芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

山下清のつぶやき

2016年08月31日 | 言葉
                                                           

 戦時中のことである。みな「神州不滅、日本は神国、必ず勝つ」「わが神国日本は絶対勝つ」等と言い合っていた。それを聞いていた山下清がつぶやいた。


「必ず勝つとわかっているんだったら、戦争なんてしなくてもいいじゃないかな」

 彼がまだ十九か二十歳の頃のことであろう。放浪の旅を続けていた。

 山下清は千葉県東葛飾郡八幡町にある知的障害児童の救護施設「八幡学園」に預けられた。そこで「ちぎり絵」に出会い、没頭した。その作品に接した人たちは感動した。その才能を多くの人たちが認めたのである。
 日本は中国戦線を拡大し、泥沼にはまっていた。日本は各国から非難を受け、その包囲網は狭められていった。清も二十歳には徴兵検査を受けなければならなかった。
「僕は八幡学園に六年半も居るので 学園があきてほかの仕事をやらうと思ってここから逃げていかうかと思っているので へたに逃げると学園の先生につかまってしまふので上手に逃げようと思って居ました」
 清は八幡学園を逃げ出し、放浪の旅に出た。その間に日米開戦となった。彼は徴兵検査を受けなければならないことを知っていた。しかし…
「もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」
 彼は放浪の旅を続けた。
 長い放浪の間に彼も二十一歳になった。我孫子の食堂に住み込みで働いていたとき、八幡学園の職員が訪れ、彼を徴兵検査に連れて行った。結果は知的障害ゆえに丁種不合格、兵役免除となった。清は再び自由の旅に出た。


長屋の相撲好き、苦言を呈す

2016年08月30日 | 相撲エッセイ
   「長屋の相撲好き、苦言を呈す」は2005年6月2日に書いた一文である。
   まるで「光陰、相撲のごとし」である。



 まだ私が三歳くらいの頃から、ラジオから流れる落語と相撲放送を、それはそれは楽しみにしていたものだ。
 おそらくあの頃聞いた落語は、桂文楽や古今亭志ん生、三代目・三遊亭金馬らで、ちっちゃな子供ですから、文楽の遊女ことばの艶笑噺や人情噺、志ん生の聞きづらい語り口や間の江戸の古典なんざ分かっちゃいねえはずなんで。…
まあ、それでも何が可笑しかったのか、ラジオの前でよくケタケタと笑っていたもんでして。…え~まあそのくらい私は年季の入った相撲ファンだってえことを言いたいだけの枕でして。何で噺家の語り口になるかって不思議なもんですな。

 ちなみに、千代ノ山や鏡里、吉葉山や栃錦が好きだった。
 大鵬に破られるまで最年少横綱昇進二十三歳六ヶ月の記録は千代ノ山が持っていた。年二場所、三場所の時代だから、彼の出世がいかに破格だったか察せられよう。彼が九重部屋(出羽海部屋)を興し北の富士を育て、さらに故郷松前から千代の富士を見出した。
 鏡里(時津風部屋)はまるで博多人形そのままの美しいアンコ型横綱だった。吉葉山(高島部屋)は最も生きの良い時期に出征し、五十キロにまで痩せて復員した。怪我に泣き悲劇の横綱と呼ばれた。土俵入りは不知火型であった。
 彼が興した宮城野部屋に、かって陸奥嵐という基本を無視した超個性的な力士がいて、大好きだった。吉葉山は既に亡いが、いま宮城野部屋には白鵬という角界の宝がいる。彼が横綱になったら不知火型を継ぐだろうか。
…千代ノ山も鏡里も吉葉山も栃錦も、非常に柔和な人格者で、人望も厚かったと後々まで伝えられている。横綱とは品格がなければならないのだ。同時代の大関・三根山(高島部屋)も人格者として名高く、彼が戦争孤児たちの慰問を続け、子供たちを相撲見物に招待したりしているというニューズもよく聴いた。

 さて年季の入った相撲ファンとしては、相撲界の行く末が心配である。それは二代目・貴乃花が引退後に父で師匠の二子山部屋をそのまま継承し、一代年寄「貴乃花部屋」を興し角界に残ったからである。その心配は二子山の死で予想通り露出した。
 この貴乃花という男は、どうしようもなく困った存在、やがて角界全体の癌となるだろう。
 先日「千田川は焼香できるか」というメールに対し、やはり大の相撲ファンである人形作家・石塚公昭から返信が来た。「全く完璧に同感です。あの了見、視野の狭さは病気の範疇と思えます。」…相撲ファンは皆心を痛め、貴乃花の思考と態度に怒りすら覚えているのだ。

 TVのワイドショーを見たら、斎場に千田川の姿がありホッとした。貴乃花は「喪主は自分が務めるのが部屋の総意だ」と言ったが、部屋の中でそんな非常識を言う者はいないはずだ。いま残る部屋付き親方は初代・若乃花勝治が育てた三杉里や隆三杉と、二子山親方が育てた穏健な貴ノ浪である。兄・勝と喪主で揉めていたら、叔父の花田勝治が「喪主は勝だ!」と一喝してやっと貴乃花が折れたのが真相らしい。
 現役時代から貴乃花が進もうとしているのは相撲の王道であり、それがために周囲と妥協を許さぬストイシズムとなっている、と一部の理解者は言うが、ただ聞く耳を持たず意固地なだけで、人格者でもなく人望もない。しんねりと、重く意味のあるかの如き発言をするが、その言葉をよく吟味すると、聞き心地はよいが全く空疎で意味のないガキの言葉であることが判明する。貴乃花は王道を気取り、懸命にその態度を演技しているかのようだ。
 二子山親方が親友の大島親方(旭国)の処へよく顔を出し、彼に深い苦悩を曝していたと言う話しは涙が出る。王道を気取りストイシズムと大物ぶりと威厳を演技する故の、他者の無視、たえない周囲との軋轢の数々…。

 力士生活の晩年が近づいたことを意識した貴闘力は、何かと声をかけてくれた一門の大鵬親方の部屋を継ぐ決意をし、将来の軋轢が予想された二子山部屋を出た。
 予想通り、部屋隆盛の功労者であり部屋付き親方として残った兄弟子の安芸乃島は破門し、叔父が一喝するまで「喪主」は部屋を継いだ自分だと言い張る。
 離婚し花田家を出た母親を葬儀に呼んだのは、兄の勝だったという。母親は貴乃花についてこう語った。「自分の姿勢を崩さないが、要領の悪さは光司らしいと思いました。一途に王道を突き進もうとするあまり、周りが見えなくなっている。十五歳という年齢から社会勉強を積まずに相撲だけをやってきた。三十歳を越えたのですから、自分を磨いて尊敬されるようになってほしい」
…貴乃花は相撲界の困りものである。

坂口安吾が憲法を語る

2016年08月29日 | 言葉
                                                                

 人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、
 というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。
 戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。

相撲社会の文化学

2016年08月28日 | 相撲エッセイ
                                                      
       
  パソコンのデータを整理していて、「相撲社会の文化学」という一文を見つけた。
  2005年7月26日に書いたものである。十一年も前だ。掲載しておこう。



 相撲界は封建制の遺風が残る旧態然たる社会のように思われる方が多いが、これは全く事実と異なる。相撲社会が古いのか新しいのかは措くとして、言えることは確かに特殊な社会であり、またオープンソサエティであることだ。だから欧米の文化学者や哲学者たちは数十年も以前より、日本の相撲社会のここに注目していた。彼らは相撲社会を日本の中の、最も異質な実力社会と捉えてきたのである。

 オープンソサエティとは字義通り開かれた社会のことである。オープンソサエティでは、誰もが機会を均等に与えられる実力社会なのである。この社会は芸能界や政界と異なり、親の七光りが全く通用しない。文字通りの裸一貫の実力社会であり、家柄も門閥も人脈も、通常の日本社会が持つ「封建の遺風」は全く通用しない。つまりこの社会には、いささかも「小さな天皇制なるもの」は存在しない。
 この相撲社会は、極めてアメリカ的、アングロサクソン的な「実力至上主義」が貫かれており、その意味に於いて、日本社会内では最も異質で特殊な社会なのである。古くから力士たちは、土俵の中に宝が埋まっていると聞かされてきた。それは努力と実力次第で全て得られるものなのである。

 相撲は五穀豊穣や平安を祈る神事として神に捧げられてきた。神事は礼式化して伝えられている。
 また親方とお女将さんと弟子の関係は親子としての関係であり、兄弟子と弟弟子は兄弟の関係である。そこには主従関係はなく、親や年上や先輩を敬う礼儀がある。
 現役力士は頭に髷を結い、髷のある間は土俵上で武士道を貫かねばならない。
 武士道本来の珠玉の理念は、封建の主従関係ではなく、彼が立ち生きる「場」において、いつでも「死ぬる覚悟」「潔さ」を言う。「葉隠」の冒頭に述べられる「武士道とは死ぬことと見つけたり」なのである。
 従って土俵は力士たちの武士道の場なのであり、ただ勝てばよいとして卑劣な手を使ったり、土俵を汚すような振る舞いに及べば、行司は斬り捨ててよいのである。この斬り捨て御免の行司は、真剣の脇差し帯刀を許されている。力士たちは土俵という場に死ぬ覚悟で立ち、己の武士道、相撲道に精進するのである。

 相撲社会に於いては番付が全てという方も多い。これも一面正しいが、実は本質的ではない。相撲社会は実力社会である一方、礼儀が非常に重んじられる。若い横綱や大関は、年上の平幕力士に対し礼儀を持って敬する。そして年上の平幕力士は若い横綱や大関の地位に対し、礼儀を持って敬する。
 しかし年上の力士も幕下以下の番付なら、若い関取の付け人をやらされる。それは「悔しかろう、口惜しかろう、だから頑張れ」というインセンティブなのである。それも力士の修業なのだ。

 相撲社会の実力には「人格」力も入る。横綱を極めても理事長になれるわけではない。
相撲社会は実力社会なので、人格力すなわち人徳や、協会の運営能力、経営能力、統率力が問われる。横綱・常ノ花が出羽の海理事長時代、その協会No.2に抜擢したのは現役時代に前頭二枚目が最高位だった親方であった(名前は忘れた)。実質上はその親方が相撲協会を経営した。
 さらに双葉山の時津風理事長が次期理事長に抜擢したのは、これも前頭筆頭が最高位だった武蔵川親方であった。彼は引退後に経理学校に通い、経理・財務に秀で、人望もあつく、数々の大胆な改革を断行した。
 次の春日野理事長が二子山の次の後継者に抜擢したのは、優勝回数も少なく一般には人気もなかった佐田の山(出羽の海)であった。
 佐田の山は優勝した翌場所に体力を残したまま引退し、実に潔い引退と言われた。彼も引退後に経理学校に通い、財務に明るく、また他の親方衆や力士たち、行司や呼び出したちの人望もあつかった。彼は理事長職に専念するため、出羽の海という大名跡を関脇・鷲羽山に譲り、自らは一介の部屋付き親方に過ぎない境川親方になった。年若くして理事長職に就いたため長期政権になると言われたが、数々の改革断行の中で「親方株改革」に失敗すると、さっさと理事長職を大関・豊山の時津風に譲った。なかなか潔い人だったのである。
 現在の協会理事に、前頭筆頭が最高位だった若藤親方(和晃)がいる。彼も人格者の評判が高い。また現在、数々の大胆な改革を実行に移しているのは元関脇・藤ノ川の伊勢の海理事である。
 相撲社会は実力と人格の高潔さが尊ばれるのである。相撲社会は、日本社会の中では異質のオープンソサエティであり、そして伝統の美風が残された社会のひとつである。

ヴォルテールの至言

2016年08月27日 | 言葉
                                                                 

   ヴォルテール(フランソワ=マリー・アルエ)が示した言論の自由とは…


 私はあなたの意見に反対だ。
 しかし、あなたがそれを言う権利は、生命をかけてでも守ってみせる。