芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 虚空の人(四)

2016年01月09日 | エッセイ

 キヨスキーは、モスクワで図らずもロシア革命に巻き込まれ、行きがかりで裁判所をはじめ各所を襲って火を放ち、銃を撃ちまくり、死体を轢き潰し、巡査隊の急襲を受けて、逃げる途中で市街戦のさなかに飛び込んで、同棲していた女性を殺された。
 伯父を頼り、叔母を頼り、這々の体で長崎に逃げ帰ったアレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキーは、再び母方の大泉家を頼り、再び大泉清に戻った。しかしここにも長居はできない。
 清は京都に出て学業に戻ることにした。学費はスイスで学校を経営していたパリのラリーザ叔母から送られてきた。彼は理数系が得意だったので、京都の第三高等学校の理科に入った。

 ある日、京都の彼の下宿に、長崎の遠縁の娘・美代が訪ねてきた。逃げ込んで来たといってよい。彼女は清にとって幼なじみの娘だった。
 美代は親類縁者から見限られた窮鳥であった。清の母のケイタ(恵子)もまた、親や親戚から見限られた女性だった。亡くなった曾祖母の大泉家以外に日本に身寄りのない混血の清にとって、美代は母と同じようにも思え、また自分の同類のようにも思われた。
 美代は大らかで大胆で、楽天的で、情熱的な女性でもあった。それも母のケイタに似ていたのかも知れない。無論、清には母ケイタの記憶はない。ただ、十五、六歳の若さで、大津事件の最中に来日していたロシア人の父と結婚し、実家から勘当された母を思えば、大胆で情熱的な女性だったと思わざるをえない。
 清は母のケイタがロシア文学を研究していたと、曾祖母から聞いていた。ケイタの蔵書類は曾祖母の家に残されていた。清もいつしか、自分も文学をやろうと思い始めていた。
 自分は数奇な運命の下に生まれたのだと思った。自分は劇的な人間だ、十分に文学的運命の下にいる。混血で、中国の漢口で孤児になり、モスクワの小学校に通い、トルストイに出会い、パリのリセに入り、長崎の中学を出て、モスクワで革命を実見し、銃弾の中を逃げた。こんな経験は誰もができることではない。これを書けば…。

 清は美代と正式に結婚した。学生結婚である。ラリーザ叔母から送られてくる学費は二人の生活費になった。ところがある時から送金が途絶えたのである。
 ラリーザ叔母のスイスの学校の経営が破綻して閉鎖され、彼女が大きな借財を負ったからである。授業料滞納のため、清は三校を退校させられた。追い打ちをかけるように、見限ったはずの美代の実家や、大泉家などが手を回し、二人を別れさせようとしていることを知った。
 二人は東京に逃げた。まるで駆け落ちのようである。

 東京に出た清は一高の理科に再入学した。しかし先立つ金がなく、極貧の日々である。間もなく男の子が産まれた。清は淳と名付けた。清は自分が子煩悩であることを知った。学校にはほとんど行かず、間もなく退学となった。
 やがて清は石川島造船所に職を得た。
 仕事は職工の勤務簿などの帳簿づけの事務職である。彼は毎日遅刻し続けた。時間にルーズだったのである。何しろ、彼には広大無辺の大地ロシアの子の血が流れているのである。清にとって、定刻に出社することに大した意味はなかったのだろう。また帳簿づけの仕事より、真っ赤に溶けた鋳鉄が鋳型に流し込まれる現場の見学の方が面白かった。まるで溶岩のようである。
 清は事務所を抜け出しては鋳鉄の現場を飽かず覗いていた。ある日、技師が「なんだ貴様は、毎日持ち場を抜け出しやがって。貴様は事務所で仕事をしていろ!」と怒鳴り、清を突き飛ばした。さらに事務所の親方が帳簿を抱えてやって来て、「これは何だ!」と帳簿の表紙を叩きながら清を怒鳴りつけた。「それはドイツ語で『職工精勤調(しらべ)』と書いたんだ」と清は言った。「馬鹿野郎! 誰が毛唐の言葉で帳簿をつくれと言った?!」と喚きたてた。
 月末、人事の担当者が清に告げた。
「君は今月でクビだ。もう出社には及ばない」
 また極貧の日々である。煙草好きの清は、道端のモク拾いをした。

 清たちは浅草の今戸に移った。美代が、自分と同じように親類たちと付き合いを絶っていた遠縁の因業親父を頼り、仕事を見つけてきたのである。その男が経営する革屋の仕事である。夫婦でその町工場で働くことにした。
 大きな薬液の入った瓶に皮を漬けて、それを膝まで浸かりながら素足で踏み込むのである。そうしないと厚い皮に薬液が染み込まないのだ。真冬である。清の隣では美代が赤ん坊の淳を背負ったまま、瓶の薬液を櫂棒で掻き混ぜる作業に励んだ。しかし、この革屋の親父は月末になっても給料を払ってくれなかった。清は工場から生皮を持ち出し、それを叩き売ってから辞めた。
 また極貧の日々である。近所の天理教に入信したふりををして、支部長に生活の窮状を訴えて金を借りた。冬に足袋を買うこともできず、着たきりの袷一枚で過ごした。

 清は人の伝手で次の仕事を見つけた。浅草から吉原土手に抜けて箕輪に行く途中にあった屠牛場の仕事である。当時その当たりは田圃で、屠牛場はその真ん中にあった。「お前は新入りだから、一番楽な仕事に回してやる」と言われた。その一番楽な仕事とは、牛を殴り殺すことであった。屠牛場の前で牛たちは迫り来る何事かを察し、一暴れする。自らの運命を知ってか、首だけ出るコンクリートの仕切の中に入れるまでにまた一暴れするが、十人ばかりの男たちに押さえつけられて、次々に棒杭に縛り付けられる。そこからが屠牛人の清たちの仕事である。各々手に八キロばかりもある鉄の棒を持ち、一斉に牛の眉間を殴りつけるのである。牛たちは眉間から血を吹き出して崩れ落ちた。来る日も来る日も牛を殺す日々である。

 清はどうすれば文学で飯が食えるのか分からなかった。たまの休みの日や仕事終わりに、出版社や人づてに聞いた作家の家を訪ね歩いた。とりあえず「新小説」の春陽堂を訪ねてみた。無論相手にされるわけがない。また早稲田に中村星湖を訪ねもした。中村星湖は「新小説」の懸賞小説で「盲巡行」が一等となり、続いて「早稲田文学」の懸賞小説に「少年行」が当選し、自然主義作家として活躍しはじめていた。無論、清は中村にも相手にされなかった。
 ちなみに中村星湖は早稲田大学英文科で石橋湛山と同期で、共に山梨県の出身でもあった。中村はフローベールの「ボヴァリー夫人」や、モーパッサンの翻訳でも活躍した。
 清は、何とか出版社に伝手を作ろうと、読物作家の村松梢風や田中貢太郎等を訪ね歩き、彼らに面白おかしく、過激に、あることないことを話し、彼らの知己を得ることに成功した。彼らはこの混血の話を大いに面白がり、格好の酒の相手にした。
 ある時清は思いついて、豚の皮の利用法なる珍奇な一文をものにし、これを紹介された「実業の世界」に持ち込んだ。すると採用され原稿料をもらうことができた。清は屠牛場を辞めた。

 本願寺系の宗教雑誌「中央公論」に、畔柳芥舟や上田敏の推薦で東京帝大英文科の学生が、外国新聞雑誌の記事を拾いこれを翻訳していた。その学生は法科に転じたが、そのまま「中央公論」の編集者になって、大学を中退した。滝田樗陰である。
 やがて樗陰は社長の麻田駒之助の全幅の信頼を得て編集主幹となり、「中央公論」の編集を完全に任せられた。彼は雑誌の舵を文芸と政治評論に切った。幸田露伴、夏目漱石、泉鏡花や柳川春葉などの小説を載せ、土井晩翠や薄田泣菫などの詩を掲載した。
 樗陰は優れた選択眼を持っていたらしい。彼は無名の作家や著述家の家の前に、黒塗りの人力車で乗り付け、自ら原稿の依頼に走り回った。こうして菊池寛や正宗白鳥が見出され、吉野作造の民本主義が知られるところとなった。滝田樗陰の人力車の停まるところに有力な新人作家が生まれた、と言われた名編集長である。

 この樗陰のところに、読み物作家の田中貢太郎が大泉黒石なる混血の青年を連れてきた。大泉黒石は読み物作家の村松梢風の紹介状も持っていた。
 田中貢太郎は情痴や怪談ものを得意とした作家であり、村松梢風は「中央公論」で「琴姫物語」を書いて人気作家となっていた。彼は後に「正伝 清水次郎長」の作家として知られる。
 樗陰を訪ねたおり、黒石は「俺の自叙伝」という原稿も携えていた。多忙な滝田は「お預かりしましょう」と言って、その原稿を受け取った。
 やがて樗陰は「面白い、これは面白い」と呟きながら、黒石(清)の「俺の自叙伝」を一気に読み終えた。彼は黒石の奇才を喜び、「俺の自叙伝」を来月号に掲載することにし、続編を書いて持ってくるよう黒石に連絡した。大正八年のことである。
 大泉黒石の「俺の自叙伝」は、彼の数奇な運命とスケールの大きさがたちまち評判となった。最初の掲載号の翌月の九月に、朝日新聞が大泉黒石を顔写真入りで大きく取り上げたため、その名はあっという間に広がったのである。
「新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石もどうやら『俺の自叙伝』で一躍、世に出たという感じだ」と「中央公論」の編集部員だった木佐木勝は、その日記に記している。「俺の自叙伝」は大正十年までに五回にわたって「中央公論」に掲載され、単行本もよく売れた。

 大泉黒石はまたたく間に、各社から引っ張り凧の人気作家になった。彼ら親子は浅草の廃屋のような長屋から出て、新しい家に移った。その家は雑司ヶ谷の広大な三条公爵邸の後ろの、大きな冠木門を構えた豪邸であった。門内には銀杏の巨木がそびえ、その枝に、新たに生まれた赤ん坊のおしめが干された。
 書生が二、三人と女中が二人雇われた。周辺に有名無名の作家や詩人、芸術家、音楽家らが暮らし、彼らも黒石のもとに遊びに来た。黒石は特に辻潤や高橋新吉、福田蘭童らと気が合った。共通項は、みなどこか退廃的なダダイストであった。つまり真っ当な社会人から外れた「不良」である。

 辻潤は、幸徳秋水の「平民新聞」を愛読し、アナキストたちと交わった。上野高等女学校での英語教師時代、生徒の伊藤野枝と恋愛し、職を追われた。 
 野枝は「青鞜」で活躍し、一子まことを残して大杉栄のもとに去っていった。その後の辻潤は、浅草あたりを暗く美的に遊興し、本格的なダダイストとして、また「英語・尺八・ヴァィオリン教授」として放浪生活を送っていた。辻潤は後年ついに餓死した。
 野枝との間に生まれた辻まことは、父潤のことを「考え過ぎる葦」と評している。実にうまい表現で、そこに父への愛を感じることができる。
 高橋新吉は、大胆に言語の脈絡を断った形式破壊の詩「ダダイスト新吉の詩」(辻潤編纂)によって、現代詩の幕を開いた。彼の詩は禅の公案に似ている。高橋新吉は伊予の伊方の出身である。
  私は海の中で生まれた 一九〇一年一月二十八日 一枚の鱗にさう
  書いてあった 
  伊予の西南の象の鼻のやうに突き出た 半島の中ほどの伊方である

 福田蘭童は、「海の幸」「わだつみのいろこの宮」で知られる夭折した天才洋画家・青木繁と、同じく画家の福田たねの子である。福田たねは日光の五百城文哉の画塾に入塾して小杉放菴に出会った。それにしても小杉放菴が形成した人脈と影響力の大きさは、過小評価されたままの画業に引き比べ、何と大きな存在であったことか。それに最初に気付いたのは文化人類学者の山口昌男である。また話が逸れた。
 さて、福田たねは上京して小杉と同じ不同舎に入門して青木繁と出会っている。その子、福田蘭童は尺八奏者で作曲家として名をなし、料理と釣りでも知られた趣味人(遊び人)だった。戦後は「笛吹童子」の作曲家として知られている。彼には妻と子がいたが、松竹の人気映画女優・川崎弘子をロケ先で犯し、世間の囂々たる非難を浴びた。その責任をとって妻と別れ川崎と結婚している。妻と子こそいい面の皮である。
 蘭童の子は長じてジャズピアニストとなり、後にハナ肇とクレージーキャッツに参加した。石橋エータローである。石橋も料理研究家としても知られた多趣味人であった。石橋エータローは父・蘭童を、その最晩年まで許さなかったらしい。だいぶ話が逸れたようである。

 さて大泉黒石はデカダンスとニヒリズムの辻潤や高橋新吉のような手合いには、同じ臭いを嗅ぎ取ったものらしい。これはかつてパリのサン・ジェルマン・リセに在学中、世界各国出身の不良少年団とつるんでいたのと同じだろう。黒石と辻潤は二人そろって長崎にダダ派の講演旅行にも出かけている。
 やがて彼を「中央公論」の滝田樗陰に紹介した田中貢太郎や村松梢風らが、黒石の人気を嫉みはじめた。彼らは黒石に仕事を奪われているような気がしだしたのだ。
 執筆依頼者からすれば、黒石は実に便利で魅力的な書き手であった。
 何しろ、ロシア人との混血という変わり種である。しかも数奇で破天荒な国際的スケールの体験談や、数度の退校処分、駆け落ちと数度の夜逃げ、馘首に皮なめしと掻っ払い、牛殺しにモク拾い、一夜にして流行作家という波瀾万丈と、それに伴う膨大な雑学知識を持ち、彼の物書きとしての奇才は捨てがたい。また紅毛碧眼のくせに字は上手できれいだし、恐ろしく筆が速い。
 石川島造船所では毎日遅刻していたくせに、執筆では几帳面に締め切りを遵守した。その内容に小難しい思想的なものはあっけらかんとして何もなく、また文学的価値はともかく、面白可笑しく書く技術は達者で、何本でも掛け持ちが可能であった。黒石は天性の戯作者なのである。

 やがて田中貢太郎、村松梢風らは「黒石はウソツキの天才」と非難し、文壇の既成作家たちも加わって「俺の自叙伝」のデタラメとウソ探しが始まり、それを指摘されるようになった。
 それに伴うかのように、黒石の奇行も甚だしく、いかにも怪しい言動が増えてきた。彼は故意に周囲の不評に対抗するかのように、すぐにウソとばれるような話をあちこちで言い歩き、その奇行にも拍車がかかったのである。
 やがて黒石によって滝田樗陰に関わる嘘話も流布され、さすがの樗陰も「どういうつもりでそんなことを言うのか、全く見当がつかない」と、黒石を薄気味悪く思うようになった。
 ある人がロシア人を伴って黒石を訪ねたおり、黒石は全くロシア語が理解できず、また話すこともできなかったそうである。おそらく黒石は、相手の悪意ある意図を察し、わざとロシア語がわからないふりをしたのであろう。いかにも大泉黒石らしい。…それとも? 本当にロシア語ができなかったのであろうか? 何しろ、虚言癖のある黒石である。