば相撲界から追放したいくらいである。

エッセイ散歩 旅窓の夢 ~遙かなるコミューン~

2016年01月28日 | エッセイ
                                                           
 
  関山(かんざん)風雪 紅河の雨 客路十年事(こと)なお違(たが)う
  半生空しく過ぐ旅窓の夢 杜鵑(とけん)頻りに勧む帰るに如(し)かずと

 これは千葉卓三郎の辞世の詩である。まことに寂寥たる詩ではないか。杜鵑とはホトトギスのことである。古代蜀の地が荒れ果てていた頃、杜宇という人が農業を指導し、やがて帝王となった。彼が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕に適した晩春になると鋭く鳴いて民に知らせた。しかし後に蜀が秦に滅ぼされると、「不如帰去」帰った方がいい、帰りたい、しかしもう帰ることが出来なくなった、と鳴きながら血を吐いたと故事にある。
 卓三郎は天涯孤独な人で、不遇のうちに三十一歳の若さで、血を吐いて逝った。

 彼は歴史に埋もれた無名の人ではない。毎年憲法記念日になると、千葉卓三郎の縁の地で、彼の手になると言われる憲法草案に関する講演会やシンポジウムが開催される。
 その地は五日市町(現あきるの市)や、仙台、東京などである。また自由民権運動が盛んだった鶴川(現町田市)や八王子、福島や、同じように地方の民権家たちによって私擬憲法案が起草された岩手や土佐(高知)などである。これらは、現在の平和憲法や人権を守ろうという立場の人々によって、改憲、反動等への抑止として企画されることが多い。

 この千葉卓三郎を発掘したのは、東京経済大学の歴史学者・色川大吉教授と色川研究室助手の江井秀雄や、色川ゼミの新井勝紘ら十数名のゼミ生たちである。1968年(昭和43年)の夏、彼らは東京都西多摩郡五日市町深沢にある深沢家の屋敷跡に残る土蔵を開けた。
 その数年前より、色川は深沢家当主へ、蔵を調べさせてもらいたい旨の交渉を続けていたが、断られていた。当主でさえ開けたことのない土蔵には、他人に知られたくない文書もあるかも知れないからだ。色川と彼の研究室は、三多摩の自由民権運動の研究を進めるため、この地方の資料調査を行っていた。
 五日市町の豪農で民権家として知られた内山安兵衛の土蔵の文書の研究も進んでいた。内山家と同様の豪農が深沢家であった。この内山安兵衛とともに、深沢名生(なおまる)と、その子の権八も自由民権運動の指導者だったのである。
 深沢は五日市の最も奥深い山里で、深沢家は六十二町歩の大地主で代々名主を務めていた。蔵開けを渋っていた深沢家の当主が亡くなり、名生の曾孫に当たる都立立川短期大学学長で財政学教授の深沢一彦が新当主になったとき、「何もでないかも知れませんが、どうぞ存分にお調べ下さい」と、やっと了解が取れたのである。

 その土蔵は半ば朽ちかけていたという。蔵の一階は分厚い埃を被った古伊万里などの焼き物や什器で埋めつくされていて、文書類は見当たらなかったそうである。二階に上がると、これもまた分厚い埃を被った木箱や行李、風呂敷包みが、鼠が食い破ったか穴が開き、ぼろぼろの状態で、雑然と積み重なっていたらしい。それらを下ろして開けてみると、文書類が詰め込まれていた。中から紙食い虫が這い出し、鼠の尿で湿っていた。
 そっと取り出して調べると、どうやら「民権」の資料である。次々に運び出し、並べて数えると約三千点に及ぶ宝が出た。結社の規約、会運営の文書、演説会や討論会の記録、学習用の筆写したテキスト、書簡類…そして薄い和紙に楷書体で書かれた憲法の草案らしき和綴じ文書。
 それには「日本帝国憲法」「陸陽(りくよう)仙台 千葉卓三郎草」と書かれていた。この人物は誰なのだろう。それまで全国で知られている私擬憲法草案は十数編である。名の通った知識人の団体・東京嚶鳴社の草案、土佐立志社の植木枝盛の草案、慶應義塾系交詢社の自由民権運動指導者たちの草案、地方の著名な知識人や指導者たちの草案等である。これは千葉卓三郎なる人物が、それらの草案のいずれかを筆写したものではないかと考えられた。
 色川研究室は時間をかけて、その内容を精査した。そして明らかになったことは、これまで全く知られていなかった五日市周辺の無名の人々が集まって、議論と検討を重ね、二百四条に及ぶ実に民主的かつ現代的な憲法草案を生みだしたということだった。色川大吉は、これを「五日市憲法」と命名した。
 他の文書資料から、千葉卓三郎がどうやら仙台藩の出身であることや、三十一歳という若さで東京の病院で亡くなったことは知れた。それにしてもこの人物はいったい何者なのだろう。
 なにより、この明治十四年に起草されたらしい「五日市憲法」は、人権意識の徹底と理解の成熟度においては、それまで知られていた私擬憲法の中で群を抜いた優れたもので、今日の日本国憲法に引けを取らない。明治二十三年に公布された大日本帝国憲法と比すれば、欽定憲法である大日本帝国憲法の下らなさがよくわかるというものである。
 大日本帝国憲法が公布された時、官に駆り出された民衆が、万歳を唱えながら提灯行列をした。それを見た皇室侍医のエルヴィン・フォン・ベルツは、日本人民を哀れに思った。「彼らはこの憲法のことを何も知らないのだ」と。人民は、この憲法の本質を知らないという意味である。また中江兆民は、その条文を一読後、鼻先でせせら笑うとともに、深く落胆したのである。

 さて、この突出した私擬憲法草案を生み出し、これを静かに土蔵の奥に眠らせていた深沢の地は、杉や檜林で暗い山の中にある。片側を深沢川が流れ、片側山が迫った狭い傾斜地で、畑作を営む。水田はほとんどない。
 江戸時代、本途物成(ほんとものなり)という本年貢と、小物成(こものなり)という雑税で、合わせて四十六石分しかなかったという。深沢、五日市の産業は山から産出する薪炭と杉、檜と、養蚕であった。深沢川は秋川に注ぐ。
 秋川から筏を組んで多摩川へと材木を出荷した。そこから五日市街道、青梅街道を通って江戸に運ばれたのである。江戸は火事の多い町であった。大火の度に杉や檜は高騰し、五日市は裕福な土地であった。そして江戸の情報は入りやすかったのである。
 また五日市は山から産出した薪炭等と、江戸から入る商品の市が五の日に立った。これが地名の由来であるが、そんなことから江戸の情報は入りやすい土地だったのだ。維新後、絹が横浜に集積されると、その価格が五日市の経済に直結した。絹も比較的に裕福な土地にしていたのだ。彼らは東京や横浜の情報に敏感であり、また接しやすい環境にあった。そのため政治に関心が高く、教育にも熱心であった。五の日の市も続いていた。

 千葉卓三郎とは何者なのか。この無名の人物の解明は江井秀雄、新井勝紘らに依るところが大きい。彼ら色川研究室の青年たちの追跡調査によって、ついに宮城県志波姫町の戸籍簿に千葉卓三郎を見出した。その戸籍簿は壬申(みずのえさる)の明治五年に、江戸時代の宗門人別改帳を廃止して作られたため、「壬申(じんしん)戸籍」と呼ばれている。しかしこの壬申戸籍には、氏神や宗門、身分が記されており、世界に類例のない戸籍簿である宗門人別帳を基礎にしていることが見て取れる。

   陸前国栗原郡白幡村弐百二十番地居住 
   氏神 白山社
   宗門 曹洞宗大光寺 平民農 明治十六年十一月十二日死亡
   父 宅之丞
   千葉宅三郎 嘉永五年六月十七日生

 彼は自ら宅を卓に改名したようである。五日市では昂然と、そしてユーモアたっぷりに「自由県下不羈郡浩然ノ気村ノ住人、ジャパン国法学大博士タクロン・チーバー氏」と名乗っていた。タクロンは「卓論」であろうか。その時彼は五日市町の公立小学校である勧能学校助教員であった。
 白幡村は現在の志波姫町である。先年六月の大きな地震で山が大崩落した栗駒山を望見し、白鳥が飛来する伊豆沼も近い。冬は冷たい栗駒颪が吹く村である。父宅之丞は仙台藩組士で、宅三郎は伊豆野城内の武家屋敷で生まれている。彼は複雑で皮肉な家庭事情の下に誕生し、この影は一生彼について回った。
 宅之丞の妻さだは後妻だった。彼女は子に恵まれなかった。死別か離別かは不明だが、先妻には男児の連れ子がいたが宅之丞との間には子がなかった。相続者がなければ家は断絶する。さだは夫の宅之丞に妾を勧めた。子を産むためだけに、金成村のちかという若い娘が妾となって千葉家に入った。ちかは宅之丞やさだの思惑通り懐妊したが、彼女が出産前に宅之丞が重病を患い、余命幾ばくもないことが明らかになった。ちかの子が女だった場合、宅之丞が「存命中に」養子を迎えておかなければならない。
 その頃の幕府や伊達家のご法度では、養父の年齢を五十歳以下十七歳以上に定めていたのである。宅之丞は間もなく五十になる。彼は先妻の連れ子だった利八を養子に迎えた。利八は二十八歳になっていた。やがて皮肉にも、ちかは元気な男児を出産した。その宅三郎の誕生から一月半後に宅之丞が亡くなった。こうして血縁のない利八が千葉家の家督を相続し、宅之丞の血を引く宅三郎は次男として届けられたのである。
 ちかは宅三郎が三歳になると金成村の実家に戻され、二度と子どもに会うことを許されなかった。封建社会とは実に悲しい時代だったのだ。
 宅之丞の妻さだは、夫に妾を勧めて千葉家の存続を図った女性である。また役目の終わった卓三郎の実母ちかを実家に帰した女性である。記録はさだを「雄壮活達、恰モ男子ノ如ク小事ニ関セズ、優美柔順ナル徳ヲ具備」した女性として伝えている。
 さだは卓三郎に大きな影響を与えた。後の卓三郎に見られる思想の峻烈さ潔癖さは、どこか非情さすら感じさせる。これは、さだの精神と薫陶によるものかも知れない。さだは「次男坊」として家督を継ぐことのできない卓三郎を、当代一流の学者の下に学ばせようと図ったのである。学問で身が立つようにという具体性を持ったものではなかったかも知れないが、さだは卓三郎を愛し、教育に力を注いだ。また卓三郎も利発な子どもであった。
 さだは、仙台の藩校養賢堂の学頭として、江戸から著名な大槻盤渓が就くことを知るや、卓三郎を仙台の養賢堂に入れようと図った。さだは卓三郎をこの盤渓の下で学ばせ、ゆくゆくは千葉家の分家を起こさせようと考えたのである。さだの兄は高階重信(三畏)という高名な医師であったことから、大槻家との交流もあった。さだは兄に頼み込み、盤渓の下で卓三郎を学ばせることに成功した。卓三郎は養賢堂に入らず、盤渓の家に住み込み、直接師事することになったのである。文久三年(1863年)の春である。五十四歳になったさだは、十一歳になった卓三郎を仙台に送り出した。

 大槻盤渓は代々一関藩や仙台藩に仕えた優れた学者の一族である。盤渓は大槻玄沢の次男で、江戸生まれであった。玄沢は一関藩医の出で、江戸で杉田玄白や前野良沢に蘭学と医学を学び、最初の本格的な蘭学塾として著名な芝蘭堂(しらんどう)を江戸に開塾し、後に仙台藩医となった。盤渓は昌平坂学問所(昌平黌)に学び、学問修業のため京、大坂、長崎など各地を回って、佐久間象山や高嶋秋帆(しゅうはん)など当代一流の学者たちと深く交わった。彼はロシアと友好を結び欧米列強を牽制する外交政策を説いた。当時湧き起こっていた攘夷運動を愚論として強く否定し、開国を主張したため命も狙われ、その説の峻烈さから敵も多かったようである。ちなみに盤渓の子が、後に国語辞典「大言海」で名高い国語学者の大槻文彦である。
 盤渓は聡明な卓三郎を可愛がったようである。卓三郎が盤渓の下で学んだ六年半は、彼の知性、教養、開明的思想、そして精神に大きな影響を与えることになる。やがて時代の奔流がこの師弟を飲み込み、弄ぶのである。

 しばらく、江戸中期から後期、幕末史談を続けたい。
 明和八年(1771年)にロシア船が阿波に漂着している。続きロシア船は安永七年に厚岸に来航した。

 先ず林子平のことである。子平の姉が藩主伊達宗村の側室になったことから、彼は医師の兄と共に仙台藩士として召しかかえられた。子平は藩に対し経済政策や教育に関する進言をしたが受け入れられることはなかった。子平は禄を返上し、藩医の兄の気楽な部屋住みとなって、長崎や江戸など各地を歴遊し、著名な学者たちを巡って交友と修学を積んだ。その中に大槻玄沢や工藤平助、桂川甫周らがいる。玄沢は大槻盤渓の父である。工藤平助は和歌山藩医の長井常安の三男に生まれたが、江戸詰め仙台藩医の工藤丈庵の養子となった。犀利な蘭学者、経世家であり、天明三年に「赤蝦夷風雪考」を著して田沼意次に献上している。
 子平は「富国策」を仙台藩家老に出したが採用されることはなかった。また彼は「三国通覧図説」「海国兵談」を書き、ロシアの脅威と海防を説いた。これが松平定信の幕政に危険視され、版木を没収され発禁処分を受けた。子平は仙台の兄の元に強制送還され、蟄居を命じられた。直後、ロシア公使ラックスマンが大黒屋光太夫らを伴って室蘭に来航している。
 子平は「親も無し、妻無し子無し版木無し、金も無ければ死にたくも無し」と、自ら「六無斎」と号して蟄居のまま亡くなっている。しかし彼の「三国通覧図説」は長崎からオランダ、ドイツに渡り、ロシアにおいてヨーロッパの各国語に翻訳されており、後にそれが「小笠原諸島」の日本領有権の根拠となったのである。

 ちなみに子平は高山彦九郎、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と言われている。私に言わせれば、高山彦九郎は単に尊皇主義の狂人に過ぎず、尊皇を説くため生涯諸国を周流している。安藤昌益的に言えば「諸国に周流して不耕貪食す。失りはなはだしき者なり」「己れ耕さずして貪り食い、『尊皇』を売りて諸国に周流し…『尊皇』で諸侯に貴ばれんと欲し、…貰ひ食ふに足ると思い、この言をなす。…その知の底の程あらわれ、浅猿(あさま)し」「世界の大敵…大愚の至りなり」「『尊皇』を為さんよりは、何ぞ、直耕して自然の直行を為さざるや」である。この高山彦九郎と後の宮崎滔天ほど暑苦しく鬱陶しい日本人はいないのではないか。…私は滔天ファンだが。
 蒲生君平も水戸学の影響を受けた尊皇主義者で、その点私は評価しない。そもそも尊王論は不合理であり、水戸の尊皇論は狂気である。ロシアの脅威と北方防備を説いたことは子平と同じだが、子平には尊王意識も攘夷論もなかった。君平は子平を蟄居先に訪ね、「落ちぶれ儒者」と笑われて憤激したという逸話が伝わっている。
 君平の出で立ちは乞食そのものだったのだ。その熱烈な尊皇主義から出たことだが、君平は各地の歴代天皇陵を旅し、その修復を訴え「山稜志」を著した。その中で「前方後円」と記し、後の世に「前方後円墳」の言葉を定着させたたことは評価したい。彼は江戸駒込で塾を開いたが、極貧のうちに亡くなっている。

 さてその後である。寛政八年、イギリス人ブロートンが日本沿岸測量を目的に室蘭に入った。翌年にはロシア人が択捉島に上陸している。文化一年(1804年)ロシア使節レザノフが漂流民護送のため長崎に入った。文化四年にはロシア船は択捉、樺太に上陸し、利尻島に侵入して幕府の船を燃やした。文化五年イギリス軍艦が長崎に入った。この文化年間、国後島でロシア軍艦艦長のゴローニンを捕縛したが、高田屋嘉兵衛が国後島沖でロシアに拿捕されている。またイギリス船が浦賀に来航した。文政七年は、イギリスの捕鯨船員が常陸の大津浜と薩摩の宝島に上陸している。天保八年(1837年)アメリカのモリソン号が浦賀に入港したが、浦賀奉行はこれを砲撃した。その処置を批判した渡辺崋山や高野長英が処罰されている。弘化元年フランス船が琉球に来航し、三年にはイギリス軍艦、フランス軍艦が入った。またアメリカ船のビッドルが浦賀に来航し通商を求めたが、幕府は拒絶した。嘉永五年、幕府はオランダの商館長よりアメリカ船の日本来航計画を知らされるが、何の策も持たなかった。千葉宅三郎が生まれた年である。そして翌嘉永六年、ペリーの黒船が浦賀に来航した。

 ざっと歴史を追ってみても、江戸中期以降、海外からの波がひたひたと日本沿岸にうち寄せている様がわかる。江戸後期ともなれば、真に犀利な人ならば攘夷の無効は瞭然である。攘夷は愚論なのだ。あまつさえ尊皇とは愚の骨頂であり、全く合理性がない。
 文化六年、仙台藩の藩校養賢堂は、大槻平泉が第四代学頭に就いて以来、大いに充実した。大槻玄沢は平泉と共に、西洋医学と蘭学和解方(わげかた)を設置した。平泉の子の習斎は、養賢堂を総合的な学問所として組織を再編、拡大した。現代の大学に近い。蘭学の他にロシア語科を設け、さらに大砲の鋳法・製造科、造船科、操銃術科を開いた。語学、医学、技術習練、開国・海防・外交政略、富国経世の学問所である。千葉卓三郎は学頭の大槻盤渓の家で起居を共にし、盤渓に伴って養賢堂に通ったものと思われる。

 幕末の孝明帝はゼノフォビアであった。こんな帝から開国の勅書をもらうことは全く不可能だったのだから、幕府はさっさと開国を決めればよかったのだ。それまでは朝廷を全く無視していたのだから。しかし幕府はここで、それまで無視していた天皇の詔勅を得て、開国に伴う責任のリスクを分散化しようという、実に日本的伝統的な「責任所在の曖昧化」を謀ったのである。
 案の定、孝明帝は「聴かぬ聴かぬ! 聴かぬぞよ! ええい絶対ならぬぞよ!」とヒステリックに喚き、そのため、尊皇攘夷論が全国に沸騰した。寝た子を起こしたのである。それまで何の権力も持たぬ神主の最高位で、免許状の発行名義人に過ぎなかった天皇が、俄然「権力者」と写ったのである。これを外国公使たちは「権力の二重構造」と見た。水戸藩は全藩あげて尊皇狂気に陥った。長州は乗じた。龍馬も奔った。尊皇攘夷が倒幕に変じた。
 孝明帝は、七年にわたって京都守護職として京の治安に当たり、公武合体の推進者でもあった会津藩の松平容保に最も信頼を寄せた。孝明帝は公武合体論者だった。孝明帝から遠避けられていた貧乏貴族の岩倉具視、不平貴族の三条実美の倒幕派と、薩長の倒幕派(彼らは攘夷から開国に変じていた)にとって最も邪魔な存在は、帝その人と松平容保なのだ。ある日、ゼノフォビア以外ではいたって壮健だった孝明天皇が突然亡くなったのである。毒殺説が流布する由縁である。薩長土と岩倉、三条等はまだ十四歳五ヶ月の、女官に囲まれて世事に全く関心もなかった(※1)幼弱な少年(※2)を手に入れ、王政復古のクーデターを断行した。

(※1)この明治帝は大人になっても世事に全く関心も興味も示さなかったため、伊藤博文や山県有朋に随分叱られている。山県に至っては「誰に担がれていると思ってるんだ」というような意味のことを言って叱っている。明治帝が最も関心を寄せたのは跡取りをつくることと、跡取りの健康であった。
(※2)坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛らの書簡では、この少年は「玉」と呼ばれている。「何とか玉を手に入れたい…」「玉を奪はれて残念…」「うまく玉を抱へた」

 徳川慶喜は新政権に恭順の姿勢をとったが、会津の松平容保と共に朝敵とされた。また薩摩方は鶴岡の庄内藩を目の敵にした。これは西郷隆盛が江戸を混乱に陥れようと、密かに浪人や盗賊を雇い入れて、度々火付け強盗・殺人を働かせた(御用盗)が、この時に幕府方や江戸警備に当たっていた諸藩と共に、火付け強盗団を追いつめたのが庄内藩の武士たちであった。火付け盗賊団は次々に薩摩藩邸に消えていく。庄内藩の武士たちは薩摩藩邸に火を放ってこれを討った。この「御用盗」は西郷隆盛の陰惨で謀略的な一面を如実に示している。この事件以来、薩摩は庄内藩を目の仇にした。
 大槻盤渓は仙台藩の思想的中心をなしていた。彼は薩長土の新政権に強い不信の念を抱き、奥羽列藩の結束を促し、これまでの経緯から義は幕府にありと親幕を鮮明にした。仙台藩は日和見的優柔不断な態度をとり続けていたが、会津と庄内がいかに恭順の意を示しても、これを許そうとしない薩長土の新政権に強い不信感を抱いた。伊達慶邦も上杉斉憲も会津や庄内に同情し、奥羽二十五藩は連名して嘆願書をしたため、これを新政権へ手渡した。しかし嘆願書は紙屑のように捨てられた。やがて奥羽諸藩は新政権の密書の内容を知ることになる。それには「奥羽皆敵」と書かれていた。奥羽は朝敵なのである。
 こうして奥羽二十五藩は白石に会同し奥羽列藩同盟ができた。さらに越後六藩が加わり、奥羽越三十一藩の反薩長新政権の大同盟が成立した。諸藩は続々と白河口に結集した。千葉卓三郎の師・盤渓は列藩同盟結成を強く支持した。慶応四年(1868年)三月、千葉卓三郎は十六歳、志願して白河に赴いた。慶応四年閏四月二十五日、白河城攻防から戊辰戦争が始まった。
                                                                 

スタインベックの「赤い子馬」

2016年01月27日 | エッセイ
                                            


 馬好きの私は、スタインベックの「赤い子馬」という短編小説に胸が一杯になる。鼻の奥がツンとする。しかし、あまり好きになれない。

 スタインベックの短編小説はなかなか良い。おそらくスティーヴン・キングの「グリーンマイル」の死刑囚は、「二十日鼠と人間」の殺人犯を下敷きにしたものであろう。
 巨大な体躯で、強い膂力を持ち、白痴である。優しい心の持ち主で、小さな命を愛おしみ、その大きな掌に包むように抱きしめるとその命は潰れてしまう。可愛い少女を愛おしむように抱きしめると彼女の背骨はへし折れてしまう。あるいは騒がれて口を塞ぐとその細い首がへし折れてしまう。そうして殺人犯となってしまった彼を憐れむ男がいて、その世話をしながら町から町へと長い逃亡を続けるのだ。
…またこういう凸凹コンビのさすらいの物語は、アメリカの小説や映画に度々描かれる。ジーン・ハックマンとアル・パチーノの「スケアクロウ」もそういった作品だった。
 これらの映像には、決まって風に丸められた枯れ草が、その風にコロコロと転がっていくシーンが登場する。タンブル・ウィードである。もちろん、「怒りの葡萄」にも登場する。

 スタインベックの「赤い子馬」は、少年が美しい栗毛の子馬を愛おしむ物語だが、その結末は悲劇的で、残酷である。その残酷さゆえ、私はあまり好きになれない。しかし、良い作品である。ご興味があればぜひお読みいただきたい。しかし残酷な結末なのである。