芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

怒りの葡萄(2)

2016年01月26日 | シナリオ
            

♯9

 押し潰され傾いだ家や納屋に向かって丘を降りるトムとケーシー

 トム  「なんてこった!」
 ケーシー「何があったんだ?」

 納屋をのぞきこむ二人

 釘にかかっている破れた作業着、転がっている汚れた一ガロン缶

 トム  「農具もねえ…」
     
 ケーシー「いったい、何が起こったのか、…さっぱりわからねえ」 

 トム  「…何も残ってやしねえ…」

 ケーシー「しばらくここをはなれていたからね、何も聞いてねえ」

 綿花畑に囲まれたコンクリートの井戸に、土のかたまりを投げ入れるトム

 トム  「こいつは、いい井戸だったのに。まるで水の音がしねえ」

 倒れかかった家のほうを眺めながら
 トム  「たぶん、みんな死んじまったんだろう」

     「だけど、誰か俺に知らせてくれそうなもんだ」
     「何か俺に知らせる方法があったはずだ」

 ケーシー「家の中に手紙が残してあるかもしれねえ」
     「みんなは、お前さんが出てくることを知っていたのかね?」

 トム  「どうだかな…いや知らねえだろうな」

     「俺自身、一週間前まで知らなかったくらいだからな」

 ベランダ屋根の支柱がはずれて、片方にかしいだ屋根

 家の角がめりこんでいる
 へしおられた材木
 蝶番にぶら下がった扉

 ケーシー「家の中を見てみよう。まるっきり押しひしがれてるぜ」 

     「こりゃ何かでドカンとやられたようだな」

 トム  「みんないなくなっちまった…おふくろは死んだんだ」

     「おふくろがいるとしたら、あの扉は閉まっているはずだ」

 壁にもたせかけたベッドの鉄脚

 破けたボタン留めの女物の靴
 靴を拾うトム

 トム  「おふくろの靴だ。すっかりすり減ってるな」

     「おふくろは、この靴が好きだった。何年も履いていたんだ」

 ベランダの端に腰を下ろし、角材に裸足の足をのせるトム
 トム  「やっぱり、家の連中は行っちまったんだ」
     「何もかも持って行っちまった」

 ケーシー「うちのものは、お前さんに手紙をくれなかったのかね?」
 トム  「うん、うちの連中は手紙を書くような人間じゃねえよ…」

 煙草を吸うトム・ジョード
 トム  「何かただごとじゃねえ…」

     「ひどく悪いことが起こったんじゃねえかって気がする…」

     「家が押し倒されて、家の者がみんないなくなったんだぜ」

 やせこけた猫が納屋から出てくる
 猫がベランダに飛び上がり、二人の後ろに座り込む

 トムが猫に気づく
 トム  「おい! 見なよ、こいつを」
     「残っているやつがいたぜ」

 猫に手を伸ばすトム
 猫が飛びすさる

トム   「何が起こったかわかったぞ」
     「この猫を見たら、悪いことの正体がわかったぜ」
 ケーシー「わしには悪いことが、たくさんあったように思えるがね」
 トム  「いや、悪いことが起こったのは、この家だけじゃねえんだ」
     「どうも、俺にゃ近所の連中が誰もいねえように思えるんだ」

 猫がトムの丸めた上着に近づき、手でつつきだす
 トム  「やあ亀のことを忘れてたよ」

 丸めた上着から亀を解放する。這い出す亀
 亀に飛びかかる猫
 それを見つめるトムとケーシー

 と、指さすケーシー
 ケーシー「誰かやって来るぜ。ほら! あそこだよ。綿花畑の中だ」

 土埃と黒っぽい影
 ケーシー「埃を蹴り立ててるんで、姿がよく見えねえが…誰だろう」


♯10

 綿花畑
 土埃
 土埃の中に男の人影

 トム  「男だぜ」

 近づく男

 トム  「何だ、あの男なら知ってるぜ」
     「あんたも知ってるはずだ。あれはミューリー・グレーブズだ」

 立ち上がって声をかけるトム
 トム  「おい、ミューリー! 久しぶりだな」

 驚いて立ち止まるミューリー。ぼろを身にまとっている

 ミューリー「誰だい?」…

     「おめえは…こいつは驚いた…」

     「トミー・ジョードじゃねえか。いつ出てきた、トミー?」

 トム  「二日前だ」
     「車をつかまえては便乗させてもらったんでな、時間がかかって
      しまったんだ」

     「帰ってみたら、このざまだ」
     「俺の家のもんはどこにいるんだ、ミューリー?」

     「何で家が押し潰されてるんだ?」 
     「何で前庭に綿が植えられてるんだ?」

 ミューリー「やれやれ、俺が来合わせてよかったな」
     「トムおやじは、おめえをえらく心配してたぜ」

     「おめえんとこの連中が立ち退きのしたくをしてるとき、俺はそこ
      にいたんだぜ」

 トム  「うちの連中はどこにいるんだい?」
 ミューリー「それがさ、銀行がこの土地をトラクターで引っかきはじめたと
      き…」

 走り回るトラクター
 トラクターに発砲する老人
     「おめえの爺様なんざ、鉄砲持って、トラクターのヘッドライ
      トをふっ飛ばしちまったもんだ」

     「だけどトラクターは平気な顔で向かってきやがったんだ。爺様も
      運転してる奴を殺したくなかったんだ」
 
 老人に向かっていくトラクター
 トラクターの運転手
 運転手に銃を向けたままの老人

     「運転してた奴は顔なじみのもんだったからな。奴もそれを心得て
      どんどん進んできて、この家をぶっつぶして、振り回したんだ」

 トム  「おめえの長話はあとでゆっくり聞くさ」
     「うちの連中はどこに行ったんだ?」

 ミューリー「いま言おうとしてるじゃねえか」
     「みんな、おめえのジョン伯父のとこにいるよ」

 トム  「そうか! みんなジョン伯父のとこにいるのか?」
     「それで、そこで何をしてる?」

 ミューリー「みんなで綿花摘みしてるよ。金ためて、車を買って、それで暮
      らしの楽な西部に出かけようってわけだ」

     「このあたりにゃ、もう仕事は何もねえからな」

 トム  「それじゃ連中はまだ出発してねえんだな?」

 ミューリー「まだだよ、俺の知ってるかぎりじゃな」

     「俺が最後にみんなのことを聞いたのは、四日前だ」

     「おめえの兄貴のノアが野兎を撃ちに出るのに会ったときだ」

     「ノアは、みんなは二週間以内に出発するつもりだと言ってたな」

     「ジョン伯父も立ち退き通知をくらったらしいぜ」

     「おめえも八マイル歩いてジョン伯父のところへ行けばいい」

 トム  「よしわかった…もう好きなだけしゃべっていいぜ」
     「ミューリー、おめえはちっとも変わっていねえな」

 ミューリー「おめえもちっとも変わってねえな。相変わらず生意気小僧だ」
 トム  「ミューリー、おめえ、ここにいる説教師を知ってるだろ?」

     「ケーシー牧師さ」
 ミューリー「知ってるとも、よく覚えてるぜ」


 立ち上がるケーシー、ミューリーと握手する

 ミューリー「またお目にかかれてうれしいよ」
     「このへんでは長いこと見かけなかったな」

 ケーシー「いろんなことを考えるために、ここを離れていたからな」

     「ところで、ここで何が起こったんだね?」
     「何でやつらは、みんなを土地から追い出すんだね?」

 ミューリー「ちくしょうめ…あの薄汚ねえちくしょうどもめ」
     「やつらにゃ俺を追っぱらうことなんかできねえぜ」
     「何度でも、俺はすぐ戻ってくるからな」

     「もし俺を土の下に眠らせようってんなら、そんとき俺は、奴らを
      二、三人道連れにしてやるぜ」

 上着の横から銃を出して見せるミューリー

 トム  「みんなを追い出したって、どういうことなんだ?」
 ミューリー「それよ! 奴らは、あれこれ、うまいことしゃべりやがった」

     「おめえも知ってるだろう、ここ幾年か、どんなにひでえ年だった
      か…」


♯11
 砂嵐
 ひび割れた大地
 
  「砂嵐が押し寄せてきて、何もかもだめにした」
 
 枯れて倒れた玉蜀黍の葉がカサカサと音を立てる

  「太陽は土埃におおわれた大地に照りつけた」

 畑の玉蜀黍は全て同一方向に倒れている

  「収穫なんてなかった
  誰もかれも食料品屋に借金がたまった」
 
 貧しい小作農家。家の入口に座る男
  
  「土地の所有者はこう言った

   『もう小作人を置いておく余裕はなくなった』

   『小作人の取り分は、私たちにとって、どうにもやりくりのつかぬギリ
    ギリの利益なんだ』

 干からびた大地

   『お前たちの土地を全部合わせても、土地の利益なんてほとんどない』」

 走り回るトラクター

 押しつぶされる小作農家の家


♯12
 ミューリー「…だもんで、奴らは小作人を、みんなトラクターで追い出して
      しまったんだよ」

     「残ったのは俺だけさ。だが、くそっ、俺はいかねえぞ」
     「俺が馬鹿でねえことは、おめえも知ってるはずだ」

 トム  「ああ、おめえのことは、生まれてからずっと知ってるさ」

 ミューリー「この土地がたいして役立たたねえことは俺も知ってる。本当は
      耕地にする土地じゃねえ」

     「それに綿花で、この土地はくたばりかけてるんだ」

     「もし奴らが出て行けなんて言わなきゃあ、俺は今ごろカリフォル
      ニアで葡萄やオレンジをもいでるぜ」

     「だけど、ちくしょうどもは、俺に出て行けとぬかしやがった」

     「人間、そんなこと言われりゃ、出て行けるもんじやねえや」

 トム  「そうだとも」

     「うちの親父だって、そんなに簡単に出て行くなんて合点がいかね
      え。爺様が誰も殺さなかったのも合点がいかねえ」

     「婆様だってよ…うちの連中がそう簡単に出て行くはずがねえ」

 ミューリー「それがよ、やって来た男がうまいことばっかしぬかしやがった
      んだ」…


♯13
 「(♯2のシーン)
 代理人「お前さんたちには立ち退いてもらわなければならない」
    「それは、わしのせいじゃないんだ」
 小作人1「じゃ、誰のせいなんだ? 俺が出かけて行って、その野郎のきん
     たまをぶち抜いてやる」
 代理人「それはショーニー土地家畜会社だ。わしはただ命令を受けているだ
     けなんだ」
 小作人2「そのショーニー土地家畜会社ってのは、誰のことなんだ?」
 代理人「誰のことでもないよ。会社なんだ」
 小作人3「会社だって、人間が集まってできたもんだろうが」
 代理人「そこが違うんだ。会社は人間とは別のものなんだ」
    「会社は人間以上のものなんだ。人間が作ったものだが、人間はそれ
     を押さえられないんだ。…怪物さ」
    「銀行や会社は…空気を呼吸しているのじゃない」
    「利益を呼吸しているんだ…あの連中は」
    「しょっちゅう利益を食い続けなければならないんだ」  
    「この怪物は、太るのをやめると、死んじまうんだ」

 大きな赤い太陽が地平線に沈んでいく
 代理人の箱型の車と、小作人たちに夕闇が迫る            」


♯14
 大きな赤い太陽が地平線に沈んでいく

 ミューリー「人を馬鹿にしてやがるじゃねえか」
     「俺は…俺は出て行かねえぜ」
 
 暮色があたりに迫る
 トム、ケーシー、ミューリーの三人を闇が包みはじめる
 宵闇に星が光る


♯15
 夜空に星

 やっとあたりが白みはじめる時間

 綿花畑の間に続く車の轍とでこぼこ道
 トム・ジョードとケーシーが土埃を巻き上げながら歩いている

 ケーシー「お前さん、本当に道を知ってるんだろうね?」
 トム  「俺は目をつぶったって、まっすぐあそこへ行けるよ」

     「おふくろが、何か料理をしててくれるといいんだがな」

     「腹ぺこだよ」
 ケーシー「わしもさ」

 トム  「ミューリーは、地鼠みてえに、びくびくした人間になりかけてた
      な」
     「まるでインディアンに追っかけられてるみてえに、びくついてい
      やがった」
     「奴は気が変なんじゃねえかな?」
 ケーシー「もちろんミューリーの奴は気違いさ」
     「コヨーテみてえに這いずり回ってりゃ、…」

     「気違いになるのも当たり前だよ」

     「奴はいまに、誰かを殺して、警察と犬に狩りたてられることにな
      るぜ」

     「それが、わしには予言者みてえに、はっきりわかるよ」

 トム  「そうだな。…日の出までにはジョン伯父のところに着けるな」

 すっかり白む大地
 綿花畑の道を急ぐ二人

 トム  「いったいジョン伯父のところじゃ、みんなどうやって寝てるのか
      な」
     「あそこは部屋がひとつと、差しかけ小屋の調理場と、ちっぽけな
      納屋しかねえんだ」
 ケーシー「ジョンは一人ぼっちじゃなかったかい?」
     「あの人のことは、あまりよく覚えてねえが」
 トム  「世界でいちばん淋しい人間だよ」
     「それに、すこし気違いじみた人間だよ」

     「ミューリーに似たとこがあって、ときには、もっとひどいんだ」
     「酔っぱらって、二十マイルも離れたとこや、いたるところでジョ
      ン伯父の姿を見かけたぜ」

     「夜ランタンをつけて自分の土地を耕したり、気違いじみてたよ」
     「誰も伯父は長生きしねえと思ってたよ。でも親父より年上だぜ」

     「年ごとに手強く頑固になってく。爺様より頑固だぜ」

 ケーシー「ジョンは、まるっきり家族を持ったことがなかったのかい?」
 トム  「いや、ジョン伯父には若い女房がいたんだ。親父から聞いた話だ
      けどな」
     「女房は妊娠してたたんだ。ある晩、腹痛を起こしてね」
     「ジョン伯父に医者を呼んで来てくれって…するとジョン伯父は言
      ったそうだ」
     「ただの腹痛だよ。食べ過ぎたんだろ。痛み止めを飲みなって」
     「次の日の昼、女房は気が変になって、夕方死んじまったそうだ」
 ケーシー「何だったんだね? 食あたりかい?」
 トム  「いや、何かが腹の中で破裂したんだ。盲腸とかいうやつだ」

     「ジョン伯父はのんきな男だったが、それをひどく気にしてね」
     「長いこと、誰とも口をきかなくなってしまったんだ」

     「その状態から抜け出すのに、二年かかったんだが、それから気が
      ふれたみてえになってしまったんだよ」
 ケーシー「かわいそうな人だな」
 トム  「伯父は女房が死んだのは自分のせいだと思いこんでるんだ」

     「それからは、誰に対しても、その償いをしてるのさ…」

     「子供にものをやったり、誰かの玄関先に食い物を置いてきたり」

     「自分の持ってるものを、みんな人にやっちまうんだ」

     「それでもまだ伯父は、あんまり幸せじゃなかったよ」
 ケーシー「かわいそうな、淋しいひとだ」
     「細君が死んだあとは、よく教会に行ってたかい?」
 トム  「いや、行かなかったよ。人なかには決して近づかなかったよ」
     「一人ぼっちでいたがってたよ」

 光のなかを歩くふたり。ケーシーはうなだれて歩いている



♯16

 トム  「ほら! 真っ正面だ。ジョン伯父んとこの水槽だ」

 近づくふたり
 水槽の近くに、何匹かの犬たちがいる
 番っている犬たち

 トム  「ちきしょうめ! あの乗っかってる奴は、うちのフラッシュだ」
     「こい、フラッシュ!」

     「ちきしょうめ、見向きもしねえや」

     「もっとも、俺だってあんなときは、誰に呼ばれようが見向きはし
      ねえが」
 笑い出すケーシー
 ケーシー「なんだな、もう説教師じゃねえってことは、まったく気持ちが
      いいもんだな」

     「昔は誰もこんな話をしてくれなかったし、聞いても笑うことが
      できなかった」

     「汚ねえ言葉も使えなかった」

     「今じゃ、好きなときに好きなだけ、汚ねえ言葉も使えるしな」

 交尾している犬
 微笑むケーシー

光陰、馬のごとし 天才テシオの遺産

2016年01月25日 | 競馬エッセイ
                                 

 イタリアのフェデリコ・テシオ(1869~1954年)は「ドルメロの魔術師」と呼ばれた馬づくりの天才であった。彼が生産、育成、調教した馬たち、カヴァリエレダルピノ(5戦無敗)、ドナテーロ(9戦8勝)、ネアルコ(14戦無敗)、ニッコロデラルカ(15戦12勝2着3回)、リボー(16戦無敗)の五頭は傑出していた。特にネアルコが世界の競馬に与えた影響は計り知れない。

 テシオは幼くして両親に死別した。両親の遺産は管理人に預けられ、学業と軍役を終えるまで手にすることはできなかった。遺産が手に入ったテシオは、画家に憧れて絵を描き、アマチュアの障害レースの騎手となり、酒に溺れ、ギャンブルに手を染め、冒険の旅に出た。その旅は遠く南米に及び、馬に乗ってパンパスの野を行き、ガウチョ等と暮らした。帰国し、リディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナとの結婚を機に、マジョーレ湖近くのドルメロの地に小さな牧場を開いた。1898年、テシオ29歳の時である。
 テシオは当初安価な牝馬を購入し、その配合を自ら決め、生産し、育成し、自ら調教し、馬主としてレースに使った。テシオとほぼ同時代のイギリスの第17代ダービー卿は、調教師も厩務員も牧場長も牧夫も血統顧問も、彼等専門スタッフに任せた。卓越した種牡馬も良血の繁殖牝馬も、高額であっても手に入れることができた。イタリアのギウセッペ・デ・モンテルも良血の仔馬を購入し、良血の繁殖牝馬を海外の人気種牡馬にも配合させた。イタリア産馬で最初の凱旋門賞を勝ったのはモンテル所有の名馬オルテロだった。
 テシオは最初からうまくいったわけではない。彼の所有馬が最初の重賞を勝ったのは1905年、牝馬のヴェネローザのエレナ王妃賞(伊1000ギニー)である。次が1909年、牡馬のフィディアがミラノ大賞典を勝った。その後の1957年まで、テシオの馬はミラノ大賞典を22勝した。ついでながら、伊ダービーは1911年のグイドレーニの初制覇から1957年のブラックまで22勝、伊オークスは11勝、伊セントレジャーは18勝、フランスの凱旋門賞はリボーで2勝を挙げている。またテネラニはクィーンエリザベスSとグッドウッドCを制し、ボッティチェリもアスコットゴールドCを勝ち、ニッコロデラルカはドイツの首都大賞典を制している。
 ちなみに、かつて絵描きを志したテシオは、愛馬に画家の名前を付けることが多かった。ざっと見てもレンブラント(伊ダービー、ミラノ大賞典)、ミケランジェロ(伊ダービー、伊セントレジャー)、ドナテーロ(伊ダービー、ミラノ大賞典)、エルグレコ(伊セントレジャー)、ネアルコも紀元前六世紀のギリシャの画家、ドーミエ(伊ダービー、伊セントレジャー)、トゥルーズロートレック(ミラノ大賞典)、ボッティチェリ(伊ダービー、伊セントレジャー、ミラノ大賞典)、そしてリボーもブラック(伊ダービー、伊セントレジャー、ミラノ大賞典、12戦無敗)もフランスの画家からの命名である。

 テシオのドルメロ牧場は繁殖牝馬とその産駒ばかりで、種牡馬を置かなかった。年間生産頭数が10頭から12頭ほどの小牧場である。それも購入したい者が現れれば断ることなく売却した。自分の手元に残したのは数頭である。それで毎年イタリアの競馬を席巻し、イギリス、フランス、ドイツの競馬でも良績を挙げた。彼の育成、調教に大きな秘訣があったと考えるべきだろう。
「血統だけでレースを勝つことはできない」
「調教は素質を伸ばすことはできるが、新たに素質を創り出すことはできない」
 彼は馬をできるだけ自由に、自然を模倣して育てることを理想としていたらしい。自然が最良のものを教えてくれる…。
 しかし、テシオの当歳馬はあまり発育が良くなく、痩せて見栄えがしない馬が多かったようだ。ケンタッキーのホースマンが言ったそうである。「テシオの当歳馬をキーンランドのセリに出しても、500ドルでも売れないだろう」
 テシオは良績を挙げた有力牡馬も種牡馬として売却した。アペレ、エルグレコはフランスへ、デアルベルティスはデンマークへ、ドナテーロ、ネアルコ、ニッコロデラルカ、トルビード、テネラニはイギリスへ、ベリーニ、ボッティチェリはドイツへ、そしてドーミエ、トゥルーズロートレックはアメリカに輸出された。
 これは所有の牝馬に所有の種牡馬を配合したいという誘惑を断ち切るためであった。その牝馬にはどんな種牡馬が良いのかを、もっと自由に判断し、多様な中から選択したいためである。彼がその牝馬に、売却した種牡馬を配合すべきだと想到した時は、たとえ外国でも、わざわざ高い輸送費をかけて連れて行ったのである。受胎率は半分以下で不受胎返金せずであった。
 テシオが自ら生産した種牡馬では、ミケランジェロ、カヴァリエレダルピノ、ベリーニ、トルビード、テネラニを好んで配合している。彼はネアルコを生涯最高の馬と言いつつも「真のステイヤーではない」と評していた。テシオはネアルコを一度も配合に使わなかったが、半弟のニッコロデラルカはよく用いた。その産駒は二頭の「イタリアの女傑」トレヴィサーナ(22戦17勝)とアストロフィーナ(19戦14勝)であり、ドーミエ(15戦13勝)である。
 テシオが「最良の生産馬である」と言ったのはカヴァリエレダルピノ(父はフランス産、イタリアで走った一流馬で一流種牡馬アヴレザック、母はイギリスから輸入した高額の良血馬シュエット)であった。この馬はイタリア最高のミラノ大賞典を勝ったが、わずか5戦したのみであった。しかしこのカヴァリエレダルピノからベリーニ(23戦15勝、伊ダービー、伊セントレジャー)が出、ベリーニからテネラニ(24戦17勝、伊ダービー、伊セントレジャー、ミラノ大賞典)が出て、テネラニからリボーが生まれたのである。
 テシオが何を基準に繁殖牝馬を購入し、何を基準に配合種牡馬を選択していたのか、実はわからない。明確な理論や原理を持っていたとも思えない。言えることは、彼は短距離馬を好まなかった。彼が理想とした馬は、豊かなスピードと持久力と底力を有したセントサイモン(イギリスの10戦無敗の名馬・名種牡馬)や、ブレニムのような万能型の馬だったと思われる。
「一流馬の血統には、祖先に必ず一流のスピード馬がいる」…だからわざわざ持久力のない短距離馬を配合しようとは思わなかったのだ。
 テシオは優れた競走成績を挙げた牝馬や、良血牝馬を求めたこともあり、卓越した競走成績や実績を持つ人気種牡馬を配合することもある。一方、評価の低い安価な種牡馬を配合したり、ちっぽけな牧場の実績のない牝馬や、小柄で見栄えのしない痩せた牝馬を買い求めたりもしている。
 彼が馬の中に凝視、洞察したものは、血統、体型、体質、個性…そして勇敢さ、潜在的能力、数代を経て改良できる秘めた可能性…。そのための適切な牝馬と適切な種牡馬の、最良の配合…である。その判断は、まさに天才の勘、慧眼というしかない。
 テシオは比較的初期に、安価な牝馬マドレーを購入した。これにイギリスやアイルランドでも評価も低く種付け料も安いスピアメントという地味な種牡馬を配合し、ファウスタ(伊ダービー、伊オークス)を生産した。この牝馬はミケランジェロの母となっている。同じくアイルランドでもイギリスでも人気のない安価な種牡馬コロナックから、ヤコパデルセライオ(伊1000ギニー、伊2000ギニー、伊オークス、伊ダービー)を生産し、同様に安価な種牡馬スパイクアイランドでドサドッシ(伊オークス)を生産した。
 またイギリスからキャットニップという痩せた牝馬を、わずか75ギニーで購入した。彼女は1勝馬に過ぎず、その父は先述のスピアメントである。そのキャットニップは、三頭の勝ち馬(重賞を含む)を出した。さらにテシオはこのキャットニップに、先述の一流種牡馬アヴレザックをかけた。その牝駒ノガラは、いまだに「競馬史上最も偉大な牝馬」と評されている。
 ノガラは伊1000ギニー、伊2000ギニーを勝ち、18戦14勝。母としては、産駒の9頭中8頭が出走して勝馬となり、内7頭が重賞勝ちした。その中に人気種牡馬ファロス産駒のネアルコと、安価な種牡馬コロナック産駒のニッコロデラルカ(伊ダービー※20馬身差のレコード勝ち、伊セントレジャー、ミラノ大賞典、ドイツの首都大賞典)が含まれる。
 またテシオはイギリスで一歳の牝馬をわずか160ギニーで購入した。彼女の馬体は難点だらけだったという。またその父は競走馬としても種牡馬としても三流で、母は良血だが未勝利馬だった。テシオはこの牝馬にドゥッチアディブオニンセーニャと名付けて走らせた。彼女は伊1000ギニーに勝った。この馬に良血でイギリス2000ギニー優勝馬のクラリシマスを配合し、牝駒デレアナを生産した。デレアナは伊2000ギニー、伊1000ギニー、イタリア大賞典を勝ち、テシオ好みの距離万能型の種牡馬ブレニムを配合されて、ドナテーロの母となった。
 イギリスで種牡馬となったドナテーロから名馬アリシドンが出、アリシドンから名馬アルサイドが出て、アルサイドからリマンドが出た。リマンドは日本で種牡馬として供用され、オペックホース(ダービー)、アグネスレディ、テンモン(オークス)を輩出した。この系統の特徴は大レースでの底力である。
 リマンドの娘メジロオーロラの息子はメジロデュレン(菊花賞、有馬記念)、メジロマックィーン(菊花賞、天皇賞春、宝塚記念)兄弟である。メジロマックィーンの娘オリエンタルアートは、ドリームジャーニー(宝塚記念、有馬記念)、オルフェーヴル(三冠、有馬記念2勝、宝塚記念)の母となった。またオルフェーヴルと同じ配合のゴールドシップ(皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念2勝)にも、テシオの傑作ドナテーロの血が流れている。
 
 さて、ネアルコのことである。デビューから連戦連勝、伊ダービーを勝った。テシオはネアルコの長距離適性を疑っていた。伊セントレジャーは同じテシオの馬でカヴァリエレダルピノ産駒のウルソーネを出走させ、これを制した。
 テシオはネアルコのためにミラノ大賞典のトライアルとして、サンシロ競馬場で3000m戦の変則的実験レースを組んでもらった。出走馬はネアルコ(負担斤量は119ポンド)、3000m戦なら9戦7勝2着2回の最強の僚馬ウルソーネ(108ポンド)、そしてスプリンターで1500mなら最強馬と言われたビストールフィ(119ポンド)の三頭である。
 先ずネアルコとウルソーネがスタートし、1400m地点からビストールフィが二頭に併走してスタートするのである。結果はネアルコの楽勝で、次いでビストールフィ、ウルソーネは大きく遅れてゴールした。
 その後ネアルコはミラノ大賞典を楽勝し、パリ大賞典に遠征してこれも楽勝した。破った相手はイギリスのダービー馬ボアルセル(ヒンドスタンの父)やフランスの一流馬たちであった。
 ネアルコはイギリスではナスルーラを通じて底力血統のネヴァーベンド(世紀の名馬ミルリーフが出て、その系統のプレイヴェストローマンやマグニチュードが日本に来た)、短距離の王者グレイソヴリン、中距離のプリンスリーギフト(産駒テスコボーイは日本に来て数多くの活躍馬を出した)、レッドゴッド等を輩出した。レッドゴッドはブラシッググルームを出し、そこからレインボウクエストやナシュワンと続いた。
 カナダでは底力のあるニアークティックから万能型のノーザンダンサーを経て英三冠馬ニジンスキー、短中距離の王者ダンツィヒ、中長距離で底力血統のサドラーズウェルズ等を輩出し、日本にはノーザンテーストがやって来た。
 アメリカではナスルーラからボールドルーラー、そしてセクレタリアトヘ。短中距離のロイヤルチャージャーを通じ、短中距離のターントゥから、ファーストランディング、リヴァリッジの系統へ。またターントゥから仕上がり早のヘイルトゥリーズンへ、そして中長距離のロベルトを経て中・長距離で晩成型のリアルシャダイや中長距離・底力血統のブライアンズタイムの系統へ。もう一つの系統はヘイルトゥリーズンから仕上がり早で万能型のヘイローを経て、万能型でスピードも底力も兼ねたサンデーサイレンスへと続き、サンデーサイレンスは日本の競馬を一挙に世界レベルに引き上げたのである。

 テシオは英ダービー馬パパイラスの当歳牝馬を購入し、バルバラブリニと名付けて走らせた。中級程度の成績を挙げたが、これは予想をはるかに上回る成績だった。なぜなら父のパパイラスは大失敗の種牡馬だったからである。このバルバラブリニに、彼が生産したステイヤーながらスピード豊かなエルグレコ(父ファロス)を配合した。その牝駒がロマネラで、7戦5勝を挙げ二歳チャンピオンになったが、気性難からくる悪癖と、骨瘤症状が出たため三歳は未出走で引退した。このロマネラにテレラニを配合してリボーが誕生した。
 リボーはあまりに小柄だったため「ちびっこ」と呼ばれた。そのためテシオはクラシック登録をしなかった。しかし、これは凡馬ではない、将来相当な大物になるだろうと楽しみにした。テシオはその活躍を見ることができなかった。彼が亡くなった二ヶ月後にリボーがデビューした。そして、その春に誕生したブラックは、テシオが生産した最後のクラシック優勝馬となった。
 リボーはイタリア、イギリス、フランスで走り16戦全勝、ほとんど楽勝である。イタリア二歳チャンピオン、ヨーロッパ三歳チャンピオン、フランス古馬チャンピオン、ヨーロッパ年度代表馬2回。二十世紀最強馬と言われている。おそらくリボーこそが、フェデリコ・テシオの最良の生産馬であっただろう。

 私がまだあまり競馬の知識が無かった頃、リボー産駒のマロットの子、イシノヒカルを見た。彼は駄々っ子で意地っ張りだった。マロットはイタリア産馬で20戦7勝、決して一流馬ではなかった。その産駒のほとんどはスピードに欠け、成長が遅く、気性難もあり、二流のまま終わっている。二流種牡馬と言ってよい。ごくわずかな産駒が、リボー系の特徴であるスタミナと底力を持った一流馬に育つのである。
 イシノヒカルは菊花賞を後方からぶっこ抜き、有馬記念も歴戦の強い古馬たちを相手に、後方から豪快に抜き去った。私は瞠目した。「大レースでは、祖先にリボーの血を持つ馬は買いだ」という考えが私の中に生まれた。その後同じマロット産駒のイシノアラシも有馬記念を勝った。
 リボー産駒の種牡馬フジオンワードから、故障で消えたアザルトオンワードという怪物じみた馬と、エリザベス女王杯を勝ったリードスワローが出た。さらに後、リボーからグロースターク、ジムフレンチを経たバンブーアトラスがダービーを制覇し、バンブーアトラス産駒のバンブービギンが菊花賞を制覇した。特にバンブーアトラスを見て、これがリボーの底力だと感嘆した。
 そして何より種牡馬ブライアンズタイムの母の父グロースタークは、極めつけのリボー系なのである。三冠馬ナリタブライアン、マヤノトップガン(菊花賞・有馬記念・天皇賞春)、サニーブライアン(皐月賞、ダービー)、シルクジャスティス(有馬記念)、タニノギムレット(ダービー)、ファレノプシス(桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯)、シルクプリマドンナ(オークス)等には、そのリボーの血が流れている。
 
 しかし、「血統だけでレースを勝つことはできない」「調教は素質を伸ばすことはできるが、新たに素質を創り出すことはできない」…やはりフェデリコ・テシオは、評価の低い種牡馬や、安価な見栄えのしない牝馬から、新しい素質を創り出す「魔術師」だったと思われる。

             

エッセイ散歩 虚空の人(五)

2016年01月24日 | エッセイ

 大正十一年、大泉黒石は「創作 老子」を書いた。黒石の虚無主義と老子の虚無主義は重なるのだろう。今なお、この作品の評価は高い。
 大震災の後、黒石は、ますますダダと虚無主義に沈潜した。彼の虚無とは虚構と同義であった。そもそも「俺の自叙伝」からして、どこまでが事実で、どこまでが虚構なのか不分明である。これは自叙伝(事実)なのか小説(虚構)なのか不分明なのだが、黒石にとって、そもそも人生そのものが虚構なのである。
 中央公論の編集者・木佐木勝は、大正八年から十二年の「この四年の短い歳月」が黒石の作家としての活躍期であって、大正十二年で彼の作家生命が終わったとしている。

 大泉黒石はウソツキであるという説は、もう出版界では有名な話となった。すると黒石はあえてあちこちでウソをつきまくるのである。滝田樗陰が国技館での相撲見物の帰り、隣席の客と喧嘩になって袋だたきにあった等という嘘は、いったい何のための嘘なのか、誰にも理解できなかった。
 全く理由も洒落もユーモアもない話なのであった。しかし黒石は遊んでいたのではなかったか。奇行と言えば奇行である。ウソツキと言われれば言われるほど、じゃあ吐いてやろうと思っていたのではなかったか。虚言も真実もやがて虚空に消える。彼はダダなのだ。
 黒石への執筆依頼が激減し始めた大正十三年、彼は「人生見物」を書いた後、しばらくフランスへ外遊して新しい作品の構想を練りたいと、樗陰や出版関係者、親しい友人たちに宣言した。
 樗陰や友人たちが集まって黒石の送別会が開かれ、それぞれが餞別を送った。その後、黒石は姿を隠した。ところがある日、中央公論の社員のひとりが池袋駅のホームで黒石と顔を合わせた。目が合ったのである。黒石はこそこそと人混みに紛れ込み、足早に階段を駆け上がって姿を消した。
「またやられたか」と樗陰は舌打ちした。こうして大泉黒石は「中央公論」からも追放されたのである。

 作家生命が終わったと言われながら、黒石はユーモア小説を書き、大正十四年に「黒石怪奇物語集」を出した。さらに大正十五年に「人間廃業」を書いた。これは気っぷのいい江戸弁を駆使した、長屋のどこか虚無的な自虐や諧謔、ユーモアに溢れた作品であった。彼の才筆は江戸の戯作者風なのである。
 そして黒石は、他の日本人知識人とは毛色の変わった碧眼をもって、「日本人とは何か」を正確に見切っていたのである。
「日本人が幾ら不逞思想の洋服を着て、危険哲学の靴をはいて、舶来の問題に熱中しようと、一肌ぬげば、先祖代々の魂があらはれて、鼻の穴から吹き颪す神風に、思想の提灯も哲学の炬火も、消えてなくなるにきまってゐるのだから世話はない」
「日本人の教育はパンの略奪や剰余価値や偶像破壊の理屈から始まっちゃゐない。…一たん緩急あれば義勇公に奉じて、占領してやるから旅順港を出せ! と腕をまくらせるのも此の根だ」

 黒石の倅、淳や滉によれば、黒石は繊細で、不器用で、堅い人間だったという。その生活態度には戯作者らしさもユーモアもなかった。
 彼は神経質で、あらゆることに変に意固地な拘りを持っていたらしい。それは毎朝方、東の方角に向かって合掌する習慣から、食べ物、飲み物、煙草、玄関を出るときの足の踏み出し方に至るまで、家族にも理解できない拘りがあったらしい。
 彼の家族は、黒石が玄関先で足の踏み出し方を間違えたため、スキップを踏むように整えてから歩き出す姿を何度も目撃している。それは傍目には吹き出すほど可笑しいのだが、本人は至って真面目だったのである。第一歩を踏み出す足は決まっているのだ。それが左足なのか右足なのか、子供たちも覚えていなかったようである。しかし間違ったときの、黒石のスキップの可笑しさは忘れられなかったのだろう。

 黒石は四男五女の子をもうけた。彼は実に子煩悩であった。いつも子どもたちを抱きしめ、頬ずりをし、話しかけ、勉強を見た。
 長男の淳の算数や理科の宿題を手伝い、府立六中を受験するときは学校までついて行った。電車の中では淳に歴史の問題を教えてくれ、たまたまそれが出題された。ところが黒石が教えてくれた答えが間違っていたらしい。淳は府立六中を落ち、黒石は泣いて詫びたという。青山学院中に合格すると、黒石は蔵書を全て売り払って入学金を捻出した。
 このような黒石の家庭生活は昭和七年頃までだった。
 やがて黒石はろくな執筆の機会もなく、極貧生活に陥った。大泉家は毎月のように夜逃げを繰り返した。子供たちは、引っ越しとは夜するものだと思っていた。借りてきた大八車に大きな荷を積むと、ひとりひとりが身の回りのものを包んだ風呂敷の包みを手に持ち、家を出るだけなのである。やがてとうとう大八車も不要となり、ひとりひとりが風呂敷包みを手にするだけの引っ越しとなった。

 下落合に住んでいた頃である。生垣越しの隣家は立派な煉瓦造りの林芙美子邸だった。大泉家では夕飯も食べられない日が何日もあった。夕飯どきに食器の音がしないのはおかしいと思われると、黒石は子どもたちに「いただきま~す」と声を上げさせ、箸で茶碗を叩いたりして音を出させた。そして「ごちそうさま~」と声を上げさせたという。
 実は林芙美子も、ついこの前まで餓死寸前の極貧状態にあったのだ。昭和五年の夏、改造社から「放浪記」が出版されてベストセラーになり、彼女はその印税で家を新築し、満州、中国を旅行している。翌年「清貧の書」を発表し、シベリヤ経由でヨーロッパに遊んだ。
 その留守がちの林芙美子邸に向かって、大泉家は「いっただきま~す」「ごちそうさま~」と茶碗に箸の当たる音を立て、何とも悲しい見栄を張っていたわけである。

 黒石は道端の草を摘み、味噌汁に入れた。「今夜は遠征に行こう」と言って、子どもたちにバケツを持たせ、遠くの畑に芋類や人参、葱などを掘りに出かけた。畑泥棒である。大泉家はよくこの「遠征」に出かけた。夏、畑の中で「遠征中」に人に出くわすと、黒石は子どもたちに声をかけた。「こっちに螢がいるぞう」「あ、螢があっちの方にいったぞう」…こうして彼らは出くわした人から離れつつ、夜の畑を逃げた。
 質屋にいろんなものを持ち込んだが、とうとう質草にも事欠いた。釜を持ち込むと質屋の親父も同情して少しばかり貸してくれたらしい。たまに原稿料が入ると、米を俵で買い、玄関にそれを置いた。これも黒石の見栄である。
 このような極貧を黒石は全く苦にしていなかったという。滉によれば、堂々として、威厳すらあり、大したものだったという。何しろ彼は老子的アナーキストなのだ。

 大泉滉の父・黒石の思い出は、酒と貧乏と夫婦喧嘩だけだったという。滉は小学校に行く前に四銭で仕入れた納豆を六銭で売り歩き、学校から戻ると近所の町工場に働きに出て一日五十銭の小遣いを得ていた。中学校も一週間から三ヶ月ぐらいで転校ばかりを繰り返していた。武道の道具が買えなかったり、学費が未納だったためである。
 美代も極貧を苦にしない腹の据わった女性だった。しかし黒石の酒量が増え続け、気違いじみた奇行も増えると、さすがに大らかな美代とも激しく言い争う日が増えた。
 やがて黒石は、言い争いの果てに美代に暴力を振るうようになっていった。黒石は突然癇癪を起こし、極貧の中せっかく用意した食事の卓袱台をひっくり返し、散らかった食べ物に火鉢の灰をまき散らした。これでは拾い集めて食べることもできない。
 こうして家族全体が黒石を強く疎んじるようになっていった。黒石はますます奇矯な行動と、孤独の内に沈潜していった。そんな父親を滉だけが愛し続けていた。
 昭和十年頃、どこを放浪したものか、黒石はほとんど家に寄りつかなくなった。

 家族からも離れ、黒石はどこを流離っていたのかだろうか。
 彼は山歩きをしていた。山に籠もるというのではなく、峡谷や山峡の秘湯を訪ね歩いていたのである。群馬県猿ヶ京の旅館の主人は黒石が好きで、そこにただで逗留できたらしい。
 その間、全く仕事をしなかったという説もあるが、仙人でもあるまいし、昭和十年頃から戦中、戦後の十数年を、全く無一文の黒石が何の仕事もなく生活できたとは考えられない。
 おそらく日雇いの山仕事や、温泉場で源泉の管理や風呂場の清掃などをやらせてもらっていたのだろう。それでも各地の山峡を放浪し、秘湯に逍遙する生活は、黒石にとって理想の老子的生活だったに違いない。
 やがて黒石は、「峡谷をさぐる」「山と峡谷」「峡谷行脚」など山峡温泉記の本を出版している。それは峡谷カタログ、温泉カタログのような素っ気ない記述本である。そこには文学者らしい叙情はない。

 世の中の風潮が勇ましく戦争に傾斜し、大政翼賛政治が敷かれ、誰もがさほど抗うこともなく戦争に協力していった時代、それに背を向けたのは極僅かな人たちだけだった。非戦、戦争非協力を貫いた人々は、非国民と呼ばれた。
 日本文学報国会入りを蹴った文学者・中里介山は、安藤昌益や江渡狄嶺の生き方を理想として百姓弥之助に徹した。ちなみに介山の代表作「大菩薩峠」の机龍之介は、アナーキーでニヒリストの典型であった。
 辻潤はパリで中里介山の「大菩薩峠」を読み耽っていたらしいが、彼も文学報国会に入会することはなかった。理由は住所不定の放浪者だったから、入会案内も届かなかったのである。
 すでに大泉黒石は文学者としては無視されていたものか、あるいは、黒石も山峡を流離う住所不定者であったために、文学報国会への誘いもなかったものだろうか。あっても入会することはなかったであろう。
 結局、非国民を貫き、非戦反戦、戦争非協力を貫いたのは、介山や、辻潤、大泉黒石のようなアナキストで、ニヒリストで、ダダイストとかデカダンスと後ろ指を指された人たちなのであった。ちなみに内田百間(百鬼園)も文学報国会入りを蹴っている。

 昭和十八年、黒石は食べられる草を列記した「草の味」という本を書いた。貧しさから、道端の草を摘んで味噌汁の具としてきた黒石に、実に相応しい本である。また山歩きの生活で、そのような草や木の実にも精通していたのであろう。食糧難の折もあって、この本は結構売れたという。
「草の味」は食べられる草カタログで、実に素っ気ない記述である。そこには文学者らしい叙情はない。それは青年時代に「実業の世界」に持ち込んだ「豚の皮の利用法」と同じで、素っ気ない黒石の一特徴かも知れない。

 黒石は、舶来の借り物を身につけた日本の知識人の軽薄さを、見事に言い当てていた。日本の近代の思想「衣装」の不格好さを嘲笑っていた。そしてとうの昔に、日本の破滅を予告していたのだ。
 彼は日本人ではなかったのである。しかしロシア人でもなかった。黒石は、日本人の「此の根」と表現したが、自身の「此の根」が無かったのである。
 生まれ育った長崎では、毛唐、露助と罵られたり馬鹿にされ、漢口でも、モスクワでも、パリでも、どこか馴染めぬ異邦人だったのだ。彼はどこに暮らそうと、異邦人だったのだ。
 舞い戻った日本では、憲兵にスパイ容疑で何度も逮捕され、石もぶつけられた。彼の子どもたちも同じ目に遭っている。彼は淳や滉に言った。「誇りを持て! お前は日本人じゃないのだぞ」
 しかして黒石は何人(なにじん)だったのだろうか。

 山深い温泉場から、戦争下の日本を馬鹿な奴らだと嘲笑っていた黒石は、敗戦となるやすぐに山を下りて来た。彼は横須賀に出て米軍の通訳となっている。語学は得意だったのだ。
 通訳をしながら、浴びるように酒を飲んだくれていた。彼は横須賀の田浦山中に海軍が隠した重油ドラム缶を掘り出し、家の物置に運び入れた。これに手製の濾過装置を取り付けて精製し、「キヨスキー特製ウイスキー」と称して飲んでいたらしい。重油のウイスキーは相当匂ったらしいが、戦時中には消毒用アルコールを飲んでいた黒石である。このあたりの酒への渇えは、どこか梅原北明に似ている。
 通訳暮らしは四年続いた。かつての作家仲間が黒石を訪ねたおり、「小説を書きたい、小説を書きたい」と言い募ったらしい。しかし黒石は常に泥酔状態だったという。酒に濁った目は焦点を失い、虚空をさ迷っていた。
 それから四年ほど、黒石の愛読者だったという女性と同棲していたらしいが、何をして暮らしていたのか不明である。ヒモだったのかも知れない。
 父の黒石がどこでどんな暮らしを送っていたのか、子どもたちも詳しく知らなかったらしい。すでに個性的俳優として映画で活躍していた滉も、ほとんど父とは交渉を持たなかった。
 大泉黒石が虚空に旅立ったのは、昭和三十二年、彼が愛した山峡が黄や朱に染まる、深まりゆく秋の日であった。

光陰、馬のごとし 幻野の虹

2016年01月23日 | 競馬エッセイ


 虹の橋のたもとには、美しい緑と花の野が広がり、亡くなったペットたちがいて、元の飼い主を待っているという。…以前「虹の橋文芸サロン」というコーナーに動物文芸アンソロジーのようなエッセイを書き続けた。
 そこにスペインの詩人ロルカについての「漆黒の馬」や、自然歳時記について書いた「生き物たちと自然の呼び名」等を加え、「人のとなりに」と題して纏めた。野生にせよ、家畜にせよ、経済動物にせよ、ペットにせよ、古来「人のとなり」には、動物たちがいるのである。

 最近の競馬中継は、レース中に落馬や競走を中止した馬が出ても、それが人気馬でなければ一言二言で競走中止の事実に触れるのみで、そのままレースを伝え続ける。レース終了後も、競走を中止した人馬の姿をカメラで追うこともなく、人馬の怪我の有無やその様子を気遣うこともない。重要なのは着順と当たり馬券の番号であり、その配当金なのである。アナウンサーは淡々と結果や配当を読み上げ、レギュラー出演者やただ声の大きいだけのお笑い芸人と、馬券の当たり外れを賑やかに大騒ぎするだけなのである。
 2014年のダービーでは、競走を中止したエキマエや、直線で内ラチにぶつかって馬群の最後方に落ちていったトーセンスターダムについても、放送はレース後に何のリポートも伝えなかった。
 かつて社台の統帥・吉田善哉は「サラブレッドは経済動物だ」とドライに言った。経済動物なのだから、心情的な判断や思い入れはしないということなのである(しかし彼は誰よりも長い時間を馬に接し、誰よりも注意深く馬を見続けたという)。
 ある有力大馬主は、調教師から調教中の落馬事故の一報を受けた際、騎手の怪我から伝えた調教師に対し「騎手の怪我なんてどうでもええ、馬はどうなったんじゃい!」と怒鳴りまくったという。
 レース中に馬が転倒したり骨折したりする事故を目撃することがある。その場で動かなくなる馬も、骨折をしたらしい馬も、馬運車に乗せられて運ばれていく。馬主でもなく、生産者でもなく、特にその馬がらみの馬券を持たず、また応援している馬でなくても、胸が痛むものである。…あの脚を痛めたらしい馬はその後どうなったのか、騎手は怪我をしていないかと気になるのだ。
 予後不良(安楽死)、斃死…。競馬ファンとして想うのである。その後、彼等もまた、虹の下の草原でのんびりと草を食み、ずっと気ままに遊べばよい。

 クラチカラという馬がいた。準オープン級の馬で、ダートが得意な力馬であった。それは土曜日だったか、日曜日だったか、また中山だったか府中の競馬場だったかの記憶も定かでない。準オープン級の特別レースのダート戦である。そのレース名が武蔵野ステークス(現在は重賞レースになっている)だったような気もするのだが、これも定かでない。武蔵野Sだとすれば府中である。しかし記憶の中の残像は右回りだったような気がするのだ。そうだとすれば別のレースであったか。1972年のことである。
 クラチカラは先行タイプであり、2着、3着と善戦する馬であった。その日の彼は得意のダート戦でもあり、前走の好走もあって、今度は勝てるだろうと1番人気に推されていた。彼は好スタートし、ごく自然に好位置で先行し、向こう正面で先頭に立ち馬群を引き連れていた。
 と、クラチカラは突然ズルズルと後退していった。誰の目にも故障発生と知れた。彼はたちまち馬群から大きく取り残された。しかし、走るのをやめない。騎手(これも誰であったか記憶にない)が立ち上がるようにして制止させようとしている。そしてクラチカラの脚元を覗き込んでいるのだが、彼はトコトコと走り続けている。何で停めない。馬を止めろ。…ゴール前の追い競べがあり、すでに彼以外の全馬がゴール板を通過し、レースは終わった。他の馬たちはスピードをゆるめダク足になっている。クラチカラはやっと四コーナーをまわり、トコトコと走り続けている。脚の故障ではないのか? 騎手は何で走るのをやめさせないのか? 騎手は中腰で馬の脚を覗き込むように走らせている。クラチカラがスタンド前をトコトコと走り、やっとゴールを過ぎたところで横倒しになるように崩れ落ちた。騎手が跳ね起き、何人もの係員が駆けつけた。馬運車もやって来て、数人がかりで倒れたままのクラチカラを馬運車に担ぎ入れた。
 翌日の新聞にクラチカラの死因が心臓マヒだったと書かれていた。中央競馬会の獣医や騎手の談話によれば、向こう正面ですでに心臓が止まっていたらしい。騎手はクラチカラを止めようとしたが、馬の意識はその指令を受け止める状態ではなかったのだ。走ることを止めなかったのは、競走するために作られたサラブレッドの本能か、あるいは薄れ行く意識の中でゴールまで走ろうと決意したのか、自分の馬券を買ってくれたファンのためにも最後の最後まで頑張ろうと思ったのか…。
 当時ラジオ関東で競馬実況を担当していた井口保子アナは、涙が止まらず、後年のエッセイにクラチカラのことを書いている。今、その本は手元にない。

 ハマノパレードは牡馬としては小柄で細身の美しい馬だった。最強世代と言われたタイテエム、ロングエース、イシノヒカル、ランドプリンス、タニノチカラ、ストロングエイト等と同世代である(クラチカラも同世代)。この世代でなければ大レースを二つ三つは勝っていたかもしれない。宝塚記念をレコード勝ちの後、中京の高松宮杯(当時は2000メートル)で前のめりにもんどり打って転倒し、翌日予後不良で安楽死となった。
 テンポイントは輝くような美しい栗毛と額と鼻梁にかけての流星から「流星の貴公子」と呼ばれた。暮れの有馬記念で強い勝ち方をし、翌年の二月にイギリス遠征に出発する予定だった。多くのファンのもう一度勇姿が見たいという要望に応え、日経新春杯に出走した。斤量は66.5キロという酷量である。
 雪の舞う中、テンポイントは楽に先頭に立っていたが、四コーナー手前で急に減速した。故障発生だ。スタンドに悲鳴が起こり騒然とした。痛めた片脚を浮かせてたたずむテンポイトの傍らで、鹿戸明騎手が泣きながら鼻筋を撫で、脚元を覗き込んでいた。
 普通なら予後不良で安楽死処分となるところだが、全国から寄せられた助命嘆願があまりにも多く、彼は闘病生活に入ることになった。しかし四十数日間の闘病空しくついに逝った。馬の葬儀が行われたのはテンポイントが最初だった。
 テンポイントの全弟キングスポイントは、かなり強い障害馬だった。船橋聖一の「花の生涯」や大河ドラマをもじって「花の大障害」と呼ばれる春の中山大障害で落馬し、予後不良となった。
 カバリエリエースは四歳(現三歳)一月にデビューし、重賞のクィーンカップとオークストライアルの四歳牝馬特別を勝った。オークスではテンモンに次ぐ2番人気に推されたが大惨敗した。カバリエリエースは気性が激しく難しい馬だった。何しろ父ハーディカヌート、その父ハードリドン(英ダービー馬)の系統はダービーのような大一番に強いが、また恐ろしく気性の悪い血統だったのである。ハードリドンは日本に来てダービー馬ロングエースやオークス馬リニアクインを出し、ハーディカヌートは仏ダービー馬のハードツービート等を輩出している。
 カバリエリエースはその後も惨敗し続けた。主戦の岡部騎手は「どこも悪いところはないよ。ただ頭が壊れたんだ」と言ったほど、彼女はいかれていたのである。ダービー卿チャレンジトロフィで、彼女は後方を走っていたが、引っ掛かって一気に前に出ようとした。岡部騎手は必死に抑えようとしていた。私は思わず「抑えるな、行かせろ行かせろ」と声を出してしまった。直線でバテるようなスタミナのない馬ではない、好きなように行かせろ。母カバリダナーの父はステイヤーのパーシアである。しかし岡部とカバリエリエースは折り合いを欠き喧嘩をしていた。と、カバリエリエースは天を仰ぐような仕草をした後、腰を落とし、ズルズルと後退して競走を中止し、その脚の一本を痛々しく浮かして庇った。…彼女は予後不良と診断された。
 タカラテンリュウはカバリエリエースの半弟で、父はインターメゾという典型的なステイヤーであった。彼はその血統の良さと素質の良さで注目され続け、長距離レースに強く、天皇賞では1番人気に推されたほどである。しかし二月の固い馬場の目黒記念でレース中に骨折し、姉同様に予後不良となった。

 サクラスターオーは皐月賞と菊花賞を勝ち、メリーナイス、ゴールドシチー、マティリアル世代では、おそらく最も傑出していたと思われる。幼くして母サクラスマイルと死に別れ、曾祖母にあたるスターロッチに乳をもらい、育てられた。
 スターロッチは偉大な名牝である。自身もオークスと有馬記念に優勝したが、その子孫からハードバージ(皐月賞)、サクラユタカオー(天皇賞)、ウィニングチケット(ダービー)などを輩出している。スターオーは暮れの有馬記念に堂々の1番人気で出走した。その最後の四コーナーで左前脚を骨折し競走を中止してしまった。普通なら予後不良、安楽死処分になるはずだが、多くのファンから助命嘆願が寄せられて、長い治療生活に入ったのである。しかし半年近い闘病後についに逝った。
 ライスシャワーは小柄で細身の馬であった。当初は強いのか弱いのかはっきりせず、快速ミホノブルボンとの差は歴然であった。しかしステイヤーのリアルシャダイ産駒である。的場均騎手は菊花賞を狙っていた。ライスシャワーは秋に本格化し、菊花賞でミホノブルボンの三冠を阻止した。レコードタイムである。古馬となって春の天皇賞をレコードで制したが、その後も強いのか弱いのか分からぬような負け方をした。
 ライスシャワーは二度目の春の天皇賞を勝ち、宝塚記念に出走した。的場騎手は一周目あたりで様子がおかしいことに気付いたらしい。その時点で勝つことは考えず、無事にゴールすることだけを考えていたという。しかしライスシャワーは自ら勝負に出ていったのである。そして前のめりになりながら、体勢を立て直したものの転倒し的場騎手を投げ出した。故障の程度がひどく苦しみもがいたことから、周囲に幕が張られ、その場で安楽死処分がとられた。
 サイレンススズカの脚質は典型的な逃げであった。しかしそれは勝つためにどうしても逃げなければならないといったものではなく、天成の絶対スピードで自然に先頭に立ってしまうのである。
 実が入った古馬となってからも終始先頭を走り続け、負け知らずの6連勝であった。その内容は二つのレコード勝ちと宝塚記念を含む重賞5連勝である。
特に毎日王冠はエルコンドルパサーやグラスワンダー等を相手とした、相当ハイレベルなレースであった。宝塚記念は南井騎手の騎乗だが、他の5勝は武豊が手綱をとっていた。
 天皇賞・秋は当然1番人気である。サイレンススズカはその日も他馬を大きく引き離して快足を飛ばしていた。ところがスズカは三コーナーを過ぎた地点で急に失速し、後続馬に次々に抜かれていった。スタンドは騒然とした。スズカは左前脚を庇うように浮かせて競走を中止した。その後スズカは予後不良と診断され安楽死処分がとられた。
 
 これら人気馬ばかりではない。競馬ファンはクラチカラのような馬の姿に感動し、胸をつまらせ、無名馬の死にも心を寄せ、悲しむのである。
   ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知
 寺井淳という高校教師の短歌である。ウツクシイニホンニは未勝利で終わった。死んだ彼等はみな、虹立つ幻野で遊び、ずっと気ままに走ればよい。
                                                                                                                                 

千住魚河岸俳句でもう一句

2016年01月23日 | 
千住魚河岸俳句」でもう一句。
 先日「足立市場の日」で仲卸の店先を見て歩いたときの、「あ」という、我ながら素直な気づきを…。


    春を知る 仲卸店(みせ)の 鰆(サワラ)の字  (天野雀空)