芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 虚空の人(三)

2015年12月29日 | エッセイ
              

 ステパノヴィチ・ワホーヴィチ領事の死を、領事館の職員がモスクワに住む領事の兄に連絡を入れたらしい。パリに住むという叔母のラリーザが、漢口までキヨスキーを引き取りにきた。もちろん初対面である。
「おまえがキヨスキーかい?」
 頷くと彼女はキヨスキーを強く抱きしめ、何か話続けたが判らなかった。おそらく「さぞ心細かっただろうね、もう大丈夫だよ。私と一緒にパリに行こうね…」等と言ってるのだろうと、キヨスキーは勝手に忖度した。

 ラリーザがキヨスキーを連れて行ったのはバリではなかった。彼女は彼をモスクワで医者をしている伯父の家に連れて行ったのだ。もちろんこの伯父とも初対面である。伯父も、その妻のターニャも人柄が良かった。
 キヨスキーはこの伯父の家から地元の小学校に三年間通ったが、最初の半年間は言葉が分からなかったため、唖のふりをして通した。
 しかしキヨスキーはこのターニャ伯母のうるさいほどの親切と、明るい饒舌が大嫌いだった。饒舌に話しかけられても、ほとんど理解できなかったし、彼はすでに孤独が好きな少年だったのである。
 伯父の家にはコロドナという名のユダヤ女が女中として働いており、彼女がキヨスキーの面倒を見た。美人でもなく、のろまな女だった。キヨスキーは彼女を馬鹿にしつつ親しみを覚えた。のんびりとしたコロドナの話し方はキヨスキーがロシア語を覚えるのに適していたのである。

 ある日伯父がキヨスキーに言った。「クリスマス前に一度村に帰る。村の患家も回らなければならないが、どうだ、お前も一緒に行かないか。お前の親父がどういうところで生まれ育ったのか、見ておくのもよいだろう、ん」
 キヨスキーはすぐに「行く」と応えた。嫌いなターニャから離れたかったからである。
 キヨスキーは伯父と共に、馬車橇に乗って、亡父ワホーヴィチの郷里であるヤースナヤ・ポリャーナに行った。ヤースナヤ・ポリャーナとは森の中の明るい草地という意味である。豊かな森に囲まれた穏やかな農村だった。この村の墓地には村中の先祖の墓があり、すでに亡父ワホーヴィチもそこに眠っていた。

 村に着いてから数日後のことである。伯父と一緒に馬車橇で患家回りの途中、みすぼらしい野良着姿の老人に出会った。老人は痩せっぽちの犬と散歩中だった。老人の頬から下は豊かな白髭に覆われていた。真っ白い眉毛が目を隠すように垂れていた。
 伯父は馬車橇から降りて、帽子に人差し指をあてがって丁寧に挨拶した。伯父は「これからお訪ねするつもりでした」と言った。伯父と老人の一通りの挨拶が終わると、伯父はその老人の歩みに合わせ、その後ろをゆっくりと随って行った。
 その家に入ると老人は椅子に座り、叔父にも椅子をすすめた。老人は低い穏やかな声で「キヨスキー…」と呼んだ。老人はキヨスキーの片腕をつかみ、自分の膝のほうへ引き寄せた。老人はキヨスキーの顔をまじまじと覗き込んだ。
 少し片目が白濁していたが優しい目であった。老人は嗄れた声で「ステパノに似ているな」と言って微笑み、彼を軽く抱くようにした。ステパノとはキヨスキーの父の名前である。
 その老人の名をトルストイと言った。キヨスキーの母のケイタが、息子がトルストイに抱かれたことを知ったら歓喜で卒倒したことだろう。しかしキヨスキーは、このトルストイ爺さんがそんなに有名な人とは知らなかったのである。
 トルストイ爺さんは「お父さんのお墓へ行ったかい」とキヨスキーに尋ねた。キヨスキーは黙って頷いた。トルストイ爺さんも、ゆっくりと何度も頷いた。それからキヨスキーの両手を、しわくちゃで厚い大きな手のひらで包み込んだ。その手のひらは柔らかであった。
 その二ヶ月後、キヨスキーは再び村の農家でトルストイ爺さんと出会った。その家の農夫が亡くなったので、伯父とキヨスキーとトルストイ爺さんは、一緒にその家の面倒事を手伝ったのである。
 …「ヤースナヤ・ポリャーナなしに、私はロシアとロシアに対する私の気持ちを表現することはできない」と、トルストイは語っている。

 再びモスクワ生活を送っていたキヨスキーに、パリに住むラリーザ叔母から、こっちで中学に入りたければ迎えに行くと便りが届いた。彼は渡りに舟と、さっさと荷物をまとめ、迎えに来た叔母と共にモスクワを出てパリに向かった。
 パリではローマ教会の学校であるサン・ジェルマン・リセに籍を置き、寄宿舎に入った。キヨスキーはロシア人ということになっていた。ここでも言葉の問題があった。キヨスキーは今度はフランス語を身につける必要があったのだ。しかし勉強なぞにはなかなか身が入らなかった。毎日、寄宿舎の二階の窓からノートル・ダムの屋根を眺め、ぼんやりと日々を送った。
 やがて不良少年たちと交わるようになった。バリは移民の街である。彼らは実にいろいろな国の出身者だった。彼らはキヨスキーと似て、祖国やナショナリズムとは縁薄いデラシネだったのである。彼らの使うフランス語のほうが理解しやすかった。
 この不良団と酒を飲んで大騒ぎをしていたところを警察が踏み込み、彼はサン・ジェルマン・リセを退学させられることになった。退学させられる日、友人の母親がキヨスキーを詰問するように言った。「あなたには将来の夢とか、志望とかないの? 人生の目的を持ちなさい!」
 キヨスキーはその夫人に言った。「将来の夢? 志望? そんなものはないよ。おばさん、俺には死ぬまで志望も目的も無いんだ。ロシアは恐ろしく広いんでね。志望とか目的なんていう小さなものが、無意味なくらい茫漠とした世界なんでね…そんなもの無いのさ」

 パリのリセを追放されたキヨスキーに、長崎の曾祖母が亡くなったという報せが入った。キヨスキーは日本に、長崎に帰ることにした。もう日本語はほとんど忘れかけていた。
 長崎では大泉清として暮らすことになった。地元の鎮西学院中学に編入し、何とかそこを卒業した。長崎は当時の日本国内では比較的に異人の多い街である。しかし毛色の違う彼にとって、日本の同世代との学校生活は暮らしにくかった。また家には彼を庇護していた曾祖母もいない。まるで他人の家のようだった。何しろ彼の母の恵子(ケイタ)は、親戚からも見限られた人だったからである。卒業すると、彼は「日本は小さい。俺はロシアで出世するよ」と言い残して再び日本を飛び出した。

 モスクワに舞い戻ったキヨスキーは伯父の家では暮らさなかった。饒舌なターニャ伯母が嫌いだったからである。彼はかつて伯父の家で女中をしていたコロドナと同棲した。彼女はキヨスキーより十五歳も年上だった。おっとりとしていて、お人好しのコロドナとの暮らしのほうが、ずっと気楽だったのだ。
 学校に行くという約束で、スイスで学校経営に関わっていたラリーザ叔母から学資を送ってもらうことになった。しかし学校には籍を置いたものの、たまにしか出席しなかった。叔母からの学資はコロドナの帽子や指輪、そしてキヨスキーの劇場通いに消えた。

 ある日、モスクワの街区に激しい銃声音が弾けた。銃声はあちこちで弾けるように響いた。市街は騒然としてきた。1917年、3月11日のことである。ロシア革命が起きたのである。この日は「赤い月曜日」と呼ばれ、この革命は「三月革命」と呼ばれた。
 学校帰りのキヨスキーは若者たちに包囲された。彼らはキヨスキーに革命団に加わるよう強制した。彼らはモスクワ大学の学生である。何をされるかわからないので、キヨスキーはその一団に加わることにした。
 キヨスキーの加わった一団は裁判所を襲撃した、黒い自動車も分捕り、街のあちこちの建物の窓を破壊して回った。砲煙が漂い、街頭に二百体は超える死体が転がっていた。彼らが奪った車はその上に乗り上げ、轢き潰して走り回った。車の中から盲滅法射撃した。恐怖と痛快さがキヨスキーを捕らえていた。騒擾は面白い、破壊は痛快だ。
 キヨスキーは「革命」の仲間のしるしに、木綿の赤いリボンをもらった。

 夜になった。キヨスキーはモスクワ大学の学生たちと別れた。コロドナの家に入ったところを巡査隊に襲われた。家は火に包まれた。コロドナと一緒に、転げ出るように家の外に抜け出し、伯父の家を目指して逃げることにした。
 ネヴァ河のアレキサンドル橋にかかったとき、「止まれ!」と声がかかった。見るとよぼよぼの老兵と若僧の兵士である。
「どこへ行く?」と尋ねられたのでデタラメを応えた。若僧が突っかかってきた。「何をする。俺は人民の味方の大学生だ」と叫んで、赤いリボンを見せた。老兵士の方が「美しい皇后様よお、俺とあっちで寝ようぜ」とコロドナの豊満な身体を抱き寄せた。コロドナがその老兵士を突き倒した。その隙にキヨスキーは若僧に飛びかかり、その銃を奪って、台尻で思い切り殴りつけた。若僧の兵士がひっくり返った。
 キヨスキーは銃を捨てて、のろまなコロドナを励ましながら、夢中で走って逃げた。気づくと二人は、騎馬隊と労働者隊の銃撃戦の真っただ中に飛び込んでしまっていた。
 コロドナが雪の上にのめるように倒れ込んだ。あわてて抱え起こすとコロドナのこめかみから血が流れていた。その血はキヨスキーの指を濡らした。立ち上がって走ろうとすると、コロドナの手がキヨスキーの長靴を掴んで離れなかった。死に際に掴んだものであったろう。十メートルほどコロドナを引きずって進んだが、これではとても先に進めたものではない。蹲って、長靴からコロドナの指を一本一本引きはがした。彼女の手から自由になると、後は一目散に走って、伯父の家に逃げ込んだ。

 キヨスキーは翌日にはモスクワを離れ、スイスに入った。ジュネーブで学校を経営していたラリーザ叔母を訪ねた。
 叔母はキヨスキーの先行きを心配した。「パリで暮らすにせよ、日本で暮らすにせよ、必ず上の学校に行きなさい」と彼女は言った。「学校に行くと約束するなら、学費は出してあげる」とも言った。キヨスキーは、「混乱したロシアには戻れないし…いったんヨーロッパを離れて日本に戻る」と言った。そして必ず上の学校に行くとも約束した。
 こうして彼はラリーザ叔母の元に数日滞在後に、お金をもらってフランスのマルセイユに出て船を探し、また日本に向かったのである。

                                                               





野坂昭如さんが遺した言葉

2015年12月28日 | 言葉
            

戦争で多くの命を失った。飢えに泣いた。大きな犠牲の上に、今の日本がある。二度と日本が戦争をしないよう、そのためにどう生きていくかを問題とする。これこそが死者に対しての礼儀だろう。…
どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない。


競馬エッセイ 次なる歌劇の開演を

2015年12月27日 | 競馬エッセイ
                    

 カナダの名馬ノーザンダンサーは、明らかにロシアの天才ダンサー、ニジンスキーを意識して名付けられたものだろう。そのノーザンダンサーを一躍世界的名種牡馬にした産駒はイギリスの三冠馬ニジンスキー、イギリスとアイルランドのダービー馬ザミンストレル(吟遊詩人)であり、サドラーズウェルズだろう。いずれも中長距離に強く、晩成型というより持続する成長力があり、力のいる馬場や、大レースに強い底力血統である。
 彼等、そして彼等の産駒の多くはヨーロッパを中心に大活躍した。サドラーズウェルズはその典型で、競走成績をはるかに上回る種牡馬実績を挙げ、イギリス、アイルランド、フランスで計17回もリーディンサイヤーに輝いた。
 しかしこれらの重厚な底力血統は日本の競馬に合わず、ほとんど成功していない。ニジンスキーの直仔マルゼンスキーは素晴らしく強く、菊花賞馬ホリスキー、ダービー馬サクラチヨノオー、菊花賞馬レオダーバンを輩出したが、残念なことにそこから後が続かなかった。またニジンスキー産駒で欧州の歴史的名馬と言われたラムタラは大失敗に終わっている。サドラーズウェルズ系も日本での成功は難しいと思われていた。
 サドラーズウェルズ産駒オペラハウスはイギリスのG1レースを3勝した。このような重厚な血を輸入するのは、日本軽種馬協会(かつては農水省所管、現内閣府所管)のような利益を超えた団体(現公益社団法人)でなければ難しい。オペラハウスは1994年から日本軽種馬協会で供用された。
 ちなみにノーザンダンサー産駒サドラーズウェルズの名は、ロンドンのバレエやオペラを上演する劇場名である。その産駒オペラハウスの名は無論ロンドンのロイヤル・オペラハウス劇場である。
 
 竹園正継は鹿児島県垂水町の出身。青年時代からの発明好きで、建築補強材の特許を獲ってテイエム技研を設立し、順調にその事業を拡大させてきた。競馬好きな竹園は、テレビでダービーを見ていた。バンブーアトラスが優勝し、その騎手のインタビューを見て吃驚した。それは花屋の店員になったはずの幼馴染み、岩元市三だったのである。竹園は馬主になって「市ちゃん」に再会しようと心に決めた。1987年、竹園は中央競馬の馬主資格を取り、幼なじみの岩元に再会した。
 岩元は垂水町生まれ、母子家庭の長男で、中学を卒業すると大阪に出て花屋の店員になった。園田競馬場の競馬を見て騎手になることを決意し、中央競馬の布施正調教師に弟子入りした。騎手免許取得は27歳の時という苦労人である。生涯勝利度数578勝を挙げ、1989年に厩舎を開業した。
 竹園は岩元の師匠・布施調教師に馬の見方を学び、布施師の牧場めぐりに同行して相馬眼を養い、自ら馬を見て選んで購入することにしていた。彼はなるべく中小牧場の馬を見て歩き、購入することが多くなった。しかしその中から、何頭もの「テイエム」の活躍馬を見出していったのである。
 日本軽種馬協会の種牡馬産駒の牡は、全てセリに出すことが義務づけられている。1997年秋のセリで竹園は、杵臼牧場生産の父オペラハウス、母ワンスウェド(母の父ブラッシンググルーム)の牡駒に目を付けていた。牧場で見たその栗毛の牡駒は、金色に光って見えた。血統もなかなかではなかろうか。しかし日本では成功していないサドラーズウェルズ系オペラハウスと、母ワンスウェドの評価は低かった。セリのスタート価格は1000万円で、竹園が手を挙げたが誰もセリ掛けてこない。その馬はそのまま竹園の手に入った。
 その同じセリでアイルランド産の父ビッグストーン、母プリンセスリーマ(母の父アファームド)という血統の馬も出た。しかしこれもかなり評価が低く、格安の500万円で「メイショウ」の松本好雄が手に入れた。
 やがて生涯のライバルとなるテイエムオペラオーとメイショウドトウは、こうして馬主が決まり、競走馬としてのスタートを切ったのである。

 岩元に預託されたテイエムオペラオーは、98年8月、厩舎所属で21歳の和田竜二騎手を鞍上に、京都の新馬戦でデビューした。1番人気だったが大きく離された2着に敗れ、しかも骨折してしまった。
 年明けの再起戦二走目の未勝利戦を勝ち、その後連勝して重賞の毎日杯を勝って、急遽クラシックの追加登録料を払って皐月賞に出た。重賞連勝中のナリタトップロード、良血馬アドマイヤベガの有力馬を相手に、オペラオーは中団から鋭く伸び優勝した。竹園オーナーも和田も、そして杵臼牧場も初めてのクラシック制覇である。
 ダービーの人気は、皐月賞馬なのにナリタトップロード、アドマイヤベガに次ぐ3番人気だった。もし勝てば、和田竜二は史上最年少のダービー騎手となる。先ずオペラオーが馬群を抜け出したがトップロードに競り負けた。そして二頭とも後方から飛んできたアドマイヤベガに差されてしまった。
 秋初戦は古馬と対戦した京都大賞典を3着、肝心の菊花賞は後方から追い込んだが、ナリタトップロードに届かず2着に敗れた。野平祐二は「オペラオーは三冠馬になれる器だった」と、言外に騎手の技倆不足をにおわせた。
 それまで竹園は、岩元調教師が若い和田を乗せ続けることに口を挟んだことはなかった。しかし菊花賞敗戦は和田の騎乗ミスだとし(どこがミスだったのか、位置取りが後ろ過ぎたと言うのだろうか)、ベテラン騎手に替えろと岩元に迫った。岩元は「和田を育てたい。どうしても替えろと言うなら、厩舎を替えてください」と言った。
 竹園も分かっていたのだ。若い騎手を育てるためには騎乗機会を増やすこと、そして強い馬に乗せること、そして強い馬が騎手を育てるのだ。竹園は和田竜二を乗せ続けることに同意した。その後も竹園オーナーは調教師の意思を尊重し、厩舎所属の若手騎手やフリーでも若手や騎乗機会に恵まれない騎手を起用すること多く、無闇に騎手を替えることもしなかった。
 さてオペラオーはその後のステイヤーズSも2着だった。しかし陣営は敢然と暮れの有馬記念に挑戦した。ここもグラスワンダー、スペシャルウィークとタイム差なしの3着に終わった。このメンバーでは好走、力走と言っていい。

 2000年は2月の京都記念から始動し、ナリタトップロードを破って優勝した。続いてラスカルスズカを破って阪神大賞典を勝ち、二つ目のG1・春の天皇賞もラスカルスズカを破って制覇した。続いて、古馬になって成長著しいメイショウドトウを相手に宝塚記念を勝ち、三つ目のG1を制覇した。やがてこの二頭は、何度となく死闘を繰り広げるのである。
 秋は京都大賞典でナリタトップロードを破って勝ち、秋の天皇賞もメイショウドトウを退けて四つ目のG1制覇。ちなみに、このときドトウの鞍上は札幌での飲酒危険運転で騎乗停止・謹慎中の主戦の安田康彦に替わり、オールカマーから的場均が騎乗していた。
 続くジャパンカップも、騎乗停止が解けた安田メイショウドトウと激しい叩き合いを演じてクビ差で勝った。これで五つ目のG1制覇。暮れの有馬記念も、再びメイショウドトウとの壮絶な競り合いをハナ差制して、六つ目のG1制覇である。2000年は8戦して全勝、うちG1を5勝。
 テイエムオペラオーは精神的にムラがなく、レース中に決して「ソラを使って」遊ぶことなく集中し、スピードもあるがスタミナに優れ、速い脚を長く持続でき、何より凄い勝負根性を持っていた。
 2001年は春の大阪杯から始動した。当然1番人気に推されていたが、トーホウドリームの4着に敗れ連勝は止まった。続く春の天皇賞は再びメイショウドトウと凄まじい追い競べをし、0.1秒差で退けた。あの偉大なシンボリルドルフに並ぶ、七つ目のG1制覇である。
 続く宝塚記念は、ゴールに驀進するメイショウドトウを激しく追撃したものの、今度は0,2秒差で敗れた。メイショウドトウに騎乗した安田康彦は1番人気のオペラオーを負かしたことを笑顔でファンに詫びた。
 秋は京都大賞典から始動してこれを勝ったが、続く天皇賞・秋は二世代下のアグネスデジタルの2着に敗れ、ジャパンカップも二世代下のダービー馬ジャングルポケットの2着に敗れた。引退レースとなった有馬記念も二世代下のマンハッタンカフェの5着に敗れ、その掉尾を飾れなかった。
 26戦14勝、獲得賞金は18億3500万円余。これは2015年現在の日本記録であり、世界記録でもある。特別報奨金を加えれば20億円を超える。ちなみにメイショウドトウの獲得賞金は9億2130万円余であり、特別報奨金を加えると10億円を超える。
 2002年1月、京都競馬場でテイエムオペラオーとメイショウドトウの「合同引退式」が行われた。二頭でパドックを周回し、本馬場に出てターフを疾走。関係者みんなで口取りの記念写真撮影、そして和田と安田の主戦騎手、調教師、厩務員同士が握手を交わした。なかなか粋な演出である。
「オペラオーからたくさんの物を貰ったが、何も返せなかった。一流の騎手になってオペラオーに認められるようになりたい」と和田竜二は言った。

 これだけの馬だったにもかかわらず、テイエムオペラオーには熱烈なファンが少なかった。美しい栗毛にもかかわらず、華やかさやスター性に欠けていたのだろうか。理由はよく分からない。ライバルの一頭アドマイヤベガは故障で消え、古馬として対戦することはなかった。ナリタトップロード、メイショウドトウとは激闘を繰り返した。決して弱い世代ではない。
 オペラオーは、シンジケートを組み社台スタリオンで種牡馬入りすべく調整されたが、社台との話し合いは不調に終わった。おそらく社台とすれば、ノーザンテーストを通したノーザンダンサー系の良質で優秀な牝馬が多く、同じノーザンダンサー系サドラーズウェルズとオペラハウスを通したオペラオーは配合の魅力が薄く、日本の高速競馬に合わぬ血統と見たのだろう。
 竹園オーナーは北海道と鹿児島に自ら生産牧場を運営している。彼はオペラオーを当初は北海道の自場に繋養して、安い種付料で供用することにした。しかし社台・ノーザンファームのように、良質で優秀な牝馬を数多く集めることはできない。当然、種牡馬成績は思うように上がらない。サドラーズウェルズ劇場やロイヤル・オペラハウス劇場のように、カーテンコールで再び幕が開き、オペラオーにまた光が当たることを期待したい。
 そして、さあ次なる歌劇の開演を。

                     

エッセイ散歩 地に潜む龍(五)

2015年12月26日 | エッセイ
                                         

 昌益が読んだと思われる書物は実に膨大な冊数にのぼると推察される。「大学」「中庸」「論語」「孟子」「易経」「書経」「詩経」「礼記」「河図・洛書」「春秋左氏伝」「孝経」「呂氏春秋」「渾天記」「白虎通義」「周易正義」「易伝」「周易本義」「太極図説」「性理大全」「朱子語類」「乾坤弁説」「天学指要」「墨子」「楊子」「老子」「荘子」「列子」「准南子」「韓非子」「抱朴子」「山海経」「六韜」「三略」「呉子」「司馬法」「唐太宗李衛公対問」「史記」「商書」「漢書」「後漢書」「晋書」「宋書」「斎書」「唐書」「元書」「明書」「説文」「釈名」「広雅」「字彙」「文迸」「三体唐詩迸」「法華経」「涅槃経」「金剛経」「大般若経」…

 昌益は「立拔」(たてうち)という言葉を使っている。この言葉の意味を求めて、多くの研究者が大槻文彦の「大言海」をはじめ、辞書類を当たったが出ていない。現代の「広辞苑」等にも載っていない。やがて昔の鉱山で使われていた専門用語ではないかということになった。
 果たせるかな、秋田藩士の黒沢元重が書いた「鉱山至宝要録」に「立拔」という言葉が発見されたのである。どのような意味かは、現代の鉱山技師でも分からぬそうだが、江戸時代の鉱山専門用語らしい。昌益が「鉱山至宝要録」を読んだか、鉱山技師から話を聞いた可能性が高い。

 昌益は関心領域が非常に広い人であった。彼が「自然心営道」「統道真伝」で触れたことを、現代の学問の範疇で言えば、哲学、倫理学、社会学、政治・経済学、軍事学、歴史学、宗教学、地理学、暦学、数学、天文学、気象学、医学、薬学、農学、動植物学、文字学、音韻学に及ぶ。まさに百科全書派である。
 昌益はフランスの百科全書派の人々と同世代人である。百科全書派とはディドロ、ダランペール等が企てた「百科全書」の編纂・出版事業と、彼らとその執筆者の関心領域の広大さを表現した呼称である。
 この百科全書の出版事業に反対する強大な抵抗勢力がいた。日本でもなじみ深い「イエズス会」である。イエズス会は、ディドロやダランペールたちが王権の破壊と無信仰を勧めているとして国王に働きかけ、様々な妨害工作をして発禁処分に追い込んだ。
 ディドロはこの非合法となった編纂事業を二十一年間かけて続け、ついに出版化した。執筆者はヴォルテール、モンテスキュー、ケネー、テュルゴー、ルソーらである。
 注目したいのはフランソワーズ・ケネーである。彼は医師であった。しかも国王の侍医である。ケネーは1758年、一国の経済循環の総体を一枚の大きな紙に数学的に表現して見せた。これが「経済表」である。
 彼は重商主義によって疲弊したフランスを立て直すために農業を重視し、国家の繁栄は農業の発展の上にのみ実現することを表明した。我々は高校時代、ケネーを重農主義・農本主義と教えられたものである。
 ケネーは世界で初めて「一国の経済循環の総体=国家の経済力」「経済力=国家の力」であると示したのである。アダム・スミスと共に経済学の父と呼ばれる由縁である。ちなみにA・スミスとケネー、ヴォルテール、テュルゴー等は親しかった。
 それにしても、この百科全書派と呼ばれる総合知の人々がヨーロッパに出現した同時代、彼らと何ら交渉もなく知識の流入も影響もなかった鎖国時代の日本に、安藤昌益のような総合知の思想家が出現した不思議を思わざるを得ない。これが世界の同時的共振性なのであろう。昌益とルソーが共振し、昌益とケネーが共振した…。
 ところで、昌益の一、二世代あとに、加賀の浪人・本多利明が出た。狩野亨吉が本多を発掘したことは先に触れた。本多もまた、数学、天文学、暦学、経済学という広範な知の人であった。彼は「日本国」の総体としての「経済力」を最初に提唱・把握した人なのである。その上で、国産増強、北方開発、対外交易すなわち開国を説いた。現代に通じる経済学者と言える。

 さて、刊本「自然真営道」前編が三冊発見されたことは先に触れた。この版元は京都の書肆・小川屋源兵衛である。この刊本には二種類ある。奥付の初刷が「宝暦三癸酉三月 江戸 松葉清兵衛 京都 小川屋源兵衛」となったものである。これは村上寿秋氏の家から発見されたことから「村上本」と呼ばれている。これと全く同じ日付でありながら、松葉清兵衛の名前が削られた小川屋源兵衛の単独刊行の後刷ものを「慶応本」という。慶応義塾大学の所蔵本である。
 松葉清兵衛は江戸の書肆で屋号は万屋松葉軒といい、上方書籍の取次で知られた。また彼は江戸書物屋仲間の行司を務める江戸出版界の有力者であった。「江戸書物仲間行司」とは、江戸出版業界の自己検閲制度である。
「書肆が書籍を刊行上梓せんとする時は、それに先って草稿を添へて、仲間行司に開板願を差し出すのである。行司は御法度、禁制に抵触することなき哉、…類板に非ざるか等を吟味し…なんら支障なき時に始めて行司はその願書に奥印証明をなし、町奉行所にその開板許可を申請、…奉行所においてさらに之を検閲した上、開板を許可するのである。…草稿が脱稿されてから刷り上がるまでには五年とか八年を要することも珍しくなかった」(蒔田稲城「京阪書籍商史」)

 八戸の昌益が、京都の小川屋源兵衛に草稿を送る。三百部くらいでも二百両くらいかかるという。狩野亨吉が草稿の表紙を剥がした反故紙の中に、昌益の借金の申し込みに対する断りの手紙を発見している。おそらく出版のための金策だったのだろう。この刊本の費用は神山親子が捻出したのかも知れない。
 小川屋源兵衛は出版リスクの軽減と江戸・関東・関東以北の流通を考えて、有力書肆で仲間行司の万屋松葉軒・松葉清兵衛に合版(あいばん)を持ちかけた。そして見本刷りを松葉軒に送ったのである。この三巻本は哲学批判が主で、激越な社会批判は書かれていない。しかし何度も読み返した松葉清兵衛は「幕府出版条目」に抵触する記述を見つけた。
 それは「暦道の自然論」の部分である。幕府の暦制に対する公然たる批判の論述である。清兵衛は小川屋源兵衛に異議と訂正を求めたのであろう。この部分の削除か、かなりの書き直しを求めたのだ。その上で合版も取次もを降りたものと思われる。小川屋は京都書物屋仲間行司にこの本の販売を停止する旨伝え、昌益に「暦道の自然論」を「国々、自然の気行論」に書き改めさせたのである。「国々、自然の気行論」では暦という文字も暦制批判も消えた。
 このように初刷本は著者の昌益と、小川屋源兵衛と松葉清兵衛が秘匿し(このいずれかが村上家に入ったのだ)、改めて宝暦四年の六月に出版された(慶応本)のである。
 また、この本で予告された「自然真営道」後編と「孔子一世弁記」は、今もって発見に至っておらず、おそらく出版は立ち消え、未刊行となったものと思われている。
 この三巻の刊本を、狩野亨吉も、その後の昌益研究者の三枝博音、服部之聡、丸山真男らも、完成しつつあった百巻本から公にすることが可能な部分を抄出したものと見ている。しかし西尾陽太郎は、先ず三巻本が完成し、小川屋が予告した後編と「孔子一世弁記」はその後に書かれる予定だったもので、後編とは百巻本のことではないかとしている。…
 ところでこの刊本は、ほとんど読まれ影響を与えた形跡がない。おそらく読みづらく、手にした者を呆れさせたのだ。
 近年、尾崎まとみが、小川屋の出版から一月後に北越の中岡一二斎が読後感を批判的に書いていることを発見している。たしかに読者はいたのである。そしてなにより、小川屋源兵衛の寺町通六角下ると、門人となった明石龍映、有来静香の住居はご近所なのである。
 大坂の森映確、志津貞中は道修町の人間であることから薬種屋と思われる。おそらく彼らは、昌益を京都の味岡三伯の下での修業時代から見知っていたのではなかろうか。修業中の青年医師昌益は、薬種屋、医師仲間、書肆たち(有名書肆・小川屋多左衛門一族)からも注目されていたのではないか。
 川原衛門が三井家の顧客と同一人物ではないかと推理している大塚屋鐵次郎も薬種屋であることから、もしかすると大坂道修町の人かも知れない。

 さて、江戸書物屋仲間行司の万屋松葉軒・松葉清兵衛を慌てさせた、昌益の「暦道の自然論」の暦制批判、暦道批判が、なぜ幕府批判とされて発禁・お縄になるものだったのか、後述したい。これは一時ブームとなった陰陽道の安倍清明からつながる実に興味深い歴史話なのである。

 昌益の「暦道の自然論」は〈暦の自り然なるあり方〉の論である。暦の「ひとりすなる」あり方と読む。万屋松葉軒・松葉清兵衛は、この論述のどこが「幕府出版条目」に抵触すると見たのだろうか。安永寿延によれば、清兵衛はその第一条「みだりに異説を成すの儀」を恐れたのだと言う。
 ちなみに安永は、後々これで取締の手が昌益に伸びはじめ、彼はその危険を察知して、八戸を逃れて二井田移住を決意したのだと推察しているが、私はこれを信じられない。
 暦は古代中国以来、昌益の認識通り「天下の大事、万国の大本」である。だから、国家の施政者からすれば不可侵の権利なのである。昌益が「暦道の自然論」を書いた頃、貞享暦はその採用からすでに六十年ほど経っていた。
 その暦法は地方の農業生産の現場では全く現実的でない。それは自然のリズムに沿う直耕の現場を、混乱させるばかりである。「暦道の自然論」は、農業の生産現場、直耕の現場の農事暦、自然(ひとりすなる)のリズム、気行のリズムとは齟齬があることを指摘したものだ。幕府の貞享(じょうきょう)暦統制は私法であると、昌益は批判したのだ。

 さて、古代より明治以前まで、暦の編暦権と出版権は国家的な権益であり、国家の統制力を推し量るものであったことは確かである。これは現代の我々では想像もつかぬことだ。もっとも明治五年十一月、政府が突然太陰暦から太陽暦へと改暦したのは、財政難のためであったらしい。これは余談である。
 三年ごとに閏年(一年が十三ヶ月ある)がやって来ると、その年は官吏に十三ヶ月分の給料を支払わねばならない。閏年の明治元年、三年は官吏の給料は年俸制であったが、それ以後月給制となっていた。ところが来る明治六年は閏年である。明治政府に十三ヶ月分の給料を支払う財政的余力はなかったのだ。政府は突然、明治五年の十二月三日をもって太陽暦の明治六年一月一日とした。十二月が二日しかないことから、「十二月分の給料は支払わなくてもよかろう」と、まんまと二ヶ月分の官吏の給料を浮かしたのである。(岡田芳郎「暦ものがたり」)
 貞亨元年(1687年)五代将軍綱吉の時世に、幕府は八百年以上続いた中国渡来の「宣明暦(せんみょうれき)」を廃し、「貞享暦」を採用した。改暦は政治的・文化的・国家的な大事業である。幕府の威信がかかっている。
 宣明暦は唐の暦法で、九世紀半ばに日本に渤海大使が伝えたものである。しかし実際の季節の移り変わりと齟齬を生じて、暦としての信頼性を失っていた。渋川春海が、誤りが大きい宣明暦から、日本の風土に合った新しい暦法に改暦するよう幕府に建言した。春海は土御門神道を安倍泰福に学んだ人である。彼の建言は受け入れられて、幕府天文方を命じられた。幕府は春海が創案した大和暦を、「貞享暦」として改暦に踏み切ったのである。
しばらく、暦の歴史について逸脱してみたい。

 先ず賀茂氏の話からである。古代、鴨族は葛族と共に最も早い時期の三、四世紀頃に、韓半島から古代日本に渡来した一族と考えられている。おそらく天皇家よりずっと早く渡来し、土着した。鴨族と葛族は同根で、その後住んだ集落として別れたものであろう。共に奈良の葛城地方を一大本拠として勢力を誇った。葛氏は当時の大王だったのである。
 鴨氏は占術・祈祷・呪術を得意とした。鴨氏が大国主神の裔を祀ったものが賀茂神社である。その後一族は、山城や京など各地に移り住み、鴨、賀茂、加茂、蒲生などを名乗った。その名を加茂川、上賀茂神社、下賀茂神社などに留めること枚挙にいとまがない。七世紀、天武帝の朝臣となり、賀茂忠行に始まる陰陽道を世襲している。忠行の子、賀茂保憲が子の光栄に暦道を、弟子の安倍清明に天文道を伝えた。以来、賀茂氏と安倍氏は陰陽道の家として、暦博士と陰陽寮官人を独占した。
 安倍家も渡来一族で、もともと下級官人の家であった。安倍清明が出て、藤原道長や一条帝に重用され出世していく。現代の我々にはなかなか理解しがたいが、暦の流入以来、その編暦権と出版権は、まさに国家(朝廷)の一大事業、一大権益なのである。その権益は朝廷のもので、これを陰陽寮・陰陽頭が差配するのである。安倍家は陰陽寮の陰陽頭(おんようのかみ)、天文博士として「暦の編暦権」の管掌を握った。これが下級公家の安倍家の家職である。…
 さて鎌倉期に話が飛ぶ。鎌倉前期に勢力をふるった公家の源道親の家を、子の定通が継ぐと、土御門家を名乗った。後鳥羽帝、北条泰時と姻戚関係があり、その血縁から土御門帝に影響力をふるい、やがて後嵯峨帝も実現させた。しかしその後衰退し断絶したが、戦国の下克上の時代、安倍清明の末裔がその土御門家を名乗った。名門の家名を乗っ取ったわけである。その名で、あたかも天皇家や源家、北条家と縁があるかの如く振る舞ったが、商売は本来の家職である陰陽道と、朝廷から委嘱された「暦の編暦権」である。
 天和三年に泰福(やすとみ)が陰陽頭になり、霊元帝より諸国陰陽道支配の綸旨を受け、徳川綱吉がこれを追認した。土御門家は朝廷から祓いや天文・暦の御用をつとめ、諸国の陰陽師からの職札料、貢納料の収入を得ていた。
 安倍家以来、土御門家は暦の朝廷御用を果たし「編暦権」を握り続けた。やがて幕府は土御門泰福の弟子・渋川春海の建言を入れ、土御門家の既得権をそのままに、朝廷から遍歴権と出版権を奪ったのである。土御門家は、幕府天文方から毎年の貞享暦の原稿を提供され、既得権は安堵されたのだ。
 こうして幕府は編暦・出版を通し、改めて全国の統制を図り、さらに出版全体の統制に乗り出したのである。

 昌益の自然観は元々易学に始まる。彼の自然思想は五行説(論)から、やがて四行説(論)に移行していく。しかし、当然の話だが、これらでは自然は上手く説明できていない。そんなもので自然が正しく把握・理解できるわけがない。私は昌益のそのこじつけや屁理屈には全く関心がない。
 彼は易学、陰陽論の中に差別の思想、二別の思想を見出した。易の考え方に二別、上下差別の根源がある。天は貴く地は卑しいという天尊地卑の宇宙観、上下貴賤の差別思想から、君は貴く、臣は賤しという君臣、父子、夫婦、兄弟 社会関係を上下関係で律しようとする政治・法・道徳思想、そして人間の生理を陰陽で説明する医学理論を、昌益は鋭く批判するのである。天地に高低卑尊の別なし、全宇宙・自然に上下善悪の二別なし、陰陽・陽陰の二別、清濁、天地の二別なし、宇宙・自然・天地は無始無終である…。
 まさに昌益に見るべきは、思想哲学批判、社会批判(制度批判)の苛烈さ激越さである。平等思想、不合理な宗教や施政者側の思想哲学を斬り捨てた唯物思想、平和思想、労働感と革命思想の峻烈さである。
 昌益の「自然真営道」は、医者であった彼が、当時の医学の基礎にある儒学、易学・陰陽論、諸哲学に疑問を持ち始めたことから出発したものと考えられる。こうして彼は、中国の医書、医論批判をこころみ、自然哲学・思想批判に至り、やがてその目は、様々な社会の不合理や、悲惨な大飢饉を目の当たりにして、社会の制度・法、それを支える全ての思想哲学批判へと、そして施政者批判へと、激越化していったのだ。