芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

谷川俊太郎の反戦詩

2016年10月12日 | 言葉
         

 谷川俊太郎の詩、彼の言葉が好きだ。この歌は多くの歌い手がカバーしている。


   死んだ男の残したものは
       作詞/谷川俊太郎  作曲/武満徹  歌/友竹正則
 
   一
    死んだ男の残したものは
    ひとりの妻とひとりの子ども
    他には何も残さなかった
    墓石ひとつ残さなかった
   二
    死んだ女の残したものは
    しおれた花とひとりの子ども
    他には何も残さなかった
    着もの一枚残さなかった
   三.
    死んだ子どもの残したものは
    ねじれた脚と乾いた涙
    他には何も残さなかった
    思い出ひとつ残さなかった
   四
    死んだ兵士の残したものは
    こわれた銃とゆがんだ地球
    他には何も残せなかった
    平和ひとつ残せなかった
   五
    死んだかれらの残したものは
    生きてるわたし生きてるあなた
    他には誰も残っていない
    他には誰も残っていない
   六
    死んだ歴史の残したものは
    輝く今日とまた来るあした
    他には何も残っていない
    他には何も残っていない

ジュリーに拍手

2016年10月11日 | 言葉

 ジュリーは骨のある男だと思う。人気商売であることを考えれば、なかなかこのような詞を書き、多くの人の前で歌うには勇気もいる。この歌はテレビで歌う機会は与えられないだろう。しかし、もともと「歌う」は「訴ふ」なのである。彼には、手遅れにならぬ前に訴えねばという思いが強かったのだろう。
 あらためてジュリー、沢田研二の反骨に拍手。


    「我が窮状」
      作詞/沢田研二  作曲/大野克夫

  麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
  忌まわしい時代に 溯るのは 賢明じゃない
  英霊の涙に変えて 授かった宝だ
  この窮状救うために 声なき声よ集え
  わが窮状 守りきれたら 残す未来 輝くよ

  麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
  老いたるは無力を 気骨に変えて 礎石となろうぜ
  あきらめは取り返せない 過ちを招くだけ
  この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう
  わが窮状守れないなら 真の平和ありえない

  この窮状 救えるのは 静かに通る言葉
  わが窮状 守りきりたい
  許しあい 信じよう


      

好きな童謡

2016年10月10日 | エッセイ
                                                               

 あまり童謡や唱歌を耳にすることがなくなって久しい。はなはだ残念なことだ。
 これまでも童謡唱歌の逸話を、勝手な想像まじりに「掌説うためいろ」と題して書いてきた。「勝手な想像まじり」というのは、詩人や作曲者に関する様々な解説や逸話を読むと、どうも違うのではないか、あるいはその時代が立体的、重層的にとらえられていないのではないか、と感じられるため、こうではなかったのか? ということからくる想像なのである。
 これといった劇的な逸話が少ない童謡唱歌は、「掌説うためいろ」に入れなかった。しかし、二木紘三先生、池田小百合先生や、童謡唱歌の仕事に携わっておられる方々には、とてもとても及びもしないが、私にも大好きな童謡や唱歌が数多くある。

「どこかで春が」はそのひとつである。作詞は百田宗治、作曲は草川信で、大正12年(1923年)に発表された。
 百田宗治は明治26年(1983年)大阪生まれである。大正4年(1915年)に個人雑誌「表現」を出し、その翌年に詩集「一人と全体」を出版した。彼は人道主義的、民主主義的な傾向を強め「民衆」派詩人の一人と目された。その後は贅句を削った現代的な詩風に一変した。昭和7年以降は童謡詩、児童詩・作文教育に取り組み、児童文学者や全国の教師たちと綴方運動を始めた。

   一
    どこかで「春」が 生まれてる
    どこかで水が 流れ出す
   二
    どこかで雲雀(ひばり)が 啼(な)いている
    どこかで芽(め)の出る 音がする
   三
    山の三月(さんがつ) 東風(こち) 吹いて
    どこかで「春」が うまれてる
  
「緑のそよ風」も草川信の作曲である。昭和22年(1947年)に、清水かつらがNHKラジオの依頼を受けて作詞し、草川の最晩年の童謡となった。この頃の彼は、南方に出征したまま生死も知れぬ長男・宏のことや、罹病のため塞ぎ込むことが多かったという。
 しかしこの歌は明るい。彼の希いを込めた最期の明るさだったのだろう。この「緑のそよ風」は翌年の1月に放送されたが。彼はラジオから流れるこの曲を聴くことができなかった。

   一
    みどりのそよ風 いい日だね
    ちょうちょもひらひら 豆の花
    なないろ畑に いもうとの
    つまみ菜つむ手が かわいいな
   二
    みどりのそよ風 いい日だね
    ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
    すばこの丸まど ねんね鳥
    ときどきおつむが のぞいてる
   三
    みどりのそよ風 いい日だね
    ボールがポンポン ストライク
    打たせりゃ二塁の すべり込み
    セーフだおでこの 汗をふく
   四
    みどりのそよ風 いい日だね
    小川のふな釣り 浮きが浮く
    静かなさざなみ はね上げて
    きらきら金ぶな うれしいな
   五
    みどりのそよ風 いい日だね
    遊びに行こうよ 丘越えて
    あの子のおうちの 花畑
    もうじき苺(いちご)が 摘めるとさ

「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)は「尋常小学唱歌(四)」として全国の小学校で歌われた文部省唱歌だ。したがって作詞者・作曲者は不詳で特定されていない。時代を経て、少しずつ歌詞が変えられている。
 昭和60年に音楽教科書から姿を消した。そのときの文部省の役人の話が忘れられない。要約すると「今の子どもたちには『鍛冶屋』だとか『ふいご』と言っても理解できない」と言った。そんなもの、教えればいいことだろう。
「チャンバラ時代劇の刀を作る職人さんは刀鍛冶という。農業に使用するクワ、カマ、スキ、ナタ(黒板に白墨で簡単な絵を描き)などを作る職人さんは野鍛冶という。鍛冶仕事には鉄を真っ赤に焼く炭火が必要で、フイゴはその火を盛んにするため風を送り込む装置だ」…何の不都合やある。明治初期の唱歌は、全国的に統一した「国語」、さらに品格のある日本語、万葉以来の伝統の五七調の言葉のリズム、韻律も教えることでもあったはずだ。また音楽好きの教師たちは、算数の授業で節を付けた数え歌を教えたこともあった。何の不都合やある? 

   一
    暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
    飛び散る火の花 はしる湯玉
    ふゐごの風さへ息をもつがず
    仕事に精出す村の鍛冶屋
   二
    あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)
    早起き早寝の病(やまひ)知らず
    鐵より堅しと誇れる腕に
    勝りて堅きは彼が心
   三
    刀はうたねど大鎌小鎌
    馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
    平和の打ち物休まずうちて
    日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
   四
    稼ぐにおひつく貧乏なくて
    名物鍛冶屋は日日に繁昌
    あたりに類なき仕事のほまれ
    槌うつ響にまして高し

「村祭り」もいい。これも文部省唱歌で、作詞者・作曲者は不詳(南能衛作曲とする記述もある)。明治45年の文部省「尋常小学唱歌(三年)」に掲載され、昭和17年の「初等科音楽(一)」で歌詞が改められている。
   一
    村の鎮守の神様の
    今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    朝から聞こえる 笛太鼓
   二
    年も豊年満作で
    村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    夜まで賑(にぎ)わう 宮の森
   三
    治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
    めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    聞いても心が 勇み立つ

 私は「あの町この町」という童謡を聴くと、なぜか横浜の夕焼けの坂道を思い出す。この曲は大正13年(1924年)に「金の船」に発表された。
 それにしても野口雨情と中山晋平コンビは「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「黄金虫」「雨降りお月さん」「シャボン玉」など、何と多くの素晴らしい童謡を残してくれたことか。

   一
    あの町この町 日が暮れる
    日が暮れる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   二
    おうちがだんだん 遠くなる
    遠くなる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   三
    お空に夕べの 星が出る
    星が出る
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ

「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ販刷りの同人誌「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した童謡詩である。キングレコードの専属作曲家になっていた河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングのディレクターに持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で2月にはレコード化した。すごいスピードである。この時、作詞の三苫には無断で勝手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代だったのだ。
「仲よし小道」はヒットした。日中戦争が拡大しつつあった頃である。
 三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福岡師範学校を出て教職に就き、川崎の小学校、生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。彼は昭和24年に亡くなっている。
 河村光陽も福岡出身で、小倉師範学校を出て地元で音楽教師をした。その後作曲に専念し、キングレコードの専属となった。
 やがて時代は太平洋戦争に突入し、小学校は国民学校に、子どもたちは少国民になり、集団で登下校するようになった。「仲よし小道」の楽しい日々は、ごく短い間だったのだ。

   一
    仲よし小道は どこの道
    いつも学校へ みよちゃんと
    ランドセル背負(しょ)って 元気よく
    お歌をうたって 通(かよ)う道
   二
    仲よし小道は うれしいな
    いつもとなりの みよちゃんが
    にこにこあそびに かけてくる
    なんなんなの花 匂(にお)う道
   三
    仲よし小道の 小川には
    とんとん板橋(いたばし) かけてある
    仲よくならんで 腰(こし)かけて
    お話するのよ たのしいな
   四
    仲よし小道の 日ぐれには
    母さまお家(うち)で お呼びです
    さよならさよなら また明日(あした)
    お手手をふりふり さようなら

「歌の町」も好きな曲だ。終戦後の世相に、子どもたちに明るさを与えてくれた曲の一つだろう。
 作詞の勝承夫(かつ よしお)は明治35年(1902年)東京四谷生まれである。旧制中学の頃から詩人として知られ、東洋大学に進んで「新進詩人」「新詩人」に参加した。大学卒業後は報知新聞社の記者となり、昭和18年に退社して文筆に専念した。戦後は音楽教育活動や全国の学校の校歌も手がけ、日本音楽著作権協会の会長となり、また東洋大学の理事長も務めた。
 作曲の小村三千三は明治33年(1900年)神奈川県三崎町の生まれである。彼もまた全国の小・中・高・大学の校歌を作曲した。

   一
    よい子が住んでる よい町は
    楽しい楽しい 歌の町
    花屋はちょきちょき ちょっきんな
    かじ屋はかちかち かっちんな
   二
    よい子が集まる よいところ
    楽しい楽しい 歌のまち
    雀は ちゅんちゅく ちゅんちゅくな
    ひ鯉は ぱくぱく ばっくりこ
   三
    よい子が元気に 遊んでる
    楽しい楽しい 歌の町
    荷馬車は かたかた かったりこ
    自転車 ちりりん ちりりんりん
   四
    よい子のお家が ならんでる
    楽しい楽しい 歌の町
    電気は ぴかぴか ぴっかりこ
    時計は ちくちく ぽんぽんぽん

 私の幼少期、横浜には子どものお馬車が走っていた。それ以前に馬車道という地名もあった。少年期に銚子に暮らしたが、ヤマサやヒゲタの醤油工場の荷馬車が、醤油樽を積んで公道をガラガラと行き来していた。花屋は今も「ちょきちょき ちょっきんな」のままだが、さすがに鍛冶屋は町から姿を消した。しかし下町でたまさか見かける板金屋は「ばんばん」と叩き、通りかかった町工場の音は、今でも「がったん、がったん」と耳にすることがある。自転車の「ちりりん りんりん」は蕎麦屋の出前の兄さんか、三河屋の御用聞きのおじさんの自転車か。いきいきとした小さな産業と、暮らしの音があった。

                                                                 
                                                        

加藤典洋さん 日本の独立を語る

2016年10月09日 | 言葉
                                                                  

 明治維新期、フランスから帰ってくる途中、思想家の中江兆民は欧州人がサイゴンの港でアジア人を足蹴にして使役しているのを見て、彼らの自由平等博愛の原則は立派だが、彼らにはそれを実行できない。本当に実行できるのは、彼らではなくて、彼らの思想を輸入し、学ぶ自分たちのほうなのだと悟ります。それと同じことが、ここにもいえるからです。

 その課題とは、民主主義の原則は、戦後、占領期に米国によってもたらされたのですが、これを、米国以上にはっきりと実現し、国際社会に寄与していけるのは、彼らではなくてわれわれなのではないか、というものです。日本に民主原則、平和原則を確立するために、米国の非民主的、また軍事的な介入を排除し、あくまで平和主義を貫き通すかたちで、対米自立を獲得する、というのがその具体的な目標です。そこからはじめ、米国を含む近隣諸国とのあいだに友好的な善隣信頼関係を築き上げ、国連中心主義に立ち、世界の平和の確立に寄与していくのです。

            (2015年8月15日「ポリタス」より)

名歌誕生の不思議

2016年10月08日 | エッセイ
                                                                

   
   
    われは湖(うみ)の子 さすらいの
    旅にしあれば しみじみと
    のぼる狭霧や さざなみの
    志賀の都よ いざさらば
   二
    松は緑に 砂白き
    雄松(おまつ)が里の 乙女子は
    赤い椿の 森蔭に
    はかない恋に 泣くとかや
   三
    波のまにまに 漂えば
    赤い泊火 なつかしみ
    行方定めぬ 浪枕
    今日は今津か 長浜か
   四
    瑠璃の花園 珊瑚の宮
    古い伝えの 竹生島
    仏の御手に いだかれて
    ねむれ乙女子 やすらけく

「琵琶湖周航の歌」は旧制第三高等学校の端艇部の歌として歌われはじめ、ほどなく第三高等学校(京都帝国大学)全体の寮歌として、やがて各地の旧制高等学校でも歌われるようになった。詩と旋律が若者たちの持つ青春のリリシズムに響いたのであろう。

 明治26年に第三高等学校のボート部が創設以来、毎年学年末(この頃の旧制高等学校、大学は9月が学年初め、6月末が学年末で7月卒業であった)に、ナックルフォア(漕手四人、舵手一人)数艇に分乗し、数日かけて琵琶湖を周航するのが恒例行事であった。
 小口太郎は明治30年(1897年)、諏訪湖西岸の湊村(現岡谷市)出身で、大正5年9月に、第三高等学校の二部(理工農進学コース)に進学した。小柄でどこか女性的な優雅さがあり、温和な性格で、優しい面立ちと切れ長の目をし、笑窪が愛らしい美青年であったという。
 大正6年(1917年)6月27日、二部の学生たちはフィックス艇(漕手六人、舵手一人)に乗り、この恒例の周航に参加した。
 彼らは合宿所のある琵琶湖南端の大津三保ヶ崎を出発し、西岸沿いに北上し雄松で宿泊した。二日目も北上して今津で宿泊した。次の日は今津から東進して竹生島に寄り、長浜で昼食休憩し、南下して彦根で宿泊した。最終日は彦根を出発して、長命寺で昼食を取り、南下を続けて大津に戻った。
 小口は漕艇中に詩想を得て、密かに詩作し、今津で焚き火を囲んで放歌高吟しているとき、友人の中安治郎に見せた。すると中安が「おいみんな、小口がこんな詩を作ったぞ」と仲間たちに紹介した。それはなかなか評判が良かったが、仲間や先輩も「ここはこう表現したらどうだ」と意見を言った。小口は仲間や先輩の意見を取り入れ修正したらしい。おそらく詩は二番か三番までであったろう。
 その詞を前に「どんな曲で歌えば合うだろうか」と放歌高吟青年たちが、いろいろ試したのだろう。そのうち谷口謙亮がふと思いついて言った。「おい、『ひつじぐさ』の旋律が合いそうだな」…。
 当時三高の学生たちが好んで歌っていた哀愁と情感漂うイギリス民謡「ひつじぐさ」のメロディで歌ってみたところ、歌詞にピタリと合った。「おお」「合うじゃないか」
 小口は曲も自分で作ろうと思っていたのだが、みんな「ひつじぐさ」で盛り上がってしまった。
 今日歌われている六番までの歌詞は、翌大正7年にはできていたらしい。仲間や先輩の意見も取り入れ、小口太郎がまとめたのだろう。
 やがて「琵琶湖周航の歌」は、端艇部だけでなく、三高全体の学生たちによって歌い継がれ、広まっていった。しかし「ひつじぐさ」も譜面があったわけでもなく、口伝えで継承されたため、原曲のとはかなり違うらしい。
 
 小口太郎は第三高等学校を卒業すると、東京帝国大学理学部物理科に進学した。彼は「きわめて頭脳明晰で真摯」であったという。在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、数か国の特許を得たという。卒業後は東京帝大付属の東京航空研究所嘱託の研究者として勤務した。
 太郎は徴兵検査を受けた後、神経衰弱となり、退所した。諏訪湖畔の故郷に戻ったが、病は重くなるばかりで、大正13年に豊多摩郡の淀橋町の病院に転院している。その療養の甲斐なく、大正13年5月に27歳で亡くなった。
 自殺であった。鬱病だったのかも知れない。その頃彼は、諏訪中学の後輩の妹・浜岡すずと婚約していたが、小口家は浜岡家に対し「太郎は脳溢血で亡くなった」と伝えた。

「琵琶湖周航の歌」は学生たちの間でのみ歌われていた。昭和8年(1933年)にタイヘイレコードから「第三高等学校自由寮生徒」の歌唱によるものとして発売されている。
 第二次世界大戦後は歌謡曲としてひっそりと歌われ続け、昭和30年代になると歌声喫茶でも歌われるようになった。昭和36年(1961年)にボニージャックスが、さらにペギー葉山、小林旭が歌い、その後も多くの歌手によって歌われている。昭和46年(1971年)、加藤登紀子が「琵琶湖周航の歌」をカバーし70万枚を売り上げた(これまで60組以上の歌手がカバーしている)。この加藤登紀子の大ヒットから「琵琶湖周航の歌」の研究や調査が始まったのである。
「琵琶湖周航の歌」は作詞作曲・小口太郎とされていて、「ひつじぐさ」を原曲としていることは忘れられていた。「ひつじぐさ」はイギリス民謡らしい。イギリス民謡とされているが不明なことが多い。そもそも曲は伝わっていなかったのではないか? ではその作曲者は誰なのかという調査が本格化した。
 やがて「吉田ちあき」という人がイギリス民謡「ひつじぐさ」を七五調で訳し、その訳詞に自ら曲を付けたらしい。…
 しかし、「吉田ちあき」という人は、どこのどんな人かは、ほとんど知られていなかった。
 その「ひつじぐさ」の楽譜が出てきたのは昭和50年代に入ってからである。どうやら「吉田ちあき」は、新潟に縁があるらしいことがわかってきた。
 そして地元紙の小さな記事が、偶然「吉田ちあき」を特定することになった。

 平成5年、新潟県安田町で「吉田東伍展」の準備をしていた旗野博氏の目に、新潟県の地方紙の小さな記事が目に留まった。滋賀県今津町教育委員会の落合良平氏が「琵琶湖周航の歌」で町興しを企画しており、作曲者「吉田ちあき」の消息を探している、というのである。旗野博氏は吉田家の系図を目にしていた。
 吉田東伍の次男は「吉田千秋」であり、元新潟大学文学部教授の吉田冬蔵氏の実兄である。旗野博氏は冬蔵氏に連絡を入れた。
 吉田千秋は11才年上の吉田冬蔵氏の実兄である。冬蔵氏は旧制新潟高等学校に通っていた時に「琵琶湖周航の歌」を良く歌ったという。愛唱していた歌の作者が、夭折した兄の千秋であったとは!
 千秋は、歴史・地理学の巨人・吉田東伍の次男であった。天才・吉田東伍は大正7年に亡くなったが、その翌年に千秋は24歳で夭折していた。

 吉田千秋は明治28年(1895年)2月に、新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市)に生まれた。兄は春太郎、妹が小夏、弟が冬蔵、その後に生まれた妹は、梅とあやめである。
 千秋の誕生時はちょうど日清戦争の最中で、父・東伍は読売新聞の従軍記者として軍艦「橋立」の上にいた。
 東伍は吉田家の婿養子だったが、大鹿の家ではなく、東京で研究と執筆生活を送っていた。千秋の二歳の時、母と上京して父と暮らし、尋常小学校に入学したが、数ヶ月後に新潟の実家に預けられて転校した。高等小学校に入学したのも新潟だったが、二年次には再び東京に転校した。明治40年に東京で中学校に入学したが、その頃に肺結核に罹患した。
 彼は英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など外国語を独学し、さらにはドイツ語の本で音楽を独習した。療養のために入院した茅ヶ崎南湖院の院長であった高田耕安を通じ、キリスト教に触れ、聖書も外国語で読んだという。
 千秋が中学校に入学した頃、東伍は千秋と兄の俊太郎の語学の勉強のため、高価だった蓄音機を買い与えた。二人はこの蓄音機にかじりついて英語のレコードを聴いたらしい。千秋の英語聞き取りの能力は優秀だったという。音楽は独学だったのだが、耳が良かったのであろう。聞き覚えた曲を採譜し、さらに自分の声域にあわせて歌っていた。千秋の声は低く、ハーモニカを器用に吹き、バイオリンや手風琴(アコーディオン)や卓上ピアノを上手に弾いたという。
 千秋の音楽はやがて作詞と作曲に向かった。彼は自分で作詞、訳詞したものに曲を付けた。本当は自分で歌いたかったに違いない。今ならシンガーソングライターを目指しただろう。彼は自分の作品を、雑誌へ投稿した。
 明治45年、大日本農会附属東京農学校(現東京農業大学)に入学した。大正4年に、イギリス民謡の英語の詞を訳し、混声4部合唱曲「ひつじぐさ」を作曲した。これは「音楽界」8月号に掲載された。その「ひつじぐさ」が気に入り、愛唱する青年たちがいた。それは静かに、千秋の知らない遠い所で広がっていったのだ。
 千秋は京都に行ったことがない。谷口謙亮という青年も知らない。千秋は琵琶湖を見たことがない。小口太郎という青年と会ったこともない。
 病状が悪化し、東京農大を休学、後に退学した。茅ヶ崎南湖院への入院を経て、その年の秋には新潟の大鹿に帰郷し、療養することになった。
 大鹿ではキリスト教無教会派の集会に参加し、オルガンで讃美歌などの作編曲や唱歌の指導をし、実家の庭にチューリップや菖蒲、ダリアやボタンなどの花を植えた。
 大正7年に父・東伍が亡くなった。その翌8年2月、千秋は24年の短い生涯を閉じた。
 千秋は自分の作った曲が、全く別の詞で、「琵琶湖周航の歌」として歌われていたことなど、知るよしもなかった。